中央線上のアリア
「《一激》!」
名を呼ぶと同時に、世界が加速する。
脳の処理速度が跳ね上がり、筋肉の反応が一段跳ねる。
飛んでくる石が、まるで空中に静止したように見える。
……当たるのは、あれと、あれ
谷々は最小限の動きで石を避けた。
一切の無駄を削ぎ落とした回避軌道のまま、直線で男へ向かって駆け出す。
「おっ♪ なんだその避け方! おもしれぇじゃん!」
男は両腕を広げ、まるで歓迎するようなポーズで待ち構えていた。
その顔には笑み。
まるで“予定通り”と言わんばかりの、余裕の構え。
……おかしい。
谷々は即座に減速し、足を踏み鳴らすようにして急ブレーキをかける。
直感が警告を叫んでいた。
「気づいたか♪ でもちょっとおそかったな」
笑みが消えた。
男の右手が、弾かれるように伸びてくる。
「っ!!」
避けなければ──
だが、ブレーキの反動でバックステップは取れない。
谷々は咄嗟に身体をひねり、倒れ込むように前方へ身を投げた。
「すげぇ判断力♪ でも言ったろ? ちょっと遅かったってな。《恩知不》」
蛇のようにしなる手が、Yシャツの袖をなぞる。
触れられた──その瞬間。
「っ!?……ぐっ!」
空間がねじれた。
身体に強制的な制動がかかる。
落ちるはずの地面が近づかず、谷々の姿勢が空中で静止した。
動けない……!?
腕も脚も、わずかしか動かせない。
体幹が石膏で固められたような違和感。
視界は動く。呼吸もできる。だがそれだけ。
「い〜い線いってたんだけどなぁ♪ でもこれで試合終了だ。ブザービートでも鳴らそうか?」
男は笑いながら前へ回り込み、谷々の浮かんだ身体に拳を叩き込んだ。
ドグッ!
「っ……!」
衝撃はもろに腹に入った。
ガードもできず、逃げることもできず、ただ受け止めるしかない。
顔面、脇腹、胸──何度も殴打を繰り返され、谷々の身体がわずかに軋んだ。
十分にダメージを与えたと満足したのか、男は谷々の目の前に胡坐をかいて座った。
「……なぁ、お前さ。『ありのままでいいんだよ』って言葉、どう思う?」
唐突に始まる問いかけ。
谷々は息を整える間もなく、意味を測る。
「一見、優しそうに聞こえるけどさ、あれってよく考えると――ずいぶん乱暴だよな。
だってさ、相手のことをろくに知らないくせに、『そのままでいい』って。
それって、魔王に挑む勇者に『レベル1のままで行け』って言ってるようなもんじゃね?」
「それって本当に優しさか? 違うよな。
ただ『優しいことを言ってる自分』に酔いたいだけの、自己満足……エゴってやつさ。」
「ぺっ……無駄口を叩いてないと死ぬって言うのはホントみたいですね」
血を吐き捨てつつ、ゆっくりと体をよじる。
すると、固定されているのは身体そのものではなく、Yシャツの上半身部分だと気づく。
「そ〜なんだよ、やっと話が通じた♪」
嬉しそうに笑うその顔はどこまでも純粋で、邪悪だった。
「でさ、よく聞くじゃん。“人は見た目じゃない”って。あれ、半分ウソだよな。正しく言い直すなら、『ほとんどの場合、人は外見が“全てじゃない”』ってことだと思うわけ。」
「だってさ、外見って結局“中身の一番外側”なんだよ。その人間が何を選んで、何を捨てて、何を恥じてないか──そういうの、だいたい顔に出るし、背中にも出る。“中身”って、意外と服を着て歩いてんのさ♪」
「……言ってる意味はわかりますが、言ってる意図はわかりませんね」
シャツの裾を脱ごうと試みるが、普段からしっかり着ているため抜け出せない。
「にひひっ♪ 意味? あるわけねぇじゃん。意図? なおさら無ぇな♪」
「言っただろ? 俺は無駄話が大好物なんだって。口が動いてないと不安になるタイプでさ~。
でもよ? ちょっと驚いたわ。お前、わりと冷静だな?」
「たいていの奴はさ、俺の《恩知不》喰らった瞬間、思考回路ぶっ飛ばしてパニック芸始めんのよ。で、俺より喋る。マジで。命乞いとか、説得とか、懺悔とか、いろいろ。」
「……それに比べりゃ、お前は上出来だよ? まだ黙ってられるだけ、品がある♪」
パチパチと怠惰な拍手を送る男。
その顔には、やはり笑みが浮かんでいた。
「無駄口を叩くのが嫌いなもので……」
谷々は冷静を保ちながら思考を回す。
この《恩知不メメント》は、接触した物体を空間的に拘束する力か……?
応用性が高く、解除条件も不明。
おそらく、これまでの敵で最強──いや、“最悪”だ。
「……さてさて、お前との会話はなかなか楽しかったんだけど、そろそろ宴もたけなわってやつだ。ひどく残念だよ。結局また愛してやれないんだからな……」
突然、男の笑みが沈む。
ポケットから取り出したのは、ライターオイルだった。
「……これは一体?」
「キャンプファイヤー♪」
何の悪意も感じさせない口調で、谷々のYシャツにオイルをふりかける。
続けて枕木を拾い上げ、空中で振ると──
ジャッ!
火が灯る。
先端が、まるでマッチのように赤く燃え上がった。
「……提案なんですけど、良い肉があるんでキャンプファイヤーじゃなくバーベキューにしません?」
「そいつはいい♪ でもなぁ、俺にとってその2つ、同じ意味なんだよね♪」
炎がじわじわと近づく。
熱が頬を撫で、焦げた繊維のにおいが鼻腔を刺す。
──そのとき。
「《夜明障壁》!」




