0.序章
「空がなぜ青いか知っているかい」
いつだったか、もう思い出せない誰かにそんなことを訊かれた覚えがある。
ぼくが返答できずに首をかしげていると、その人はこう続けた。
「空の青は空気の青、そして海の青。すなわち青とは、生命が必要とするものすべての色なのさ」
あの頃のぼくはもちろん、そんな話の意図を解するには幼すぎた。
けれど今なら、今だからこそ、ぼくにはその意味が解る。
きっとあの人は、理由が欲しかっただけなんだ。
◆
必要とあらばすぐさまオペを行うことを求められる外科医に比べれば、ぼくら『共感医』のスケジュールは幾分平穏なものだ。
とはいえ医師であることに違いはない。一日のスケジュールは厳に定められている。そうだ、もう一時間半もすれば最初の患者がやってくる。そんな貴重な息抜きの時間を、今日に限ってはドキュメントの整理に奪われているのだ。朝も早いというのにすでに外は茹だるような暑さ。冷房の唸る音をBGMに、情報端末のナビゲーションが今日の予定を淡々と伝えてくる。内訳は軽度『共感治療』が5件、重度精神疾患の治療が2件、精神鑑定依頼が1件、それに3日に1回のセラピーと続く。
客観的なスケジュールだけを見れば、特別忙しいという訳でもない。ただ今日は、明日転院してくる患者の引き継ぎ作業を片付けなければならないのだ。患者が引っ越すなどして病院に通えなくなるケースを除けば、共感治療において転院という措置は非常に珍しい。おまけにこの患者は今まで実に7人もの共感医の元を転々としているらしい。転送されてきたカルテを読む限り、その全員が『お手上げ』なのだそうだ。しかしまあ、担当医を責めることもできないだろう。心を扱うという職業上、絶対の完治は保証しかねるというのが現実なのだ。
それにしても、だ。前任者が7人もいればそれだけ蓄積されたデータの量も当然膨れ上がる。職務に実に忠実な彼らのおかげでぼくはコーヒーを飲む暇も投げ出し、こうしてドキュメント整理に追われているというわけだ。そういう意味ではぼくもまた、職務に忠実なのかもしれない。そんなことを考えながらキーを叩いていると、端末の横にARのウィンドウが現れ来客を伝えてきた。IDを一瞥すると「どうぞ」とAR越しに声を掛ける。声紋認証とキーワード認証によって扉のロックが解除されると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「よう、藍咲。今日は随分と忙しそうだな」
「おはよう、カスカ」
相変わらず端末に向き合いながら、ぼくは振り返ることもなく声を掛けた。礼を失すると言われようと、ぼくには今時間がないのだ。
「例の転院患者の引き継ぎでね。前任者たちの所見がバラバラでまったくどうしようもない」
大げさに肩をすくめてみせる。
「そりゃ大変そうだ。今日のセラピー、楽しみにしておくよ」
皮肉交じりに淵守カスカはそう答えた。
人の心を治療するという職務の性質上、共感医は定期的なセラピーによって自身の精神をクリアに保つことが義務付けられている。
そのためぼくら共感医には、必ずバディとなるセラピストがいる。ぼくの場合、それは今背後に立っている長身の男、淵守カスカなのだ。
「整理が終わったら教えてくれ。『システム』の調整をしなきゃならん」
「わかってる。あと30分待ってくれ」
事務的な連絡事項ならオンラインでもいいのに、こうしてわざわざ部屋に来るあたり律儀な男だと思う。
「コーヒーでも飲んでいくか。カスカ」
背を向けながら会話をする非礼を詫びるつもりで、ぼくはカスカにコーヒーを勧めた。
「いいや、死ぬほど忙しそうなお前の邪魔はせんよ。それじゃ、30分後に環境情報を送ってくれ。頼んだ」
「おう、頼まれた」
ぼくがひらひらと片手を振って応えると、ドアが開くシュンという音と共にカスカが部屋を出て行く気配がした。
◆
所見から構築した環境情報データをカスカに送り終え、ぼくは診察室へと向かっている。
ぼくがここに配属される数年前までは、この廊下も古めかしいリノリウムで舗装されていたそうだ。今では通信設備やAR機器の取り付け、耐震強度云々の理由で全面的に改修され、クリーム色を基調にした真新しい内装に生まれ変わっている。診療開始直前のこの時間、病院内にいるのはほとんどが内部の人間だ。すれ違う看護師、セラピスト、共感医たちに目礼をおくりながら、ぼくはようやく診察室にたどり着いた。なかなかの座り心地の椅子に座り、目の前の情報端末を立ち上げる。瞬時に先程まで居た研究棟の端末との同期が終了し、ここに診療の準備が整った。
机の上に置いてある今時珍しい完全アナログの時計を見ると、もうまもなく最初の患者が来ることがわかった。
服を整え、机の書類を整頓していると、ARが患者の入室許可を求めてきた。
「どうぞ、お入りください」
仕事モードの柔らかい口調でそう答えると、セキュリティが解除され扉が開いた。
「おはようございます。『佐駅ユウコ』さん。どうぞお掛けください」
おずおずと部屋に入ってきた女性に、ぼくはそう声を掛ける。
女性はぼくの座っているのと同じタイプの肘掛け椅子に座ると、ぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。では早速ですが、今日のことについてご説明を」
この患者、佐駅ユウコはすでに問診を終えており、今日はいよいよ本格的な『共感』を行うことになっている。
「佐駅さん。これまで『共感』のご経験は」
初めて治療を行う患者への定型的な質問だ。
「ええ、市販の機器では何度か……病院で診て頂くのは初めてです」
「そうですか。では資料をご覧いただきながらご説明いたしますね」
そう言ってぼくは彼女の目の前にARの資料をポップアップさせ、説明を始めた。
「ご存知のことと思いますが、我々人間は脳の精神活動に伴い、体の外側に向かって『意識場』という、そうですね、エネルギーを放出しています。その『意識場』を他人と同調させることにより、人の心の中に入ったり、逆に自分の心の中に人を招いたりすることができます。この『意識場の同調』を一般に『共感』と呼びます」
ええ、とか、はい、とか相槌を打ちながら彼女は話を聴いている。
「そして『人間の心に直接触れる』という『共感』を心の治療に使うのが、今日お受け頂く『共感治療』になります。今世紀のはじめまでは『精神科医』が投薬などによって外側から治療していた心の不調を、わたしたち『共感医』は直接患者さんの心を内側に入って治す、というわけです」
彼女は頷きながら目の前の資料とぼくの顔に順繰りに視線を移している。
「佐駅さんもご経験があるとのことでしたが、市販の機器による『共感』は共感深度に制限を付けることが法律で義務付けられています。今日の『共感治療』では、その深度よりもさらに深い意識階層にまでアプローチをして、佐駅さんの不調の原因を取り除いていきます」
一通りの説明を終えると、患者の手元に投影されていたARの資料が消える。
「佐駅さんの場合、どうやら過去の記憶が原因で自律神経系に不調が現れているようですね。今日はそのあたりを解決していきましょう」
「はい、よろしくお願いします。先生」
先生、と呼ばれるのにはさすがにもう慣れているものの、自分より年上の人間にそう呼ばれると僅かなむず痒さがある。
「では『共感』を始めますので、移動しましょう」
ぼくが促すと彼女が立ち上がる。
◆
『共感』を行う処置室はふたつの部屋に分かれている。入ってすぐの管制室と、頑丈なドアのさらに向こうにある施術室だ。
佐駅ユウコに説明したように、『共感』は人間の発生させる意識場を同調させて行う。ゆえに治療者と患者以外の意識場が入り交じるのを防ぐため、施術室には意識場を遮蔽するナノペーストによって『意識場遮蔽コーティング』という特殊な加工が施されている。
ちょうど録音スタジオのような造りの扉を開けると、施術室の中には2台の機器が据え付けられている。
『意識場同調システム』。ヘルメットの付いたマッサージチェアのような形状のその機器は、患者用と治療者用で2台。ふたつをリンクさせることにより、共感を行うという仕組みだ。そして共感中の両者の安全や機器の操作は、先ほどの管制室にいる看護師とバディのセラピスト――ぼくの場合はカスカ――によって管理される。管制室と施術室の間には少し大きめの窓が付いており、内外の様子がわかると同時に、患者に閉鎖的な印象を受けさせないようになっている。
「では、奥のほうにお掛けください」
そう言ってぼくが示した片方には『UNIT-R』の文字がプリントされている。促されるまま佐駅ユウコはその1台に身を委ねた。
それを確認するとぼくはもう片方の『UNIT-H』の方に座る。
「力を抜いてリラックスしてくださいね」
肘掛けに付いているキーを操作する。間を置かずに頭部パーツの内側にARで管制室からのサインが表示された。
「それでは始めましょう」
その言葉を合図として、管制室のカスカが『システム』を起動させる。
強い引力に引き伸ばされるように視界がぐっと歪んだかと思うと、次の瞬間には真っ白な部屋に立っていた。
共感医の間では『ホワイトルーム』と呼ばれているこの空間は、患者と治療者の意識場の接触ポイントだ。すべてはここから始まる。
向かい側には佐駅ユウコの姿。
「気分は悪くありませんか」
初めて医療レベルの共感を行うと、まずこの第一次コンタクトで乗り物酔いのような感覚を覚える患者がいるのだ。
「ええ、大丈夫です」
「よかったです。今わたしたちはいわば精神の世界の入り口に立っています。ここは佐駅さんの心とわたしの心、そのちょうど接触地点に当たります。後ろにドアが見えますか。その先があなたの心に繋がっています」
言われて気づいたという様子で佐駅ユウコが振り返る。
「これからあなたの心を診させて頂きます。よろしいですか」
「はい、よろしくお願いします」
ぼくは佐駅ユウコに歩み寄り着いて来るように促すと、彼女の『ドア』の前に立った。
「さあ、行きましょう」
ドアを開けて彼女を先に入らせると、ぼくもそれに続く。
ドアを開けた先にあったのは階段だった。深層意識へと降りていくという、わかりやすいイメージが形をとったものだ。
ぼくらは言葉を交わすこともなく、それが自然であるかのように階段を下っていく。一歩、また一歩と進むに連れ、佐駅ユウコの体にある変化が起こり始めた。脚の先から徐々に透けるように姿が薄くなっていくのだ。それは彼女自身でさえ自覚することができない、すなわち無意識の領域に踏み込み始めた証拠だ。最下層に着く頃には彼女の姿はすっかり消えてしまった。
『対象者、フェイズシータへ移行。バイタル・メンタルともに異常なし。サイコマップの展開準備完了』
管制室のカスカの声が頭の中に直接響く。
「佐駅さん、聞こえますか。これからあなたの『痛み』を取り除きます」
返事の代わりに目の前に新たなドアが現れた。彼女がぼくを受け入れてくれたのだ。
ぼくはドアを開け、患者の精神の最奥へと入っていく。
◆
最初に目に入ってきたのは、どこかの家の玄関だった。後ろを振り返ると、どうやらぼくの入ってきのはこの家の入口だったらしい。時間はおそらく夕方。斜陽の差す木の廊下は強烈にノスタルジーを掻き立てる。一応の礼儀としてぼくは靴を脱ぎ、家に上がる。
それにしても古びた家だ。カウンセリングの内容に照らせば、おそらく佐駅ユウコの生家か、彼女の幼少期に縁のある家だろう。どちらにせよ、彼女を悩ませる『痛み』の根源はこの家にある。『懐かしい』と同時に『苦しい』という感情が流れ込んでくる。
『対象者からのフィードバックが増大。大丈夫か、藍咲』
「少し影響が出てる。感覚マスクを5パーセント上げてくれ」
ぼくはカスカに指示を出す。感覚マスクを使用することで、流れ込んでくる感情や記憶を『認識』しながらもそれに飲み込まれるのを防いでくれる。即座に感覚がマスキングされ、患者からのフィードバックが幾分和らいだ。
さてと。カウンセリングの内容から、彼女が母親との関係にトラウマを持っていることが既にわかっている。このようなトラウマは人格形成に重大な影響を及ぼしていることが多く、精神の中には当時のままの傷ついた「内なる子供」が眠っている。
ゆえに時間を掛けて患者の内なる「傷付いた子供」を癒してやる必要があるのだ。今回の共感の目的は深層意識に眠る彼女の「内なる子供」を見つけ、コンタクトを図ることにある。共感による治療期間は、かつての精神科の投薬治療や心理療法に比べれば劇的に短く済むことが多いが、この種のケースにはやはりある程度時間が掛かるのだ。
いわゆる『おばあちゃんちのにおい』がしそうな廊下を進みながら、一部屋ごとに顔を突っ込み、中の状況を確認する。
「カスカ、サイコマップの反応は」
『近いぞ。もうすぐだ』
テレビや低いテーブルが置かれている居間を検めながら、カスカに確認を取る。
サイコマップはいわば精神世界の地図。事前の走査によって患者の精神をマッピングしたデータを3次元情報に変換したものだ。
サイコマップと実際の『共感』状態から得られるデータを絶えず照合しながら、オペレーターは治療者に指示を送る。
カスカによれば、何らかの反応がある地点がもうすぐそこにあるという。ぼくは居間を後にすると、廊下の突き当りの暖簾が掛かった戸口に立った。中を除くと台所のようだ。西日が創りだす陰影が、暖かいながらもどこか物悲しい雰囲気を醸し出している。食器棚、ダイニングテーブル、流し台、コンロ、壁にかかる鍋、骨董品レベルの給湯器。並ぶ品々を目にする度に、ぼくの中にイメージが飛び込んでくる。
朝の日差し、コーヒーの香り、新聞を広げる父親、まな板に向かう母親、コンロの鍋からは美味しそうな湯気が立っている。
『感情』ではなく『イメージ』が入ってくるということは、それだけこの空間にまつわる記憶が強烈だという証だ。
ふっとイメージが消えると同時に、台所の隅から皿の割れるような音が聞こえた。音の発信源に目を遣ると、少女が膝を抱えて座っている。
見つけた。おそらくこの少女が『内なる子供』だ。
「対象を発見。接触を開始する」
『了解。マスクの準備をしておく』
ぼくはしゃがみ込むと、意を決して少女に声をかけた。
「こんにちは」
白のTシャツと薄いピンクのズボンを履いたおかっぱの少女が、ゆっくりと顔を上げる。
その目は泣き腫らしたように腫れぼったい。
「だれ」
かすれた声で少女が問いかける。
「ぼくはね、君が泣いているのを聞いて来たんだ。どこか痛いのかい」
現実世界で患者に向けるのよりも、さらに柔らかい口調を心がける。相手は『子供』なのだ。
「おかあさんに怒られた」
見ると少女の周りには皿の破片が散らばっている。音の正体はこれだったのか。
「おかあさん、わたし、嫌いみたい」
ぽつり、ぽつりと少女が話し始める。
「勉強できない子は、いらないんだって」
「お母さんがそう言ったのかい」
少女は頷く。
「学校のみんなと、遊ぶとバカになるって。だからうちで受験の勉強しなきゃいけないんだって」
そう言うと再び少女は顔を伏せてしまった。
少し間を置き、再び彼女に問いかける。
「学校は好きかい」
意外なことに彼女は首を振った。
「友達は」
「みんなわたしのこと仲間はずれにする。『エリート』とは一緒に遊べないって」
なるほど。現在の彼女はおそらく小学5,6年生。中学受験をさせようとする教育熱心な母親と、この地域で中学受験が一般的でないことによる学校での孤立。今のこの子に逃げ場はないのだろう。勉強をしなければ親には存在を肯定してもらえない。しかし勉強すればするほど、大切だった友達との距離は開いていく。10歳そこそこの子供にはあまりに酷なジレンマだ。
「おじいちゃんが死んじゃってから、おかあさん、おかしくなっちゃったみたい」
彼女が続ける。
「おじいちゃんが亡くなったのはいつ?」
「3年生のとき」
「おじいちゃんも厳しい人だったのかい」
「たくさん勉強して、えらくならなきゃだめだって、いつも言われた」
問題の所在が掴めてきた。おそらくすべての起点は彼女の祖父だ。祖父は彼女の母親に厳しく勉強を強い、そうして育った母親も必然的にこの子に勉強を強いる。『勉強をしないと存在を肯定してもらえない』という連鎖が、世代間で継承されてしまっている。
祖父が亡くなって母親が『おかしく』なったのは、祖父との関係をもはや正常化することが不可能になったという絶望からだったのではないだろうか。
「『ユウコ』ちゃん」
呼びかけると、彼女は顔を上げた。
「家にも学校にも居られないなら、ぼくとまたこうしてお話をしよう。君が思っていること、なんでもぼくに話してよ」
彼女の目の光が増した気がする。
「お兄さんは?」
「ぼくは、そうだな、君のつらいのを治すお医者さんだ」
向かい合う彼女の表情が、少し柔らかくなった気がした。と同時に、彼女の顔にノイズが入り始める。
『藍咲、患者のほうがそろそろ限界だ』
カスカからの通信がリミットを伝える。深層意識に他人を長く留めることは相応の負担になる。
「また来てくれるの」
必死に訴えかけるように、彼女が訊く。
「もちろん。約束する。今までよく頑張ったね」
ぼくの言葉を聞くと、彼女はぎこちなく微笑んだ。そうだ、君はちゃんと笑えるんだよ。『ユウコ』ちゃん。
右の手をぽんと彼女の頭に置く。ぼくの手から発せられた光が、彼女の体を一瞬包み込んだ。
「ショートカットの設置完了。接触を終了する。出口を固定してくれ」
『内なる子供』にショートカットを設置したことにより、次回からはダイレクトに彼女の許へ潜ることができるのだ。
『了解。注意しろ、かなり不安定になってきている』
踵を返し、玄関に向かって歩き始める。途中で振り返ると、少女は台所の入り口に立ち、不安定に歪む廊下の向こうから手を降っていた。
「ご気分はいかがですか。佐駅さん」
『意識場同調システム』に座る佐駅ユウコに声を掛ける。
「不思議な、気持ちです。小さいころの家を思い出していました」
レベルの深い共感治療中、患者は夢を見ているような状態にある。幼少期の強力な記憶に引きつけられ、その風景が想起されたのだろう。
「両親と、祖父とわたしの四人で暮らしていた頃です」
「お母さんはどんな様子でしたか」
事前のカウンセリングでは、彼女は母親に対して憎しみとも執着とも取れる複雑な感情を抱いているようだった。
「とても優しい、笑顔です。私の頭を撫でてくれて」
『ユウコちゃん』が『おかあさんがおかしくなった』と言っていたより前、すなわち祖父の死の前、彼女と母親はおそらく良好な関係にあった。祖父の死をきっかけとして変わってしまった母親に、彼女は振り回され、動揺し、居場所を見失ってしまったのだ。
嵐の前の束の間の幸せ。そんな風に例えることの出来る穏やかな家族の風景を、彼女は今回の共感で思い出せたようだった。
「わたしは、母のことが大好きだったのかもしれません」
そう応える彼女の頬には、涙の線が光っている。
「佐駅さんはこれまで上手に『つらい』とか『苦しい』という気持ちを表現させてもらえていなかったようですね。
これから少しずつ、そういった気持ちを吐き出して整理していきましょう」
はい、と応えると彼女は頬の涙を拭った。
『内なる子供』とのファーストコンタクトは成功。これを足がかりとして、これから先の『共感』を行っていくのだ。
診察室に戻り、今後の治療方針や事務的な連絡事項などを伝えながらちらりと彼女の表情を伺う。
最初にここに来た時に比べ、彼女の表情が心なしか明るくなった気がする。話を終えると彼女は、ありがとうございましたと頭を下げ、診察室を後にした。