異世界にて14
男の靴底が、落ち葉からゆっくりと離れた。
勢いはない。シャボン玉のように身体が持ち上がり、そのまま二メートルほどの高さで静止する。
「はぁ、はぁ……い、痛い……! く、クソッ……! 本当に刺すなんて、人間の風上にも置けないやつめ……は、恥を知れ!」
「こう見えて、恥ずかしがり屋なんですが」
「うるさい! わけ分からないこと言うな!」
男は腹を押さえながら、こちらを見下ろした。
「し、しかし! これでもう俺を傷つけることはできない! これだけ離れてもナイフを構えるしかねぇってことは、お前のエゴは近接系だろ!」
さらに身体を浮かせ、木の枝と同じ高さまで昇っていく。
「お前も飛べるなら、わざわざ街道を歩いたりしねぇ! 俺はずっと見てたんだ。間違いない!」
額に脂汗を浮かべながら、男ががなる。
「便利なエゴですね」
街を出てから、背後に足音は聞こえなかった。
この浮遊が、その理由か。
「お、俺は慎重なんだ。お前みたいなバカと違ってな! 勝てると確信できた時しか戦わない。……これが賢さってやつだ。へへっ……」
男は引きつった口元を持ち上げた。
「そうですか。でも、これでは単に僕の攻撃が届かないだけで、あなたの攻撃も届きませんよね」
男は腹を押さえたまま、声を上げて笑った。
「はははっ! バカが! だからお前は頭が悪いって言ってるんだよ!」
男が右手を掲げ、自らの指輪を起動した。
何か道具を取り出すつもり──それだけ分かれば充分だ。
「一激」
一瞬で身体が軽くなり、視界の先が鮮明になる。
身体能力の倍化。
その能力の本質は、単なる運動能力の強化ではない。
視力や思考力、反射など、人体に備わった能力のすべてが倍になる。
オリンピックアスリートの反射神経は、常人の一・二五倍。
たった二十五パーセントの差で、常人との差は雲泥に至る。
それが純粋に倍となれば、知覚できる現実の幅は──完全に人外の域へ到達する。
地面を蹴り、男へ向かって走る。
慌てた男の顔。
操作を続ける右手。
止まれとばかりに差し出された左手。
逃げようと浮かび上がっていく身体。
すべての動きが、少しだけ緩慢に見える。
思い切り踏み込んで跳躍し、男の足首を掴む。
そして、そのまま身体を地面へ叩きつけた。
「げぼっ!」
肺の空気を一気に吐き出す、耳障りな音が響く。
男の手からナイフが落ち、枯れ葉の上へ転がった。
「~~~~っ!!」
言葉にならない悲鳴を漏らし、男がもんどり打ってのたうち回る。
その腹へ、思い切り蹴りを叩き込んだ。
「きゅわえぇっ!!」
妙に甲高い声が漏れ、男は芋虫のように丸くなった。
その身体は、地面へ落ちたきり浮かばない。
すぐさま収納から縄を取り出し、男をうつ伏せにする。
両手首を背中側で縛り、足首とまとめてきつく結んだ。
何度か縄を引き、抜けないことを確認する。
それから拘束した男の背中へ腰を下ろし、ようやく一息ついた。
「ふぐぅっ……」
下から苦悶の声が漏れる。
「すみません。地面に座ると服が汚れるので」
指輪から黒パンと革水筒を取り出す。
硬いパンをひと口かじり、ぬるくなった水で流し込んだ。
革の匂いが移った水にも、もうすっかり慣れている。
男の背中を椅子にして、もうひと口パンをかじった時だった。
「ポーン」
軽快な音が、世界に響いた。




