「狂気」
「思えば初めてじゃないですか? 三つのコミニティが、合同で一つの目的のために動くなんて」
「……あぁ。今回は王8からも人員が出てる。それだけ、あの教授の話に説得力があったということだ」
静かに滑るEV車の中、運転席の火室が、助手席の強首へと声を投げかける。後部座席には屈強な男が二人。誰一人口を開かず、外の景色を睨むように見つめていた。彼らの視線の先には、どこまでも続く死の都市。その中を、慎重に、確かに進む。
「王8からは二人だけですけどね。……まぁ、あの用心深い──もとい、臆病な小浪滝が幹部の百目木を差し向けてきたってだけで、十分上出来ですよ」
サイドミラーに目をやりながら、火室が揶揄するように言う。そのミラーには、距離を保ちながら続くもう二台のEV車が映っていた。王8とビックの戦力を乗せた車だ。慎重に、しかし確実に、目的地へと向かっている。
パキャッ。
車輪の下で何かが砕ける音。音に敏感な神経が、それがただの瓦礫ではないと告げていた。タイヤ越しに伝わってくる嫌な感触。人間の頭蓋骨──その硬さと脆さが、まだ確かにそこにあった。
誰も言葉を発さない。静けさが、逆に耳を痛くさせる。
「……片倉のバス停が見えましたね。もうすぐですよ」
ぽつりと火室が呟く。だが、その声に返事はなかった。後部座席の二人は硬直したまま。強首もいつも通り口を開かない。
緊張が、空気ごと凍らせていた。
研究室の奪還作戦は、異例の速さで決まった。
PEAにて二日月から詳細を聞いた笑入が、即座にコミニティ合同会議を招集。
王8の小浪滝、ビックの愛宕──どちらも初めは懐疑的だった。
特に小浪滝は「エビデンスが無いものに予算はつけられない」と、即答で切り捨てた。
愛宕も「信用できん」と一蹴した。
──だが。
控えていた二日月が、ゾンビの『観察結果』を語り出した瞬間、空気が変わった。
二日月澪は無造作に一枚の写真を差し出した。
ベッドに拘束された少女の記録写真。
肩口に赤黒い咬傷。患部はすでに壊死が進行し、血管の浮き上がり方が異様だった。
顔は蒼白に染まり、涙が頬を伝っている。
その目はまだ、“助けを求めて”いた。
「この子の症例が一番きれいに出た。咬傷は1箇所のみ。発症まで十七分二十七秒。経過も録ってあるよ」
小浪滝も愛宕も、言葉を失ったように顔を伏せる。
澪はスマートフォンを取り出し、映像を再生した。
──そこは、明らかに即席の無菌室。
白布の敷かれたベッドに少女が横たわっている。
両手両足には医療用の拘束具。上半身は汗で濡れ、シーツに色がにじんでいる。
少女の目からは、涙がゆっくりと流れていた。
「ねえ、先生……もう、帰れるかな……?」
少女が小さな声でつぶやく。
その声には、熱と不安と、ほんのわずかな希望がにじんでいた。
「……もちろん、帰れるよ」
そう答えるのは澪の声。
だが、その声音に揺れはなかった。
助手が横にしゃがみ込み、震える手で脈を測りながら、うつむく。
「心拍一三六……瞳孔、左右差……あっ、先生……光反射、もう反応が……」
「いたい、いたいよ……」
その瞬間、助手の手がぶるりと震えた。
涙が一滴、少女の壊死した手首を濡らす。
「記録して。体温、四十一度到達。眼球固定。上下眼瞼の痙攣確認。あと、視床の沈黙反応もそろそろ出る。三分以内に下顎筋のロックと、呼吸反射の逸脱が来ると思う」
「先生……もう、もう私には……」
助手の声が震える。
少女は視線を宙にさまよわせながら、唇をわずかに動かす。
「……おかあ、さん……」
その言葉に、助手の肩が揺れた。
「……お願いですっ……もう楽にしてあげてくださいっ……! 私、もう無理……無理だから……!」
「駄目。まだ終わってない」
澪は静かに断じた。
優しいでもなく、冷たいでもなく──ただ、絶対だった。
「この子が“人間”である時間を、ちゃんと見届ける。
それが“最後を見届ける者の責務”だよ」
少女の身体が、ゆっくりと震え始めた。
顔筋が強張り、奥歯を鳴らすような音が微かに響く。
「来るよ。今から、十三秒。上肢に自発性収縮、咽頭けいれん……瞳孔、開いた」
少女が、短く呻くような声をあげた──
次の瞬間、ピクリと全身が跳ね上がり、瞳孔が完全に開く。
シーツが裂けるような音がして、拘束具がギシギシときしんだ。
「変異、確認」
助手が立ち上がりかけ、足がもつれて転びそうになる。
その背後で澪がゆっくりと立ち上がり、無言で棚から拳銃を取り出す。
「先生……や、やっぱり私……無理です……見てられない……っ」
「大丈夫。見てるのは、私だから。君は記録を止めないで。この子の最後の“輪郭”が、この惨劇を止める一撃となるように」
拳銃の銃口が、少女の額に向けられる。
少女の口元が、わずかに動いた気がした。
「……ごめんね」
パン、と乾いた音。
少女の身体が、ストンと沈むように静かになった。
助手が両手で顔を覆った。
嗚咽が映像のマイクに微かに乗っている。
澪は、映像の中でも声を上げることはなかった。
ただ、静かに手帳に最後の一文を書き加える。
──被験者A、変異確認より十五秒後、処置。
映像が終わる。
スマホの画面を伏せた澪が、ぽつりと呟く。
「私がこの子を殺した。だけど、彼女が“変わってしまったこと”を無かったことにはしたくなかった。記録に残すことでしか、私にできることはなかったからね」
「──あなた、何人、見送ったんですか」
誰かの呟きだった。
問いかけというより、ただ漏れ出た言葉。
それに対して、返事はない。
二日月澪は静かに鞄を開けると、無造作に数枚の紙を取り出して、会議机の上に並べた。
血の滲んだカルテ。
呼吸停止の時刻が書き込まれた記録票。
皮膚の変色、眼球の反転、痙攣の継続時間。
体温と脈拍の推移を示す折れ線グラフには、指でこすったような滲みが残っている。
「……十三人。それぞれ年齢、性別、症状、全部そらんじて見せようか?」
声に抑揚はなかった。
責めるでも、誇るでもなく──ただ、事実を告げるためだけの音。
その瞬間、誰もが思った。
狂気。
けれどそれは、道徳を捨てたわけでも、倫理を踏み躙ったわけでもない。
もっと冷たくて、もっと強い。
倫理の“越境”。
他者の常識を、痛みと共に突き破る意志。
彼女はとうに線を越えていた。
そして、もう戻らないことを選んでいた。
もはや誰ひとり、二日月澪が“狂っている”ことを疑わない。
だが、それは否定ではなかった。
彼女の振る舞いは常軌を逸している。
だが──一片の虚飾もなかった。
その重みに、小浪滝は思わず言葉を失った。
鼻の奥がひりつく。
論理や政治の水脈に慣れきった男の、久方ぶりに掻き乱される本能。
理屈じゃない。
この女は“本物”だ。
仮に作戦が失敗しても、彼女はきっと、また別の場所で結論に辿り着く。
命が尽きるその時まで、問いと向き合い続けるだろう。
ならば──
この異常性に賭ける価値はある。
合意が得られてからの行動は早かった。
各コミニティが持つ最高戦力を動員し、少数精鋭による研究所奪還作戦が即座に編成された。
目標は三つ。
研究室およびその周辺に巣食うゾンビの掃討。
すべての出入口の封鎖。
そして、継続的な補給ラインの確保。
作戦会議は二日月が用意した簡易的な構内地図をもとに、わずか数分で済まされた。
詳細な戦術は各コミニティに任され、派遣される人員の選定も各代表の裁量に委ねられたが、腹芸じみた駆け引きは起きなかった。
──すべてのコミニティが、幹部かつエゴイストを選出していたのだ。
王8からは幹部の百目木と男性隊員が1名。
ビックからは幹部の七雲とその部下2名。
PEAからは幹部である火室と強首、そして支援隊員2名。
この中で、唯一エゴを持たぬのが火室だった。
彼は戦術統括の立場として、現場での判断と指示を担う──
それが、笑入救五の判断だった。
「……覚悟はしてましたけど、ここまでとは想定外ですね」
敷地の半分を森、もう半分を住宅街に接した大学。
EV車を教職員棟の裏手に滑り込ませた火室が、静かに息を吐き、車窓の外を見やった。
視界の先には、かつて学生たちが青春を過ごしていた中庭がある──
だが、今そこにあったのは、死と、沈黙だった。
校舎の壁際。植え込みの影。自転車置き場の奥。
そのいたるところに、ゾンビたちが密集していた。
ゆらり、ゆらりと、わずかに揺れる影。
物音ひとつ立てれば一斉に反応しそうな、異様な“静けさ”が漂っている。
火室は、思わずEV車のドアをゆっくりと引き寄せた。
不用意な音が、今や命取りになりかねない。
強首は黙ったまま視線を巡らせ、後部座席の隊員たちも無言のまま戦闘準備に取り掛かっている。
作戦は、すでに始まっていた。




