逃走
「走れっ! これだけの活性化したゾンビを全部相手になんかできん!」
「くそっ! なにが起こったんだ!? とんでもねぇ音だったぞ!?」
狼狽しながら、2人の青年がビルの影から飛び出す。
ひとりは茶髪、もうひとりは黒髪──疲労と恐怖がその顔色に如実に現れていた。
「奥羽会のすることだよ! どうせまともなことじゃない!」
それに続いて、やや遅れてビルを飛び出した一人の女性がヒステリックに叫ぶ。
目には怒りと焦燥が混ざり、声音には震えがあった。
「あああぁゔぁあぁあぁ!!」
飛びかかってきたゾンビが、黒髪の青年に向かって跳躍する。
だが、その一撃は、力任せに振るわれた鉈によって見事に弾き飛ばされた。
骨の砕ける音と共に、ゾンビは地面に沈んだ。
「どっちみち確認してる暇はない! 用意した爆竹じゃさっきの音は超えられん! 経由地に向かう!」
黒髪の青年が叫び、斃したゾンビに目もくれず走り出す。
「くそっ! 置いてかれんなよ、失栞!」
茶髪の青年が、ゾンビをバットで牽制しながら叫ぶ。
「わかってるわよ! 後ろは任せて行って!」
失栞は、腰からリボルバーを引き抜き応じる。
額には冷や汗。
瞳には恐怖があったが、それ以上に仲間を守る意思が浮かんでいた。
パキャッ! グチッ!
先行する2人が、前方から迫るゾンビに鉈とバットを振るう。
殺しきるのではない。
足や腰を潰して、追跡能力だけを奪っていく。
だが──
振りかぶるたびに、肩と腰に負担がかかる。
スイングの角度が甘くなり、呼吸がどんどん浅くなる。
「はぁ、はぁ……龍之介、まずいぞ! 数が多すぎて、このままじゃジリ貧だ!」
息も絶え絶えに茶髪の青年が叫ぶ。
その声が新たなゾンビを呼び寄せる可能性など、もう気にする余裕はなかった。
「分かってる! せめて経由地まで……死ぬ気で走れ!」
龍之介と呼ばれた黒髪の青年。その声は怒鳴りながらも、ほとんど自分に言い聞かせているようだった。
身体の限界は、とっくに越えている。
ちらりと振り返る。
後方、失栞のペースが僅かに落ちているのが見えた。
肩の揺れが大きい。片足をかばっているのかもしれない。
──くそ。経由地まではまだ数百メートルある。
あのリボルバーで処理させるか?
だが、それも危険だ。
龍之介が咄嗟に判断を巡らせている、その最中だった。
「きゃあぁっ!」
甲高い悲鳴が背後から突き刺さる。
視線を戻すと、地面に突っ伏し、膝から血を流す失栞の姿。
その足元へ、唸りながらゾンビが殺到していた。
「失栞! 今いく!」
茶髪の青年が即座に方向を変える。
迷いはない。というより、“考える前に動いた”動きだった。
「灰児! だめだ、間に合わねぇ!」
龍之介の叫びが届く。
それでも灰児の足は止まらない。
それは救出というよりも、“突撃”に近かった。
自分の身など考えない、本能だけで動く走り。
「ダメよ! 戻ってぇ!!」
倒れた失栞が叫ぶ。
その声には、もはや“止めて”ではなく“自分の死は受け入れろ”の響きがあった。
だが、灰児は止まらない。
顔だけが、もう何もかも決めていた。
失栞の足元に、ゾンビの腕が伸びる。
それを見て、灰児は全体重を肩に乗せて突っ込む。
──その瞬間。
ゾンビと灰児、その交差の中に、もうひとつの影が滑り込んだ。
「……ホントに、たまには思い通りにならないもんですかね。人生って」
黒い土埃の中から、片手を広げるようにして現れたのは谷々だった。
その掌には、滴る聖水の光。
四方に振り撒かれたそれは、霧のように空気を震わせながら、ゾンビたちの動きを一瞬で止めた。
正面から走っていた灰児も、思わず目を見張る。
「な──!?」
呻くようにゾンビたちが後退する。
足元の地面を引っ掻きながら、焼けつくような苦鳴を漏らす。
谷々は静かに歩を進める。
ゾンビの群れを割るように、正確に、無言で。
そして立ち止まる。
失栞と灰児の間。
あたかも、それが“必然”であるかのように。




