表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ワールド・エンド・サマー  作者: amada
第一部:日々の泡
8/16

7.彼岸の声


たとえば花が花である意味。

たとえば鳥が鳥である意味。

たとえばヒトがヒトである意味。

ほらね。やっぱり意味なんてない。

そこにあるのは理由だけ。

そうあるための理由だけ。











 『リンネ』はぼくに言った。すべてを教えると。ぼくはようやく真実へと辿り着こうとしていた。『リンネ』は現実世界のリンネと同じように、穏やかな表情でぼくのことを見つめている。はじめ、ぼくは『リンネ』を排除すべき危険な存在だと認識していた。解離した別人格。もしくは内側から精神を侵すもの。

「話したいことは山ほどあるけど、そう、まずはあたしについて」

『リンネ』はまたひらりとワンピースの裾を揺らしながら、バレリーナのように回ってみせた。

「あたしはわたし。それは前にも話しましたよね」

内蔵をぶちまけたようなグロテスクな世界で、『リンネ』がぼくに言った謎かけのような言葉。あたしはわたし。分化した人格ではなく、それとは別の何か。リンネの心に由来するもの。ぼくにはなんとなくその答えがわかったような気がした。その心中を知ってか知らずか、『リンネ』はまるで答え合わせをするかのように、言葉を続ける。

「あたしはいわば抗体みたいなもの。あの亡霊たちから『わたし』を守るために、『わたし』が生み出した機能」

パズルのピースがひとつづつ、埋められていく。無数に散らばった点が、線で結ばれていく。人間の精神には何層もの防壁が存在する。それらは自他を分かつ境界であるとともに、自我を保ち、守るための防衛線でもある。ならば納得がいった。いうなれば『リンネ』は、その防御機能の擬人化ということだ。

「君はずっとリンネを守ってきたんだな」

それは労いの言葉だったのか、はたまた疑ってすまなかったという謝罪の意だったのか。ともかくぼくは『リンネ』にそう言った。それを聞いた『リンネ』は、にっこりと柔らかく笑ってみせる。そこには退廃的な雰囲気も、暴力的な意志も感じない。ただ純粋で、透明な笑み。

「そう。あたしはわたしの心を守るために、ずっと彼らの怨嗟を堰き止めようとしてきた」

『リンネ』の顔から、すっと表情が消える。

「でもあたしの力は、彼らを完全に押さえ込めるほど強くはなかった。だからあたしが抑えきれなかった彼らの感情は、意識は、わたしの心にダメージを与えてしまった」

リンネの見る夢。トラウマを除去したにもかかわらず、収まらない身体症状。すべては『リンネ』のフィルターからこぼれ落ちたものが引き起こしていたのだ。それを悔いるように、『リンネ』は表情を曇らせる。

「わたしのダメージはきっと先生が思っているよりも深刻だった。彼らの怨嗟の声は、『封鎖領域』にまで届くほどだったから」

ぼくの記憶がはるか遡り、研修所の座学の授業が想起された。深層意識の最奥、共感によって立ち入ることを禁じられている領域がある。自己が自己であるための究極の一。魂とも呼ぶべきそれが収められているとされている聖域。ぼくらはそれを封鎖領域と呼ぶ。何人も冒してはならないその神域は、触れたものと触れられたもの双方に破滅的で不可逆のダメージを与える。何かの間違いで入ってしまった場合、共感者と被共感者のどちらもが廃人と化すと言われている。通常は決して辿り着くことの出来ない最深部。そこにまで届く怨嗟の声とは。

「あたしは封鎖領域を守ることにかなりの力を割かれた。その分手薄になった浅い階層の意識には、彼らの声が流れ込んでしまった」

人間の心の持つもっとも強い防衛本能。それにしたがって『リンネ』はリンネの魂を守っていた。しかし彼女の力は十全ではなかった。あるいは彼らの念があまりにも強大だったのか。それゆえリンネは亡霊たちに心を蝕まれていたのだ。以前、共感中に『リンネ』が言った言葉を思い出す。邪魔をしないで。消えるわけにはいかない。その意味が、今ではわかりすぎるほどわかった。当たり前だ。『リンネ』はリンネを守らなければいけなかったのだから。そしてリンネが覚醒時、視覚的に彼らの姿を捉えてしまったことにも合点がいく。『リンネ』の力が封鎖領域に集中した結果、普段よりも大量の意識がリンネの表層に流れ込んだ。事の顛末はそんなところだろう。

「最初に君と遭ったあの場所は」

「彼らとあたしの力のバランスが崩れたときに、この世界に上書きされるようにして現れる世界。だからあれは厳密に言えばわたしの心象風景ではないの」

つまりあれは戦場。さながら『リンネ』と彼らが戦う最前線。

「だから先生があそこに来たとき、正直あたしはとても焦った。他の共感医たちは、みんな彼らの声に飲まれてしまったから。あたしは防戦一方で、入ってきた人たちを助ける余力がなかった」

悔いるように呟く。あの日、橙夜に言われたことを思い出した。ぼくの前任者たちは全員が全員、閉鎖病棟送りになったと。それはぼくの考え通りあの赤黒い流れに、彼らの声に抗うことが出来なかった結果だった。

「でも先生は彼らの声の中からわたしの記憶を取り出せた。あたしはとても驚いたし、安心もした」

深層意識干渉制御デバイス。橙夜の言葉を借りれば、ぼくに掛けられた呪い。幸か不幸か、いや間違いなく幸いにして、ぼくはそれのおかげで生還できた。リンネの治療を初めて次のステージへ押し上げることができた。

 ぼくは『リンネ』に、ぼくの持つ力のことを話し始めた。『リンネ』は少し目を見開いた後、何度も頷いた。心の底から納得したという表情だった。リンネと同じ栗色の髪が、夕焼けの世界の光を受けてなめらかに輝く。

「なるほどね。それで先生は」

『リンネ』の言葉に頷いて応える。橙夜は才能のことを呪いだと言った。笑顔の張り付いた下にある真意はわからない。けれど、ぼくは今ならこう言える。リンネと『リンネ』を救うことのできるこの力は、決して呪いなどではない。この力は確かにぼくの意思に反して与えられた。しかし今となっては、これはぼくの力だ。ぼく自身が、ぼく自身の意志で振るうことを決めた力だ。それは名前に似ている。名前とは、生まれた時に自分の意思の介在しない場所で与えられるものだ。しかしそれは自分が自分として生きていくうちに、自分のものになっていく。ぼくは橙夜にこう言った。どういうものかではなく、どう在るかが大切なのだと。ぼくははじめ、確かにデバイスの実験体だったかもしれない。そしてそれはいささか以上に人道を外れたものだったかもしれない。けれどぼくは今、こうして自分の意思でその力を使っている。そうである以上、これは呪いではなく、ぼくがぼくであるためのアイデンティティのひとつなのだ。今、それをはっきりと自覚した。

「先生なら、彼らのことを知る力がある。あたしはそう思う」

『リンネ』の言葉がぼくを真実へいざなう。彼ら。怨嗟の渦。リンネを苦しめ続けてきたものの正体へ。

「教えてくれ」

ぼくの中にはひとつの仮説があった。それを事実として決定づける最後のピースを、『リンネ』は握っている。確信にも似た想いを抱きながら、ぼくは少々急かすように『リンネ』に訊いた。そして『リンネ』は真実を語り始めた。


 「彼らはヒトの心の集積。募り積もった感情の集合体。意識場の海。あるいは世界そのもの」

光の速さで思考がめぐる。無数に走る光の線が、点と点を結びながら進んでいく。すべての真実。ぼくの中にあった仮説の証明。

「つまり、彼らの正体は」

『リンネ』はもったいぶる様子もなく、さらりとその名を口にした。

「そう。先生たちが『集合的無意識』と呼ぶもの」

驚きはなかった。そこにあったのは、自分の仮説が実証されたというどこか淡々とした認知だった。集合的無意識。意識場の発見から後、必然のように提唱された概念。人間の脳が発生させる意識場が、相互干渉を繰り返しながらひとつの集合体を形成する。『リンネ』の言ったように意識場の海とも言えるそれを、研究者たちは古い心理学者の言葉を引用して集合的無意識と名付けた。その概念は予言のような曖昧さを持っていた。宇宙には目に見えない何らかのエネルギー、もしくは物質が存在する。そして学者たちはそれをダークマター、暗黒物質と名付けた。例えて言うならそんなところだ。論理的帰結として存在が予言され、しかし未だ実在が確認されていないもの。長きに渡る意識場研究の結果、意識場は相互に作用しながら存在していることは立証された。そこから導き出されたのが集合的無意識の存在。しかし直接それと共感する手段は未だ見つかっていない。それが世界の定説だった。あるらしいことはわかっている。けれどそれを見ることはできない。ぼくは人類で始めて、その実在を目の当たりにした。だが、ぼくにはどうしても納得のいかないことがあった。

「これが、この怨念の塊が人の心の集積なのか」

人の心は複雑系そのものだ。そこには言語化出来ない感情があり、数値化できない想念がある。しかしその集積たる集合無意識が、圧倒的な負の感情に染まっている。目の前に広がるこれが真実なのだとしたら、それはあまりにも。

「ええ。これは人々の心の奥底にある思い。集合的無意識の正体。人間ってどうしようもない生き物なの。誰かの幸せを願いながら、心の底ではその代償を求めるように、誰かを呪わずにはいられない。世界は絶望と怨嗟に充ちている」

それはまさに絶望的な解だった。性善説の否定に他ならなかった。ぼくらの下に広がる世界から、亡者たちが必死に手を伸ばしているのが見えた。彼らは蜘蛛の糸にすがろうとしているのではない。自分たちと同じ場所に引きずり下ろそうとしているのだ。おいで。おいで。おいで。リンネの聞いた彼らの声は、彼岸から生者を取り込もうとする怨念の声だったのだ。リンネはずっと彼岸と此岸の狭間に立たされていた。そして自分を誘う亡者たちから身を守るために『リンネ』を生み出した。もちろんそれらは無意識の行為だったに違いない。リンネにその自覚はないはずだ。

「リンネは初めから彼らの声を聞けたのか」

ぼくはさらに『リンネ』に訊く。もしもこれがリンネの持っている先天的な能力なのだとしたら、それこそ呪い以外の何物でもないのではないか。

「半分正解。彼らの世界への扉は、わたしの中に初めからあった。でも扉には鍵が掛かっていて、彼らの声は届かなかった。もちろん、あたしの存在も必要なかった」

リンネが考えこむときにそうするように、『リンネ』も髪を指に絡ませる。くるくると巻くように指を動かす。彼岸への扉は初めから存在し、しかし閉ざされていた。そして何かが起こりその鍵が外された。そんな出来事はひとつしか思い当たらない。

「両親の事件」

「正解。おとうさんとおかあさんが目の前で殺されて、わたしの心はずたずたに切り裂かれた。わたしは世界に絶望し、自分を呪い、悲しみに溺れた。それに呼応するように、彼らの世界とわたしの心が繋がってしまった」

リンネには生まれつき彼岸の声を聞く力が眠っていた。本来なら、その力は眠ったまま終わるはずだったのかもしれない。しかし両親が目の前で殺されたトラウマによって、負の感情の奔流である彼らの世界への扉が開かれてしまった。

「あたしが産み落とされたのはそれからしばらくしてから。その後のことは、先生も知っての通り」

すべてが繋がった。さんざんぼくらの話題に登っていた意識場の異常活性。おそらくそれはリンネの脳に生まれつき備わっていた力の一端が引き起こした現象だったのだ。そしてその裏側には『リンネ』と彼らとの戦いがあった。体内に侵入した病原を殺すために、体が免疫を活性化させて高熱を出す。それに似た反応がリンネの精神で起こっていたということか。そしてあの赤黒い流れ。ぼくの前任者たちを破壊し、ぼく自身も侵されかけたあれは、彼らの世界からリンネの心に流れ込む負の感情の奔流だった。ぼくは思わず溜息をついてしまった。あまりに壮大で、凄絶な話だ。

「それでも、わたしは先生に救われた。先生の存在に助けられている」

『リンネ』の言葉が、まるで励ましのように聞こえた。確かにぼくはリンネの両親の事件のトラウマを除去することには成功した。しかしそれだけだ。根本的な解決になっていないことは、今理解した。結局のところぼくは根本を解決したつもりでいて、その実対症療法を施したに過ぎなかったのだ。彼らの怨嗟はあまりに途方も無い。ぼくひとりの力で何とかできる範疇を超えている。けれど。考えることを止めるな。解決策は必ずある。ぼくは考えた。何度もシミュレーションをし、結果を考察し、効果を測定した。何度も頭の中で計算をした。そして一つの解にたどり着いた。なんてことはない。それは至って単純なものだった。しかし現状では最善の策に思われた。


 「『リンネ』」

ぼくは黒いワンピースの少女に向かって呼びかける。『リンネ』は少し不思議そうに小首をかしげる仕草で応じた。

「彼らのところへ連れて行ってくれ」

『リンネ』の顔に驚きの表情が生まれた。信じられない。そんな目をしていた。

「死ぬ気」

「そんなつもりじゃない。君たちを助けるために必要なんだ。力を貸してくれ」

生憎とまだ死ぬ気はない。リンネとの約束を果たしていない。『リンネ』は少し考えこんだ素振りを見せた後、言った。

「彼らの世界に入ることはできない。でもあの流れに近づくことならできる。あたしの力を少し流し込めば、今の先生なら飲み込まれることもないはず」

そう言うと『リンネ』はぼくの手を取り、ゆっくりと赤黒い流れに向かって進み始めた。ぼくらは夕焼けの空を飛んでいる。ふたつの世界の狭間、オレンジの光の中を泳ぎながら、ぼくらはそれに近づいていく。徐々に彼らの声が大きくなってきた。聞きたくもない言葉たち。リンネが苛まれていた怨嗟の渦。こんなものを聞きながら、リンネはそれでも笑って見せた。それが嬉しかったし、悲しかった。やがてへその緒のように遠く見えていた赤黒い流れは、ぼくらの眼前に濁流となって現れた。『リンネ』はその淵で止まって、こちらを振り返る。

「あたしが先生をここに繋ぎ止める。でも無理はしないで。封鎖領域を守りながらだから、あたしの力にも限界がある」

「ああ、十分だ。頼む」

『リンネ』はぼくの背に回り込むと、その右手をぼくの肩に乗せた。触れられた場所から暖かい光が全身に流れこむのを感じる。その光はぼくの意識場と共鳴し、デバイスをさらに活性化させた。ぼくは初めてリンネと共感した時のように、赤黒い流れに手を触れた。刹那、感情の奔流が流れ込む。あの時と同じく、ぼくの意識体を破壊せんとする怨念が渦巻いている。いくつもの風景とそれに紐づく感情がぼくの意識に流れ込んで来た。自分を人形のように扱う親への怒り。いじめられたことへの憎しみ。努力が報われない自分への絶望。暴力を振るう恋人への恐怖。遮断機。赤信号。血溜まり。殴られる。青あざ。髪を掴まれ、頬を叩かれる。自分にのしかかる男。裏路地。誰も助けてくれない。ナイフ。爆弾。拳銃。剃刀。学校。会社。家庭。居場所。疎外。孤独。憎しみ。死にたい。消えたい。殺したい。助けて。助けて。助けて。雨。暗転。

 ぼくの脳には彼らの声が流れ込む。『リンネ』のバックアップのおかげで飲み込まれることさえなかったけれど、その声は確実にぼくの精神にダメージを与えていた。だが今手を引き抜くわけにはいかない。もう少し。もう少しだ。ぼくの意識体の中に彼らの声がデータとして蓄積されつつあった。デバイスがそれを解析し、コードを組み立てる。声はまだ止まない。どうして助けてくれないの。死なせて。殺してやる。嫌い。来ないで。気持ち悪い。声は確実に大きくなってきていた。急げ。ぼくは意識場のありったけをデバイスに集中させた。やがてぼくの中に一握りの光が生まれた。それを認識すると同時に、ぼくは彼らの声を上書きするように『リンネ』に叫んだ。『リンネ』は頷くと、ぼくの体を力の限り引っ張った。ずるずると嫌な感触とともに、ぼくの手は、体は、赤黒い流れから離れていった。

「大丈夫」

「ああ」

肩で息をしながら頭を押さえる。ああ、またカスカに集中セラピーを頼まないとな。とにかく必要なものは揃った。ぼくは頭を押さえていた手を離し、胸の辺りで握り締めた。間を置かずにその指の間から緑の光が漏れだした。ゆっくりと手を開くと、ぼくの掌には緑の光の球体が乗っていた。

「それは」

『リンネ』が訊く。

「ワクチン、みたいなものだ。君の力を増幅する」

ぼくは振り向きざま、『リンネ』にそう告げた。ワクチンには病原体のデータが必要。医科学の基本だ。ぼくは彼らの声と『リンネ』の力をベースに、デバイスを使ってワクチンコードを組み上げた。光を抱く手を『リンネ』に向かって伸ばす。ゆっくりとぼくの手は彼女の鎖骨の間に触れた。意識体が暖かな体温を認識する。光の球体は『リンネ』の胸に吸い込まれるように入っていく。ぽうっという柔らかな光が『リンネ』を包み込んだ。ワクチンと例えたが、厳密にこれは彼らの声に直接作用するものではない。あくまで『リンネ』の力を増幅し、彼らの声からリンネの精神を守る手助けをするものだ。ぼくは『リンネ』の胸元から手を離した。『リンネ』はぼくの手が触れていた場所に手を置く。その仕草は、まるで何かに祈りを捧げているかのようにも見えた。しばらくののち、『リンネ』はゆっくりと手を離すと赤黒い流れに向き直った。その激流に手を掲げる。緑色の光が生まれ、赤黒い奔流を照らしだす。ゆっくりと、しかし確実にその流れが鈍くなっていく。ぼくがデバイスを使って制圧した時のように、そのスピードは見て取れるほどに遅くなった。やがて下から上へと流れていた赤黒は、下の世界の重力に引かれるように崩れていく。古代の神殿が崩壊していくような、ひとつの終局を思わせる荘厳さがそこにはあった。そうしてリンネの世界と彼らの世界を繋ぐへその緒は崩れ落ち、夕焼け空に浮かぶふたつの世界が残った。終わった、のだろうか。

「大した力ね。先生」

皮肉とも賞賛とも取れる言葉。

「君の力だ」

ともかく『リンネ』の力は、ぼくの投与したコードによって増幅された。これからは以前のように彼らの世界に侵食されることも少なくなるはずだ。リンネは自分の世界、この逆さの空を保ち続けることができる。

「先生」

『リンネ』がにっこりと微笑んだ。表のリンネと裏の『リンネ』。はじめはまったく別のものに思えたふたりの表情も、今ではひとつの感情として受け入れられた。あたしはわたし。わたしはあたし。

「あたしは、わたしは、先生を信じてよかった」

ふたつの声が重なったように思えたのは、気のせいか。それとも。

「わたしには先生がいる。先生がわたしをこの世界に繋いでくれる」

屋上でリンネは、自分は世界から切り離されていると語った。人間は他者に認識されないと存在を保てないと。ならばぼくはリンネを観測し、認識し続けよう。ぼくらの日常を守るために。リンネを守るために。『リンネ』の言葉を聞き届けると、ぼくは足元に手を置いた。見えない地面を手で掴む。来た時と同じようにぼくの手から生まれた光がサークルを形作った。夏の夜、蛍が飛び立つように、そこから光の粒が無数に浮かび上がる。光はまばゆさを増しながら、ぼくを包み込んでいく。光の向こうでこちらを見る『リンネ』の姿に、強烈な既視感を覚えた。

「わたしをよろしくね。先生」

光の最後のひと粒が天へ昇る最中、『リンネ』は一言、そう言った。












 共感を終えたぼくは、リンネとカスカを伴って診察室へと向かった。なるべく誰にも聞かれない場所で話をしたかった。診察に着くと、ぼくは順を追って話し始めた。リンネはやはりMETROの補助なしに共感を起こしていたこと。そして共感している相手が集合的無意識であること。そしてリンネの中にいる『リンネ』のこと。カスカは驚愕のあまり言葉を失っていた。無理もない。これは人類にとって未知の現象なのだから。リンネはといえば、妙に落ち着いた様子でぼくの話を聴いていた。自分の見ていた夢のことも、そして現実に現れた彼らのことも、すべて説明がついたという風だった。話が『リンネ』のことに及ぶと、リンネははじめて口を開いた。

「夢の最後でわたしを助けてくれたのは」

「おそらくそうだろう。君の中にいた『君』だ」

リンネはきっとどこかで『リンネ』の存在を感じていたに違いない。驚くわけでもなく、まっすぐにぼくの話を聞く姿がそう感じさせる。『リンネ』はそもそもリンネの一部なのだ。

「それで、その抗体には」

押し黙っていたカスカが切り出す。ぼくは『リンネ』に施した術式について説明した。怨嗟の声を病原と捉え、それを利用したワクチンコードの作成。抗体である『リンネ』の力を増幅するための術式。カスカは相変わらず信じがたいものを目の当たりにしたという顔をしているが、ぼくの説明には納得したように見えた。三人の間をしばしの沈黙が支配する。診察室の僕の机、その上に置かれた年代物のアナログ時計が時を刻む。その秒針の音だけが静かな部屋に響いていた。時間が一滴ずつ滴る。ぼくらは各々自分の考えを整理していた。ぼくらが得た情報は、ぼくらが体験したことは、医療共感だけでなく脳科学の歴史そのものを塗り替えるものだ。現実はあまりにも突飛で、しかし紛れも無い現実だった。それを必死で受け入れようとする。ぼくらの間にあったのは、そのための沈黙だった。しかし、目先のことを考えれば状況は間違いなく好転するはずだという確信があった。『リンネ』の力を増幅したことで、リンネが受けていた集合的無意識からのフィードバックは確実に軽減される。身体症状も改善に向かうはずだ。リンネは原因不明の特殊症例を克服し、ぼくが約束したとおりに外へ出ることができる。普通の女の子と同じように生活ができる。それは明るい未来予想だった。理想的な世界だった。だが、そこには手放しで喜べない理由があった。

「チームへ報告するのか」

カスカがぼくの不安を見事に言い当てた。その通り。ぼくが知り得たことは、間違いなく人類にとって大きな発見だ。それは共感技術を進化させるだけでなく、人類のあり方そのものを変革しうる可能性を持っていた。けれど、それを知った研究者たちはどうする。考えるまでもない。リンネは最重要検体として研究対象になり、専門のラボに送られるだろう。そしてそこで日の目を見るかもわからない生活を強いられるだろう。科学の発展には犠牲が付き物。くそったれが。

「報告はしない。病状が好転すればその必要もないだろう」

ぼくとカスカの間には言外の意図が飛び交っていた。チームには知らせない。リンネを彼らに渡すわけにはいかない。ぼくは医師だ。患者を無事外へ送り出さなければならない。そしてぼくはぼくだ。リンネとの約束を守らなければならない。ぼくの言外の意志はカスカに伝わったようだった。カスカはゆっくりと、しかし力強く頷いた。俺もそれがいいと思う。カスカのその言葉を聞いて、ぼくはようやく肩の荷が下りた気がした。ぼくはリンネの目を見て言った。

「もう少しだ。一緒に頑張ろう」

リンネの大きな目は、泉のように涙を湛えていた。それはきっと悲しみの涙ではない。ぼくはそう思いたかった。リンネが何度も頷くと、溜まった涙がぽろりと床に落ちた。











 カスカはシステムの点検があるといって施術室へ戻っていった。残されたぼくとリンネは、病室に向かって歩いている。クリーム色の廊下を歩きながら、ぼくは今後の治療計画について思案していた。『リンネ』が力を増したことで、彼らの声が意識に上ることは減るだろう。それは『リンネ』の頑張りに掛かっているが、彼女なら必ずやり遂げてくれるという確信があった。なぜなら『リンネ』はリンネだから。どんな状況でも希望を見出すことのできる、ぼくの知る限りもっとも強い心を持った存在。橙夜から受け取った鎮静剤も、もう出番がないと願いたい。担当医としてリンネの寛解を認定し、リンネは晴れて自由の身となる。それは時間の問題に思えた。ぼくは歩きながら隣のリンネをちらりと見る。頭ひとつ分下のリンネは、栗色の髪を柔らかく揺らしながら歩いている。どこか晴れ晴れとした表情。憑き物が落ちたような、そんな雰囲気を感じさせた。やがてぼくらの前に例の隔壁が現れた。ぼくはそのロックを解除し、リンネを先に入らせる。続く病室のドアを開けると、ぼくらの入室を感知したシステムが照明を点けた。もう夜になっていた。リンネはそのまま奥へと進み、ベッドに腰掛ける。ぼくは向かい合うように置かれた椅子に座った。

「先生」

リンネが呼ぶ。リンネはいつものように柔らかく微笑みながらぼくを見ていた。

「ありがとうございます」

ぼくの目をまっすぐに見て言う。

「助けてくれて、ありがとうございます」

リンネの目に涙はなかった。穏やかに笑いながら、リンネはぼくに感謝を伝える。ぼくはそれを素直に受け取ることにした。やらなければならないこと、気にかかることはまだあるけれど、確かにぼくらは先に進んでいた。大丈夫、一歩ずつ進んでいるんだ。いつかリンネに言った言葉を思い出した。それが嘘にならなくて、本当に良かったと思った。そんな内心の安堵も込めながら、ぼくも笑顔で応じる。ぼくらの間を穏やかな静寂が包み込んだ。しばらくの後、病室のシステムの通知音がそれを破る。入室許可を求めるメッセージだ。声紋認証で入室を許可すると、看護師が小さな箱を持って入ってきた。看護師は橙夜から渡すように言われたものだと言い、ぼくにその箱を手渡すと、軽く会釈をして部屋を後にした。箱を開けると、緩衝材に埋もれるようにして白い三角形のパネルが入っている。意識場トラッキング用端末。夜には用意できると橙夜が言っていたのを思い出した。それを手に取り、眺める。裏にはクリップのようになった部分がある。こめかみに装着。つまり髪に留めるということか。

 ぼくはリンネに説明を始めた。研究チームと話し合った結果、この装置を付ける代わりに自由な外出が許可されたと。ただしぼくが一緒にいるという条件のもと。リンネは静かに聞いていた。その表情は真剣ではあったけれど、どこか嬉しそうな綻びを見せていた。ぼくは話し終えると、リンネに顔を近づけるように言った。トラッキング端末を手に、リンネの髪に指を通す。驚くほど細く、なめらかな感触がぼくの指に伝わる。ぼくは端末の裏に付いていたクリップをつまみ、リンネの髪をそれで挟んだ。手を離し、顔を見る。リンネは嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。そんなに喜ぶようなことか。ぼくがそう言うと、リンネは少し不満そうに言った。

「やっぱり先生、なにもわかってません」

リンネはそう言いながらも、まるでプレゼントを貰った子どものようにはしゃいでいた。ああ、そうか。それに思い至ったとき、ぼくは柄にもなく照れくささを覚えた。皮肉だな。同時にそんな風にも考えてしまった。これがトラッキング用端末なんかじゃなく、本当の髪飾りだったら、君はもっと喜んでくれただろうか。本気でそんなことを考えている自分に少し呆れながらも、それが自分の中にある想いだということは、はっきりと自覚していた。今度はちゃんとしたものをあげるか。はしゃぐリンネを見ながら、ぼくはそんなことを考えていた。







第一部:日々の泡 完


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ