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ワールド・エンド・サマー  作者: amada
第一部:日々の泡
6/16

5.此岸の淵





命題:Code-90325316


肉体が在ったから精神が存在するのか。

それとも精神の触覚として肉体が生まれたのか。

我々はもう間もなく、その答えに辿り着くだろう。


――A.D.2076 SystemUnit-Ωによる探索演算結果定時レポートより抜粋











 ARのリマインダが定刻を知らせる。待ちに待ったという表現には多分に語弊があるが、ぼくやカスカの知り得ない情報を得られるという意味では非常に有意義な時間になるはずだ、という皮肉な物言いをしてみる。チームの報告検討会は研究棟の会議室で行われることになっていた。今日が休診日なのがせめてもの救い。会議をやるなら休診日にしろ、というぼくとカスカの要求が受け入れられたのは幸いだった。相変わらず研究チームとぼくら現場の間には溝がある。だがぼくらとてプロであり大人なわけで、チームが機能不全を起こすような不和は生まれていなかった。ただなんとなく互いを牽制しあうような空気だけがそこにはあった。

 会議室に向かう道すがら、同じ場所を目指すカスカの後ろ姿を見とめた。よう、と声を掛けると、カスカも同じように、よう、と応じた。

「御門リンネの様子はどうだ」

「認知の獲得は完了している。ただ身体症状が収まる様子がないのが気がかりだが」

そうか、とカスカ。これはぼくの医師としての直感だが、リンネには何か別の問題がある。両親の事件のトラウマによって覆い隠されていたそれが、今表出しているのではないか。トラウマを取り除いたにもかかわらず寛解しない身体症状。逆説的に、まだ何らかの問題が深層意識に眠っていると考えられる。思いつくのはやはりあのグロテスクな風景と『もうひとりのリンネ』の存在。あれらはおそらく両親の件とは別の何かだ。ここ数日でそんな考えが徐々に大きくなってきた。

「どちらにせよ、今日の報告会で俺たちの知らない情報が出てくることは間違いない。研究チームの連中、確実に何か隠している気がする」

その疑念はぼくらの共通認識だった。


 廊下の先にエレベーターが現れた。ぼくらは無言でそれに乗り込み、カスカが会議室のあるフロアのボタンを押す。機械の駆動する音をBGMに、ぼくらはエレベーターの壁にもたれていた。どこか敵地に赴く兵士のような想いが頭を支配している。おかしな話だ。ここはぼくの働く病院の中で、これから会うのは共に仕事をしている人間だというのに。いつもはあっという間に感じるエレベーターの速度が、今日はやけに遅く感じる。焦れったい気持ちと、着かなければいいのにという相反する葛藤が胸の内に生まれた。左隣のカスカを見る。いや身長的に見上げるといったほうが正しいか。とにかくカスカの表情を伺った。もともと表情が豊かなほうではないが、今日はいつにも増して仏頂面に思える。その無表情がやけに印象深くて、ぼくは余計に不安を煽られるのだった。エレベーターの階数表示がめまぐるしく変わっていく。数字は増えているのにカウントダウンのように思えてしまうのは、ぼくがビビっている証拠なのかもしれない。そんな内心もお構いなしに、機械は目的の階層に付いたことを告げると、音もなくドアを開いてぼくらを送り出した。教授の部屋よりは低い、しかしぼくやカスカのいるよりも上の階層。ここは主にミーティングやレセプションの場として利用されているフロアだ。病棟のクリーム色とは対照的にグレーを基調としたカラーリングのフロアは、大きな窓から見える青空があってもなお陰気な印象をぼくらに与える。ぼくらは相変わらず無言で廊下を進み続ける。ARのビープ音が目的の部屋に着いたことを教えてくれた。IDを掲示して入出許可を求める前に、ぼくとカスカは自然に顔を見合わせた。無言の会話が交わされる。行くぞ、カスカ。ぼくがIDを掲示すると、すみやかに入り口のドアが開いた。












 「初回共感時、『深層意識干渉制御デバイス』を使用し、対象の無意識領域からコア記憶の抽出とショートカット設置に成功。続く第二回目の共感では、コア記憶領域内において認知矯正コードを深層意識に注入。経過観察の結果、当該術式は成功したものと判断します」

報告は正確かつ簡潔に。淡々とありのままを語る。リンネとの共感治療では多くの事が起こった。だが言葉にしてみればたったこれだけの分量しかない。求められるのは事実であって、行間ではないのだ。

「しかし対象の身体症状には改善が見られない。これをどう考えますか」

研究チームのひとりが鋭く質問する。

「改善しない身体症状は、今回の治療において除去したトラウマとは別の問題の存在を示唆しています。その問題については現在調査中ですが、それが身体症状を引き起こしているものと推察します。詳細については淵守医師から報告を」

カスカへと発言を引き継ぐ。外部からの意識場計測をずっと行ってきたのはカスカだ。ぼくが得た主観情報とは別のアプローチでリンネを診ている。

「はい。藍咲医師の認知矯正コード使用前後を比較した結果、意識場に大きな変動は観測されていません。しかし意識場の安定性数値が時間経過とともに有意に上昇する兆候を見せています。これは先の術式において一定の効果があったことを示すものと判断します」

そこまで一気に話したカスカは手元のミネラルウォーターを飲み干し、言葉を続けた。

「藍咲医師の指摘した『別の問題』については、現在外部的な意識場計測から調査を続行中です。ですが現時点では、身体症状が現れる際に意識場に特定のゆらぎが生じる現象が観測されました。共感時のフェイズシータに酷似した波形です。これについては当該波形の出現中に共感を行うことで詳細を観測できると考えます」

許可さえ頂ければ、という言葉が続く。

「なるほど」

奥に座っていた教授が口を開いた。艶のある黒いペンを回している。相も変わらず、だ。

「藍咲君、淵守君。君たちの報告した事象はすでにこちらで観測済みだった」

なら何のために。そう口を開こうとしたぼくをカスカが無言で制した。やめておけ、お前のためだ、と。

「では今度は我々の方から君たちに報告をしなければならない。橙夜君」

橙夜と呼ばれた男が立ち上がる。施術の時にいつもぼくらに付いていたあの白衣の男だった。報告会の張り詰めた空気に似つかわしくない笑顔が顔に張り付いている。まるで初めからその表情で生まれてきた人形のように。

「首席研究員の橙夜アケルです。ああ、お二人には自己紹介がまだでしたね。以後よろしくお願いします」

ぼくらより前の席に座っていた橙夜は、振り返るとぺこりと頭を下げた。

「ではさっそく報告を」

ぼくと同じか年下に見える橙夜はそう言って話し始めた。


 「対象の病室の意識場遮蔽コーティングですが」

淡々と続く橙夜の報告の最中、その言葉に思わず目を見開いてしまった。隣にいたカスカが息を呑むのが聞こえる。今、なんと言った。意識場遮蔽コーティングだと。なぜそんなものをリンネの病室に仕込む必要があるんだ。

「対象のこれまでの入院先からの助言でしてね、対象の意識場活性が異常数値を示す場合があるため、隔離に加えて『封印』措置が妥当である、と」

耳を疑う言葉が次々と飛び出す。封印措置だと。駄目だ、理解が追いつかない。

「病室のコーティングにはただ意識場を遮蔽する以上に、意識場の遮蔽具合から活性レベルを逆算する機能も搭載しています。それを使用して我々はずっと対象の24時間観察を続けてきました。ああ、質問は後でまとめてお受けします。それで、結論としては、対象には通常の脳機能と異なる何らかのアノマリーが存在すると考えられます」

何らかのアノマリー。つまり既存の法則では説明の付かない何か。それがリンネの脳に備わっているということなのか。だとすれば、あのグロテスクな風景も『もうひとりのリンネ』も、それに起因するものだということで一応の説明がつく。

「資料を使って順番にご説明しましょう。まずは対象の意識場活性についてですが」

手元にARのウィンドウがポップアップする。いくつものグラフが並んでいる。縦軸が活性レベル、横軸が時間のようだ。

「グラフをご覧頂ければ分かる通り、対象は睡眠時に意識場が異常に活性化しています。これは『形象化』をも引き起こしかねないレベルです」

形象化。研修所時代に読んだ論文に載っていたのを思い出した。意識場はある一定以上に出力が上がり、活性化することで物理的な干渉力を獲得する。それが形象化。念動力や心霊現象はそれで説明がつく、とそこにはあった気がする。一般には全く知られていない現象だ。それゆえ未だに超能力やポルターガイストは超常現象として世間では認知されている。しかし形象化を引き起こすほどの活性レベルを常人が叩きだすことが出来るのか。

「意識場遮蔽コーティングは形象化を封じるための措置と考えて頂ければいいでしょう。事実、これまでに形象化は観測されていません」

一応、納得のいく説明だった。確かに形象化で部屋を壊されては堪ったものではない。

「その下のグラフを御覧ください。先ほど淵守医師からのご報告でもあった通り、身体症状発現時、および睡眠時の意識場波形はフェイズシータに酷似したものです。すなわちそれらの状況で、対象は共感に似た状態にあるという仮説に辿り着きました」

今度こそぼくは耳を疑った。教授以外の研究員達の間にもざわめきが広がる。確かに論理的に考えれば当然の帰着として得られる仮説ではある。だが本当にそんなことがありえるのか。機械の補助なしに共感に似た現象が引き起こされるなんて。もしそれが事実なのだとしたら脳科学界は上へ下への大騒ぎになるだろう。それは人類の新たな地平そのものだ。だがともかく、問題はもうひとつ先にある。

「ええ、そうです。問題は『何と』共感状態にあるのか、ということです」

何度も話題に登ったように、リンネの病室には意識場遮蔽コーティングが施されている。つまり外部からリンネの意識場に干渉することも、その逆も不可能ということだ。

「それについての観測結果は」

こらえきれずに質問を投げ掛ける。

「こちらの機材では安定したデータは得られていません。『共感先』と思しき意識場はまるでノイズの海です。鮮明な結果が出るまではまだ時間が必要かと」

「ではMETROシステムの回答は」

昨日リンネに説明したように、METROシステムはすべての共感技術を統括している。意識場を観測する機材とて例外ではない。METROには共感の統括制御だけでなく分析システムとしての役割もある。

「判断を保留、とのことです。しかし引き続き観測を行うという回答が得られました」

このアノマリーはMETROシステムにとっても予想外だったということなのだろうか。


 「結論は出たようだな」

教授は立ち上がると会議室の最前に向かってゆっくりと歩き始めた。ぼくとカスカはきっと同じことを考えている。そんな確信めいた考えがふっと浮かんだ。発表者の卓に手をついた教授は、おもむろに口を開いた。それはおそらく、ぼくらにとって最悪の答え。

「対象は仮説検証が完了するまで無期限の隔離措置をとる。藍咲君と淵守君は引き続き共感治療を続けたまえ。その結果は逐一報告するように」

頭がおかしくなるかと思うくらいの怒りに我を忘れそうになった。隣のカスカがぼくの足を踏んづけなければ、きっと教授に殴りかかっていたかもしれない。仮説検証が完了するまで。それは一体いつになるんだ。症状が寛解しても研究チームが十分な結果を得られなければ、リンネはあのまま病室に閉じ込められ続けるということだ。受け入れられるわけがない、そんな決定。目の前が赤に染まる気がした。


 やおら隣のカスカが立ち上がり、教授に向かって言った。

「担当医として、我々から一つお願いがあります」

カスカが何を言い出すのか、ぼくにはまったくわからなかった。ちらりとこちらを一瞥したカスカの目は、落ち着け藍咲、大丈夫だと言っているように見えた。

「何だね」

「対象の監視継続について異存はありません。しかし安定した計測値を得るためには、対象の意識場、ひいては精神状態を良好に保つことが必要と考えます」

血が登った頭がゆっくりと冷えていくのを感じた。

「現状の共感治療の継続は言うまでもありませんが、より対象の精神状態をクリアに保つ手段を講じるべきです」

「言ってみたまえ」

「対象の外出制限の緩和です。もちろん藍咲医師の同伴という前提のもと、トラッキング用の端末を装着させてのうえです」

外出制限の緩和。言い方を変えれば隔離措置の緩和。カスカはとてつもなく冷静だった。リンネのことを一番に考えなければいけないぼくなんかよりも、ずっと冷静で先を見据えていたのだ。

「どうかね、橙夜君」

教授は首席研究員である橙夜の意見を聞いて、最終的な決定を下す。橙夜は少し考えこんだ後、にっこりと微笑んだ。

「問題無いでしょう。意識場の活性化が確認されている睡眠時など、病室に一定時間居てもらう必要はありますが、それ以外の時間についてはトラッキングさえできれば、現状では問題ありません」

「なるほど」

教授はぼくとカスカのほうに向き直ると、裁定を言い渡した。

「淵守君、君の考えはよくわかった。具体的な内容については橙夜君と検討したまえ」

ほっと胸を撫で下ろした自分に、また無性に腹が立った。











 その後、他の面々の退出した部屋でぼくとカスカ、それに橙夜との間で打ち合わせが行われた。リンネに装着させるトラッキング用端末は今日中にでも用意できるらしい。外出許可にこれまで通りぼくが申請するという手続き上の必要はあるものの、実質的には以前よりも自由な行動が約束された。ただし先ほど橙夜が指定した時間は患者を病室に居させること。以上がぼくらの間で交わされた取り決めだ。

「対象の意識場に異常活性が観測された場合、端末はアラートで知らせてくれます。その場合は」

橙夜は白衣のポケットに手を入れると、スティック状の注射器の入ったケースを取り出した。

「これを速やかに投与してください」

「これは」

「前頭前野の機能を抑制するものです。鎮静剤の一種だと思って頂ければいいでしょう」

無言でケースを受け取る。リンネにもしものことがあった場合の安全装置。

「トラッキング用の端末については今夜お渡し出来るかと思います」

橙夜がARのウィンドウをポップアップさせ、端末の画像を見せてきた。平たい三角形のパネルのように見える。

「こめかみ辺りに装着するように造られています。こちらで藍咲先生と淵守先生の認証コードを登録しておきます」

やけに準備がいいのは気のせいだろうか。とはいえこの病院と研究所は世界でもトップレベルの研究施設だ。そのくらいのものを用意することは何でもないことなのかもしれない。ぼくはその違和感を黙って飲み下すことにした。

「必要な物はひとまず以上です。運用についてはお二人に一任します」


 打ち合わせを終えたぼくらは会議室を後にした。ぼくとカスカ、橙夜は無言で廊下を歩く。気まずさとは別の沈黙がぼくら三人を支配していた。さっきの報告会の内容が頭の中を高速で流れる。リンネの脳に眠るアノマリー。形象化。そして共感近似現象。リンネが特殊症例と呼ばれていた頃のことを思い返して、今ようやくその意味が明かされたのかもしれないと思った。結局ぼくは何も知らなかった。そう考えるとまた腹が立った。臨床医をないがしろにしている研究チームに対してという以上に、リンネの一番身近にいた自分に対して。ぼくは踊らされている気がした。ぼくとカスカが見ていたのはぼくらの目に見えるものだけ。所詮それだけだったのだ。今までも研究チームと連携して治療を進めた経験がないわけではない。だが今回ははっきりと言える。この状況は異常だ。ぼくは教授の手のひらの上で四苦八苦している哀れな蟻の気分だ。カスカの提言にしてみても、あっけないほどあっさりと受け入れられたのは、まるで初めからそれが織り込み済みであったかのように感じられてならない。未だ透けて見えない教授の思惑に思考を巡らせながら、ぼくは沈黙の中にいた。やがて現れたエレベータに三人は乗る。来た時と同じようにカスカがボタンを押すと、鉄の箱はゆっくりと地面に降り始めた。気になるのは教授の思惑だけではない。この男、橙夜アケルについてもだ。身じろぎもせずにちらりとその姿を盗み見る。相変わらずの笑顔が仮面のように張り付いている。この年で首席研究員ということは、何らかの多大な実績を持っているに違いない。もしくは教授に取り入るのが恐ろしく長けていたか。どちらにせよその笑顔の下の本心はまったく読めなかった。いっそデバイスを使ってこの場で共感してやろうかとさえ思うくらいに、彼の平静はどこか不気味さを放っていた。心の底から楽しんでいるようにも、まったく興味なさげにも見えるその笑顔は、リンネのあの微笑みの対極に位置するものだと思える。そこからはただ底の見えない空虚さを感じる。研究者は変わり者が多いという、いささかステレオタイプにすぎるイメージを取り払ってもなお、橙夜アケルという存在は異質な空気を纏っていた。


 ぽんという音が目的の階層への到着を告げる。ぼくらはエレベーターを降りると、それぞれの行き先へと向かう。ぼくとカスカは右、橙夜は左。

「ああ、藍咲先生。ちょっとよろしいですか」

ふと、橙夜がぼくに声をかけてきた。

「なんでしょうか」

「少しお話したいことがありまして」

カスカと顔を見合わせる。ぼくらではなく、ぼくに。どういうつもりなのだろうか。カスカは目で合図を返してきた。俺はいいから行って来い。

「わかりました」

橙夜の後に続いて歩きながら、一度だけカスカの方を振り返った。カスカが頷くのが見えた。











 橙夜に伴われて行った先は職員用のカフェテリアだった。休診日に加えて午後のこの時間、昼食を終えた職員たちはすでに立ち去ったあとで、普段は賑わうそこも閑散としていた。ぼくはコーヒーを、橙夜は紅茶を注文して受け取ると、ぼくらは窓際の二人席に向かい合わせに座った。木材から成る簡易的な肘掛け椅子が柔らかく体重を抱え込むのを感じる。ここに来るまではお互いに無言だった。その沈黙の間、ぼくは橙夜の話について考えを巡らせていた。主治医であるぼくにだけ用があるということは、やはりリンネについてのことなのだろうか。カスカに聞かれて困ることでもあるのだろうか。しかし橙夜の発した言葉は、ぼくの予想を外れたものだった。

「一度あなたとゆっくりお話をしたいと思っていたんですよ」

橙夜は心底楽しそうに微笑む。その笑みは憧れの人間を目前にしたファンの高揚か、それとも古くからの顔なじみに再会した時の安堵か。いや、そのどちらでもないのか。

「研究チームは皆僕より年上の人間しかいないのでね。こうして同年代の方とお話できる機会は貴重なんです」

そう言うと橙夜アケルは自分が24歳だと自己紹介を付け加えた。ぼくより一歳下。その若さで首席研究員とは。

「僕の経歴に驚かれているようですが、あなただって十分に驚嘆に値する才能をお持ちではありませんか」

共感適性とデバイス適合。ぼくの持つふたつの属性を指して橙夜はそう表現した。

「才能は経験から得られるものとは別のものです。大切なのはどんなものかではなく、どう在るか、なのでは」

ぶっきらぼうに返す。ぼくは自分の持つ能力を信じてこそいるが、手放しで歓迎しているわけではない。重要なのは自分の足で歩き、目で見て、手でつかみ、頭で考えた末に得たものだと思うからだ。ぼくの言葉を聞いた橙夜は楽しそうな笑い声を上げた。嘲笑ではなく、得心のいったことに対する反応として。

「藍咲先生、あなたは素晴らしいお考えをお持ちだ。僕も概ね同意しますよ。先天的に得たものではなく、後天的に獲得したものにこそ価値がある」

橙夜はそう言うと一旦言葉を切り、紅茶のカップを持ち上げた。ブランデーかウイスキーをそうするように、カップをゆらゆらと揺らす。

「才能とは体のいい呪いです。よほどの信念のない限り、多くは才能に決定づけられた方向性に抗うことはできない。それが客観的に優れていると言われれば言われるほど、です」

「呪い、ですか」

「ええ、誤解を畏れずに言えば、ね」

呪い。その言葉はどこか腑に落ちるところがあった。ぼくはデバイスという強大な力を与えられた。だがそれはあくまで自己の意思とは関係ない場所で与えられたものだ。今でこそその力はリンネを救うために必要なものとして受け入れているが、被験体となった当初はデバイスの存在を呪いもした。しかしその共感適性のおかげで共感医になれたのもまた事実。その葛藤には随分と悩まされたものだ。

「藍咲先生は共感についてどうお考えですか」

「というと」

「共感というシステム、概念、術式、そのものについて」

意識場という現象が発見され、共感技術が開発されたのは半世紀も前の話だ。ぼくらは生まれた頃から意識場の海の中に居て、人の心に直接触れる手段が用意されていた。あまりにも当たり前のものだったのだ。携帯電話しか知らない世代が電話が開発される前の時代を想像できないのと同じように。

「精神治療を可視化した、という意味では評価すべきものだと思いますが」

半世紀以上前、かつて精神科と呼ばれていた場所では投薬をメインとした治療が行われていた。精神科医は患者との会話や表情から症状を推測し、それにもっとも適した薬を処方する。またあるときは心理療法士と呼ばれる、今で言うセラピストによって、対話をメインとした認知変容が行われていたと聞く。そのどちらにも一定の効果があり、かつてはそれらの療法が精神治療のメインストリームだった。しかしこれらには大きな落とし穴があった。精神状態を客観的、もしくは機械的に計測する手段がなかったのだ。診断基準こそ存在していたものの、それはあくまで患者の主訴ある程度依存するもので、完全とはいえないものだった。

 そこに登場したのが医療共感だ。従来は不可能とされた、患者の精神状態を意識場を計測することで把握するだけでなく、あまつさえ共感医の五感情報として捉えることすら可能になった。精神科は医療共感に吸収される形で姿を消し、精神医療の新たな地平を開いた医療共感は万能の治療法と謳われた。人の心は目には見えない。そんな人類共通の一般論を打ち破ったのだ。それこそがぼくの考える共感の功績。ヒトの心の可視化。

「なるほど。確かに仰るとおり、共感によって人間の心のブラックボックスは白日のもとに曝された」

「どこか否定的なニュアンスを感じますが」

橙夜が紅茶のカップを置く。皿がかちゃりと音を立てた。

「いいえ、とんでもない。僕は共感が人類を次のステージへ導くものだと確信しているんです」

演説のようなその声色には、自信ではなく確信が感じられた。

「共感が人類を進化させると」

「ええ、そうです。現に我々はその進化の萌芽を目撃しているではありませんか」

それは、まさか。

「御門、リンネのことですか」

「はい。御門リンネはMETRO管理下のシステムを使用せずとも共感に近似の現象を発現している可能性がある。人類は機械の手を借りずとも、己の脳に眠る回路によって既存のコミュニケーションを超える非言語的相互理解を可能にし始めていると言えます」

話が大きすぎて荒唐無稽に思えてならない。確かに橙夜の仮説によれば、リンネはシステムの補助なしに何者かと共感状態にあるといえる。もしかしたらリンネは人類の進化の最前線にいるのかもしれない。けれど。

「それはあくまであなたの仮説だ」

「はい、現段階では、ですが。今後さらに実証を重ねることでこの仮説は補強されるでしょう」

コーヒーカップを手に取る。湯気はすっかり収まり、生ぬるく苦い液体が並々と注がれている。

「御門リンネが何と共感しているかですが」

橙夜は紅茶を一口啜ると、またゆっくりとカップを揺らし始めた。

「現段階ではまだお聞かせできるレベルではありませんが、ひとつの仮説を組み立て始めています」

もったいぶっている様子ではなく、それは不完全な作品を世に出すことを厭う芸術家のような物言いだった。

「検証を重ねた後、お話することになるでしょう」

橙夜はそう言うと残りの紅茶を一気に流し込んだ。空になったカップをさらにおくと、さっきよりさらに乾いた音が響いた。

「ひとつ、言っておきたいことがあります」

コーヒーから意識を外し、ぼくは橙夜を見据えて宣言する。

「御門リンネはぼくの患者だ。第一義的な問題は彼女の症状の治療。検証実験も結構だが、主治医として看過できうる程度を超える場合は」

「ええ、わかっています。治療の妨げはしません。患者さんが第一、ですからね」

その瞬間ぼくは怖気を振るう錯覚に襲われた。橙夜のその言葉は偽善的などという範疇ではない。こいつは明らかにぼくらとは別の思考形態で動いている。それは医者と研究者という単純な職業分類の話とは違う次元のものだ。ぼくには橙夜を理解できる自信がなかった。その笑顔の下の果てのない空虚から吹いてくる風が、ぼくに言い知れぬ不安を感じさせる。


 「ああそうだ、最後にお聞きしておきたいことがありました」

わざとらしく思い出した風に橙夜が言う。

「藍咲先生、あなたは他人の心を理解するとはどういうことだと思われますか」

それは核心めいた言葉だった。他人の心を理解すること。それはぼくにとって何よりの願いであり、ぼくが共感医を続ける動機でもあり、そして世界に期待することでもある。人類は本当の意味で相互に理解することができなかった。それは自分と他人が別の存在であり、別の脳を使って思考しているからにほかならない。だからそんな世界における相互理解とは漸近線のようなものだったはずだ。決して重なることはない。けれど限りなくイコールに近づくことは出来る。それは人間の心が共感によって可視化された現代においてもさほど変わらないはずだ。共感で視えるのは、その人が経験してきたこと、見てきたこと、考えていることの一端でしかない。本当の意味での相手の主観を知ることは、共感の力を超えた問題だ。だからぼくは思う。他人の心を理解するとは、システムによる精神の可視化に頼るものではなく、古来から人類がそうしてきたように、自分の心をさらけ出し、相手の心に歩み寄る試みなのだと。ひとりぼっちで過ごした養親の家。皆の輪から外れていた養護施設での日々。そしてカスカとの出会い。リンネとの出会い。それらを通してぼくが辿り着いた答え。

「歩み寄る努力を諦めないことです」

ぼくは橙夜の空虚に向かってそう高らかに宣言した。その努力を諦めないかぎり、ぼくは、ぼくらは世界と一体であることができる。そう信じている。そう信じたい。

「なるほど。興味深い」

橙夜はまっすぐにぼくの目を見ながら、そう言った。その心中を推し量ることはできない。

橙夜は何度か頷くと、満足気な表情を浮かべて立ち上がった。

「お付き合い頂いてありがとうございました。実に有意義な時間でした」

くしゃっとした髪を搔きながら礼を述べる。

「では藍咲先生、先ほどの打ち合わせの内容、よろしくお願いします」

橙夜はそう言って頭を下げると、踵を返してカフェテリアから出て行った。その背中を見送りながら、ぼくは先程までの会話を反芻する。他人を理解するとはどういうことか。なぜ橙夜はそんな話をしたのだろうか。それに彼にはどんな答えがあったのだろうか。



 突然、けたたましいアラート音が鳴り響き、ぼくの思考が中断される。目の前に真っ赤なウィンドウが投影された。緊急時の呼び出し。恐るべき予感に支配されながら、ぼくは応答ボタンを押した。

『藍咲先生、御門さんが』

看護師の切迫した声が響く。後ろからは甲高い叫び声が聞こえる。

ぼくは橙夜との会話のことなどすっかり忘れ、隔離病棟へと走りだした。


リンネの容体が急変したのだ。







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