おぼろ月
ジジ……「……定時連絡の時間が過ぎてるぞ。対象の動きはどうなった?」
トランシーバーから、粘つくような声が流れてきた。
鬱陶しい。今すぐにでも電源ごと叩き切ってやりたくなる。
けれどそれをやると、あとで弥生さんに小言を食らう羽目になる。
龍次なんか怖くもなんともないが、あの人には嫌われたくない。
トランシーバーから拾われないよう、舌打ちを一つ。
なるべく気怠い口調で応じてやる。
ジジジ……「わかってる。でもこっちは命がけで監視にあたってるんだ。弥生さんの頼みで、対象が“あいつ”だから仕方なく協力してやってるだけ。……俺を便利屋扱いするなよ」
最後の一言にはわざと棘を込める。
舐めてかかる相手には、最初に牙を見せておくのが一番だ。
ジジ……「あぁ……。肝に命じておくよ。それで、対象の動きは?」
言葉の調子は変わらないが、どこか苛立ちが滲んでいる。
まあいい。今回はこれで許してやろう。
俺は器が大きいからな。
ジジジ……「……接触は成功したようだ。今はたぶん、奴らの本拠地に移動してる。場所は──駅からまっすぐ行った先の、大きな青い看板のある店だ」
誰にでも分かるように、今見えている情報をそのまま言ってやる。
相手がこの辺りの地理に明るいかどうかは知らないが、これほど特徴的な建物ならすぐ分かるはずだ。
自分の仕事ぶりに軽く酔いながら、トランシーバーからの返答を待つ。
だが返ってきたのは、想定外のひと言だった。
ジジ……「……何か他に目印や特徴はないのか?」
はぁ?
こいつ、本気で言ってるのか?
知的なやりとりに水を差されたような気分になる。
ジジジ……「だから! 青い看板のある大きな店だって言ってるだろ! これ以上何が要るんだよ! 察しろよバカ!!」
思わず声が上ずる。
だがこういう低能には怒鳴ってやるのが一番だ。
ババアの時だってそうだった。飯も運べないくせに態度ばかりデカくて──ああ、思い出すだけで苛立つ。
ジジ……「……看板に文字は書いていないか?」
低く抑えたような声がトランシーバー越しに響く。
どうやら、ようやく自分の愚かさを理解したらしい。
ふん。ならもう少し付き合ってやるか。
余裕ある大人の対応というやつだ。
もう一度看板に目を凝らす。
青い背景に、黄色いアルファベットの文字が並んでいるのが見えた。
I・K・E・A。
聞いたことはあるが、興味のない世界だ。
ジジジ……「見つけたぞ。アルファベットでI・K・E・Aと書かれてる。イオンの親戚みたいなもんだろ」
俺様のこの知識の広さ。思わず自画自賛してしまう。
ジジ……「……IKEAだな。大型家具の専門店だ」
すかさず補足してきやがった。
揚げ足取りにもほどがある。
ジジジ……「ど、どうでもいいだろ! 細かいことにうるさい奴だな! 場所がわかったならまずは感謝しろよ!」
苛立ちのまま怒鳴りつける。
どうしてここまで我慢して仕事をしてやっているのに、こんな態度を取られなければならない?
ジジ……「……すまなかった。しかし、あまり大声を出して大丈夫か? 周囲にはゾンビがうようよしているだろう?」
ああもう、わかったよ。
いちいち御託を並べやがって。
心配されたところで、ミスを犯すような“俺”じゃない。
言い返そうとして、ふと我に返る。
このまま感情に任せて喚き散らしていたら──あれを言ってしまいそうになる。
自分でも“切り札”だと自負しているあの能力。
龍次にも明かしていない、自分だけの“秘密兵器”。
知られたら確実に利用される。
そうなれば、俺の自由は奪われてしまう。
ジジジ……「……だったら、怒鳴らせるような真似はするな。念のため移動する。次はこちらから連絡するまで、呼びかけてくるな」
そう言い残して通信を切った。
ふぅ、と一つ息を吐く。
吐き出しきれなかった鬱憤が、胸のあたりで燻っている。
それは、帰ったときに“ペット”にでもぶつけてやろう。
龍次は馬鹿だが、女の趣味だけは悪くない。
最近連れてきたあの新人──あれは久々に“当たり”だった。
彼女の顔を思い浮かべただけで、股間が熱を帯びる。
「……あと2日、2日の我慢だ……」
青い看板を見下ろしながら、男は人目も憚らず、盛り上がった股間をゆっくりと撫で始めた。




