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国分寺5

扉は完全には閉まっていなかった。


谷々が気づいたのは、足元の金属溝に何かが引っかかっていたからだ。


屈んで指先を伸ばすと、それは黒い樹脂軸のボールペンだった。

かすれてはいたが、銀色のインレタでこう記されていた。


──K.I


谷々は眉をひそめ、ボールペンをそっと脇に置く。

「このペンが……」

扉の完全な閉鎖を妨げていたようだった。

電子制御式の扉も、わずかな隙間があればロックは作動しない。

偶然にしては出来すぎていたが、今はそれを気にしている場合でもなかった。



谷々はバールを差し込み、てこの原理で扉を慎重に押し広げる。

重たい音とともに視界が開ける。


その先には、広大な空間が広がっていた。


高さ5メートル以上はある天井。床は滑り止めの効いたグレーの工業樹脂。

左右に走る配管と配線ダクト。冷却機構の痕跡、空調フィルター、消音パネル──

一見して“本物の施設”だとわかる。


「……これは」

谷々は、わずかに息を呑む。


無数のデスクと端末機。壁沿いには金属製のラック。

大型のUPSやディーゼル発電機も並んでいる。奥の方には、鍵付きのサーバールームも見える。


「……あんまり離れすぎないで」

谷々は後ろを振り向かずにそう言い、先に入っていく。


窓はなく、音もない。完全な密閉構造だ。


落ちている書類や散乱した機材からは、明らかに“急な退避”の痕跡が見て取れた。

一部の椅子は倒れ、パソコンのモニターは軒並み割られている。


拾い上げた書類には、英字と専門用語が混在していた。

谷々が読めたのは、その中のいくつかの単語だけだった。


「cognition」


「response model」


「subject integration」


そして、「Project: H.A.L.L.O.W.」というヘッダー文字。


「認知……応答……モデル……」


ぼんやりと、ただそれだけを読み取る。


さらに奥へと進むと、空気が変わった。

コンクリートの冷たさではない。機械でもない。

何か、得体の知れない“生々しさ”を孕んだ空間。



その部屋に入った途端、ハルエの足がぴたりと止まった。


「……ハルエちゃん?」


谷々が声をかけるより早く、彼女の体がぐらりと揺れた。

次の瞬間、膝が抜けたようにその場に崩れ落ちる。


「ハルエちゃん!? どうした!?」


谷々はすぐさま駆け寄り、膝を折って目線を合わせた。

目は開いている。確かに、彼女の瞳に谷々が映っていた。

だが、何も反応を示さなかった。


その体はがくがくと震え、腕にも、脚にも力が入っていない。


「ハルエちゃん! 大丈夫かい!? 僕がわかる!? 聞こえるかい!」


耳元で呼びかけるも、声は彼女の奥には届かなかった。

噛み締めた唇から血が滲み、頬をつたう。


──このままでは自傷の危険がある。


谷々はすぐに収納から清潔なタオルを取り出し、そっと口に挟み込んだ。

歯を開かせるには力が要った。すでに痙攣の域に近い。


ハルエの体を横に寝かせる。その拍子に、ワンピースの肩紐がずれた。


「……これは」


谷々の手が止まった。


そこにあったのは、無数の傷跡。

メスのようなもので切られた直線。

チューブを通したような丸い穴。

針痕。皮膚が変色した注射の跡。


谷々は一言、低く呟いた。

「……ごめん」


肩紐を外し、うつ伏せにする。

可能な範囲で背中を確認すると、さらにひどかった。


背骨を中心に並んだ切創。

一定の間隔で穿たれた穴。

それらは暴力というより、明確な“処置”を感じさせた。


「虐待……? いや……実験」


あらゆる部位を対象に施された“何か”。

それが何のためだったのかはわからない。

だが、ひとつ確かなことがあった。


──これは、人のやることじゃない。


「谷々兄ちゃん大丈夫!? なにがあったの!?」


少し離れた場所から、深夜の声が飛ぶ。


「わからない! 急にハルエちゃんの様子がおかしくなったんだ!」


谷々はそう叫びながら、ハルエを背負い上げた。

彼女の身体は異様に軽く、それがまた胸に重かった。

収納からロープを取り出し、自分の身体と彼女の胴を結びつける。


このままでは危険すぎる。まずはここを出なければ。


「深夜、出るぞ。すぐに──」


そのとき。


バシュッ、と音がして、頭上の蛍光灯が一斉に点灯した。


「ついた! 非常電源っていうのがあったから押してみたんだよ!」

嬉しそうな顔で、深夜が奥から駆けてきた。


だが──照らし出された空間は、あまりに異様だった。


部屋全体が銀と白の機械で埋め尽くされていた。

無数のモニター、冷却ユニット、配線ケーブル。


そして中央には、黒光りする手術台。


銀色のトレーにはメス、鉗子、注射器、カテーテル。

一部の器具には、血のようなものが乾いた痕が残っていた。


……これは、ただの研究室ではない。

到底人道的という言葉からはかけ離れた何か。


「……最悪だ」


谷々が吐き捨てるように言った。

この部屋と、ハルエの背中の傷。

偶然では片付けられない。

確実に、“ここで”何かがあった。


谷々が床に散らばった資料に手を伸ばそうとしたそのときだった。


──警告音。


キィィンという耳を裂くようなブザーのあと、女性の合成音声が響いた。


「緊急事態発生により、施設を封鎖します。職員は速やかに退避してください。十分後にすべての扉はロックされます」


谷々の瞳がわずかに鋭く細まった。


「……時間切れか」


彼の背には、まだ痙攣の止まらぬハルエ。

すべての扉が閉じられるまで、あと──10分。


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