朝ごはん
「あいつそんな言い方したの? ほんっとデリカシーないんだから。……深夜君、気にしなくていいからね」
寝床に戻る途中、外の警備から戻った失栞さんとばったり出くわした。
落ち込んだ様子の僕らを見て何かあったと悟ったらしく、強引に食堂まで連れてきてくれたので、事情を話した。
はからずも告げ口のような形になってしまったが、隠せそうになかったのだ。
「……」
周囲では朝の談笑や食器の音が響いている中、深夜は虚ろな目で目の前の朝食を見つめたまま動かない。
昨晩から何も食べていないはずなのに、一口も手をつけようとしなかった。
失栞さんがめいっぱい気を遣って声をかける。
「深夜君、好きな食べ物とかある? あ、もし好きなおかずがこの中にあったら、お姉さんのあげようか?」
差し出されたトレーの上には、豆の煮物や畑で採れた人参の漬物が並んでいる。
「……焼き」
「えっ?」
深夜の視線がトレーにすっと動き、かすかに声が漏れた。
「……卵焼き」
その一言に、失栞さんがぱっと笑顔を見せる。
「そっか! 卵焼きが好きなんだね! うーん、今は卵はなかなか手に入らないけど……でもでも、今度新鮮なのが見つかったら──お姉さんが、作って──」
「──違うよっ!!」
バンッ!!
食堂に乾いた音が響いた。
深夜の小さな両手が、力いっぱい目の前のテーブルを叩いたのだ。
木製の器がガタンと揺れ、漬物がわずかに転がる。
その音と同時に、周囲のスプーンが止まり、談笑の声がぴたりと消えた。
味噌汁の湯気だけが、場違いにゆらゆらと漂っている。
「僕は……お母さんの卵焼きが食べたいんだよっ……! 他のなんていらない……っ!」
ぐしゃ、と顔を両手で覆いながら、言葉が崩れていく。
「ううぅ……ぐすっ……う、あああああ……! お母ざんに会いだいぃぃぃいっ……!!」
泣き叫ぶ声が、食堂の空気を一気に塗り替えた。
誰もが動けず、誰もが目を伏せ、ただ深夜の声だけが反響する。
失栞さんは、まるで突き飛ばされたように目を見開いたまま、トレーを中空で止めていた。
無理に笑っていた口元が徐々に震え、目の奥が「しまった」と揺れる。
──代わりなんて、なかったのだ。
その痛みがようやく心に届いた頃、深夜は急に立ち上がり、食堂を飛び出した。
「あっ──深夜!」
立ち上がりかけた僕の胸に、鋭い拒絶の声が突き刺さる。
「もういいっ!! もう嫌だっ!!」
その一言で足が止まった。
逃げる背中に手を伸ばせなかった。
「ご、ごめん谷々! あたしのせいで……」
「……いえ、失栞さんのせいじゃないですよ」
ホームの奥に消えていく深夜の背中を見送りながら、静かに言った。
違う。
これは──僕のせいだ。
家を出てから何度も死線を超えてきた。
知らない場所で、知らない人に囲まれて過ごしてきた。
ヤクザの手中から逃れたと思いきや、苦手な同年代にからまれ、灰児さんからも叱られた。
それなのに、どこまで耐えても母の姿は未だに見えない。
限界が来ていて当然だったのに、僕は、どこかで「きっと大丈夫」と思い込もうとしていた。
あの日、僕が決意の背中に手を添えた。
その手は今もずっと、深夜の背中を押し続けていたんだ。
「……谷々。ひとまず深夜君を一人にしてあげよ」
沈んだ顔の僕を見て、失栞さんがそっと肩を叩いた。
「出入り口は封鎖してあるから外には出られないし、警備にも声をかけておく」と付け加えてくれる。
その気遣いが、余計に胸に痛かった。
そのとき──
「おーい谷々! ちょうどいいとこに居たな! 今日は俺と一緒に畑行くぞ!」
地獄のように凍りついた食堂の空気を、能天気な声が突き破る。
見ると、御法川が両手をポケットに突っ込んだままこちらに近づいてくる。
あまりにも場違いで──それが、逆に救いだった。




