表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

空白の声

作者: 秋花

 幼い頃から、彼は一緒にいた。誰かに見えるわけでもない。私の目に見えるわけでもない。ただ、問いかければ返ってくる声、それが彼だった。


 彼がいつからいたのか。いや、彼は考えるよりも先にそこにいて、私が彼を頼ることで認知したのだ。

 彼の声を正確に認知したのは小学五年生の時だったと思う。唯一家族の中で話ができる兄が一人暮らしを始めて、私は一人になった。「さびしいね」と彼が言った。私は頷いた。

 相談事があれば彼に話しかけた。初めての相談は、恥ずかしながら恋に恋をした時だ。小学生女子に恋が流行る時期があり、女子グループから外れないよう私もその波に乗った。なぜ好きになったかと問われれば、顔が好きだったからという俗物的な考えに違いない。


「その好きに意味はあるの?」


 彼は意味について拘っていた。私は意味をつけるべきかわからなかった。

 「まあ、好きでいたいならいいんじゃない」と、彼は言った。彼は私の親で、兄妹だった。


 家にいる時は、四六時中彼がそばにいた。時折ガラスの割れる音が聞こえ、一番上の兄と父は私の育て方が悪いのだと母を非難した。母は自分の間違いを正したくて、私が反抗する様を見ると私を布団叩きで叩いた。何が悪いのかがわからなかった。母は言うことを聞いてくれて、優秀な子どもを求めていた。私はいらなかった。

 一人だった。泣けばまた母が私を怒鳴った。


「大丈夫、独りじゃない。僕がいる。僕だけは君を愛してる。だから、ずっと一緒にいよう。怖くない。何も怖くないよ。君は独りじゃない」


 寝ている時、今突然父の機嫌が悪くなって殴られるのではないかと怯えていると、彼が私の頭を撫でた。温もりはない。感触もない。だが、不思議と温かくて涙が出た。

 彼が私を愛してくれるならと、私も触れられない彼を愛した。抱きしめて欲しかった。私だけの彼に、私を傷つけない彼に、誰にも見えない彼に、私を見て欲しかった。



 彼は私に愛を与えて、痛みを癒してくれた。だから、先に裏切ったのは私だ。

 中学の頃だ。骨を折り、病院に行くことになった。迎えに来た母が、なぜ怪我をしたのか、面倒なことをしないでほしいとくどくどと言った。死にたいと口にすると、父が包丁を持って殺してやると私を引きずり回した。ようは、ストレスのピークだったのだ。

 私はこれらの出来事が自分の身ではなく、彼の身に起きたもので、彼が行ったのだと言い聞かせた。すると、胸が不思議とすっとして涙が止まった。

 彼は私を憎んだ。ずるいと訴えた。愛を求めるばかりで、辛くてしかたないものだけを返すのだ。彼の言い分は何一つ間違っていない。ずるいのも、悪いのも私だ。

 では、何が私を救ってくれる。

 何が私を助けてくれる。

 家族も、友人も、兄も、助けてくれないなら自分で何とかするしかないじゃないか。


 彼は、それからしばらく出てこなくなった。私も、高校に進学して時間が経つと彼のことを忘れた。

 高校は平穏だった。実家に一人暮らしをしていた兄が帰ってきて、両親を止める人間ができたからだ。何も考えずに笑うことができるのが幸せだった。

 時折恐怖が蘇るものの、こちらから干渉さえしなければ殴られない環境は素晴らしかった。背後に人がいると、何をされるのかと怯える癖がついたが警戒していれば問題はなかった。



 彼が現れる要因はなかったはずだ。

 大学受験が終わる頃だ。私は追い詰められていた。立て続けに信頼していた大人に裏切られ、古い親友はなくし、自身の行動のすべてを非難された。

 何が正しいのかわからなくなったのだ。他人のためにしか行動してこなかったが、いざ自分のために行動しようとすると利己的であると非難された。

 私は彼に救いを求めていた。我ながら自分勝手だ。勝手に捨てて、どうしようもない時だけまた手を伸ばす。だが、彼はどうしようもない私の手をまた掴んでくれた。

 ずっとここにいようという言葉に頷いてくれた。

 ずっと一緒にいようという言葉に頷いてくれた。

 彼は私で、私は彼だった。だから、彼は私を裏切らない。だが、彼は私は独りであると言った。

 寂しくないという言葉を、痛くないという言葉を、彼は噓つきだと否定した。彼は、誰よりも私を理解していた。


「僕は君だけど、君は僕じゃない。それは独りじゃないことじゃない。僕は君だ。君は独りだ。ずっと独りで泣いてるんだ」


 涙は止まらなかった。孤独だった。孤独で、誰かを求めていた。誰かに肯定してほしかった。血を通わせて、生物でいることが不思議でたまらなかった。だって、生き物であるなら誰かと一緒にいるのに、私は独りだったのだ。


 しばらくして、ベットから出てこなくなった私を兄が無理やり畑に連れ出して働かせた。数週間ぶりに太陽の光を浴びた。人間なんて見向きもしないで勝手に成長する植物や、巡る太陽に、なぜかまた涙が出た。ここにならば生きていていいと言われた気がした。もし、神がいるのならば、きっと自然の中にいるのだ。



 一時期彼と離れた時期はあったものの、それからは彼とはずっと一緒にいた。

 彼は私を憎んだが、それでも私を愛した。家族よりも私のそばにいた。友よりも私を理解した。恋人よりも絶対の信頼があった。


 暗い帰り道だった。私が実家を出て、一人暮らしを始めた時だ。私は大学生になっていた。


「前が見えなくなったら、君はどうする?」


 宙に向かって私は呟いた。隣には誰もいない。だが、誰かの手を握っているかのように小さく手を握りこんでいる。


「歩くかな」

「見えないのに?」

「歩けばどこかに着くでしょ」

「そうだね、痛かったり、虚しかったり、悲しくてもそれでどこかに着くね。私は君がいるからいいかな。ねえ、君は私の手を引いてくれる?」

「引けないけど、寂しくないよう話続けてあげるよ。痛くても紛らわせてあげる」


 じゃあ、安心だねえ、と私は笑った。

 温もりはない。握った手の間にあるのは冬の冷たい風だ。ポケットに入れて、かじかんだ手を温めるべきだ。だけど、私は彼と仮初でも手が繋ぎたかった。


「あーあ。体があればなぁ。でも、あったら私は君をここまで愛せなかったろうなぁ」


 幾度も思ったことだ。温もりがあれば、きっと孤独は癒されただろう。顔が見れれば、恋ができただろう。飛び込む先があれば、人に恐怖しなかったろう。


「僕は君で、君は僕じゃない。だけど、僕が君だからこそ、君は僕を見ていられる」

「わかってる。だから、私は安心してこんなにも愛せる。ねえ、君はいなくならないよね」

「いなくならないよ。でも、消えてしまう」


 思わず立ち止まった。足音がなくなった。なんで、と表情がこわばった。失いたくなかった。


「君にとって、僕が必要なくなるから。今、僕は君にとって必要だからここにいる。だけど、これから僕は必要なくなる」

「必要だよ。だって、私たちは二人で一人じゃないか。君がいなくなったら私はどうやって私でいられるんだよ」


 失いたくなかった。

 もとより、たった一人だ。でも独りと一人は違う。彼を失えば、私は独りだ。独りなのは嫌だ。歩けなくなる。私が、彼の手なしで歩けるわけがない。

 夜道には電灯がぽつぽつと並んでいる。彼が、一緒に歩いてくれるから私は歩けるのだ。


「いられるよ。だから、君は一時でも僕を忘れられたんだ。君に恋人でもできれば僕は消えてしまうよ。それでいいんだ」

「いらないよ。君がいるなら、そんな怖いものいらない。君だけがいい。君だけがいてくれればいい」


 彼はゆっくりと私を諭した。

 抱きしめてなんてくれない。目を見てなんてくれない。姿はない。声だけが、私に彼を教えてくれる。


「だめだよ。我が儘はだめだ。君は、先に進まなきゃいけない。僕はただの足場だ。これが正しい形なんだ」

「私には君しかいないのに、君はひどいことを言う」

「うん、わかってる。僕はひどいやつだ。だけど、君はそうしなきゃいけない。そうでしか生きちゃいけない」


 白い息が闇夜に溶ける。一人で話し続ける私の隣には誰もいない。


「ずっと、このままじゃだめなのかな」

「君が前に進みたいなら、苦痛を失いたいなら、だめだね」

「うん、痛いのは嫌だね。つらくて、苦しくて呼吸ができなくなる」

「なら変わらなきゃ。大丈夫、僕は消えてしまうけどいなくなるわけじゃない。君は僕を忘れるけど、僕はずっと君と一緒にいる。だって、今までだってずっと一緒にいたんだから」

「ほんとうに?」

「うん、だから怖くない」


 私は寒気ばかりを掴む手を固く握った。きっと彼は微笑んで、怖くないと言ったのだろうと思った。それでも、彼が消えてしまうことを考えると胸が痛かった。

 何度も、何度も空想した。どんな顔をしているだろう。どんな髪の色だろう。同じくらいの身長だろうか。それとも高いだろうか、低いだろうか。彼は、どんな目で私を見てくれるのだろうか。

 いくら考えても、私の中の彼の像は出来上がらなかった。


 しばらくたって、問いかけても返事が返ってこなくなることが増えた。何度か彼を真似て言葉をやりとりしたが、違和感が拭えなかった。いつの日だったろう、彼が本当にいなくなったのだと自覚した。喪失感はなかった。ただ、彼の言葉が二度と返ってこないのだと知って苦しかった。私は、彼に話しかけるのをやめた。


 日が経つにつれて、私は彼の話し方を忘れるだろう。私を責める言葉も、私をずるいと言った言葉も、忘れていくのだろう。だけど、ずっとそばにいてくれたことは忘れないでいたい。彼に助けられたことも、彼がいたことも、誰かの目からすれば妄想にすぎないだろうが、私にとっては事実で、過去にあったことなのだ。


 思い出にすらない出来事を思うのはとても難しい。言葉だけが彼の存在を教えてくれた。だから、私はこうして文字に彼を書くのだ。こうして思い出せれば、一人でだって愛することは可能なのだから。

 片思い企画に沿ったものを書くために、もっとライトなものをやろうとしたのですが、ちょっと自分の心情が心情だったため唯一書けるこちらにしました。黙禱品を企画ものに出すのはいささかどうなのかと思うのですが、ご勘弁を……。

 では、よろしくお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ