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ワールド・エンド・サマー  作者: amada
第一部:日々の泡
2/16

1.朝凪の日






『肉体は魂の牢獄である』

昔どこかの哲学者がそんなことを言っていたらしい。

肉体を捨てさえすれば、人類は普遍にして不滅の存在へと昇華できる。

いや、昇華ではなく回帰と言ったほうが正しいか。

とにかく件の哲学者にとって、生きるとは不自由や不完全そのものだったようだ。

ならば僕らはどう考えるべきか。

人の心は物理現象だと立証され、魂の実存さえもまもなく確認されるだろう。

そうして願いという名の逃げ場は次々と潰されていく。

やがてすべてが明らかになった後の世界でも、僕らは未だイデアを求め続けるのだろうか。









 翌日の朝、ぼくが研究棟の自室で端末に向かっていると、ARが上司からの呼び出しを伝えてきた。おそらくは今日から受け持つ例の『転院患者』の件だろう。いや、他に何かやましいことがあっただろうか。まったく、それじゃ怒られるかビクビクしているガキじゃないか。内心笑えてくる。上司と言っても現場に出るような階級の人間ではない。すでに臨床の一線を退いたものの、研究者として依然名を馳せているような人物だ。そんな階級の人間からの直々の呼び出し。これは勘ぐるなというほうがムリというものだ。

研究棟のエレベーターに乗り、高層フロアのボタンを押す。ほどなくして、ぽんという電子音が目的のフロアに付いたことを教えてくれた。文字通り雲の上の場所ではあるが、内装は意外なほど簡素だ。まあ確かに、研究所や病院に一流ホテルのような豪勢な内装は必要ない。まさにここでの合理主義を体現するかのようだ。

目的の部屋に着いたぼくはドアのセキュリティにIDを提示し、入出許可を求める。

音もなく開いたドアをくぐると、ぼくはつかつかと進み、大きな窓に面したデスクの前で立ち止まった。失礼しますと言い忘れたが、まあいい。

「おはようございます」

「ああ、おはよう」

これほど記号的な挨拶があったものだろうか。尤も、どこの世界でも上司と部下なんていうのはこんな関係かもしれないが。そんなことを思いながら、デスクの向こう側でペンを回している白髪混じりの男に目を遣る。

「例の『転院患者』のことだがね」

窓の外の青い空をバックに、艶のある黒いペンがくるくると回る。

「主治医は君で問題ないが、特殊な症例ということで専門のチームを付けることになったよ」

チーム。研究所のチームのことか。そう思い至った次の瞬間には、ぼくの脳内は嫌な予感に支配されていた。特殊症例。専門のチーム。どうやら例の患者の症例はぼくが考えていた『厄介』などというレベルではないらしい。

艶のある黒いペンはまだ回っている。

「君には期待しているんだよ、藍咲君。君の共感適性は世界的に見ても得難い才能だからね」

ぼくが共感医になる決め手。それは共感への適合性のほぼ一点だった。異常な適合性を示してしまったために、ぼくにはどこぞの患者と同じように専門のチームが付けられ、挙句頭のなかに素敵な『プレゼント』まで入れられる始末だ。

「異存はないだろうね」

ペンが止まった。

「ええ。ありません」

「よろしい。ならば行きたまえ」

『サンタクロース』はそう言うと、くるりと椅子を回して背を向けた。

ぼくは軽く頭を下げ、部屋を出て行く。今度は意図的に失礼しますを言い忘れた。









研究棟に戻らず直接診察室に向かったぼくは、そこでカスカと話をしていた。

今回の症例に研究チームが付くということ。これまで出会ったことのないような困難な症例かもしれないということ。カスカは相槌を打ちながら最後まで聞いていた。

「それで。お前ひとりに共感をさせるというわけか」

カスカは『教授』に若干憤っているようだ。大丈夫、ぼくだって同じ気持ちだ。

でもぼくは共感医である以上、やるべきことは変わらない。

カスカは溜息をついた。

「例の患者の治療に関しては、集中的なセラピーを受けてもらうことになるぞ」

ムリはするなよと釘を刺すカスカに対して、ぼくはあることを告げなければならなかった。

「それとカスカ、今回の治療では『デバイス』を使うことになるかもしれない」

明らかにカスカの表情が変わった。

『侵襲型深層意識干渉制御デバイス』。ぼくとカスカは略して『デバイス』と呼んでいるそれは、教授からの素敵な『プレゼント』。

通常、共感を行うには自分と相手の意識場を感知・増幅・調律・同調させる装置が必要になる。昨日の朝一、佐駅ユウコの治療に用いた『意識場同調システム』もそんな装置のひとつだ。

だが原則には往々にして例外がある。

それが『デバイス』。『システム』の機能を大幅に強化、小型化し、適合者の前頭前野に移植することで機能する装置。

使用者の意識場を爆発的に増幅することもできる『デバイス』は、ひとたび使えば相手の深層意識を好き放題に出来るというシロモノだ。もちろんこれはまだ実験段階の技術で、その存在は公にされていない。ゆえに、ぼくは普段の診療を『システム』だけで行う。

いや、そもそも普通の症例では使う必要性すらないようなものだ。

しかし今回はどうやら状況が違うらしい。

「使用許可がおりたのか」

カスカは当然の問いを投げてきた。『デバイス』の運用はぼくに一任されているわけではない。まったくもって度し難いことだが、ぼくの体内にあるそれは『教授』をトップとした研究チームによって管理、いや監視されているのだ。

「いや、明言はされてない。けどこれは、現場の判断ってやつだ」

皮肉交じりに口角を上げてみせると、カスカは大げさに肩をすくめた。

「もう一度言う。くれぐれも無茶するなよ」

無茶したらお前にぶん殴られるだろうな。そんなことを思いながらぼくは親指を立ててみせる。









綺麗な栗色の髪。それが第一印象だった。

この時代になってもカルテにはほとんど文字情報しか載っていない。だからいくら主治医といえど患者の外見を初めて見るのは、こうして向かい合ったときがほとんどだ。

転院患者、例の患者。ぼくらの間で無機質な呼ばれ方をしていた『少女』は、今目の前にいる。

「はじめまして、『御門リンネ』さん。あなたを診させて頂く藍咲です」

肩のあたりでふわっと広がる栗色の髪をした少女、御門リンネは、くりくりとした目で僕のことを見ている。ぼくは自分よりもより7つも下の少女に、まるで観察でもされているような気分でいた。

「あ、お、ざ、き」

鈴の転がるような声が、ぼくの名前を呪文のように唱える。

「よろしくお願いします。藍咲先生」

にっこりと笑ってみせる少女は、とても特殊症例のようには見えない。

もちろんこれは外見的な印象でしかない。問題はその内面なのだ。

「はい、よろしくお願いします。早速ですが、いくつか質問をしますよ」

転院患者といってもまずは問診だ。

「体で具合の悪いところはありますか」

「ありません」

即答だ。

「食欲はありますか」

「あります。おいしいもの、大好きです」

即答。実に幸せそうな顔だ。

「夜は寝られていますか」

「はい。よく夢を見るんですけど、起きたら忘れちゃってて」

おどけたように笑ってみせる。

身体的には極めて健康なようだ。加えてこの受け答え。やはりなにかおかしい。この子が7人もの共感医に匙を投げさせた理由はなんだ。

「それは結構。では最後に」

一旦言葉を切る。大切な質問だ。

「死にたいと思ったことはありますか」

これまでの質問にほぼ即答してきた彼女は、ここで初めて間を置いた。

答えを探しているようにも思えるし、出かかった言葉を押し留めているようにも見える。

そんなぼくの推理は、彼女の言葉によって遮られた。

「もう、諦めました」

これまでの質問の受け答えとは明らかに違う色が、その瞳に浮かんだような気がする。核心に触れた、いや掠めた気がした。やはりこの子には何かがある。その『何か』が、おそらく前任者たちを悩ませてきたのだろう。しかし前任者たちの残した所見は各人がバラバラな結論を出していてまったく統一性に欠ける。つまるところ、なんの役にも立たない。ここからはぼくが自力で探っていかなければならないのだ。

「わかりました。質問は以上です」

「おしまいですか」

おいしいもの大好き、と答えていた瞬間の表情に戻った彼女がどこか残念そうにそう言った。

「ええ、ここからは『共感』で解決していきましょう」

お願いしますと元気に言う彼女に、ぼくはまた軽い戸惑いを覚えた。

今思えば、その違和感の正体にここで気付いておくべきだったのかもしれない。









処置室についたぼくらを待っていたのはカスカだけではなかった。もうひとり、白衣を着た男が立っている。おそらく彼は例の研究チームのひとりだろう。軽く会釈をすると、相手は人の良さそうな笑顔でそれに応じた。隣にいるカスカの表情を伺う。わかってるな藍咲、無茶したら殺すぞと言わんばかりの表情だ。御門リンネはといえば、物珍しそうにキョロキョロとあたりを見廻している。共感治療は初めてではないだろうに、きっと好奇心が旺盛なのだろう。カスカと白衣の男がいる管制室を抜け、ぼくと御門リンネは施術室へ入る。ぼくが説明するまでもなく彼女は『UNIT-R』、つまり患者用のほうに座った。なるほど、慣れているというわけか。ぼくもそれに続き、治療者用の『UNIT-H』に身を預けた。

「力を抜いてリラックスしてください」

今更という感じも否めないが、ぼくは一応そう声を掛ける。

「大丈夫です。慣れてますから」

帰ってきたのは予想通りの答え。

「結構です。それでは始めましょう」

いつも通りぼくのその言葉を合図として、カスカが『システム』を起動させた。横に引き伸ばされるように視界が歪み、ぷつんと切れるように意識が切り替わる。視覚が正常になったぼくの目の前には、いつもと同じように『ホワイトルーム』が広がっていた。向かいに御門リンネの姿を見とめたぼくは、彼女にお決まりのセリフを投げる。

「気分は悪くありませんか」

「大丈夫です」

笑顔で即答。

ぼくはそれに頷いて応じると、彼女を伴って『ドア』の前に立つ。

この向こう側には、おそらくぼくの見たことのないような世界が広がっている。いい意味でも悪い意味でも、だ。7人もの共感医を悩ませてきた彼女の痛みの根源。それがこのドアの向こうにあると思うと身が引き締まる。ぼくは共感医としての矜持を以って、この先の世界に対峙しよう。

そんなことを考えていた矢先だった。

ぴしり、という音が聞こえた。音はどんどん増えている。ぴしり、ぴしり。

何かが軋むような、ひびが入るような、そんな音が『ドア』から聞こえてくる。

それと同時に天井付近、ドアの隅から、錆にも血にも見える赤黒い何かが広がっていく。

『ホワイトルーム』とは例えて言うなら中立地帯であり、非武装地帯であり、安全地帯だ。そんな場所にまで影響が出るなんて。ぼくはここではじめて事の重大さに気づいた。

だが引き返すわけにはいかない。おそらくぼくがここで下りれば、この子はまた別の共感医の許へ送られるのだろう。そうしてたらい回しにされながら、研究者たちは彼女からデータを収集し続ける。くそ、まったく胸糞の悪い話じゃないか。

だからぼくは退くわけにはいかなかった。意地かと言われれば否定しきれる自信がない。

『対象者の意識場レベルが上昇してる。危険だ。藍咲、引き返せ』

ダメなんだ、カスカ。ぼくは患者を絶対に見捨てない。必ず『理解』したい。それにいざとなったら『デバイス』という保険もある。それにお前も信用しているしな、カスカ。

ドアノブに手を掛ける。

カスカが何か言っているようだが、もうぼくの意識はそこには向いていなかった。

がちゃり。ノブをひねってドアを開け放つ。

その先にあったのは、いつもの階段などではなかった。

途方も無く広い空間が、グロテスクな赤黒い模様に彩られている。その中空、ちょうど手を伸ばせば届くかという場所には、周囲よりもさらに濃い赤黒い何かがまるで濁流のように流れている。人の体の中に入って静脈とその中の流れを見るとちょうどこんな風かもしれない。

濁流、奔流、はたまた暴風にも見える『それ』は、たくさんの人間のうめき声のような音を立てながらぼくの目の前を『流れて』いた。

なんだこれは。臨床の現場に出てから何人もの無意識を見てきたが、こんな途轍もない風景は初めて見る。やはりぼくの予感は間違っていなかった。この子は紛れも無く特殊症例だ。しかしいつまでも気圧されているわけにもいかない。

「聞こえるか、カスカ。患者の状態は」

『バイタル・メンタルは異常なし。すでにフェイズシータに移行している。そこはもう無意識階層だ』

こんな心象風景を抱えていながら異常無しとは。つくづく常識外れな症例だ。いや、それにしても深化のプロセスをすっ飛ばしていきなり無意識階層に出てしまうとは。赤黒い流れは相変わらず凄まじい勢いを持ってそこにある。ぼくはまるで引き寄せられるかのように『それ』に歩み寄り、何の気なしに手を触れてみた。

瞬間、爆発的な情報の奔流が流れ込んでくる。絶望、恐怖、怨嗟。そんな負の感情と記憶の嵐がぼくを引きずり込もうと蠢いている。

『藍咲、聞こえているか。感覚マスクを最大まで上げたぞ』

マスキングが追いついていない。というよりあまりに桁外れのフィードバックが、マスキングで抑えられるレベルを遥かに凌駕している。見ると流れに触れた右手はすでに肘くらいまでが飲み込まれていた。腕が飲み込まれていくごとに頭に割れそうな痛みが走る。自分の頭が膨張して熟れた柘榴のように弾ける様を想像した。頭を振って嫌なイメージを振り払うと、意識を集中して彼女の記憶を探す。古いテレビのチャンネルを変えるように、ザザッというノイズとともに次々と風景が切り替わる。公園の砂場。帰っていく小さな人影。違う。瓦礫の山と化した街。これも違う。もしも彼女に関係のある記憶なら、『自分が経験した』という感覚が読み取れるはずだ。記憶の奔流は相変わらずぼくの中に流れ込んでくる。交通事故の現場。真っ赤な血だまり。自分を殴る男の姿。路地で周りを囲む学生服。彼女と関係のない記憶は、徐々にぼくの脳を圧迫し始めた。

『藍咲、脱出しろ。これ以上は死ぬぞ』

まだだ。もうすこしだ。そう思って、思い切り腕を流れに突っ込んだ。先程までとは比較にならないほどの情報が流れ込んできた。思わず苦痛に声を上げる。くそ、もうだめか。

そう思った時、一瞬の空白が訪れた。

ふっと呼吸が楽になる。

うめき声の大合唱は消え、耳鳴りのような静寂の中、ぼくはある風景を見た。

どこかの家の中、フローリングの床に倒れている男女。その周りにはおびただしい量の血が溢れている。視点が低い。おそらく子供の視界だ。倒れている男女に駆け寄り、女の体を揺すっている。起こそうとしているのか。ふと上を見上げる。ボサボサの髪の男が見下ろしている。その男は素通りし、部屋から出て行った。そこまで記憶が再生されたとき、ぼくはこれが御門リンネの記憶だと『分かった』。彼女の意識が流れこむのを明確に感じる。やっと見つけた。

その安堵から力が緩んでしまったのか、次の瞬間ぼくの右半身は赤黒い流れの中に引きずり込まれてしまった。怨嗟の声が肉を潰し、骨を削る。神経の一本一本に痛みを流し込まれるような感覚に襲われる。血管は痛みを運び、心臓は痛みを増幅して体を砕こうとリズムを刻む。死。それは比喩などではなく、まさに皮膚感覚としてそこにあった。

頭の中に僅かにカスカの声が聞こえる。何を言っているかまではわからない。カスカの顔を思い出した。それからあいつと過ごした研修所での日々。そして幼いころのあの日。

そうだ。ぼくはここで死ぬわけにはいかない。いや、『死にたくない』。

その思考がキーとなり、ぼくの前頭前野に眠る『デバイス』が起動した。まるで蛍が一斉に飛び立つかのように明るい緑の光がぼくから無数に飛び出し、空間全体に拡散した。先程まで暴風のような勢いだった赤黒い流れのスピードが見て解るほどに緩やかになっていく。ぼくは残った左半身に全体重をかけ、奪われた右半身を流れから引き抜いた。その勢いで後ろに倒れこんでしまったが、とにかく助かった。

『無事か、藍咲』

「ああ、生きてるよ」

話し方を忘れてしまったかのようにぎこちない声が出た。

「コア記憶に接触した。ひとまずここは」

「もう帰っちゃうんですか」

カスカとの通信を遮った声は真後ろから聞こえてきた。ぎょっとして振り返る。

そこにあったのはグロテスクな空間にまるで似つかわしくない少女の姿。

「なぜ君がここにいるんだ」

「なぜって、ここはあたしの心じゃないですか」

ありえない。訓練も積んでいない一般人が無意識階層で人の形を保っているなんて。レベルの浅いホワイトルームならともかく、自覚も出来ないくらいに深い無意識の中で人の形をとって活動することなど並の人間に出来るはずがない。

『御門リンネ』はくすりと笑って続ける。

「あたしの記憶を見るトコまで出来たの、先生が初めてです。あとはみんなだめ。ちょっとは期待してたんだけどな」

いるはずのない者がいるという衝撃の次にぼくを襲ったのは、違和感だった。問診でおいしいものが大好きだと無邪気に微笑んでいた少女は相変わらず同じ表情で、しかしどこか暴力的で退廃的な雰囲気を醸し出している。なにかが決定的におかしい。確かにトラウマによって人格が分化するケースは珍しくない。事実ぼくも何人か診てきた。だからこそわかる。根本的ななにかが違う気がするのだ。

「まあいっか。あたし、とっても嬉しいんです。ここまで来てくれた人がいて」

そうやって微笑む彼女の顔は、笑っているというよりも歪んでいると表現したほうが正しいだろうか。不気味の谷の底というか、非人間的なものを感じずにはいられない。

『藍咲、聞こえるか。くそ。グラフがめちゃくちゃじゃないか。おい、藍咲』

カスカの声が聞こえた。『デバイス』は先ほどの行動で機能を停止してしまったらしい。このイレギュラーに対してぼくが出来ることは現状何もない。

『しょうがない。強制サルベージを』

カスカがそう言ったのと同時に、ぼくの体が淡い光に包まれた。無意識階層から意識を強制的に引き揚げる。共感治療中の緊急事態への対処として用意されている『最後の手段』だ。光の中で薄れていくぼくを見つめながら、『御門リンネ』は相変わらず楽しそうな表情を保っていた。心の底から楽しんでいるようにも見えるし、嗜虐心に歪んでいるようにも思えてしまう。

「また会いましょう。藍咲先生」

薄れる視界の中、彼女がそう言って手を振るのが見えた。









目を覚ましたとき、カスカと御門リンネがぼくの顔を覗き込んでいるのが見えた。カスカは険しい顔で、御門リンネは少し泣きそうな顔でそれぞれぼくを見ている。

「だいじょうぶですか、先生」

御門リンネが訊く。

「ああ、君は大丈夫か」

つい仕事モードを忘れ、素の口調で話しかけてしまった。

「なんともないです。いつものことなので」

そうか、いつものことか。ぼくはさっきまで居た場所を思い出しながら、なぜ前任者たちが匙を投げたのかを深く理解した。これは手の出しようがないと思われても仕方ない。ぼくだって『デバイス』がなければあの流れに飲み込まれ、意味消失してしまっただろう。

体を起こして周囲を確認する。窓越しに管制室の様子を伺うと、例の研究員はARのウィンドウにデータを打ち込んでいるようだ。そういうものだとわかった上で今回の症例を扱っているものの、やはり胸糞の悪い光景であることに違いはない。ぼくの様子を確かめたカスカは少し安堵した様子で管制室に戻っていった。御門リンネの付き添いの看護師を呼ぶのだろう。『システム』の椅子に座り、ぼくは御門リンネと対面する。聞きたいことは山のようにあるがここは努めて冷静になろう。そう自分に言い聞かせた。

「今までの共感治療は毎回こんな感じだったのか」

「はい。でもいつも先にわたしが起こされて病室に戻されていから、こうやってここで先生とお話するのははじめてです」

先に起こされただと。共感医は対応しなかったのか。次々に疑問が湧き上がってくるが、今は我慢だ。

「本当にだいじょうぶですか、藍咲先生」

「大丈夫だ。ぼくだって慣れてるんだ」

ぴしゃりと言うと御門リンネは一瞬目を見開いた後、にっこりと笑った。この穏やかな少女の精神があんな状態とは。一体何がこの子をあんな風にしてしまったのだろう。ともかく、コアになっているであろう記憶は探り当てた。次からはこれを起点に共感を行うことになるだろう。

まもなく施術室のドアが開き、カスカに伴われて看護師が入ってきた。御門リンネはすっと立ち上がり、ぼくの方を見てまたにっこりと笑うと、看護師に着いて部屋を後にした。

「やれやれ。結局無茶をしやがって」

ふたりを見送った後、カスカが口を開いた。

「すまなかった。明日は覚悟してセラピーを受けさせて頂くよ」

「ああ、そうしろ。今日は先に上がれ。どのみち『システム』の修復をしなきゃならん」

どうやら先程の共感はぼくだけでなく『システム』にもかなりの負担が掛かったらしい。

「了解。すまないがあとは頼む」

慣れてるからな、とカスカが言う。皮肉のつもりだろうか。ともかく後のことはカスカに任せ、今日は休むことにしよう。そんなことを思いながら部屋を後にし、廊下を歩いていると突然後ろから呼び止められた。藍咲先生、と呼ぶその声に全く覚えがなかったぼくは、怪訝に思いながら振り向いた。そこにいたのは先ほどからぼくらの共感治療を見ていた研究員だった。

「何か」

「いや、先ほどは見事でしたね」

これだから研究員って奴は。心のなかで悪態をついてやった。患者をただのデータソースか何かだと思っていやがる。

「やはりあなたの才能は得難いものだ。『教授』の期待通りです」

朝どこかの老いぼれに言われたのと同じセリフを聞くはめになるとは思わなかった。

「それはどうも。では」

「ああ、ちょっと待って下さい。ぜひ聞いていただきたいことがあるんです」

それは果たして聞くべきだったのか。

「あなたの前任者たちですが」

どのみちぼくはもう引き返せない場所にいたのかもしれない。

「全員が彼女との共感後に閉鎖病棟に送られているんですよ。患者としてね」





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