異世界にて10
沢田石礫は、森へ入ってすぐの開けた場所で足を止めた。
木々の切れ間から、淡い光が差し込んでいる。
沢田石は空を見上げ、口元を緩めた。
草原で発動した被害妄想は、まだ維持している。
視界から消えるわけではない。
だが、存在感が薄れ、他者から認識されにくくなる。
それだけ分かれば充分だった。
無月はすぐに全員を助けようとする。
御法川は気に入らなければ噛みつく。
事情も分からず騒ぐ連中と行動していれば、面倒事が増えるだけだ。
それに、異世界転移の直後に現れる王族や神官が善良とは限らない。
武器や情報を与える代わりに、不利な契約を結ばされる。
勇者という名目で利用され、最悪の場合は隷属させられる。
そんな展開を、沢田石は漫画やアニメで何度も見てきた。
転移者としての能力さえあれば、わざわざ相手の土俵へ上がる必要はない。
先に強くなる。
誰よりも早くレベルを上げ、強力な能力を手に入れる。
その頃には、四方田も嵯峨も、自分を頼るしかなくなっているはずだ。
異世界ものの主人公たちは、大した努力もせずに与えられた力を振るい、文明も知識も劣る相手を圧倒する。
子どもの草野球へ大人が一人だけ混ざり、ホームランを打って褒められているようなもの。
くだらない。
そんなことで得意になれるなんて、恥ずかしくないのか。
そう思いながら、沢田石は誰よりも異世界ものを読み漁ってきた。
人から認められたい。
女の子に好かれたい。
未知の世界を冒険し、特別な人間として扱われたい。
物語を読むたび、自分ならもっと上手くやれるのにと考えた。
自分が異世界で無双する物語の主人公であるという妄信。
だが、彼にとってそれは妄信ではなく──確信だった。
沢田石は森の奥へ踏み込んでいく。
木の幹へ背中を寄せ、身を屈めながら周囲を見回す。
テレビで見た特殊部隊の動きを思い出し、足音を忍ばせながら木々の間を進んだ。
「ふふっ、これってまさにアサシンってやつだよな。僕にぴったりのクレバーな能力だ」
口の端を持ち上げる。
しばらく進むと、前方の茂みの向こうから甲高い鳴き声が聞こえた。
葉の隙間から覗くと、三体の小鬼が地面にしゃがみ込んでいる。
体格は小学生ほど。
深い緑色の肌には大小のイボが浮き、黄色く濁った不揃いな歯が剥き出しになっていた。
汚れた腰布からは、生ゴミを蒸したような臭いが漂ってくる。
……ファンタジーの始まりにふさわしい雑魚だな。
沢田石は足元から、両手に収まるほどの角張った石を拾い上げた。
小鬼たちは、こちらを見ようともしない。
能力は効いている。
三体のうち、後ろにいた一体へ音を立てずに近づく。
あと二歩。
一歩。
沢田石は石を両手で振り上げ、小鬼の後頭部へ叩きつけた。
「ぐぎゃっ!」
鈍い音とともに、小鬼の身体が前へ崩れ落ちる。
石を握った両手へ、頭蓋骨が沈む感触が伝わった。
裂けた頭部から赤黒い血が噴き出し、土と枯れ葉を濡らしていく。
沢田石は反射的に石を手放しかけ、慌てて握り直した。
倒れた小鬼は口からどす黒い血を吐き、白目を剥いて痙攣している。
もう立ち上がることはできないだろう。
「おえっ……思ったより……リアルだな」
胃の奥から酸っぱいものが込み上げる。
石に付着した血は温かく、指の間へぬるりと入り込んできた。
「は、早く慣れないと……」
残った二体が鳴き声を上げ、倒れた仲間へ駆け寄る。
一体が頭部へ触れ、手についた血を見た。
もう一体は周囲をせわしなく見回している。
沢田石は木陰へ身を寄せ、荒くなった呼吸を整えた。
大丈夫。
まだ被害妄想は発動している。
それに、今のでレベルも上がったはずだ。
音も表示もない。
身体にも、目に見える変化はない。
だが、レベルは上がった。
そういうものなのだから。
今なら能力を使わずとも、こんな雑魚は圧倒できるはずだ。
沢田石は石を握り直し、木陰から飛び出した。
「うぉおおおっ!」
狙うのは頭。
一体の眉間へ向け、石を振り上げる。
その時。
脇腹を、軽く押された。
トン、と。
見下ろすと、ナイフが刺さっていた。
「えっ……?」
握っていた石が手から滑り落ちる。
目の前の小鬼を見る。
濁った黄色い目が、まっすぐ沢田石を捉えていた。
見えている。
そう理解した途端、脇腹から灼けるような痛みが全身へ走った。
「ひっ……あっ……!」
膝から力が抜け、その場へ崩れ落ちる。
傷口から脈に合わせて血が溢れ、制服のシャツを濡らしていく。
息を吸うたび、腹の内側へ熱した鉄の棒を押し込まれるようだった。
「な、なんで……見え……」
小鬼が沢田石の前髪を掴む。
身体を引き倒され、後頭部が硬い地面へ打ちつけられた。
視界が白く弾ける。
小鬼は髪を掴んだまま、脇腹へ刺さったナイフの柄へ手を伸ばした。
「あ……お願い……お願いします……」
涙と鼻水が頬を伝い、開いた口から涎が垂れる。
「抜いて……抜いてください……」
小鬼の口の端が、ゆっくりと持ち上がった。
次の瞬間、ナイフが傷口の中で捻られた。
「やめてぇええええっ!!」
絶叫が森へ響く。
沢田石は反射的に上体を起こそうとした。
だが、髪を強く引かれ、後頭部を再び地面へ叩きつけられる。
喉の奥から、潰れた声が漏れた。
小鬼は甲高い笑い声を上げながら、もう一度ナイフを捻る。
沢田石にできるのは、身体を震わせ、痛みに声を上げることだけだった。
それから、どれほど叫んだのか分からない。
気づけば、もう一体の小鬼も腹の前へしゃがみ込んでいた。
冷たい刃が、今度は正面から腹部へ沈んでいく。
声を出そうとしても、喉からは掠れた息しか出なかった。
小鬼たちは沢田石の身体を押さえつけ、刃を動かし続ける。
腹の辺りで、生温かい何かが引きずり出されていた。
もう、それが自分の身体に起きていることだとは思えなかった。
痛みも、笑い声も、少しずつ遠くなる。
沢田石は動かなくなった首を傾け、木々の隙間から空を見上げた。
空は蒼く澄み、どこまでも綺麗だった。




