あの夏のわたしたち
今朝の新聞に、実用可能なアンドロイドの記事が載っていた。そのアンドロイドは、成人男子とほぼ同じ体格をしていて、歩いたり座ったりをこなし、挨拶や物の色を識別して答える程度の、簡単な会話さえ可能だという。
これは画期的なことだと、新聞は告げていた、アンドロイド、というか人工知能の研究にとって、長足の進歩だと。
私は、五年前に我が家にいたアンドロイドのことを思い出した。天才とも奇才とも呼ばれていた伯父が作り出した、ユーインという名のアンドロイドのことを。
そして、従兄の隆人のことを。
私は小学校の頃から、伯父の家で育った。両親を交通事故で亡くしたのである。隆人と私も、その車に乗り合わせていた。私たちは運良く助かったが、隆人には障害が残った。下半身と左手に麻痺が残り、彼は車椅子の人となった。
伯母はもともと過保護な人であったというが、この事故から後、盲愛的になった。加害者の娘、しかもかすり傷で済んだ私を決してこころよくは思わず、虐待こそしなかったが、まったく無視した。伯母の生活は隆人にいを中心に回り、隆にいの具合の悪いときには、一緒に寝込んでしまうほどであった。
隆にいと私は、仲がよかった。
四つ違いのこの従兄に、一人っ子の私はよく懐き、どこに行くにも後ろをついて回ったのを、覚えている。あの日、強引にドライブに誘ったのも、たぶん私であり、だからこそ伯母は、私を抹殺したかったのかもしれない。
隆にいが、私のことをどう思っていたのか、結局のところ、わからない。
あの事故の後、彼とはめったに話しをする機会がなかったのだ。
それは伯母が、私をそばに寄せつけなかったためもある。だが、私だけがただ一人、無傷で助かったことに負い目があったのは事実だ。
伯父は、私を可愛がってくれた。
あの広い家の中で、それはずいぶんと救われた。
伯父は、人工知能の研究者だった。大脳生理学者の土台を生かした研究は、その道ではかなりの物だったという。ある企業の援助で、自分の研究所を持っていたほどである。
ここに遊びに行くのが、私は大好きだった。
たくさん並んだPcやら模型やら、迷路図のような大脳地図やらコードのたくさんついた脳波計やら……。伯父は伯父で、私のデータを取ってもいたようだったが、いやではなかった。そのかわりに好きに見せてくれた一つずつのドアの向こうに、そんな物が隠れていて、遊園地のからくり屋敷のような魅力を感じていたのだ。
私の母より十以上も年上のここの主は、小さい私と息子を抱いて、よくこう言った。
「いいかい、そのうちに、アンドロイドが現れる。いいや、アンドロイドという名前ではないかもしれないがな。それは、危険なことや力のいる仕事を援助するようになる。あるいはもっと身近に、生活そのものを援助するかもしれない。だがな、これだけはいえるぞ。そいつらは、どんどん感情を持っていく。人と交わることで、人に近づいていく。これだけは、間違えないぞ。なにしろわたしが、作っているんだからな」
夏だった。
隆にいが、しばしば呼吸困難を起こすようになり、ほとんど寝たきりの生活となった。湾曲した脊椎が、呼吸中枢を圧迫するようになってきたのだ。
伯母は半狂乱となり、隆にいに付ききりとなった。ヒステリー症状で失神することもあった。無視どころではない、私ははっきりと、攻撃対象となった。
伯父だけが頼りだったが、この時期、ほとんど家には帰らなかった。
隆にいよりも、たぶん伯母の状態を心配した主治医が、転地療養をすすめた。町中のこの家ではなく、静かな湖畔の別荘で暮らすことを、推したのだ。
隆にいと伯母は、すぐに別荘に行き、戻ってこなくなった。伯父は五日間を研究所で過ごし、週末を別荘で送るようになった。
私は、別荘には、行かなかった。
苦しむ隆にいを見ることも、伯母の目に射すくめられることも、どちらも怖かったのである。
あの夏、来週には学校が夏休みになるという最後の木曜日、伯父が家に戻ってきた。
まっすぐに私の部屋に来ると、緊張した面もちで、言った。
「支度をしなさい、真由子。隆人が、危篤だ」
別荘は、家から車で二時間、湖を見下ろす高台にある。ぐるりを林に囲まれた、こんな気分でなければ、ずいぶんと快適なところだっただろう。
車から下りた私と伯父は、とる物もとりあえず、中へ入った。
一階は、しんとしていた。
「伯父さん……」
私は不安になった。
もしかしてもう、間に合わなかったのではないかと、そう思った。
「二階だよ」
伯父は力強くそういって、私の手を握ってくれた。その手はじっとりと湿っていて、彼も不安であることがわかった。
私たちは広い玄関ホールの奥にある階段に向かった。家政婦の牧瀬さんが、左手の方から出てきた。
「牧瀬さん、隆人は」
「先ほど高木先生が見えて、もう大丈夫だろうと。それより、奥様が」
「郁江が?」
伯父はさらに緊張して、階段を駆けるように上り始めた。
その時だ。
二階から、水差しを片手で持った少年が、下りてきたのだ。
年の頃は私と同じくらい。
肩までの髪を無造作にゆらし、白いTシャツとジーンズをはいていた。
いや、私の目を引いたのは、そんなことではない。
彼は、どこかおかしかったのだ。
私たちを見下ろしながら、その視線は、どこにも合っていないような、そんな雰囲気があった。
「ユーイン」
伯父が呼びかけた。
少年はこくりと頷き、そのまま階段を下りてきた。
「ユーイン、郁江はどうした」
「奥様はお倒れになり、今は高木先生が見ていらっしゃいます。」
「隆人は」
「隆人様は意識を取り戻され、今は眠っていらっしゃいます。隆人様については、もう少し寝かせておくようにと言うのが、高木先生のご指示です」
声自体は、どうということもなかった。しかしその声音というか、アクセントというかが、おかしかった。どこにも感情のこもっていない、平坦な、声。
私は彼から目が離せなかった。
伯父は、そうか、というと、ふうっとため息をもらした。それから私に向いて、彼を指さした。
「真由子、紹介するよ、彼はユーイン」
「…ゆーいん?」
「そうだ。隆人と郁江の世話をしている」
いつそんな人を雇ったのだろう。今までは牧瀬さんと和子さんしかいなかったのに。それにどうして、こんな男の子を雇ったのだろう。私とそう変わらない年のはずだ、それは子供ではないか。
怪訝そうな顔をしていると、伯父が、すぐ耳元で声を潜めた。
「アンドロイドだ、真由子」
「!?」
「声を出すな、ほかの者は知らない」
伯父はすばやくそう言ったが、もとより声など、出なかった。
少年はゆっくりと階段を下りてくると、私の横に立ち、正確に三十度、頭を下げた。
「どうぞよろしく、真由子様」
私は驚き、ただ彼を見つめることしかできなかった。すると彼は、つと視線をはずし、そのまま階段を下りていってしまった。
「驚いたか、真由子。だがこの話しは後だ。とにかく郁江と、隆人に会わなければ」
伯父の言葉に、何とか自失状態から抜けた。
そうだ。とにかく隆にいと、それから伯母さんだ。
すべてはそれからだ。
隆にいの部屋は二階の左端にあった。まず伯母にあって来ると伯父は言い、、私は一人で部屋の中に入り、ベッドのそばに、おそるおそる立った。
彼は楽そうな呼吸をして、静かに眠っていた。
私が想像していたよりずっとずっと穏やかなその様子に、ほっとした。
「……真由子」
私が顔をのぞき込むのとほぼ同時に、隆にいは目を開いた。
穏やかな声だった。
私が聞いたことのない、とても穏やかな声だった。
「よかった。心配したよ、隆にい」
「心配、かけたんだね。ごめん、もう、大丈夫だよ」
隆にいは、ゆっくりとそう言った。
私は驚き、そしてとても嬉しかった。
あの事故以来、こんなに優しい隆にいは初めてだったのだ。話しをすることさえ、久しぶりだ。いつもは伯母が、そばに寄せてくれなかったから。
「どうしたの。僕を心配してきてくれたのだろ」
そして彼は、微笑んでさえ、くれたのだ。
転地療養を勧めてくれた高木先生に、思いきり感謝したい気持ちだった。この高原での穏やかな生活が、隆にいをこんなに穏やかにしてくれたのだと、素直に信じたのだ。
「隆にい……」
「きてくれて、嬉しいよ、真由子。ここは静かで、いい所なんだけれど、母さんと二人きりだろ、退屈で……」
「いいの隆にい、私、ここにいてもいいの?」
「おかしな事を、言うんだなあ。もちろん、いいに決まっているさ」
隆にいはベッドに横になったまま、もう一度笑った。
その笑顔があまりにも優しかったので、私は彼に、抱きつくところだった。
そのゆがんだ身体を、心から愛おしく思ったのだ。
「隆人様。」
その時だった。
いきなり背後から声がして、私は驚いて彼から離れた。振り返ると、そこにさっきの少年が立っていた。
いつ入ってきたのか、全然気がつかなかった。いつからそこにいたのか、まったく気配を感じなかったのだ。
「ユーインか」
しかし隆にいは、別に驚いた様子もなく、少年の名を呼んだ。
そうだ、ユーイン。
そして伯父は、この少年をアンドロイドだと言ったのだ……。
「何だ」
「お薬の時間です、隆人様。真由子様は、一階の書斎で、旦那様がお呼びでした。」
「そうか」
隆にいが返事をすると、少年は――あるいはアンドロイドは――まっすぐ私たちの方へ歩いてきた。両手で水差しと薬包の載ったトレーを持っていた。
私は、それの動きを、じっと見つめていた。
目が、離れなかったのだ。
それはなめらかに、何一つ違和感を感じさせずに、歩いた。
バランスのよい姿態をし、どこにも機械らしさを感じなかった。整った顔立ちをしていたが、それだって、決して作り物めいてはいなかった。
上手に私を避けて、それは隆にいのそばに立った。水差しからコップに水を注ぎ、隆にいに渡した。
正確な、しかしどこにも無理を感じさせない動作だ。
「真由子」
私が呆然としていると、コップを受け取った隆にいが声をかけた。
「真由子、書斎は、一階の右の端だよ」
「あ、ああ。ありがとう、隆にい……」
視線を戻し、でも何にも合わせられないままに、私は部屋を出た。混乱したまま、伯父の書斎に向かった。
伯父は、私をからかったのだろうか。
どう見たって、あれは人間であった。
その量感も質感も、動きも声音も、人間の物であろう。
あの圧倒されるような無表情がなければ、私はこんなに迷ったりはしなかった。
「伯父さん!」
ノックもせずに、私は伯父の書斎に飛び込んだ。伯父は書類から目を離すと、手を差し出した。
「おお、真由子。隆人は、どうだった?」
「あ、ええ、とても具合が良さそうだったわ。危篤なんて信じられない。伯母さんは?」「郁江はまだ混乱している。会わない方がいい。わたしたちが着く前は、大変だったようだよ」
伯父にいきなり隆にいのことを聞かれ、何となくユーインのことを切り出しにくくなった。
「その……、伯父さん?」
伯父もまた、何か言いたいことを言い出せないようで、書類の上を何となくさまよっている。
「なんだ」
明らかにほっとした様子で、応えた。
「あの、アンド、ロイド、の、事なんだけど」
「おお、そのことか!」
伯父はぱっと顔を輝かせて、とたんに饒舌になった。
「あれはな、最新の樹脂を用いて外見を仕上げてある。だから、皮膚の感じも爪や体毛も、ヒトにそっくりだろう。身体の方はな、さほど苦労しなかったが、顔には苦労した。表情という物が、あんなに難しいとは、思わなかった。あの顔の下に、一体何本のソフトチューブとファイバーが潜んでいると思う? ヒトの筋原繊維以上だ! それを持ってしてやっと、あの豊かな表情を生み出せる。
しかしなんというてもやはり、中枢知能だ!
あれは、幅聴覚はもちろん、立体視だってできる。匂いまでは、さすがに無理だがな。あの身体すべてがセンサーと言っていい。それから得た情報を、統合し出力するための中枢! わたしの長年の研究の成果のすべてだ。
さすがにあの小さな体の中には収まらなかった。だから本体は……」
「じゃあ」
私はろくに聞いていなかった。
それではやはりあれは。
「アンドロイドって、本当だったの」
「……なんだと思ったのだ。隆人は……」
「隆にいは知っているの?」
「いや、ユーインがアンドロイドだって事をか? もちろん、知っているさ。私と隆人と、そしておまえだけだ、真由子」
伯父は立ち上がり、私の横に並んだ。
「真由子。隆人は、そう長くはない」
「え?」
私は伯父を見上げた。
伯父は、決して私の方を見ようとはしなかった。
「もう、あの体重を、隆人の心臓は支えきれない。今は元気だ。だがそのうちベッドから起きあがれなくなり、ろうそくの火が消えていくように、静かに最期を迎えるよ」
「そんな、」
何とも答えようがなかった。
隆にいが、いつかは死んでいくだろう事は、漠然と理解しているつもりだった。彼が、こわれ物の陶器であることは、あの不自然な体つきからも、十分考えられたのだ。
しかし実際にそうと告げられることがあるとは、考えていなかった。
考えられなかったのだ。
「その日は、必ず来る。今の調子は、ろうそくの火の最期の輝きだよ。今のうちに、十分元気な姿を見せてくれなくては、困る」
伯父はそこで私に向き直り、強い目で念を押した。
「そのために、ユーインは、絶対に必要だ」
伯父の言いたかったことは、これだった。私に、ユーインを認知させたかったのだ。
「わかるな、真由子」
「……わかる……」
ほかになんと答えればよいのか。
ユーインと接するにあたって、伯父は私に二つを約束させた。
いきなり身体に触らないことと、髪にさわらないことだった。
「あの髪は、いわばリモコンの受信部だ。触ると動きに乱れが出るかもしれん」
要するに、隆にいと変わらないということだ。
隆にいも、いきなり身体に触ったりおどかしたりしたら、心臓に障るというので禁止されていたし、髪というか、頭に触るのは、隆にい自身が嫌がったのだ。
ユーインを、すぐに受け入れたりはできなかったが、その存在を何となく認めるようにはなっていった。認めたくない気持ちは強かったが、隆にいの世話にユーインが適当だというのは、確かだった。
時間に正確で、沈着冷静で、力が強い。
情にほだされず、正確で、緻密。
隆にいを軽々と抱き上げる力は、私にも和子さんにもなかったし、隆にいの小さなわがままを情に流されずにさばくのは、やはり私たちには荷が重かった。
伯母さんはいまだに寝込んだままだった。その間、私は日中のほとんどを、隆にいの側で過ごした。
その側に、ぴったりと、ユーインが控えていた。
私がはしゃぎすぎたり、隆にいが興奮してきたりすると、決まって冷たい声で、「お控えください、真由子様。」と、言った。そのたびに小さな不快感を覚えたが、逆らったりはしなかった。その忠言がいつも正しいことは、半日としないうちにわかったし、ユーインは決して、むやみになんでもを禁止したわけではなかったからだ。
三日間は、楽しいうちに過ぎた。ユーインが、にやりとすることもあった。伯父の言う豊かな表情というのは、この程度なのかと、多少情けない気もしたけれど、そのにやりには、いくらか暖かみがあるような気さえ、だんだんしてきたのだ。
そして四日目、伯母が起きあがった。
その日も私は、隆にいの部屋で時間を過ごしていた。もちろんユーインが側に控えていたけれど、私はもう、彼のことをほとんど気にしないようになっていた。
そう、彼、と呼べるほどに。
私たちは他愛のない話しをして、くすくすと笑いあった。学校での話しが主だった。以前なら、隆にいの気に障るのではと、その手の話しはさけてきたが、このごろでは隆にいの方から、それを望んだのだ。
「奥様、まだ起きあがっては」
和子さんの興奮した声が廊下の方から聞こえてきた。
伯母さんだ。
伯母が、ここへ来ようとしているのだ。
私は緊張して、思わず立ち上がった。
私がここにこうしていることを知ったら、伯母は一体、なんと思うだろう。なんにしろ、よくは思わないに違いない。私を息子に近づけまいと、あんなに努力してきた人だ。何を言われるかわかった物ではない。ここに私がいることは、伯母にとってはひどく腹立たしいことでしか、ないはずだ。
「ど、どうしよう」
私はおろおろとして、すぐにでも部屋を出ようと思った。しかし伯母の声は、もうすぐそこに聞こえており、とても会わずに済ませずには、いられそうにない。
「真由子」
その時、隆にいが言った。
「な、なに?」
「君は、そこにいるといいよ。どこにも、帰る必要は、ないよ」
「でも」
「いや、真由子は、帰っちゃだめだ。そうだな、ユーイン」
「はい。隆人様。」
私はびっくりした。
隆にいが、伯母に逆らうようなことを言ったのはもちろん、その途端にユーインが立ち上がり、ドアを開け始めたからだ。
「ユーイン、私まだ、心の準備が」
「隆人!」
その途端に、伯母が、部屋に入ってきた。ユーインを間に、私と伯母はまともに向き合ってしまったのだ。
伯母は、確かに常軌を逸していた。
部屋着のままだったのはともかく、その目が、常態ではないことを告げていた。
確かに以前から、伯母はまともとはいえなかった。私が隆にいに近づいただけで、ヒステリーを起こし、ひどいときには失神もした。しかし、ちゃんと私を認識はしていたのだ。
「伯母さん……?」
確かに私と向かい合っている。
しかし彼女の目は、決して私を見てはいなかった。焦点の合わない見開かれた目は、私をすり抜けて、隆にいを見つめていた。
「隆人!」
伯母は私に、どんとぶつかった。ユーインが抱きとめてくれた。
私は呆然と、伯母を見つめた。
彼女には、私は見えないのだ。
彼女の目は、すでに私を透かし、隆にいだけを捉えたのだ。
「ああ、隆人、ほらご覧なさいい、やっぱりあなたは元気じゃないの!」
たぶん私は、震えていたと思う。
伯母は隆にいをしっかりと抱きしめ、何度も何度も頬ずりを繰り返した。
その動作はぎこちなく、しかし執拗に続き、私はショックで立っていられないほどだった。
ユーインが、柔らかく抱きとめていてくれた。
柔らかく、優しかった。
「何かお飲みになりますか、真由子様。」
「ううん、いらない、ありがとう」
私を支えて、ユーインは部屋まで送ってくれた。
まともには、歩けなかった。
「ユーイン、伯母さんは、いつからああなの?」
「ああ、とは、どのような状態でしょうか。」
「いつからあんな風に、隆にいしか見えていないのかって事よ」
ユーインに導かれてベッドに座りながら、聞いた。
「奥様が常態ではないと判断されたのは、隆人様が危篤に陥ってからです。隆人様が意識不明になられるとともに、奥様もお倒れになり、以来常軌を逸しています。一時は旦那様も認識できませんでしたが、一度目の混濁常態から脱されました下り、旦那様を認識されました。」
「……そう」
つまりあの人は、隆にいしか見えていなかったのだ。私を憎んでいたはずなのに、実はそれさえ、どうでもよかったのだ。
私は別に、伯母を慕ってはいなかった。
だがこの事実は、かなりショックだった。
子供だったのだ。
子供だから、憎んでてもいいから、気にかけていてほしかったのだ。
泣いていた。
なぜ涙が出るのか、その時には理解できない涙だった。
ひとしきり泣いた後で、まだそこにユーインのいることに、気がついた。
「大丈夫、私は大丈夫よ、ユーイン」
ユーインは黙ったまま、くるりと後ろを向いた。
「ユーイン」
自然と唇をついた。私は彼を呼び止めていた。
「ありがとう」
「わたしは人形です。真由子様がわたしに礼を言われる必要は、いっさいありません。」
なぜか、苦しそうに聞こえた。
彼はそう言うと、静かに部屋を出ていった。
私は、彼の消えたドアを、しばらく見つめていた。
この時から私は、真剣にユーインを見つめ始めた。これまでは、隆にいの世話をする物としか捉えていなかった彼を、それ自体として見つめだしたのだ。
隆にいには伯母がつきっきりとなったが、就寝前にだけ、会うことができた。
隆にいが眠ったふりをする。すると伯母は、安心して自室に戻る。そうしてから、ユーインがこっそりと、私を呼びに来るようになっていた。
最初は病気に障るのではと、早々に切り上げていたが、二三日もするうちに、すっかり慣れてしまった。何より、隆にいが笑ってくれるのが、一番嬉しかった。
こんな時ユーインは、すぐ側に、静かに控えていた。隆にいが興奮してくると、「隆人様。」と、冷静な声をかけるのだ。
その声にも表情にも、色はなかった。
しかし私は、かえってその無表情に、違和感を感じるようになっていた。
あの、苦しそうな声は、なんだったのか。
私の思いこみ、勘違いだったのか。
いいや、そうではない。
あのときの彼こそ、伯父の言っていた、だんだんに感情を得ていくということだったと思う。では、ここに今いる彼は、いったい何なのだろう。一度得た感情を、彼はなくしてしまうのだろうか。そんな物なのだろうか。
そのうちに、自然と一つのことを考えるようになった。
ユーイン。
伯父が造り出した、世界初のアンドロイド。
彼は本当に、人間ではないのか?
夏休みを半分も過ぎたころ、私は久しぶりに、伯母と顔を合わせるようになった。朝や夕の食卓に、出てくるようになったのだ。
「おはよう、真由子ちゃん」
しかもその日は、驚いたことに、私に挨拶までしてくれたのだ。それも、和やかな声で、である。
「お、おはようございます」
私は吃驚して、どもってしまった。
「あの人はねえ、今日も帰らないんですってよ。いくら研究といっても、 週の半分以上もいないなんて、ひどいとは思わない?」
「え、は、はい、ええ」
あの人というのが伯父のことだと、やっと気がつく。
「隆人も、最近ではずいぶん体調がいいの。真由子ちゃんも、部屋にきてやって頂戴ね」
これは、ずいぶんの変化だ。
あの、伯母が!
私を嫌い、無視してきた伯母が。
私はしばらく、伯母の顔を見つめてしまった。それこそ、伯父がアンドロイドでも造り出したかと思ったのだ。
「なあに、わたしの顔に、何かついている?」
「喜んで、お部屋に行かせてもらいます!」
私は椅子から立ち上がり、そう叫んだ。
声がひっくり返っていた。それくらい、嬉しかった。
「ユーイン!」
さっそく隆にいの部屋に向かった私は、ドアの前に立っていたユーインを見つけ、その身体に抱きついた。
「ユーイン、伯母さんがね、隆にいの側に行ってもいいって、言ってくれたの!」
「そうですか。」
彼は持っていた水差しを身体の横にそらし、器用に身をひいた。
「隆にい、ずっと調子良さそうだものね。それもあなたのおかげね。まったく伯父さんは、いいものを造ったわ。隆にいの調子いいのが、その証拠よ」
今度は、ユーインの肩をつかんだ。
彼は水差しを持った手を手品のように操って、再び私から逃れた。
「そうですか。」
その声はとても平坦で、私ははしゃいだ気分に、水をかけられたような気がした。
「何よ、ずいぶん冷たいわよ、その言い方は」
鮮やかに身をかわされた悔しさも手伝って、私は言いつのった。
「伯父さんはあなたを感情豊かに造ったと威張っていたけれど、それは失敗よね。あなた、ちっとも表情変わらないし。さわり心地はいいけれど。思ったより柔らかいし。
ほらあ、こういう時はにっこり笑って、よかったですね、っていうものよ」
私は、ユーインの顔を下から覗くように、見つめた。
はっとした。
彼の目は閉じられ、それからゆっくりと開かれた。
「わたしは、隆人様の人形です。柔らかくても当然です。感情という言葉は、わたしには理解できません。」
しかし私は、見逃さなかった。
無表情を装ったその唇の端が、かすかに震えていた。
目に、怯えの色があった。
私が伯母の前で見せていたのと、同じ色の。
「ユーイン」
考えるより先に、言葉がでていた。
ついと向けた彼の背中に向かって、私は言っていた。
「あなた、本当に、アンドロイドなの……?」
それからしばらく、ユーインを見なかった。
伯父は定期点検だといった。
私たちは、たいていの時間を隆にいの部屋で過ごした。
私と伯父と、伯母とである。
隆にいはあくまで機嫌がよく、だから伯母は落ち着きを取り戻し、私たちは、本当の親子のようだった。
家では考えられないことだった。この日々がいつまでも続かないかと、本気で願った。無理だということは、わかっていた。
私たちは、不安定なガラス細工だ。
何か一つでもバランスが崩れれば、こなごなに砕け散ってしまうのだ。
不安で不安で、だから私は笑っていた。
この不安定な関係の中で、いつまでも笑っていたかった。
来週から学校が始まる、水曜のことだった。
その日もまた、私たちは隆にいの横で、ベッドを囲んで一日を過ごした。
今日の隆にいは、いつもよりはしゃいで見えた。苦しそうな呼吸で笑い、あえぎなからも、機嫌がよかった。最近ではすっかり常軌に戻った様子の伯母が、彼の背を優しくさすりながら、微笑んでいた。
「ああ、楽しかったよ、ありがとう」
隆にいはにこにことそう言い、少し疲れたと、いつもより早く寝入った。
夕食をとった後、私は自室で宿題と取り組んだ。そしてそろそろ寝ようかという時に、ドアがノックされた。
「誰?」
ほんの少しの不安。
「失礼いたします。」
「……ユーイン」
それは久しぶりに見るユーインだった。
相変わらずの、仮面のような無表情だった。
ユーインは、正確に一礼してから、言った。
「お支度を、真由子様。二分前に、隆人様が、息を引き取られました。」
それからしばらくの事は、よく覚えていない。
確か隆にいの部屋に駆けつけたのだと思うのだが、何をしたのか、隆にいがどんな姿をしていたのか、まるで思い出せないのだ。
覚える必要がなかったとも、いえる。
私たちは、いずれこの日が来ることを、あらかじめ知っていた。
だからこそ、残りの日々を楽しく過ごそうと懸命だった。
葬儀の日、伯母はしっかりとしていた。
人々の弔問を、上の空とはいえ、ちゃんと受けていた。伯父が、伯母のそばを片時も離れなかった。しかし、私が初めて別荘に着いた日のように、取り乱してはいなかった。
ユーインがいて、よかった。
虚しい隆にいの遺影を見ながら、私は思った。
彼がいたから、隆にいはあんなに元気になれたのだろう。隆にいの笑顔をみられたことで、これからもたぶん生きていける私たちは、彼に許しを乞うための、自己満足でしかない猶予時間を与えられたのだ。
ユーインに会いたい。
私はそれだけを考えていた。
会って、隆にいのことを、思いきり話し合いたかった。
しかし彼は、どこにもいなかった。
家の中にも葬儀の会場にも、彼の姿はなかった。
「ユーインは、解体するよ」
やっと落ち着いたころに、私は伯父に、ユーインの行方を聞いた。すると伯父は、思っても見なかったことを言ったのだ。
「解体って……」
「隆人は死んだよ、真由子。もう、ユーインの役目は終わったさ」
書斎の椅子に深々とかけた伯父は、ずいぶんと年をとって見えた。
「でも伯父さん、解体って、どうするの。
だって、ユーインは……」
一度は躊躇した。
だが、言った。
疲れたような伯父に、私は言った。
「だってユーインは、人間でしょう?」
伯父の肩が、びくりと震えた。。
私の視線を力無く受け止めた。
私は、ほおっと、息を押し出した。
そう。
ユーインは、人間だ。
だって、アンドロイドのはずがないのだ。
「わかった、真由子。
ついてきなさい、ユーインに、会わせてやろう」
考えてみれば、簡単なことだったのだ。
ユーインがアンドロイドだというのは、伯父とユーイン自身だけが言っていることであって、誰もその証拠を見たことはない。
反対に、彼が普通の人だと考えればごく自然なことが、いろいろとあった。
伯父の、常識では考えられない能力が強い煙幕となって、そんな途方もないことを信じさせていたのだ。
伯父は、研究所に向かっていた。
車の中で、私たちは無言だった。
伯父に言いたいこと、聞きたいことはたくさんあったが、今はその時ではないと、思った。すっかり面やつれした伯父は、いたわるべき老人と、私に感じさせたのだ。
「ユーインは、二階の仮眠室にいるよ」
私と視線を合わせず、伯父が言った。
「伯父さんは?」
「後で行くよ、真由子。いろいろと……。そう、いろいろと、片づけねばならないことがあってな」
私は頷き、一人で仮眠室に向かった。
仮眠室は、二階の奥にある。家に帰ってこないとき、伯父はたいていここで過ごし、研究について考えるのだ。私も、ここに泊まり込んだことがある。伯母との関係に、まだ悩んでいたころのことだ。
「ユーイン」
ドアを静かに開けて、中に入った。
ユーインは、そこにいた。
はじめ驚いたように立ち上がったけれど、私と視線が合うと、静かに笑った。
「……あなたがここに来たということは、わたしはもう、お役御免ということですか? 真由子様」
「そうよ、ユーイン。もう、いいのよ」
私も、静かに微笑みを返した。
微笑みながら、泣いていた。
ユーインは浅くベッドに腰掛け、私にも座るよう促した。
「あなたは勘がいいから、すぐに気づいてしまうかもしれないと、博士はおっしゃったのですが。
いつ頃、気がつかれたのですか」
「あの日の、一週間くらい前よ。私、言ったわよね。本当にアンドロイドなのかって」
「ああ、やはりそうでしたか」
ユーインのすすめに、手近の椅子に腰を下ろした。私たちは、ぼんやりと視線を混ぜ合わせていた。直接は、あわせられなかった。そしてまた、逸らすこともできなかった。
でも本当は、もっと前に気づいてよかったのだ。あるいは、最初に彼にあったときに、すでに解っているべきだったのだ。
伯父は言っていた、いつかは、アンドロイドがでてくるだろうと。でもそれは、いつかの話しで、昨日今日の話しではなかったではないか。いつも何でも、伯父は話してくれていた。アンドロイドが出来上がったのならば、もっと色々なことを、話してくれてよかったのだ。
「あの後わたしは、あなたに会うのが怖かった。わたしがアンドロイドではないと解ってしまったら、わたしの存在価値はなくなってしまう。そうしたらもう、あそこにいる理由は、なくなってしまう」
「どうして? あなたが隆にいにとって、ううん、私たちにとっても大切な存在だったことは、確かなのよ。いられなくなる事なんて、なかったと思うわ」
いいながら、でも妙なことだと思った。
どうして伯父は、わざわざアンドロイドだなんて、言ったのだろう。別に彼がアンドロイドである必要は、なかったのではないか?
「いいえ、いられなくなったでしょう。あなたは、勘がいいのだから」
ふと視線をあわせ、彼は微笑んで見せた。
「伯父さんはどうして、あなたをアンドロイドだなんて言ったのかしらね。別に、そうである必要はなかったはずよね」
いいや、それどころではない。
アンドロイドであっては、困るのではないか?
もしも隆にいが、こんな時期に亡くならなければ。
もしもあと一年も二年も生きていたなら。
彼は、成長するだろう。
アンドロイドが、成長することになる。
そうしたらどうしたのか……。
「ちょっと、ちょっと待って。
まさか……」
もしも、隆にいがこんな時期に。
その時期が。
「まさか、まさか隆にいは……」
わたしは、目が回るのを感じた。
自分の立っているところが一体どこなのか。位置しているのは果たして地面なのか。
わからなくなっていた。
隆にいが。
ユーインではないのなら、隆にいが!
「ほら、やっぱりあなたは、勘がいい」
泣きそうな笑顔で、ユーインが言う。
いいや、泣きそうだったのは、わたしだ。
「隆にいは、じゃあ……」
「そうだよ真由子。隆人が、アンドロイドだったのだ」
いつか戸口に、伯父が立っていた。
「あるいはもっと早くに、気がつくかと思っていたのだがな。案外、もったな」
伯父は部屋の中にはいると、いかにも大儀そうに、ユーインの隣に腰を下ろした。
ますます、歳をとっていた。
「さて、どこから話そうかな。やはり、隆人の事かな」
「隆にいは、いつ死んだの」
やっと、それだけを口に出した。
「おまえが別荘に行ったときには、もう死んでいた。隆人は最後の発作に、耐えられなかった」
危篤だといわれた。
では、あのときにはもう……。
「だがそれよりも耐えられなかったのは郁江だ。そしてわたしは、それに耐えられなかった。これ以上、隆人のほかに、わたしは郁江をも失うのか?それは嫌だ。それだけは、避けたかった」
伯母は、精神的に脆い人だった。
私は、別荘で最初に見た伯母の様子を思い出していた。
「アンドロイドの研究は、もう一歩の所まで来ていた。出力としての身体は、充分に実用に耐えうるだろう。しかし、情報を統合する知能の方は、まだまだ大きすぎる。到底、ヒトの身体の中には収まらなかった。それで、思い切って頭脳は外側において、身体は端末に徹することにした。隆人の部屋の隣には、大きな人工知能があったのだよ」
ユーインが立ち上がり、窓にもたれた。
雨が降り出していた。
ああ、そう言えば私は、隆にいがあの部屋から出たところを、見ていない。
そうか。機械だったのだ。
優しかった隆にいは、笑っていた隆にいは、すべて作り物だったのだ。
「いずれは無理がでる。小さな綻びを繕うために、私はユーインに助けをもとめた。私自身が始終そばにいられたなら問題はなかっただろうが、そうはいかない。それに、何かブラフが必要だったのだ。郁江は……、隆人の死を認められない郁江は、簡単に信じるだろうが、お前はそうはいかないだろう。必ず、どこかおかしいと思うはずだ。
一生だませるとは、もちろん思ってはいない。郁江が隆人の死を受け入れられれば。隆人との間に、もっとふつうの、温かい思い出ができれば。それまでの間でよいと思った。
研究所で助手のアルバイトに来ていたユーインに、私は助けをもとめたのだよ」
でも伯父さん、どうして私までを、騙さなければならなかったの。私には、打ち明けてくれてもよかった。
伯母さんを守るためだけならば、決して私に、うそをつく必要は、なかったはずだ。
「嘘よ。伯父さん、嘘をついている。伯母さんのためだけじゃないんでしょう? 私がどこまで騙せるのか、試してみたかったんでしょう……?」
でも、だめよ。私だって、騙されていたかった。優しい隆にいに、いつまでもいつまでも、騙されていたかった。
「私だって、モニターには、なりはしないわ」
泣いた。
伯父は、何も言わない。
その無言の肯定を受けて、私は泣いた。
「でも俺は、楽しかったよ」
その時に、突然、ユーインが言った。
あの優しい表情で、私の顔を覗き込んでいた。
「博士や奥さんや、そしてあんたと過ごした間、俺はすごく、楽しかったよ」
私はすがるように、ユーインを見つめた。
「あんたを騙していることが苦しかったけれど、俺はずっと、あのままでもよかった。あのままあんたが笑っているのを、見ていたかったよ」
でも、それではあなたは、認められないままだ。私の中でのあなたは、ずっとアンドロイドのままだ。
「俺はそれでもよかったよ。本当は、あのまま消えていたかったよ。だからたぶん隆人さんも、同じだ。きっとあんたの……、
あなたの笑顔を、見ていたかったはずです、真由子様。」
私の笑顔を、見ていたかった? 隆にい。
本当に? 本当に……?
涙は止まらなかった。でもその涙は、少しだけ違ったものになっていた。
「ユーイン」
それはたぶん、私の聞きたかった言葉。
私が求めた、唯一のことば。
「……ありがとう……」
その後のユーインは、また元のように伯父の助手に戻っていった。
伯母は正気を取り戻し、今では笑って、隆にいの話しができる。
伯父は研究を続け、私はその後を継いだ。
新聞の記事は、こう結んでいた。
いつか彼らは、感情を持つという。そう遠くない未来、我々は彼らを、どう考えればよいのだろう。
その答えは知っている。
私とユーインだけは、知っている。
了




