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ワールド・エンド・サマー  作者: amada
第一部:日々の泡
7/16

6.逆さの空




人間は、儚く脆い。

他者との関わりの中でしか、人はヒトの形を保てない。

そんな世界に絶望もした。怒りもした。

けれどひとつの希望を見出した。

たったひとりでも存在を認識してくれる人がいるのなら。

きっと。












 この病院の広さをこんなに恨んだことはない。カフェテリアを抜け、正面玄関のホールを抜け、病棟を駆け抜ける。飛び乗ったエレベーターのボタンを連打しながら舌打ちをした。急げ。その焦りをさらに加速させるかのように、ARの通信が入ってきた。相手は橙夜だ。

『御門リンネの病室で意識場の異常活性が観測されました。対処をお願いします』

目的のフロアに着いた。了解、と短く呟くと、開きかけのドアに体がぶつかったのも構わず、ぼくは閉鎖病棟への廊下をふたたび走り始める。まもなく見えてきた隔壁のロックを解除すると、ようやくリンネの病室のドアが現れた。息を整える時間すら惜しいぼくは、そのまま病室に飛び込んだ。

 そこでぼくを待っていたのは、数人の看護師とカスカに抑えられながら暴れ、叫ぶリンネの姿だった。ベッドのサイドテーブルに積まれていた本が床に散乱している。こんな状態のリンネを見るのは初めてだったが、その衝撃よりも先に医師としての本能がぼくの体を動かした。

「藍咲、あれを」

リンネの声に埋もれまいと、カスカが叫ぶ。ぼくはポケットに手を入れて、さっき橙夜から受け取った注射器のケースを取り出した。意識場の異常活性とリンネの錯乱。現在のこの状況を鎮める手段はこれしかない。ぼくは透明なケースの蓋を開き、鎮座している5本の注射器のうちから1本を手に取った。インスリン投与に使われるものと似たタイプのそれを握りしめ、ぼくはリンネのベッドに近づく。リンネはまるで意味を成さない叫びを上げ、止めどなく涙を流しながら体を捻っている。看護師とカスカたちは四肢をなんとか押さえつけている。ふと陸に引きずりあげられた人魚が、苦しみにのたうち回っているような幻想に囚われた。ぼくは妄想を振りほどき、カスカが髪をかき上げて露わになったリンネの首筋に注射器を突き立てる。グリップの端のボタンを押し、その中身をリンネの体内に注入した。鎮静剤は首の血管から全身へ、そして脳へと速やかに運ばれる。ほどなくしてリンネの声はゆっくりとトーンを落とし、全身の痙攣にも似た運動が緩やかになるのが見て取れた。最後の抵抗とばかりにびくっと一度大きく痙攣すると、リンネは静かに目を閉じた。その体を押さえつけていた看護師達も役目を終え、各々手を離す。ぼくはリンネの顔をこちらへ向けると、柔らかく閉じられたそのまぶたを引き上げる。ポケットのペンライトでリンネの瞳を照らすと、瞳孔が収縮する反応を示した。次に首筋に二本の指を当て、脈を確認する。やや速いが誤差の範囲内だ。ぼくはふうっと息を付くと、看護師たちの方に向き直った。

「ありがとう。あとはぼくたちが引き受ける」

看護師たちは頷いて応じると、病室から出て行った。


 「俺が駆けつけた時にはすでにこの状態だった。シーツを換えに来た看護師の話によれば、始めは何かに怯えるようなことを言っていたらしい。そこからはお前が見たとおりのパニックだ」

カスカは額の汗を拭いながら状況を説明してくれた。

「アラートを受け取った後で橙夜から連絡があったよ。意識場の異常活性が観測されたと」

ぼくも自分の持つ情報を明かす。ぼくらはリンネのベッドの隣に椅子をふたつ並べ、そこで情報を交換していた。薬の作用でリンネは眠っている。メッセージのやり取りで橙夜に確認したところ、1,2時間ほどで目を覚ますとのことだった。先程までの叫喚がまるで嘘のように病室は静まり返っている。そこにあるのは差し込む夕日に引き伸ばされる僕らの影。AR端末の着信音がその静寂を破った。現れたウィンドウには橙夜から送られてきた病室の観測データが映しだされている。看護師の報告にあった、リンネに異変が起きた時刻。そして部屋のコーティングが検知した意識場の異常活性。予想通りではあったが、やはりそのふたつは完全に重なっていた。リンネの意識場に何らかの異常が起き、それがリンネの精神に影響を与えパニックに陥った。明快この上ない筋書きだった。

「鎮静剤がさっそく役に立つとはな」

まったくその通りだ。タイミングが良すぎて不自然さすら感じられる。

「今は感謝しよう」

ぼくはそう言うと、ベッド横に散乱した本を手に取る。

 リンネの好きな逆月ミカゲの著書。ドイツ人作家の古典文学。医療共感の図説。若くしてこの世を去ったSF小説家の著書。ぼくがリンネに頼まれて図書館から借りてきた本の数々。リンネの心を構成するパズルのピースたち。東南アジアの料理をまとめたレシピ本。前世紀の女流作家の詩集。手芸の入門書。まるでアルバムをめくりながら思い出に浸っているような錯覚に陥る。一冊ずつサイドテーブルに積み上げる。それはきっと、壊れてしまった積み木の家を必死に組み立て直す子どものような姿だったかもしれない。ぼくはどこか祈りにも似た気持ちを抱きながら、リンネの読んだ本たちをもとの場所に戻していった。ふと、床を見る。まだ一冊本が残っていた。茶色い革の表紙だ。拾い上げてみる。しっとりとした革の質感が手に馴染む。よく使い込まれているような感触だ。これは、手帳なのか。ARのウィンドウと格闘するカスカを尻目に、ぼくは付箋の付けられたページを開いてみた。これは手帳じゃない。リンネの日記だ。


 付箋の付いていたページの日付。それはリンネがこの病院に転院してきた日のものだった。

『今日、また新しい病院に来た。担当のお医者さんは藍咲先生というらしい。すらっと細くて、くしゃっとした髪の若い先生だ。自分でも単純だとは思うけど、これまではずっとおじさんの先生だったから、なんとなくうれしい。共感医にもこんなかっこいい人がいるんだ』

『でも期待はしない。自分がたらい回しにされてるってことは、わたしにだってわかってる。誰もわたしの心を視ることはできなかった。だから、期待はしない。がっかりするのはもうたくさんだから』

ぼくは無言でページをめくる。

『またあの日のことを思い出した。おとうさんとおかあさん。わたしはだめな子だった。助けられなかった。だからいま辛いのは、きっと罰なんだろう。おとうさんとおかあさんを助けられなかったこと、わたしだけが生き残ったことに対する罰なんだ』

 隣にいるカスカが立ち上がる気配がした。研究棟に行ってくる。カスカはそう言うとぼくの肩をぽんぽんと二度叩き、病室を後にした。もしかしたらそれは、カスカなりの気遣いだったのかもしれない。残されたぼくは眠るリンネを前に、日記の続きを読む。

『今日はとてもうれしい一日だった。藍咲先生が外に連れて行ってくれた。病院の中庭までだったけれど、ずっと部屋に居させられていた今までに比べれば、とても自由だった。先生がここから出たら何がしたいって聞いたから、わたしは普通の女の子がするようなことをしたいと答えた。でも心のどこかでは諦めていたかもしれない。どうせ無理。そんな風に思っていた。でも先生は必ず外に連れて行ってくれると約束してくれた。必ず治すと言ってくれた。そんなこと、言われたのは初めてで、わたしは我慢できなくて。あとから思い返してみると、泣いちゃったのはすこし恥ずかしい』

あの日の昼下がり、中庭での会話。リンネの心に触れた感触は、ぼくの独りよがりではなかった。日記はさらに続く。

『今日、共感しているとき、わたしは不思議なものをみた。あの日、おとうさんとおかあさんが倒れているところに藍咲先生が来てくれて、わたしを助けてくれた。それはきっと夢だったのかもしれない。共感しているときは夢を見ている時に似た状態になると先生が言っていた。夢の中で、わたしはこどもで、先生はわたしを優しく抱きしめてくれた。大丈夫だって、もう独りじゃないって、そう言ってくれた。わたしは、もしかしたら、生きていてもいいのかな』

リンネに認知矯正術式を施した日のものだ。ところどころインクが滲んでいる。けれどそこから感じるのは悲しみではない。安堵。安寧。そんな想いが伝わってくるような気がした。さらにページをめくる。もしリンネの今の状態を知る手がかりがあるとすれば、ここから先の内容だ。

『またあの夢をみた。だれかが死んでいた。たくさんの人に囲まれていた。みんな幽霊みたいにぼうっとしていた。みんな口を閉じてるのに、ざわざわと声が聞こえてくる。聞きたくない言葉がたくさん聞こえてくる。耳を塞いでも、目をつぶってもだめだった。もう頭がおかしくなりそうで、限界だと思ったとき、誰かがわたしの手を引っ張ってそこから助けてくれた。そこで目が覚めた』

大半はリンネから聞いていた通りの内容。そして最後にリンネを夢から助け出した『誰か』。その正体にぼくは心当たりが、いや確信があった。とにかくそれは後回しだ。続きを読む。

『先生にお願いしたら屋上に連れて行ってくれた。思ったとおり、とてもきれいに街が見えた。わたしの知らない街。わたしを除いたその他大勢でつくられる街。わたしは先生にわたしの思ってきたことを話した。先生は黙って聞いてくれた』

数行の空白の後、その日の日記はこう締めくくられていた。

『先生を悲しませたくない。先生と一緒にいたい』

ぼくの肩が震えていたのを、誰かに見られてはいないだろうか。










 一時間と少しして、リンネは目を覚ました。

「大丈夫か」

リンネはぱちぱちをと瞬きをしながら、辺りを見回す。長いまつげが何度も揺れた。

「わたしは」

「少しパニックを起こしていた。落ち着く薬で眠ってたんだ」

それを聞いたリンネはパニックを起こしていた時のことを思い出したらしく、急に何かに怯え始めた。シーツを握りしめ、そわそわと辺りを見回している。

「わたし、わたし」

今にも泣き出しパニックを起こしそうなリンネ。ぼくは落ち着けようと彼女の手を両手で包むように握った。

「大丈夫だ。大丈夫」

ゆっくりとそう繰り返す。荒い呼吸を続けるリンネは空いている方の手でぼくの腕を掴み、抱きつくように身を預けてきた。柔らかい体温と甘い香りが脳に伝わる。ぼくはリンネの背中に手を回し、眠れない子どもにそうするように優しく叩いた。リンネは肩で息をしながらも、徐々に落ち着きを取り戻し、ついにその荒い呼吸も収まった。けれどリンネはまだぎゅっとぼくの体を掴んで離さず、ぼくもそれを振りほどくわけにもいかず、ぼくらはしばらくそのままでいた。夕日はさっきよりもさらに濃く、部屋に光を投げ込んでいる。世界にはふたりの心音だけが響いているようだった。

「せんせい」

「ん」

リンネの背に手を当てながら、ぼくはその言葉の続きを待つ。リンネはゆっくりと体を起こすと、目に溜まった涙をごしごしと袖で拭った。その動作が妙に子どもっぽくて、ぼくの胸をざわざわと揺らした。これはずっとぼくの片隅にあった感情。それに何と名前を付けたらいいのだろうか。いや、名前は初めから付いている。それはまるで古い本に挟み込んだメモを思い出すかのように、子どもの頃に訪れた場所に立ったときのように、ぼくの頭に浮かんできた。ぼくはきっと。その先に思考が及ぶのよりも、リンネの言葉が速かった。

「わたし、見たんです」

体は離し、しかし手は握ったまま、リンネは言葉を紡ぐ。

「あの夢、いつも見るあの夢と同じ風景が、今度は目の前に現れて、起きてるのに、突然」

「夢。大勢に囲まれているっていう夢か」

リンネから訊いた夢の内容。日記に書いてあった夢の内容。ああ、日記を勝手に読んでしまったことは何と言ったらいいのだろうか。どうでもいいことを急に考えてしまった。

「はい。でも今度は夢じゃなくて、この部屋の中にそのひとたちが現れて」

これまでリンネになかった症状だ。幻覚。精神治療の基本に立ち返ればそう結論付けられるだろう。だがリンネには既存の法則が当てはまらない何かがある。この出来事が意識場の異常活性が観測されたことと無関係であるはずがない。それは主観ではない。もはや厳然たる事実としてそこにあった。幻覚が起こるときは意識場が乱れる。積み重ねられた症例と法則はそう断定する。だがその逆はどうか。意識場の異常が先行して幻覚を引き起こす。もうこの期に及んでは『ありえない』などと片付けることは出来ない。それは現に『あった』のだ。

「今はどうだ。まだ見えるか」

リンネのパニックを再発させないように、なるべく穏やかな声で訊く。

「いえ、だいじょうぶです。今は何も見えません」

今までリンネの『だいじょうぶ』は往々にして強がりだったのだけれど、今回に限っては真意のようだった。安堵の表情がそれを裏付けている。ひとまず窮地は脱したということか。

「そうか。もし平気なら、もう少し詳しく訊いてもいいか」

リンネは少し俯いて話し始めた。


 「はじめは声が聞こえたんです。なんて言っているかまではわからないような、ざわざわした囁き声で。雑踏の中いる、みたいな感じなのかな。とにかく、たくさんの人の声が聞こえてきました」

それはリンネのいつもの夢と同じ内容。幻聴、なのだろうか。

「声はだんだん大きくなって、そこではじめて何を言っているかがわかりました」

リンネは息を大きく吸い込むと、ぼくの手を強く握った。

「『おいで』って、言ってたんです」

ぞくり、と背筋に冷たいものが走るのを感じた。夢のなかでの『彼ら』はリンネに対してではなく、ただ曖昧に言葉を呟いていただけだった。その『彼ら』が、明確にリンネに向かって意思表示をしたのだ。おいで。まるでリンネを彼岸へと引きずり込もうとする亡霊のように。リンネは言った。その言葉を認識した瞬間、目の前に『彼ら』の姿が現れた。それは部屋をぎっしりと埋め尽くすようだったのだと。おいで。おいで。おいで。手招きをする『彼ら』は徐々にリンネに迫ってくる。そこで初めて彼らの顔をしっかりと見た。見てしまった。真っ黒に塗りつぶされた目と半開きの口。どこからどう見ても人間とは思えないその形相。呼吸がうまくできなくなり、恐怖が頭を支配した。それからは何も覚えていないと。

「起きたら先生の顔があって、安心しました」

心の底から安心したというふうに、リンネは弱々しく笑ってみせた。ぼろぼろに傷つき疲れ果てた兵士が、ようやく家に待つ家族の顔を見ることができたような、そんな顔だった。その儚さに突き動かされるように、ぼくはリンネを強く抱き締めた。リンネは少し驚いたようだったが、拒絶することなく自分の手をぼくの背に回してきた。

「遅くなってすまなかった」

誰よりも先にリンネの異常を察知しなければならなかったぼくの懺悔。リンネはぼくの言葉を聞くと、ふふっと笑って言った。

「でもちゃんと来てくれました」

それは赦しの言葉に聞こえた。ぼくの中にあった罪悪は、いとも簡単に雪がれてしまったのだ。リンネは弱くて、けれど誰よりも強い心の光を持っていた。ぼくはその光を浴びる中で、逆にリンネからたくさんのことを学んできたのかもしれない。ぼくははっきりと自覚した。リンネに必要とされたいという願いの存在を。ぼくは医者だから、患者であるリンネを救いたいんじゃない。ぼくがぼくで、リンネがリンネだから助けたいんだ。ならば、ぼくのすべきことは決まっている。ぼくはゆっくりとリンネから体を離した。リンネのどこか寂しそうな表情に向かって微笑んでみせると、ARのウィンドウを呼び出した。

「カスカ、病室に来てくれ。話がある」











 「意識場の異常な活性化、ですか。それがわたしの病気と関係あるんですね」

リンネとカスカ、それにぼくは顔を突き合わせながら話をしている。

「ああ、さっきの出来事もそれが原因らしい。寝ている時にも同じ現象が起こっていることから、君の見る夢も無関係ではないはずだ」

カスカが言う。そう言えばリンネとカスカが話をしている場面は、これまであまりなかったように思う。カスカはいくつかのグラフを見せながら、リンネが理解できるように可能な限り噛み砕いて説明する。カスカとリンネの間でいくつかの言葉が交わされ、リンネは自分の状態を正しく認識したできたようだった。カスカがウィンドウを閉じるのを見計らって、ぼくはふたりに、いや主にカスカに提案をした。

「今から共感して調べたい」

カスカが目を見開く。確かに意識場の安定性数値は回復してきたものの鎮静剤を使用したこともあり、共感が推奨されるような状況でないことはわかる。けれど異常活性が起きた直後である今、共感によってこれまで隠されていた何らかの事実が明らかになるという確信にも似た思いがぼくにはあった。カスカは腕組みをして考え込んでいる。リンネはぼくらの顔を交互に見ながら、どうしたらいいかわからないという様子だ。沈黙が三人を包み込むなか、カスカがおもむろにARウィンドウを呼び出した。発信先、橙夜アケル首席研究員。

『淵守先生、どうしましたか』

「例の鎮静剤の効果だが、どのくらいの時間で影響が消えますか」

ああ、使ったんですね。橙夜の声は明るかった。目の前にいたら殴ってやりたいところだ。

『急性症状が鎮静されたのち、すみやかに分解、代謝されるように調整されています。さきほどの異常活性時に投与したのであれば、現在はほぼ影響は無いかと』

それを聞いたカスカは橙夜に礼を述べると、通信を終了した。カスカはまた腕を組み、考え始めた。沈黙が再び帳のように下りる。リンネは何か言いたげだった。たぶん、自分は大丈夫だからやってくれとでも言いたいのだろう。けれど専門家であるぼくらの間に素人が意見を挟むべきかどうか、思案しているような様子だった。

「ふたりとも聞いてくれ」

沈黙を破ったのはカスカだった。

「俺は藍咲の提案は正しいと思う。語弊があるかもしれないが、これはチャンスだ。俺たちは糸口を掴もうとしている。俺はそう感じる。ただ同時にこれは危険な賭けだ。意識場が完全に安定しているわけではない現状での共感はリスクが大きい」

一旦言葉を切ったカスカは、ぼくとリンネを交互に見つめた。

「だが乗ってみる価値はある」

その言葉ですべてが決まった。リンネは小さく、それでいてしっかりと頷いてみせた。ぼくも頷いてカスカに応じる。ぼくらに与えられたチャンス。これをふいにするわけにはいかないのだ。ぼくは立ち上がると、作戦の開始を告げた。

「行くぞ」

リンネとカスカが頷く。


 ぼくらは横一列に歩きながら処置室を目指す。古い映画にこんなシーンがあったのを、ふと思い出した。地球に激突しそうな隕石。世界を守るためにロケットでそこに向かう男たちの姿。それに重なるぼくらの姿。リンネの世界を守るために先を進むぼくら。あの映画とひとつ違うのは、全員が必ず無事に還ってくることだ。あえて断定したが、それは第一前提なのだ。誰も欠けることなく、当たり前の日常を取り戻す。そのためにぼくは、ぼくらは戦う。誰かの犠牲の上に成り立つ生は要らない。不完全でも皆がいる世界を望んでいる。世界から疎外されていたぼくを救ってくれたのはカスカ。ならば今度は世界から切り離されていたリンネをぼくが救う。カスカがそうしてくれたように。リンネが強く願ったように。

 処置室に着いたぼくらは、最終的な手順を確認する。これまでの共感治療と同様、深化初期段階では意識場同調システムを使用する。共感状態に入ったことが確認できたら、すみやかにデバイスを起動。意識体を保護しながら深層意識階層へダイブする。鎮静剤はまたいつでも投与できるように機器にセット。非常時には強制サルベージで脱出。それらを確認すると、ぼくとリンネは分厚い扉を開き、施術室へと歩みを進める。カスカが管制室でシステムの起動準備を始めるのを見ながら、ぼくらは意識場同調システムに身を預ける。

『デバイスと意識場同調システムをリンクさせた。いつでも大丈夫だ』

管制室からのカスカの声が聞こえる。ぼくは親指を立ててそれに応えると、隣にいるリンネに声を掛けた。

「リンネ」

「なんですか」

ヘッドパーツに遮られてその顔は見えない。けれどぼくの脳裏には不思議そうな表情のリンネがありありと浮かんだ。

「今度行きたい場所、考えておけよ」

リンネが体を動かす衣擦れの音を聞いた。頷いたのか、首を振ったのか。前者であって欲しいというのは、ぼくの勝手な願いかもしれない。

「はじめよう」

カスカがシステムを起動した。視界が引っ張られるように歪み、そして途切れた。


 ホワイトルーム。はじまりの部屋。向かい側にはリンネの姿がある。第一段階はクリア。問題はこの先。目を閉じて意識を集中する。少ない情報から得られた仮説は、デバイスがぼくの特定の意志や感情に呼応して起動するというものだ。さっきカスカはデバイスとシステムをリンクさせたと言っていたが、あれはあくまでサルベージ用の手順であって、デバイスを外部操作するものではない。すでにぼくの脳と一体になっているデバイスは、ぼくの脳の活動にのみ依存する。意識を集中し、自分に暗示を掛ける。前提条件。真相の究明。手段。意識場最大出力による深層意識探査。目的。リンネの救済と生還。目を閉じたまま、右手を胸に当てる。まぶたの向こうからでも見えるくらいに明るい緑の光が生まれた。認知変容コードを自己投与。ぼくは死なない。必ず生き延びる。リンネとカスカの許へ、生きて帰る。意識場を媒介として、ぼくの脳にその絶対命令が刻まれた。デバイスが起動するのを感じる。

 目を開いたぼくは、向かい合うリンネに頷いてみせると、ホワイトルームの地面に手をついた。ぼくの手から緑の光が這うように進み、電子基板のような、あるいは魔法陣のような模様を描く。これはショートカットよりもさらに上位の転移術式。デバイスを持つぼくにしか扱えないルール違反の裏技。ホワイトルームから直接リンネの心象世界に飛び込むためのものだ。緑のサークルは刻々と輝きを増し、その外側に立つリンネの姿が徐々に塗りつぶされていく。その光の向こう側から、リンネはぼくの目をしっかりと見据えていた。そこには言葉のない会話があった。心配するな、リンネ。ぼくは必ず帰ってくる。君との約束を果たす前に死ぬようなことはない。ぼくは必ず君を助ける。ぼくは必ず生きて君と一緒に外に行く。リンネの目はこれまでに見たことのないような強い輝きに満ちていた。信じてます。そんな言葉を聞いた気がした。やがて光の奔流が上へと昇り、それと共にぼくはリンネの心象世界へ転移を開始した。









 光が引き潮のように去っていくなか、ぼくはその景色を見た。街が上、空が下の夕焼けの世界。いや、違う。ふたつの星が向かい合うかのように、夕焼け空を挟んで街同士が向かい合っている。そのふたつの地面をあの赤黒い流れがへその緒のごとく結んでいる。上には橙に染まる街。下には赤錆びて生物的に蠢く街。ちょうどあのグロテスクな風景と逆さの空の世界を足した情景が目の前に広がっていた。ぼくはその挾間の空に浮かんでいる。赤黒い流れは下から上へと流れていた。ふと下の赤錆びた街を見下ろすと、無数の点が浮かび上がった。目を凝らしたぼくは思わず戦慄した。それはすべて人の頭だったのだ。得体の知れない世界から、皆が皆リンネの心象を見上げている。大勢が何かを囁くようなざわざわとした音が聞こえた。意識場を操作し、聴覚にすべての感覚を傾ける。

『オイデ』

『チョウダイ』

『コロシテ』

『シンデ』

『タスケテ』

無機質な亡霊たちの声が聞こえた。デバイスを起動していない状態ならば、きっとその声に意識を取り込まれてしまっていただろう。リンネが夢の中で、そして病室で聞いたのは間違いなくこれだ。意識場の異常活性。それと共に観測された共感近似現象。改善しない身体症状。夢。ぼくの中で急速に仮説が組み上がっていく。グロテスクな風景。『もうひとりのリンネ』。そして『彼女』が言ったこと。すべてが繋がり始めていた。リンネが共感していたのはおそらく、今ぼくの下に広がる亡者のような人々だ。

 そしてついにその正体に考えが及ぶ。いやしかし、待て。そんなことがあり得るのか。METROシステムの補助なしに共感をする。それ自体が人類にとって規格外の出来事だ。その上もしもぼくの考えが正しいのなら、橙夜の言葉通り、リンネは人類が次のステージへ進化するまさにその萌芽だと言える。相反する気持ちがぼくの中に生まれる。自分の仮説を信じる気持ちと、そのあまりの内容を本能的に否定したい気持ちと。目の前で向かい合うふたつの世界のように、ぼくの心中はふたつに分かたれていた。けれど。ぼくは考える。真実を知ることがリンネを救うことに繋がると信じている。だからぼくはすべてを知ることに決めた。おそらくすべてを知っているものがいる。ぼくは意識体の持てるすべての力を振り絞って、その名を叫んだ。


 「そんなに叫ばなくたって、聞こえてますよ」

夕焼けの世界に声が響く。斜陽のオレンジのなか、滲みだすように黒い姿が浮かび上がった。すべてを知るものは、ひらりと黒いワンピースの裾を翻しながら、ぼくの目の前に顕れた。『リンネ』はあの心底楽しそうな表情を浮かべながら、ぼくのそばへ滑るように近づいてきた。

「久し振りですね、藍咲先生」

くすくすと笑う。

「あたしを消しにきたってわけじゃないですね」

「ああ、ぼくは『君たち』を助けに来た」

赤黒い流れをバックに『リンネ』は、ぼくの目を見据えて言った。

「知りたい、ってことですよね。あたしのこと。この世界のこと」

「大方の予想はついた。だが正しいと断定する決定的な根拠がない。それを『君』に確かめたい」

それは今までのようにヒントを貰うような姿勢ではなく、対等な相手から話を聞き出すための毅然とした態度だった。『リンネ』もそれを察したらしく、今までのようにからかう様子はなかった。現実世界のリンネがそうするように、ただ柔らかい表情を浮かべてぼくの話を聞いていた。

「わたしは先生のことが大好き。ずっと一緒にいたいと思ってる。初めてあたしたちの世界に来てくれたひと。だからわたしの望みはあたしの望み」

これまでの退廃的なそれではない、限りなく純粋な笑みを浮かべて、言った。


「だからあたしも先生を信じる。すべてを教えてあげる」







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