表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ワールド・エンド・サマー  作者: amada
第一部:日々の泡
4/16

3.痛みの海




差し込む陽に光る埃を眺めていた。

ただぼんやりとした幸福感。

喩えて言うなら幼い日の昼下がり。

喩えて言うなら遊離した夏の陽。

ただぼんやりとした遠い記憶。

それがいつだったか、それが誰だったか。

今ではもう、思い出せない。









 それからの数日間、ぼくはリンネの病室に通った。相変わらず彼女はメガネを掛けて本を読んでいた。ぼくが来ると彼女はメガネをはずし、柔らかく微笑む。それからぼくらはまた本の話をした。何度か外出許可を申請したものの、先日のそれが特例だったのか、ついに許可が下りることはなかった。時折研究チームの人間がやってきては彼女を連れて行き、検査を行っていたようだ。外出と呼べるのはそのくらいだった。

「先生」

その日もリンネは研究チームによる検査から戻ってきたところだった。

「また本、お願いしてもいいですか」

「ああ」

部屋から出ることも制限されているリンネに代わり、ぼくは彼女のリクエストした本を図書館から借りて持ってくる。ここ数日の日課だ。あれから何日も経っているにもかかわらず、彼女への共感禁止令はまだ解かれていない。ぼくに出来るのは、こうして彼女の話し相手になることだけだった。それでリンネの気が紛れているかどうかは疑問だが、独りで本を読んでいるよりはマシなのだろう。外出許可が下りたあの日、くるくると様々な表情を見せてくれた彼女は今、どこか落ち着いた雰囲気でぼくの前に居る。外出が出来てはしゃいでいたのか、はたまた情緒不安定だったのかはわからないが、とにかく今の彼女の精神は『低いレベルで安定している』と表現するのが適当だ。共感の許可が下りない現状、ぼくは旧来の精神科治療の手法に則り数種類のサプリメント――かつては向精神薬とよばれていたそれ――を処方していた。寝付きは悪いが睡眠はできている。食べる量は少ないが食欲もないわけではない。サプリメントの効果により、ある程度の安定を見ているというのが彼女の現在の状態だ。だが結局これは付け焼き刃でしかない。根本的な不調を取り除くためには、やはり共感を行う必要がある。彼女のコア記憶を探り当てた瞬間のことを思い出す。床に倒れている男女。おびただしい量の血。そして自分を見下ろす男。彼女はそのフラッシュバックに今も襲われているようで、ぼくと話しているその瞬間にも苦しそうに顔を歪めていた。PTSD。心的外傷後ストレス障害。医療共感に取って代わられる以前の精神科ならばそう診断されていただろう。だがぼくははじめその判断を留保していた。それは彼女の意識に潜った時に遭遇した、もう一人の『御門リンネ』のことが気に掛かっていたからだ。想定されるのは激しいトラウマから自己を守るために記憶を切り離し、その切り離された部分が独自の人格を形成するというケース。だが彼女の場合はもう一つの人格が表層に現れることがない。ゆえにそうであるとも断定できない。結局彼女にはトラウマに起因するストレス障害という暫定的な診断を下し、経過を観察する方針を取らざるを得ない状況にあった。ようやく彼女への共感治療が許可されたのは、それから2日後のことだった。









「御門リンネ。当該患者に対する治療には『侵襲型深層意識干渉制御デバイス』の使用をもってするのが適当と判断」

カスカがARのデータを読み上げる。昨夜遅くに研究チームから送られてきたものだ。当然上には教授がいる。したがって報告書の体を成してはいるが、実質的には命令書と変わらない。

「チームはすでにデバイスのことを知っているようだな」

「教授の直轄なんだから当然といえば当然だろ」

研究等の部屋でアイスコーヒーを啜りながらぼくはぶっきらぼうに答えた。あの老いぼれ。リンネと共感した人間の中でぼくが唯一『生還』できたのはやはりデバイスあっての事。それは誰も否定することの出来ない事実だった。上の意向によって話が進むのは気に食わないが、しかしこれはある意味で喜ぶべきことでもある。自分の手で確実にリンネを治療することができるという意味において。

「深化にはシステムを使用。無意識階層からはデバイスを使用」

手順を淡々と読み上げるカスカ。ぼくとカスカの間では依然デバイスは保険であるという認識だ。だが研究チームの方針はどうやら違う。要するに今回の報告書によれば、デバイスをメインの手段として積極的に使用せよ、ということらしい。それにしても主治医であるぼくを抜きに治療方針を決定するとは、まったくあの教授らしいことだ。人を駒としてしか考えていない。アイスコーヒーのグラスを置く。中の氷がからんと音を立てた。

「無茶な要求だな」

吐き捨てるようにカスカが言った。

「無茶は承知だよ」

なだめるように言ってはみるものの、これまでの自分の行動を思い返せば実に空虚な言葉だ。カスカが大げさに溜息をつく。今回はカスカの言い分の方が強い。ぼくはまだデバイスのすべての性能を完全に制御できるわけではないからだ。

「コア記憶にはマーカーをセットしてきた。前回よりはいくらかマシだ」

まるで励ましのようだ。自分で言っておきながらそんなことを思う。先日死にそうな思いをしながら探り当てたコア記憶。そこにマーカーをセットしたことで、次からはダイレクトにその記憶領域に潜ることができる。いわばショートカット。佐駅ユウコの『内なる子供』に使ったものと同じ原理だ。

「よくやった、と言いたいところだが無茶をしすぎだ。いくらデバイスがあっても飲まれれば死ぬぞ」

それは重々承知。前回の共感で文字通り痛いほど理解した。

「いざというときは強制サルベージで引き揚げてくれ」

ぼくがそう言うと、カスカは諦めたように分かったと一言だけ言った。









 研究棟から処置室に移ったぼくらは、そこでリンネを待っていた。部屋にはもう一人、例の研究員の男がいる。ぼくが目を遣ると笑顔で会釈をする。その掴みどころの無さが実に気に食わない。ほどなくして看護師に付き添われたリンネが入ってきた。その表情は穏やかというよりも無表情で、そこから何かを読み取ることは出来ない。本の話をした時の表情。病棟の中庭で話した時の表情。間違いなく同一人物で同一の人格のはずなのだが、やはりどこか別人のような気がしてしまう。

「気分はどうだ」

そう訊いたぼくに彼女はあの穏やかな笑みを浮かべながら、大丈夫ですと小さく答えた。そのあまりの儚さにちりっと胸が痛む。決して取り繕っているような表情ではないけれど、その裏に潜む痛みの存在をぼくは確かに感じていた。ぼくが施術室の分厚いドアを開けるとリンネは促すまでもなく奥へと進み、患者用の機器に座る。複雑な思いを抱きながら、ぼくもシステムの片割れに身を委ねた。管制室のほうを見ると、カスカが無言で頷くのが見えた。

「気分が悪くなったらすぐに教えてくれ」

ヘッドパーツの裏に投影されるコンソールを見ながら、ぼくは隣のリンネにそう声を掛ける。リンネがはい、と答えたのを合図として、ぼくはカスカにシステム起動の指示を送った。すみやかにシステムが起動し、視界が歪む。意識が切り替わるとぼくとリンネはいつも通りホワイトルームの中央で向き合っていた。

「大丈夫か」

「だいじょうぶです」

短い会話で状態を確認する。

「これから君の記憶に直接共感する。そこで君の痛みの原因を取り除く」

患者への意思確認。それは同時に無意識階層への進入許可を得る行為でもある。

「はい、おねがいします」

リンネが即座に答える。ぼくは頷くと彼女のドアに向かって歩みを進めた。その目の前まで来ると、ぼくはノブをひねらずにドアに手をかざす。透き通る緑の光がドアに複雑な模様のサークルを描いた。これがショートカット。このドアを開ければあのグロテスクな空間ではなく、リンネのコア記憶へ直接アクセスすることができるはずだ。

「先生」

ふと後ろにいるリンネが声をかけてきた。

「どうした」

振り返りざま、そう訊く。

「また外、連れてってください」

その言葉を聞いて、再びぼくをあの感情が支配した。使命感や義務感を超えた何か。

「約束する」

精一杯の力強い声色でそう答え、ぼくはドアノブをひねった。ドアの隙間から明るい緑の光が溢れる。成功だ。ショートカットがうまく機能している。ぼくがそのままドアを開け放つと、その先にあったのは天地が逆転した夕焼けの空だった。上には街、下には空。その空の先、つまり下に向かって何重もの緑のサークルが並んでいる。この『道』はコア記憶へ直結しているはずだ。ぼくは意を決してその道に飛び込んだ。









 まったくでたらめな物理法則に従って、ぼくは空へ落ちていく。ひゅうひゅうと風を切る音がやけに大きく聞こえた。周りの風景を見ると、まるでノイズが走るように夕焼け空に赤黒い模様が現れては消える。やはりあのグロテスクな空間の影響を受けているらしい。ショートカットが形成する道を外れれば、ぼくもその赤黒の先に落ちていってしまうだろう。視界の隅、不安定な空をバックに鳥のようなものが群れをなして飛んでいる。鈍く光るそれは不安定な空間の破片か、それともリンネの記憶の断片だったのか。再び前を見据える。程なくして光の道の先に無数の黒い球体が現れた。光の道はその内のひとつに突き刺さるように続いている。あれがリンネのコア記憶か。球体はみるみる近づき、やがて水に落ちるような感触とともにぼくはその内部に飛び込んだ。内部はまるで血の海のように重く粘着く液体で満ちている。光の道はさらに先へと続いていた。

「藍咲、聞こえるか」

カスカの声が響く。

「対象はすでにフェイズシータ。マーカーの反応も近づいている。だが意識場がかなり不安定だ。注意しろ」

カスカの言葉を証明するかのように、ぼくを導いていた光のサークルに赤黒い模様が浮き出始めた。最初にリンネと共感した時のように、ぴしりという音が聞こえる。

「ショートカットが侵食されてきてる。固定できるか」

「こちらからはすでに最大出力で固定している。これ以上は無理だ」

前に進みながら後ろを振り返ると、すでにぼくの通ってきた道は黒く塗り潰されて消えていた。侵食のスピードが速い。このまま先に続く道も消えてしまえば、ぼくはリンネの意識の中に取り込まれてしまう。それが何を意味するか、考えるまでもなかった。粘着く嫌な感触を掻き分けながら、ぼくは光の指し示す方に落ちていく。しばらくすると光の先にひとつの風景が近づいてきた。それは紛れも無くあの時に垣間見た風景。フローリングに広がる血だまりと倒れる男女。侵食はすでに真横にまで迫っていた。侵食が目の前の光を塗りつぶすその一歩手前、ぼくの伸ばした手が間一髪『その風景』に触れた。次の瞬間、粘着く液体の感触が消え、ぼくの足はしっかりとリビングの床を踏みしめていた。しかしほっと一息付いている暇はない。まずは周囲を確認する。カーテンが細く開いたリビングには夕日が申し訳程度に差し込む。ソファ、テーブル、テレビ。どこにでもあるような光景だ。ひとつ違う点があるとすれば、血だまりの中に倒れる男女とそれに縋りついている少女の姿。

「コア記憶領域に進入」

カスカに現状を報告する。

「いつでもデバイスを使えるようにしておけよ」

そう、今回は出し惜しみなしだ。いざというときには強制サルベージがあるとは言ったが、あれは患者と治療者の双方に負担を掛ける。あくまでそれは最後の手段で、そう何度も使うべきものではない。前提は自力での帰還であり、そのためにはデバイスを使用せよというのが今回の方針なのだ。了解、とぼくはカスカに答え、血だまりに向かって足を踏み出した。その足音に気づいたのか、少女がびくりと肩を震わせる。

「やだ」

栗色のふわふわした髪が震えている。

「こないで」

カーテンの隙間からは相変わらず夕日が差し込んでいた。ぼくは構わずに少女に近づく。

「大丈夫だよ。リンネ」

「やだ、ころさないで」

安心させるための言葉も今の彼女には届かない。リンネの拒絶の言葉を合図として、またあのぴしりという音が響く。

「ぼくは君を助けに来た」

部屋の壁に、天井に、爪で引っ掻いたような痕が浮かび始める。まるで手首を切ったかのように、その痕からどろりと赤黒い液体が滲み出してきた。

「ぼくは君を殺しに来たんじゃない」

赤黒い液体は壁と天井を這い、部屋を包み込まんと広がってくる。空間そのものが軋むような音もそれに加わる。幼いリンネは相変わらずぼくに背を向けたまま、血だまりの淵で小さく震えていた。

「ぼくは君を助けに来た」

言い聞かせるように繰り返す。赤黒い液体は確実にぼくの足元に近づいてきていた。ぼくの言葉が届いたのか、震えの止まった小さなリンネがゆっくりと振り返った。瞬間、その表情を見てぼくは戦慄した。能面のようにのっぺりと表情のない顔。本来目のあるべき場所には黒い穴が穿たれ、その虚ろな眼窩からは部屋中に染み出しているのと同じ赤黒い液体がゆるゆると流れ出ている。

「おとうさんとおかあさんをたすけて」

震えていた先ほどまでのリンネとは全く違う、何の感情もこもっていない声がそう告げる。普通なら愛らしいと感じる小首を傾げる仕草も、その顔の不気味さを一層引き立たせるだけだった。

「すまない。それはできないんだ」

共感の目的は記憶の改竄ではない。だからすでに起こってしまったこと、すでに記憶されている事象に手出しをすることは許されない。

「どうして」

「ドウシテ」

「ドウシテ」

壊れたおもちゃのようにリンネはその言葉を何度も重ねる。すまないと心の中で唱えながら、ぼくは彼女に近づこうと一歩足を踏み出した。その瞬間だった。

「うそつき」

リンネがぼそりと呟くと同時に、壁と天井が赤黒い液体に押し潰されるように撓んで砕け散った。スローモーションのように時間が引き伸ばされ、『それ』はじわじわとぼくを飲み込もうと迫ってくる。まずい、このままでは。ゆっくりと進む時間の中、ぼくは何度もリンネの名を呼んだ。いや叫んだ。だが彼女は相変わらずその虚ろな目でぼくを見据えるだけだった。リンネの傍に駆け寄ろうとするが、周囲の時空間の停滞に影響されているのか、ぼくの歩みはまるでゲルのなかを掻くように鈍重だった。赤黒い流れは今にもぼくの体に触れようとしている。

「リンネ、こっちだ」

ありったけのその叫びが届いたのか、リンネの虚ろな顔に一瞬だけ表情が戻ったように見えた。その薄い時間の切れ間、ぼくは確かにリンネの声を聞いた。

「たすけて」

その言葉を意識が認識するのとほぼ同時に周囲の時間が正常に戻り、なすすべもなくぼくは赤黒い液体に飲み込まれた。ぬるりとした感触が全身を包み込む。肺と消化器官を蹂躙しようと、開いた口から液体がずるずると流れ込んでくる。さらには体の表面からもぼくの中に侵入しようと、それが染みこんで来るのを感じていた。それと一緒に流れ込んでくる感情の奔流。恐怖。怒り。嫌悪。絶望。憎悪。リンネの内に秘めた負の感情がぼくを侵そうと蠢いている。頭の奥、遠くからカスカの声が聞こえた。感覚マスクは役に立たない。奔流に蹂躙され尽くすのも時間の問題。意識場の均衡が崩れたせいか、それきりカスカの声は聞こえなくなった。ただ独りでどす黒い感情の血海の中、じわじわと死が忍び寄る足音を聴いている。耳元ではさっきからリンネの声が聞こえていた。ただしそれは紛れも無い怨嗟の声。両親を助けられなかった自分を責め、呪い、そして世界に絶望した少女の泣き叫ぶ声だった。聴覚が認識する怨嗟の叫びは、ぼくの意識を確実に蝕んでいく。その中でぼくが辛うじて自我を保っているのは、リンネとの約束を覚えていたからだ。必ず治療を成功させて『外』へ連れて行くという約束。リンネの顔が脳裏をよぎる。助けて欲しいと泣いていた顔。本の話をするときの楽しそうな顔。普通の女の子のように生活したいと寂しそうに呟いたときの顔。そうだ、思い出せ。ぼくは約束した。リンネを救うと約束した。その言葉、思考を何度も反芻する。これはリンネの痛みの海。このどす黒い色を、あの日ふたりで見た青空に変えてやる。だからリンネ、諦めるな。ぼくも諦めない。ぼくはこんなところで『死ぬわけにはいかない』。


 爆発的な光の奔流。リンネの感情に蹂躙され尽くすその一瞬前、ぼくの意思を読み取ったデバイスが起動したのだ。明るい緑の光が赤黒い海の中で恒星のように輝く。同時に体の感覚が戻ってきた。ぼくの意識場の出力が指数的に上昇するにつれ、赤黒い液体が体から離れていくのを感じる。やがて明るい緑の光はぼくの周りを球状に包み込んだ。ひとまず安全は確保した。リンネを探さなければ。ぼくを包む球体から血海に向かって光が放たれる。これはいわばソナー。意識場を拡散させることで記憶領域内を走査するというものだ。ゆっくりと目を閉じ、意識を集中する。『リビングの風景』だったコア記憶は、今リンネの姿にまで収束している。つまりリンネを見つけさえすればいい。ぼくの意識場が放たれていった先、血海の赤黒が一際濃い場所に幼いリンネの存在を感じた。目を開ける。コア記憶にセットしたマーカーはまだ生きているはずだ。リンネを感じた方向に向かって手を上げると、ショートカットに似た光の道がすっと形作られた。ソナーとマーカーの両方から得られた座標を重ねあわせ、リンネに向かう道を開く。待っていろ、リンネ。今行く。道に引き寄せられるようにぼくは進み始めた。意識場のバリアのおかげでまわりの赤黒の抵抗はない。怨嗟の叫びは遠ざかり、今は遠くからすすり泣く声だけが聞こえる。

「聞こえるか、カスカ」

「藍咲、無事なのか」

意識場の出力が上がったことで外の世界とのリンクも回復したらしい。

「ああ、デバイスを起動した。これから治療に向かう」

「了解した。だが念のためサルベージの準備をしておく」

デバイスの活動限界は正確に把握できていない。とにかく今は時間が惜しい。ぼくは光の道を突き進んでいた。すすり泣く声が段々大きくなってくる。目の前には相変わらずの赤黒と一筋の光。デバイスの性能を持ってしてもこの血海を制圧し切ることは難しいということか。だが今はそれでいい。リンネに辿り着くことさえできれば。やがて道の先に光が差し始めた。ぼくのそれと同じ明るい緑の光。スピードを上げてさらに突き進む。あそこにリンネがいる。確信めいた思いを抱きながら、目の前に立ち塞がった赤黒の壁をぶち破った。その先にあったのは緑の光に満ちた空間だった。真ん中に小さなリンネが蹲って泣いている。宙に浮いていた感覚は消え、見えない地面を足が捉えた。

「リンネ」

名前を呼ぶぼくの声が空間全体に反響する。その声に気づいたリンネが顔を上げた。真っ赤に泣き腫らしたあどけない顔。さっき見た悪夢のような表情ではない。ちゃんと人間の顔をしている。

「もう大丈夫だよ」

ゆっくりと近づく。多少の怯えはあるものの、拒絶の意思は感じない。そのまま傍まで行き、小さなリンネを抱き締めた。

「もう大丈夫」

安心させるように繰り返す。

「おとうさんとおかあさんが」

泣いて枯れた喉でリンネがそう呟く。

「すまない。助けてあげられなかった」

抱き締めたまま、ゆっくりと頭を撫でる。

「わたし、なにもできなかったよ」

涙声で後悔を口にするリンネ。

「君は悪くない。君のせいじゃない」

ぼくは何度もその言葉を言い聞かせる。リンネの潜在意識に認知を刻み込むように。

「わたしもしんじゃうの」

ぼくの言葉の切れ目、リンネがそう訊く。

「君は死なない。死なせない」

それはリンネに向けた言葉だったのか、それとも自分への宣言だったのか。

「君はぼくが守る。君は独りじゃない」

その言葉を聞いたリンネがぼくの方を見た。その表情は驚いたようにも安心したようにも見える。柔らかな光が満たす空間で、ぼくらはしばらくそうして見つめ合っていた。ゆっくりとリンネの表情が変わり、ぎこちない微笑みを浮かべた。その笑顔はこれまで見てきたリンネのそれよりもずっと純粋で、無垢で。たぶん『これ』が本当のリンネだったのだろう。ぼくはやっとリンネの心に触れることができたのだ。

「ありがとう」

リンネの口が言葉を紡ぐ。それは決して強がりなどではない、本心からの言葉だった。ぼくも笑顔で頷き、それに応える。それを見て安心した表情を浮かべたリンネは、やがて光に包まれ消えていった。その残滓を見届けると、ぼくはゆっくりと立ち上がった。

「治療完了。帰還する」

やるべきことはやった。あとは帰るだけだ。そう安心したのも束の間、急速に空間を満たす光が弱まってきた。デバイスの活動が低下している。みるみる空間にヒビが入り始め、例の赤黒い液体が滲んできた。

「カスカ、強制サルベージを」

ぼくがそう言い終わる前に、球状に広がっていた空間が砕け散り赤黒い濁流が一気に押し寄せてきた。デバイスに意識を送るが、思うように出力が上がらない。赤黒は鼻先まで迫っていた。まずい、飲まれる。


そう思った瞬間、誰かがぼくの手を掴んだ。









 ふと気づくと赤黒い血海は消え、ぼくは初めてリンネに共感した時に見たあのグロテスクな空間に立っていた。

「危なかったですね」

声の主を見る。案の定、そこに居たのはあの『リンネ』だった。黒いワンピースを着た『御門リンネ』は、心底楽しいといった表情でぼくを見ている。

「助けてくれたのか」

「そう捉えて頂いて結構です。死なれるわけにはいかないから」

にっこりと、しかし退廃的な微笑みを浮かべる『御門リンネ』。周囲の空間は相変わらず内蔵をぶちまけたように赤黒く蠢き、中空には血管のような流れがある。なぜまだ『ここ』があるんだ。さっきリンネには認知を刻みこんできたはずだ。にもかかわらずまだこの心象風景がある。説明の付かない事態だった。

「びっくりしましたか。でも先生のしたことは無駄じゃありませんよ。確かに『わたし』は救われました」

「ならなぜ君がここにいる。ここは何だ」

最初に遭遇したときと同じ質問をする。

「言ったでしょ。あたしは『わたし』。そしてここは『わたし』の中」

はぐらかされているのか、まったく答えになっていない。

「質問に答えてくれ。君は誰だ」

大人気なく苛ついた調子で訊くと、彼女はまた楽しそうな表情を浮かべて答えた。

「あたしは御門リンネに備わった機能。喩えて言うなら、そう、ライ麦畑の崖から子供が落ちないようにつかまえるような者」

楽しそうにくるくる回る『御門リンネ』。黒いワンピースの裾がふわりと揺れた。理解が追いつかない。ここにいる『リンネ』が両親を目の前で殺されたことが原因で解離した人格ならば、その根源たる認知を上書きした現在、存在を保っていられるはずがない。

「大丈夫。あたしは別に解離してるわけじゃないし、表層に出て行く事もできない。ただここにいるだけ」

ぼくの思考を読んだかのように彼女が答える。

「だから言ったでしょ。先生のやったことは無駄じゃなかった」

この状況からはまったく信用のならない言葉だ。

「『わたし』は確かに罪悪感や恐怖から開放された。めでたしめでたし。それでいいじゃないですか」

その言い分には一理ある。だが無意識下に独立した存在が居るという事態を見過ごすわけにはいかない。

「あたしを消すつもり」

「君をリンネと統合する」

その言葉を聞いた『御門リンネ』は、大げさに溜息をついた。

「あーあ、これ以上話しても無駄みたいですね」

退屈そうに伸びをする『御門リンネ』。ふと彼女の足元に目を落とすと、つま先の方から徐々に周りの空間と同化し始めていた。膝、腰、胸。みるみるその姿が消えていく。

「待て」

ぼくが伸ばしたその手は虚しく空を切った。赤黒く蠢く空間に『御門リンネ』の声だけが反響する。

「あたしはまだ消えるわけにはいかない。邪魔をしないで」

それは果たして警告だったのか。どちらにせよ、その時のぼくに真偽を知る術はなかった。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ