2.陽炎の先
この体ははじめ、空っぽの器だった。
誰かがそれに名を与え、感情を注ぎこみ、そこに意味のようなものが生まれた。
それでもこの体は、心は、やはり器のままだった。
それは別にわたしひとりに限ったことではないはずだ。
人は皆生まれながらに虚ろで、本質的に生きる意味なんてない。
だからみんな怖いんだ。
不確かなもの、不安定なもの。
そんな恐怖から逃げたいがために、人は「生きる意味」なんて詭弁を信じ続けるんだ。
◆
昨日の御門リンネとの共感による負担を鑑み、教授からは本日一切の共感を禁ずるとのお達しを頂戴した。しかし幸いデバイスを独断で使用した件については、緊急避難的な行動だったとして不問に付されることとなった。そんな訳で今日は朝も早くからカスカによる集中セラピーを受けている。
セラピーの内容は人によって千差万別で、催眠を用いる場合もあれば対話や薬物で行う場合もある。ぼくの場合は『リフレイン』を使用するのが定番になっている。リフレインとは、システムの機能を他者との意識場の同調ではなく自己の記憶の再生に特化させたモードだ。基準点となる記憶を追体験することにより他者の精神世界からのフィードバックを浄化、自己同一性を保持するというのがぼくとカスカのセラピー方式なのだ。今の自分を自分たらしめている記憶を繰り返し再生することで、『自分は自分である』という暗示に似た強い認識を精神に埋め込む。多くの人の記憶や感情に飲み込まれ、自分を見失うのを防ぐという趣旨だ。
「さて藍咲。今日はどこから始めるかね」
「いつも通りで頼む」
なかなかの座り心地の肘掛け椅子に座り、ヘルメットのようなヘッドパーツの下からぼくはそう答える。セラピーに使用する機器自体はシステムだが、リフレインモードでは専用のヘッドパーツを使用することになっている。
「了解。始めるぞ」
カスカがリフレインを起動させると同時に、まるでズームをするかのように視界が歪む。昨日の御門リンネの顔、その朝に見た老いぼれの顔、佐駅ユウコの顔。記憶を遡りながら、ぼくの視覚が認識する風景は矢継ぎ早に切り替わる。
「藍咲、何が見える」
カスカがモニタリングしているのはあくまでぼくの意識場や脳波の状態だけだ。視覚として得られる主観的情報までは読み取ることができない。
「どこかの老いぼれの顔が見えたよ。一気に進めてくれないか」
カスカは頷くと手元のARウィンドウからシステムを操作する。風景が切り替わるスピードがぐんと上がった。ここからぼくのキーとなる記憶地点まで一気に遡るのだ。
「どうだ藍咲」
カスカが尋ねる。見えるのは、そうだ、修習所の風景だ。共感医は通常の医師免許試験の他に様々な適性検査を受けたのち、一年半の間修習所で臨床共感についての座学や実習をこなす。ぼくとカスカはそこで出会った。淵守カスカ。ぼくより3ヶ月年上のその男は、現場に出る前からぼく専属のセラピストとして内定しているのだと言った。もちろんそれは教授が手を回していたのだけれど。しかしぼくらがそんな思惑を超えて親しくなるのにそう時間は掛からなかった。ぶっきらぼうだが裏表のないカスカは、人の内心に振り回されてきたぼくにとってはある種の希望のように映った。これまで同年代の友人が居なかったぼくもやはり、人並みに『友情』というやつに飢えていたのかもしれない。
「君が藍咲ユウか」
記憶の中のカスカが僕に語りかける。ちょうど修習の合間、昼食のため立ち寄った食堂での出来事だった。その頃のぼくは他人との繋がりを求める反面、人に触れることを恐れるというなんとも情けないジレンマの狭間に居た。人の心に触れるのが怖い。共感医の卵としてはあるまじき心理だが、他人や周りの大人たちから受けた傷に向き合うことから逃げていたぼくは、結果他人を遠ざけるという不器用極まりない方法を取らざるを得ないほど追い詰められていたのかもしれない。言うなれば当時のぼくは自己否定と他者否定で真っ暗になった部屋の隅で膝を抱えて塞ぎこんでいる子供そのもの。だがそんな部屋をノックする者が現れた。そいつは修習所食堂の大味な焼き魚定食をつまらなそうにつついていたぼくに声を掛けると、空いていた向かいの席に腰を下ろした。
「淵守カスカだ。君のバディに内定したので挨拶に来た。話は聞いているか」
「いや、まだ。こんな時期に決まるのか」
この時はまだ修習が始まって2ヶ月と経っていなかった。共感医の進路が決まるのは修習が終わる1,2ヶ月前というのが通例になっている。ある者は共感医に、またあるものはセラピストに。
「特例措置だそうだ。君の方にもすぐに話が行くだろう」
特例措置。その言葉にぼくの中の疑問は確信へと変わった。適性検査のとき、ぼくは共感と意識場に対して異常なまでの適合数値を叩き出した。ほどなくしてぼくは意識場研究の権威ともいうべきとある教授の許へ連れて行かれ、
実験段階にあったある技術の被験体に選ばれたことが告げられた。今にして思えば何かやりようがあったかもしれないが、ただの研修共感医だったぼくが一流の研究者に対する拒否権など持ち合わせるはずもない。かくしてぼくは国内3例目のデバイス保持者となり、その行動は逐一モニタリングされる運びとなったのだ。早い話が監視。貴重な実験動物が勝手なことをしないか見張るというわけだ。そんな背景を踏まえ、通常ありえないような時期にバディが割り振られるという特例措置。つまり教授が裏で糸を引いていることはまず間違いなかった。
「バディってことは、君はセラピスト志望なのか」
この修習所にいる全員が卒業と同時に共感医の資格を与えられる。だが共感医の資格を持ちながらセラピストを志す者も珍しくない。
「ああ、臨床共感の適性がイマイチだったのもあるが、元々やりたいことでもある」
へえ、とぼくはその程度の感想しか抱かなかった。他人がなにをしようが、なにを志そうが知ったことではない。その瞬間のぼくは確かにそう思っていた。もしかしたらこの男は教授の差し向けた監視役かもしれない。そんな風にも思っていたのだが、そのある種意地のような捻くれた思考は次のカスカの言葉によって綻びをみせることとなる。
「俺は人の心を知りたい。人と分かり合ってみたい」
カスカは確かにそう言った。人と分かり合いたい。他人や世界に失望していたぼくが、その実心の底に隠し持っていた強い願い。
「君はどうなんだ。なぜ共感医を目指したんだ」
続けざまにカスカが質問を投げる。ぼくは少し躊躇いながらその問に答えた。カスカはぼくの答えを聞くとおもむろに右手を差し出してきた。
「俺は幸運だ。いいバディに巡り会えたようだ」
握手。互いに武器を持っていないことを確認しあうことから始まったその行為は、ぼくらにとっては互いの心を通わせるきっかけになったのだった。そのとき『ぼくら』は、確かにそこに居た。そして『ぼくら』がやるべきことは、そこで決まった。
記憶のトンネルはさらに過去へと続く。次に見えたのは実家のリビングだ。実家と言っても児童養護施設で育ったぼくにとって、そこは結局他人の家以上には成り得なかった。ぼくは小さい頃からなんとなく人間の本心を感じ取ることが出来た。だから言われずとも、ぼくを引き取った夫妻が決してぼくを歓迎していないことも気づいていたし、なんらかの取引によってぼくがこの家に来たということも子供ながらに感じていた。後から思えば、里親に引き取られたにもかかわらず戸籍上はなんら変更がなかったことからもそれは明白だ。その家には犬がいた。犬種まではわからないが、せいぜい中型犬くらいの白い毛の犬だ。何の用事かは知らないが家を留守にすることが多かった養親の代わりに、その犬がぼくの唯一の遊び相手になっていた。ぼくは忘れられた子供で、いつも留守番をする寂しい子供で、それゆえに人との関わりをなによりも欲し、反面人に心を開くことをなによりも恐れていた。当然の成り行きとして、今現在養親とはほぼ絶縁状態にある。特に連絡をとる必要性も義理も感じない。経済的にも完全に独立してしまった今となっては、家族がいようがいまいが別段なんの支障もない。犬と遊びながら養親の帰りを待つそんな日々の中で、世界への絶望と他人の心への渇望はゆっくりと醸造されていった。お世辞にも綺麗な思い出とは言いがたいが、『この記憶』は確かにぼくの根幹を成している。トラウマと紙一重の記憶ではあるが、ぼくが自己同一性を保つには必要な記憶なのだ。
さらに場面が切り替わる。養親に引き取られる前に居た児童養護施設のプレイルームと呼ばれていた部屋だ。きゃあきゃあとはしゃいだ年少の子供の声が響く。ぼくはと言えば、部屋の隅で独り本を読んでいる。この施設には下は幼稚園児、上は高校生くらいまでの子供が20人前後いた。そんな中でぼくが孤立していたことには特に理由はない。『ただなんとなく』皆はぼくを避け、ぼくは皆を避けていた。子供は感受性が高い。きっとぼくに何か異質なものを感じ取り、本能的にぼくと関わるべきでないと判断したのだろう。そんなぼくにも、たったひとりだけ関わってくれる人がいた。ちょうど中学三年生くらいの女の子だったと思う。彼女は小学生のぼくが小難しい本を読んでいることに興味を持ち、色々な本を貸してくれた。学校で使っている教科書、外の図書館で借りてきた歴史の本、門外漢に向けて易しく書かれた量子論の本、そして医療共感についての本。やはりというか、ぼくが一番興味を示したのは医療共感の本だった。
「共感はね、他の人と心を通わせるためにあるんだよ」
ふたりで本を眺めながら、彼女はそんなことを言った。人と心を通わせる、と。
「ユウくんは他のみんなのこと、知りたくないの」
少しの間を置き、ぼくは首を振る。
「そっか、やっぱりひとりじゃ寂しいでしょ」
無言で頷く。
「わたしはね、将来共感を使うお医者さんになりたいんだ。つらい思いをしている人のことを助けてあげたいの」
共感を使う医者。そのキーワードはぼくの中に深く刻み込まれた。
「ユウくんは大きくなったら何になりたいの」
将来の夢。子供の頃は馬鹿のひとつ覚えのように聞かされるその言葉。ぼくは、わからない、と答えた。
「ユウくんには少し早かったかな。でもいつか見つかるといいね。ユウくんが本当にやりたいこと」
彼女は微笑むと、ぼくの頭を撫でてくれた。ぼくはそのとき自分の心に今までになかった感情が芽生えるのを感じた。恋。いやきっと違う。他人と心を通わせる喜び。多分そんなところだ。
「藍咲、聞こえるか。そろそろポイントアルファだ」
現実のカスカがぼくに声を掛ける。ポイントアルファ。つまり記憶を遡れる限界点。ぼくのすべてのはじまりの記憶。トンネルを抜けた瞬間のホワイトアウトのように、視界が光に塗りつぶされる。その向こう、真夏の陽炎に揺らめく風景が見えた。青い空、一面の黄色いじゅうたん、蝉の声、遠い入道雲。ぼくは手を引かれて歩いている。足元に視線が移る。買ってもらったばかりの真新しいサンダル。隣には自分を見下ろす姿があった。『父さん』。記憶の中のぼくがそう呟いたのか、セラピールームにいる現実のぼくがそう口にしたのかはわからないが、とにかくその姿は応えるようにぼくに語りかけてきた。
「ユウ、空がなぜ青いか知っているかい」
ぼくが返答できずに首をかしげていると、その人はこう続けた。
「空の青は空気の青、そして海の青。すなわち青とは、生命が必要とするものすべての色なのさ」
青空に目を向ける。海の写身のように青い空。もちろんその時のぼくは幼すぎて、その言葉の意味も真意も解らなかった。
「お前にもきっとわかる日が来るよ。そうしたら、また父さんに会いに来てくれ」
繋がれた手が離れる。
「ユウ、父さんはお前を待っている。信じている」
ぼくのはじまり。父さんとの約束。そうだ、ぼくはここに居て、ここに生きている。
その認知がぼくの無意識に刻まれると同時に、急速に風景が歪み始める。現実世界のカスカの声が聞こえた。
「完了だ。意識場は安定。フィードバックの影響もほぼ浄化された」
意識が切り替わり、ぼくの目にはセラピールームの椅子に座るカスカが映った。
「気分はどうだ」
「お前は本当に頼りになるセラピストだよ」
カスカは一瞬目を見開くと、少し肩をすくめてみせた。
「そりゃどうも。とにかく御門リンネとの共感で負ったダメージはほぼ回復した。明日からはいつも通り共感治療の許可も下りるだろう」
ありがとう、と言うとぼくは椅子から立ち上がった。
「行くのか、御門リンネのところに」
こいつには共感などなくともぼくの心が見えるらしい。
「ああ、少し話がしたい」
「そうか。だが共感はするなよ。せっかく回復させてやったんだからな。それに上もうるさい」
「わかってるよ。話すだけだ」
片手を上げてカスカに応えると、ぼくはセラピールームを後にした。廊下を歩きながら手元にARウィンドウを表示させ、御門リンネの患者情報を検索する。彼女の病室を確認して少し驚いた。彼女が収容されているのは閉鎖病棟の最奥、先日工事が入って新設された特別な部屋だった。まるで御門リンネを迎えるために作られたように思えたのは、気のせいだろうか。
◆
御門リンネの病室は閉鎖病棟にある。閉鎖病棟といってもセキュリティが厳重なだけで、特に圧迫感を感じさせる閉鎖性はない。精神医療に共感が導入されてから数十年。重篤な精神疾患が長期化するケースは確実に減少し、閉鎖病棟の存在感も薄れつつあった。ふと昨日の夜、あの研究員の男に言われた言葉が脳裏をよぎった。御門リンネを担当した共感医は全員閉鎖病棟送りになった。それはつまり共感をもってしても長期化が避けられない重篤な状態に陥ってしまったということだ。理由はなんとなくわかる。あの赤黒い流れに飲まれてしまったのだろう。果たして『帰ってこられた』のか。ぼくとてデバイスがなければ彼らと同じ運命を辿っていたに違いない。まったく癪だが、今回ばかりはデバイスに感謝しなければならない。閉鎖病棟をさらに進むと、分厚いクリーム色の隔壁じみた扉が現れた。この先が新設された区画。この先が御門リンネの病室だ。IDを提示し扉のロックを解除する。さらにその先の廊下を進んでいく。それにしてもこの厳重さは異常だ。御門リンネはその症状が未知のものであるという懸念材料はあるにしろ、ここまで隔離する必要があるのか。これも教授の思惑のうちなのかもしれないと思うと、無性に腹が立った。先ほどのセキュリティはどこへやら、御門リンネの病室のドアは通常の病室と何ら変わりのないものだった。ドアの横のパネルに手をかざし、改めて患者情報を照合する。間違いなく、ここは御門リンネの病室だ。IDを掲示し入出許可を求める。しばらくののち、鈴の転がるような声がどうぞ、と告げた。
「失礼します。具合はどうですか、御門さん」
仕事モードの口調に切り替え、声を掛ける。
「だいじょうぶです。元気です」
にっこりと微笑む御門リンネはベッドの上で本を読んでいた。メガネを掛けている。昨日会った彼女は、どちらかと言えばあどけない印象を受けていたのだが、大きめの黒縁メガネはやや大人びた雰囲気を感じさせる。
「先生のほうはだいじょうぶですか」
患者に心配をされるのは医師としては失格かもしれない。
「ご心配をおかけしました。なんともありませんよ」
それを聞いた御門リンネは安堵の表情を浮かべた。
「よかった。わたし、どこの病院でも先生たちに迷惑ばっかりかけてて」
前任者たちの末路を知ってか知らずか、彼女は目を伏せながら後悔するようにそうこぼした。
「患者さんを治療することがわたしたちの仕事です。迷惑をかけただなんて思う必要はありません」
その言葉は御門リンネだけでなく自分にも向けたものだ。これはぼくらの使命。それを確認するために。
「そう、ですね。ところで先生、今日は確か共感はないはずですけど」
「今日は治療のために来たんじゃありませんよ。御門さんとゆっくりお話をしたいと思いましてね」
その言葉を聞いた途端、御門リンネの大きな目にみるみる涙が溜まっていく。何かまずいことを言ってしまっただろうか。
「ごめんなさい。嬉しくて。今までこんなふうに接してくれたひと、いなかったから」
年甲斐もなくうろたえるぼくに彼女はそう答えた。その言葉から、前任者たちがどんな対応をしてきたかは想像に難くない。正体不明の精神疾患。共感してみれば待っているのはあの光景。デバイスという保険を持っていたからこそ、ぼくはあれに立ち向かえたのだ。それを持たない前任者たちが恐れをなしていたのは至極当然といえる。尤も医師としては完全に失格だが。
「先生、ひとつお願いしてもいいですか」
涙を拭いながら彼女がそう訊く。
「なんでしょう」
「敬語、しなくてもいいです」
患者との適度な距離感は治療に良い効果をもたらす。と、そんな理屈をこねるまでもなく、ぼくも彼女の提案に従うのが自然なように思えた。
「わかった。君がそう言うなら」
ぼくが普段の口調でそう言うと、御門リンネは見たこともないほど嬉しそうな顔をした。本当に良く表情の変わる子だ。
「ありがとうございます。嬉しいです」
読んでいた本を閉じると、彼女はメガネを外した。
「目、悪いのか」
「いえ、本を読むときはメガネを掛けるのが習慣なんです」
「そうか。本は良く読むのか」
彼女の手元の本に目を遣る。今しがた彼女が読んでいた本にはピンク色のリボンの付いた栞が生えていた。
「はい。入院する前も本は好きだったんですけど、やっぱり病室にいると暇で」
この病院にはかなり大きな図書館もある。研究所が併設されていることもあるが、その蔵書はかなりのものだ。ぼくもよく使う。
「ここの図書館は大きいからな。それは小説」
「はい。わたしの好きな作家さんのです」
そう言って彼女が差し出してきた本を見ると、ぼくも良く知る作家の名前が印刷されていた。図書館には専門書だけでなく小説などの一般向けの書籍も揃っている。これは御門リンネのような入院患者のことを考慮してのことだ。
「君も逆月ミカゲが好きなの」
「先生も知ってるんですか。わたし、大好きで」
女性作家として有名なその人物は、『家族』というモチーフを題材として生と死についての物語を数多く発表している。女性的ななめらかな文体と深遠なテーマ。養親の家でひとりで過ごすことの多かったぼくは、家族というものを疑似体験する手段として良くその作家の本を読んでいた。
「ぼくもよく読んだよ。やっぱりデビュー作が好きでね」
「わたしもです。なんていうか、ああいう家族の形もあるんだなって」
そこからぼくらは口火を切ったように話をした。件の作家の本の話から始まり、好きな食べもの、動物、映画、音楽。昨日垣間見た彼女の傷を突くことを巧みに避けながら、ぼくらはたくさんの話をした。
「なあ、少し外に出てみないか」
「え、でも」
御門リンネは驚いたように目を見開く。閉鎖病棟の特別室じゃ息が詰まる。いくら精神に優しい内装にしていたとしても、閉鎖されているという事実は変わらないのだ。はめ殺しの窓を見てぼくはそう思った。手元にARウィンドウを呼び出し、御門リンネの外出許可を申請する。すると意外なほどあっさりと許可が下りた。
「外出許可が下りたよ。行こう」
「え、ちょっと待って下さい。着替えなきゃ」
女性患者に支給されるピンク色のパジャマを着た彼女は、両手で自分の肩を抱きながらおろおろしている。
「別に街に行くってわけじゃない。そのままでもいいんじゃないか」
ぼくがそう言うと、なぜ彼女は頬を膨らませた。
「もう先生、なにもわかってません。いいから着替えますから、出てってください」
女の子は怒らせないに限る。そう判断したぼくは黙って従うことにした。
病室の前で待つこと数分。出てきた彼女はグレーのスカートにピンク色のトップスという出で立ち。
「どうですか、先生。変じゃありませんか」
それじゃまるで初デートのときに彼氏に言う言葉だ。
「ああ、変じゃない。行こうか」
「はい」
ぱあっと表情が明るくなった彼女を引き連れ、何重かのロックを解除し、病棟の外へ出る。外出許可と言ってもこの場合は病院の敷地内までという制限が付いている。それでも外の空気が吸えるだけマシだ。病棟の出入り口をくぐると蝉の声がぼくらを包み込んだ。空は青く、遠くには入道雲も見える。病棟の中庭まで来た僕らは、手近な日陰を見つけるとそこに置いてあったベンチに座った。
「なんか久しぶり」
固まっていた体をほぐすかのように伸びをしながら、彼女がそう呟いた。
「前の病院も、その前の病院も、ずっと部屋にいなさいって言われてたから。外に出るのは別の病院に移るときだけだったんです」
なんとなく予想はついていたが、やはりそうだったか。
「わたし、本当にうれしいんです。先生が来てくれて」
「そりゃ良かった。ぼくもちょうどいい息抜きになる」
それを聞いた彼女はまた穏やかな笑みを浮かべる。ぼくはふと思いつくと彼女にここで待っているように言い、立ち上がった。ちょうどこのあたりに自動販売機があったはずだ。日陰とはいえこの炎天下。患者を脱水症状にでもしたら大事だ。ペットボトルの清涼飲料水を2本買うと、ぼくはベンチにちょこんと座っている彼女の許に戻る。
「ほら。ちゃんと水分とらなきゃ」
ぼくがそう言って片方を差し出すと彼女はありがとうございます、とそれを受け取った。こくこくとペットボトルを傾ける彼女を見てから、ぼくは視線を空に移す。青い。それ以外の形容詞が見つからないほど、潔い空だった。
「いい天気ですね」
いつの間にかペットボトルから口を離していた彼女がそう言う。ああ、まったくいい天気だ。
「夏って、なんか懐かしい気持ちになりませんか」
解る気がする。夏の暑さ。蝉の声。夏休み。プール。花火。夏祭り。生憎とぼくはそのすべてを体験したわけではないけれど、それでも夏の持つノスタルジックな空気は嫌いではなかった。朝のセラピーを思い出す。『あの日』も確か夏だった。
「なあ、君はここから出たら何がしたい」
『あの日』の記憶にあてられたのか、ぼくはそんなことを訊いてみた。
「そうですね。おいしいもの、食べたいです」
ああ、昨日のあの顔だ。本当に幸せそうに緩んでいる。
「あと、お買い物とかしたいです。その、普通の女の子がするみたいに」
迂闊だった。今日は彼女の深層心理に関わる話題は避けようと思っていたのに。うつむきながら彼女は続ける。
「本当に、できたらでいいんです。夢、なのかな。空が飛べたらとか、わたしにとってはそんなくらいのことで」
さっきまでひまわりのようだった彼女の顔は、すっかりしおれてしまった。その瞬間ぼくを支配した感情は一体何だったのか。義務感。使命感。それとも同情。いや、もっと違う何かだ。
「約束する」
え、と彼女はぼくを見る。
「ぼくが君を必ず治す。君の夢はぼくが叶える」
それは御門リンネに対する約束であり、自分自身への宣言であり、そして彼女に巣食うものに対する宣戦布告でもあった。ふと、隣から嗚咽のような声が聞こえた。驚いて見ると彼女の大きな目からぽろぽろと涙が落ちている。
「せんせい、わたし、がんばります。だから、おねがいします。たすけて」
あまりにも悲痛な叫びだった。一体彼女は今までどれだけのものをその小さな肩に背負ってきたのか。惨たらしい記憶に支配され、あんな心象風景を抱え、あまつさえ頼みの綱の共感医にも匙を投げられ。彼女はきっと独りだったのだ。ずっと独りで苦しんできたのだ。かつてのぼくがそうだったように。カスカに出会うまでのぼくがそうだったように。
「ぼくは医者だ。君は絶対に治してみせる」
いつの間にかぼくは彼女の頭を撫でていた。彼女の嗚咽は収まり、徐々に落ち着きを取り戻していた。頭を上げた彼女は涙を拭い、精一杯の笑顔でぼくにこう訊いた。
「先生、またお願いしてもいいですか」
「ああ」
もしかしたら、それがすべての始まりだったのかもしれない。
「『リンネ』って呼んでください」