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あの夏のわたしたち

作者: 石田多紀

 今朝の新聞に、実用可能なアンドロイドの記事が載っていた。そのアンドロイドは、成人男子とほぼ同じ体格をしていて、歩いたり座ったりをこなし、挨拶や物の色を識別して答える程度の、簡単な会話さえ可能だという。

 これは画期的なことだと、新聞は告げていた、アンドロイド、というか人工知能の研究にとって、長足の進歩だと。

 私は、五年前に我が家にいたアンドロイドのことを思い出した。天才とも奇才とも呼ばれていた伯父が作り出した、ユーインという名のアンドロイドのことを。

 そして、従兄の隆人のことを。


 私は小学校の頃から、伯父の家で育った。両親を交通事故で亡くしたのである。隆人と私も、その車に乗り合わせていた。私たちは運良く助かったが、隆人には障害が残った。下半身と左手に麻痺が残り、彼は車椅子の人となった。

 伯母はもともと過保護な人であったというが、この事故から後、盲愛的になった。加害者の娘、しかもかすり傷で済んだ私を決してこころよくは思わず、虐待こそしなかったが、まったく無視した。伯母の生活は隆人にいを中心に回り、隆にいの具合の悪いときには、一緒に寝込んでしまうほどであった。

 隆にいと私は、仲がよかった。

 四つ違いのこの従兄に、一人っ子の私はよく懐き、どこに行くにも後ろをついて回ったのを、覚えている。あの日、強引にドライブに誘ったのも、たぶん私であり、だからこそ伯母は、私を抹殺したかったのかもしれない。

 隆にいが、私のことをどう思っていたのか、結局のところ、わからない。

 あの事故の後、彼とはめったに話しをする機会がなかったのだ。

 それは伯母が、私をそばに寄せつけなかったためもある。だが、私だけがただ一人、無傷で助かったことに負い目があったのは事実だ。

 伯父は、私を可愛がってくれた。

 あの広い家の中で、それはずいぶんと救われた。

 伯父は、人工知能の研究者だった。大脳生理学者の土台を生かした研究は、その道ではかなりの物だったという。ある企業の援助で、自分の研究所を持っていたほどである。

 ここに遊びに行くのが、私は大好きだった。

 たくさん並んだPcやら模型やら、迷路図のような大脳地図やらコードのたくさんついた脳波計やら……。伯父は伯父で、私のデータを取ってもいたようだったが、いやではなかった。そのかわりに好きに見せてくれた一つずつのドアの向こうに、そんな物が隠れていて、遊園地のからくり屋敷のような魅力を感じていたのだ。

 私の母より十以上も年上のここの主は、小さい私と息子を抱いて、よくこう言った。

「いいかい、そのうちに、アンドロイドが現れる。いいや、アンドロイドという名前ではないかもしれないがな。それは、危険なことや力のいる仕事を援助するようになる。あるいはもっと身近に、生活そのものを援助するかもしれない。だがな、これだけはいえるぞ。そいつらは、どんどん感情を持っていく。人と交わることで、人に近づいていく。これだけは、間違えないぞ。なにしろわたしが、作っているんだからな」


 夏だった。

 隆にいが、しばしば呼吸困難を起こすようになり、ほとんど寝たきりの生活となった。湾曲した脊椎が、呼吸中枢を圧迫するようになってきたのだ。

 伯母は半狂乱となり、隆にいに付ききりとなった。ヒステリー症状で失神することもあった。無視どころではない、私ははっきりと、攻撃対象となった。

 伯父だけが頼りだったが、この時期、ほとんど家には帰らなかった。

 隆にいよりも、たぶん伯母の状態を心配した主治医が、転地療養をすすめた。町中のこの家ではなく、静かな湖畔の別荘で暮らすことを、推したのだ。

 隆にいと伯母は、すぐに別荘に行き、戻ってこなくなった。伯父は五日間を研究所で過ごし、週末を別荘で送るようになった。

 私は、別荘には、行かなかった。

 苦しむ隆にいを見ることも、伯母の目に射すくめられることも、どちらも怖かったのである。

 あの夏、来週には学校が夏休みになるという最後の木曜日、伯父が家に戻ってきた。

 まっすぐに私の部屋に来ると、緊張した面もちで、言った。

「支度をしなさい、真由子。隆人が、危篤だ」


 別荘は、家から車で二時間、湖を見下ろす高台にある。ぐるりを林に囲まれた、こんな気分でなければ、ずいぶんと快適なところだっただろう。

 車から下りた私と伯父は、とる物もとりあえず、中へ入った。

 一階は、しんとしていた。

「伯父さん……」

 私は不安になった。

 もしかしてもう、間に合わなかったのではないかと、そう思った。

「二階だよ」

 伯父は力強くそういって、私の手を握ってくれた。その手はじっとりと湿っていて、彼も不安であることがわかった。

 私たちは広い玄関ホールの奥にある階段に向かった。家政婦の牧瀬さんが、左手の方から出てきた。

「牧瀬さん、隆人は」

「先ほど高木先生が見えて、もう大丈夫だろうと。それより、奥様が」

「郁江が?」

 伯父はさらに緊張して、階段を駆けるように上り始めた。

 その時だ。

 二階から、水差しを片手で持った少年が、下りてきたのだ。

 年の頃は私と同じくらい。

 肩までの髪を無造作にゆらし、白いTシャツとジーンズをはいていた。

 いや、私の目を引いたのは、そんなことではない。

 彼は、どこかおかしかったのだ。

 私たちを見下ろしながら、その視線は、どこにも合っていないような、そんな雰囲気があった。

「ユーイン」

 伯父が呼びかけた。

 少年はこくりと頷き、そのまま階段を下りてきた。

「ユーイン、郁江はどうした」

「奥様はお倒れになり、今は高木先生が見ていらっしゃいます。」

「隆人は」

「隆人様は意識を取り戻され、今は眠っていらっしゃいます。隆人様については、もう少し寝かせておくようにと言うのが、高木先生のご指示です」

 声自体は、どうということもなかった。しかしその声音というか、アクセントというかが、おかしかった。どこにも感情のこもっていない、平坦な、声。

 私は彼から目が離せなかった。

 伯父は、そうか、というと、ふうっとため息をもらした。それから私に向いて、彼を指さした。

「真由子、紹介するよ、彼はユーイン」

「…ゆーいん?」

「そうだ。隆人と郁江の世話をしている」

 いつそんな人を雇ったのだろう。今までは牧瀬さんと和子さんしかいなかったのに。それにどうして、こんな男の子を雇ったのだろう。私とそう変わらない年のはずだ、それは子供ではないか。

 怪訝そうな顔をしていると、伯父が、すぐ耳元で声を潜めた。

「アンドロイドだ、真由子」

「!?」

「声を出すな、ほかの者は知らない」

 伯父はすばやくそう言ったが、もとより声など、出なかった。

 少年はゆっくりと階段を下りてくると、私の横に立ち、正確に三十度、頭を下げた。

「どうぞよろしく、真由子様」

 私は驚き、ただ彼を見つめることしかできなかった。すると彼は、つと視線をはずし、そのまま階段を下りていってしまった。

「驚いたか、真由子。だがこの話しは後だ。とにかく郁江と、隆人に会わなければ」

 伯父の言葉に、何とか自失状態から抜けた。

 そうだ。とにかく隆にいと、それから伯母さんだ。

 すべてはそれからだ。


 隆にいの部屋は二階の左端にあった。まず伯母にあって来ると伯父は言い、、私は一人で部屋の中に入り、ベッドのそばに、おそるおそる立った。

 彼は楽そうな呼吸をして、静かに眠っていた。

 私が想像していたよりずっとずっと穏やかなその様子に、ほっとした。

「……真由子」

 私が顔をのぞき込むのとほぼ同時に、隆にいは目を開いた。

 穏やかな声だった。

 私が聞いたことのない、とても穏やかな声だった。

「よかった。心配したよ、隆にい」

「心配、かけたんだね。ごめん、もう、大丈夫だよ」

 隆にいは、ゆっくりとそう言った。

 私は驚き、そしてとても嬉しかった。

 あの事故以来、こんなに優しい隆にいは初めてだったのだ。話しをすることさえ、久しぶりだ。いつもは伯母が、そばに寄せてくれなかったから。

「どうしたの。僕を心配してきてくれたのだろ」

 そして彼は、微笑んでさえ、くれたのだ。

 転地療養を勧めてくれた高木先生に、思いきり感謝したい気持ちだった。この高原での穏やかな生活が、隆にいをこんなに穏やかにしてくれたのだと、素直に信じたのだ。

「隆にい……」

「きてくれて、嬉しいよ、真由子。ここは静かで、いい所なんだけれど、母さんと二人きりだろ、退屈で……」

「いいの隆にい、私、ここにいてもいいの?」

「おかしな事を、言うんだなあ。もちろん、いいに決まっているさ」

 隆にいはベッドに横になったまま、もう一度笑った。

 その笑顔があまりにも優しかったので、私は彼に、抱きつくところだった。

 そのゆがんだ身体を、心から愛おしく思ったのだ。

「隆人様。」

 その時だった。

 いきなり背後から声がして、私は驚いて彼から離れた。振り返ると、そこにさっきの少年が立っていた。

 いつ入ってきたのか、全然気がつかなかった。いつからそこにいたのか、まったく気配を感じなかったのだ。

「ユーインか」

 しかし隆にいは、別に驚いた様子もなく、少年の名を呼んだ。

 そうだ、ユーイン。

 そして伯父は、この少年をアンドロイドだと言ったのだ……。

「何だ」

「お薬の時間です、隆人様。真由子様は、一階の書斎で、旦那様がお呼びでした。」

「そうか」

 隆にいが返事をすると、少年は――あるいはアンドロイドは――まっすぐ私たちの方へ歩いてきた。両手で水差しと薬包の載ったトレーを持っていた。

 私は、それの動きを、じっと見つめていた。

 目が、離れなかったのだ。

 それはなめらかに、何一つ違和感を感じさせずに、歩いた。

 バランスのよい姿態をし、どこにも機械らしさを感じなかった。整った顔立ちをしていたが、それだって、決して作り物めいてはいなかった。

 上手に私を避けて、それは隆にいのそばに立った。水差しからコップに水を注ぎ、隆にいに渡した。

 正確な、しかしどこにも無理を感じさせない動作だ。

「真由子」

 私が呆然としていると、コップを受け取った隆にいが声をかけた。

「真由子、書斎は、一階の右の端だよ」

「あ、ああ。ありがとう、隆にい……」

 視線を戻し、でも何にも合わせられないままに、私は部屋を出た。混乱したまま、伯父の書斎に向かった。

 伯父は、私をからかったのだろうか。

 どう見たって、あれは人間であった。

 その量感も質感も、動きも声音も、人間の物であろう。

 あの圧倒されるような無表情がなければ、私はこんなに迷ったりはしなかった。

「伯父さん!」

 ノックもせずに、私は伯父の書斎に飛び込んだ。伯父は書類から目を離すと、手を差し出した。

「おお、真由子。隆人は、どうだった?」

「あ、ええ、とても具合が良さそうだったわ。危篤なんて信じられない。伯母さんは?」「郁江はまだ混乱している。会わない方がいい。わたしたちが着く前は、大変だったようだよ」

 伯父にいきなり隆にいのことを聞かれ、何となくユーインのことを切り出しにくくなった。

「その……、伯父さん?」

 伯父もまた、何か言いたいことを言い出せないようで、書類の上を何となくさまよっている。

「なんだ」

 明らかにほっとした様子で、応えた。

「あの、アンド、ロイド、の、事なんだけど」

「おお、そのことか!」

 伯父はぱっと顔を輝かせて、とたんに饒舌になった。

「あれはな、最新の樹脂を用いて外見を仕上げてある。だから、皮膚の感じも爪や体毛も、ヒトにそっくりだろう。身体の方はな、さほど苦労しなかったが、顔には苦労した。表情という物が、あんなに難しいとは、思わなかった。あの顔の下に、一体何本のソフトチューブとファイバーが潜んでいると思う? ヒトの筋原繊維以上だ! それを持ってしてやっと、あの豊かな表情を生み出せる。

 しかしなんというてもやはり、中枢知能だ!

 あれは、幅聴覚はもちろん、立体視だってできる。匂いまでは、さすがに無理だがな。あの身体すべてがセンサーと言っていい。それから得た情報を、統合し出力するための中枢! わたしの長年の研究の成果のすべてだ。

 さすがにあの小さな体の中には収まらなかった。だから本体は……」

「じゃあ」

 私はろくに聞いていなかった。

 それではやはりあれは。

「アンドロイドって、本当だったの」

「……なんだと思ったのだ。隆人は……」

「隆にいは知っているの?」

「いや、ユーインがアンドロイドだって事をか? もちろん、知っているさ。私と隆人と、そしておまえだけだ、真由子」

 伯父は立ち上がり、私の横に並んだ。

「真由子。隆人は、そう長くはない」

「え?」

 私は伯父を見上げた。

 伯父は、決して私の方を見ようとはしなかった。

「もう、あの体重を、隆人の心臓は支えきれない。今は元気だ。だがそのうちベッドから起きあがれなくなり、ろうそくの火が消えていくように、静かに最期を迎えるよ」

「そんな、」

 何とも答えようがなかった。

 隆にいが、いつかは死んでいくだろう事は、漠然と理解しているつもりだった。彼が、こわれ物の陶器であることは、あの不自然な体つきからも、十分考えられたのだ。

 しかし実際にそうと告げられることがあるとは、考えていなかった。

 考えられなかったのだ。

「その日は、必ず来る。今の調子は、ろうそくの火の最期の輝きだよ。今のうちに、十分元気な姿を見せてくれなくては、困る」

 伯父はそこで私に向き直り、強い目で念を押した。

「そのために、ユーインは、絶対に必要だ」

 伯父の言いたかったことは、これだった。私に、ユーインを認知させたかったのだ。

「わかるな、真由子」

「……わかる……」

 ほかになんと答えればよいのか。

 ユーインと接するにあたって、伯父は私に二つを約束させた。

 いきなり身体に触らないことと、髪にさわらないことだった。

「あの髪は、いわばリモコンの受信部だ。触ると動きに乱れが出るかもしれん」

 要するに、隆にいと変わらないということだ。

 隆にいも、いきなり身体に触ったりおどかしたりしたら、心臓に障るというので禁止されていたし、髪というか、頭に触るのは、隆にい自身が嫌がったのだ。


 ユーインを、すぐに受け入れたりはできなかったが、その存在を何となく認めるようにはなっていった。認めたくない気持ちは強かったが、隆にいの世話にユーインが適当だというのは、確かだった。

 時間に正確で、沈着冷静で、力が強い。

 情にほだされず、正確で、緻密。

 隆にいを軽々と抱き上げる力は、私にも和子さんにもなかったし、隆にいの小さなわがままを情に流されずにさばくのは、やはり私たちには荷が重かった。

 伯母さんはいまだに寝込んだままだった。その間、私は日中のほとんどを、隆にいの側で過ごした。

 その側に、ぴったりと、ユーインが控えていた。

 私がはしゃぎすぎたり、隆にいが興奮してきたりすると、決まって冷たい声で、「お控えください、真由子様。」と、言った。そのたびに小さな不快感を覚えたが、逆らったりはしなかった。その忠言がいつも正しいことは、半日としないうちにわかったし、ユーインは決して、むやみになんでもを禁止したわけではなかったからだ。

 三日間は、楽しいうちに過ぎた。ユーインが、にやりとすることもあった。伯父の言う豊かな表情というのは、この程度なのかと、多少情けない気もしたけれど、そのにやりには、いくらか暖かみがあるような気さえ、だんだんしてきたのだ。

 そして四日目、伯母が起きあがった。

 その日も私は、隆にいの部屋で時間を過ごしていた。もちろんユーインが側に控えていたけれど、私はもう、彼のことをほとんど気にしないようになっていた。

 そう、彼、と呼べるほどに。

 私たちは他愛のない話しをして、くすくすと笑いあった。学校での話しが主だった。以前なら、隆にいの気に障るのではと、その手の話しはさけてきたが、このごろでは隆にいの方から、それを望んだのだ。

「奥様、まだ起きあがっては」

 和子さんの興奮した声が廊下の方から聞こえてきた。

 伯母さんだ。

 伯母が、ここへ来ようとしているのだ。

 私は緊張して、思わず立ち上がった。

 私がここにこうしていることを知ったら、伯母は一体、なんと思うだろう。なんにしろ、よくは思わないに違いない。私を息子に近づけまいと、あんなに努力してきた人だ。何を言われるかわかった物ではない。ここに私がいることは、伯母にとってはひどく腹立たしいことでしか、ないはずだ。

「ど、どうしよう」

 私はおろおろとして、すぐにでも部屋を出ようと思った。しかし伯母の声は、もうすぐそこに聞こえており、とても会わずに済ませずには、いられそうにない。

「真由子」

 その時、隆にいが言った。

「な、なに?」

「君は、そこにいるといいよ。どこにも、帰る必要は、ないよ」

「でも」

「いや、真由子は、帰っちゃだめだ。そうだな、ユーイン」

「はい。隆人様。」

 私はびっくりした。

 隆にいが、伯母に逆らうようなことを言ったのはもちろん、その途端にユーインが立ち上がり、ドアを開け始めたからだ。

「ユーイン、私まだ、心の準備が」

「隆人!」

 その途端に、伯母が、部屋に入ってきた。ユーインを間に、私と伯母はまともに向き合ってしまったのだ。

 伯母は、確かに常軌を逸していた。

 部屋着のままだったのはともかく、その目が、常態ではないことを告げていた。

 確かに以前から、伯母はまともとはいえなかった。私が隆にいに近づいただけで、ヒステリーを起こし、ひどいときには失神もした。しかし、ちゃんと私を認識はしていたのだ。

「伯母さん……?」

 確かに私と向かい合っている。

 しかし彼女の目は、決して私を見てはいなかった。焦点の合わない見開かれた目は、私をすり抜けて、隆にいを見つめていた。

「隆人!」

 伯母は私に、どんとぶつかった。ユーインが抱きとめてくれた。

 私は呆然と、伯母を見つめた。

 彼女には、私は見えないのだ。

 彼女の目は、すでに私を透かし、隆にいだけを捉えたのだ。

「ああ、隆人、ほらご覧なさいい、やっぱりあなたは元気じゃないの!」

 たぶん私は、震えていたと思う。

 伯母は隆にいをしっかりと抱きしめ、何度も何度も頬ずりを繰り返した。

 その動作はぎこちなく、しかし執拗に続き、私はショックで立っていられないほどだった。

 ユーインが、柔らかく抱きとめていてくれた。

 柔らかく、優しかった。


「何かお飲みになりますか、真由子様。」

「ううん、いらない、ありがとう」

 私を支えて、ユーインは部屋まで送ってくれた。

 まともには、歩けなかった。

「ユーイン、伯母さんは、いつからああなの?」

「ああ、とは、どのような状態でしょうか。」

「いつからあんな風に、隆にいしか見えていないのかって事よ」

 ユーインに導かれてベッドに座りながら、聞いた。

「奥様が常態ではないと判断されたのは、隆人様が危篤に陥ってからです。隆人様が意識不明になられるとともに、奥様もお倒れになり、以来常軌を逸しています。一時は旦那様も認識できませんでしたが、一度目の混濁常態から脱されました下り、旦那様を認識されました。」

「……そう」

 つまりあの人は、隆にいしか見えていなかったのだ。私を憎んでいたはずなのに、実はそれさえ、どうでもよかったのだ。

 私は別に、伯母を慕ってはいなかった。

 だがこの事実は、かなりショックだった。

 子供だったのだ。

 子供だから、憎んでてもいいから、気にかけていてほしかったのだ。

 泣いていた。

 なぜ涙が出るのか、その時には理解できない涙だった。

 ひとしきり泣いた後で、まだそこにユーインのいることに、気がついた。

「大丈夫、私は大丈夫よ、ユーイン」

 ユーインは黙ったまま、くるりと後ろを向いた。

「ユーイン」

 自然と唇をついた。私は彼を呼び止めていた。

「ありがとう」

「わたしは人形です。真由子様がわたしに礼を言われる必要は、いっさいありません。」

 なぜか、苦しそうに聞こえた。

 彼はそう言うと、静かに部屋を出ていった。

 私は、彼の消えたドアを、しばらく見つめていた。


 この時から私は、真剣にユーインを見つめ始めた。これまでは、隆にいの世話をする物としか捉えていなかった彼を、それ自体として見つめだしたのだ。

 隆にいには伯母がつきっきりとなったが、就寝前にだけ、会うことができた。

 隆にいが眠ったふりをする。すると伯母は、安心して自室に戻る。そうしてから、ユーインがこっそりと、私を呼びに来るようになっていた。

 最初は病気に障るのではと、早々に切り上げていたが、二三日もするうちに、すっかり慣れてしまった。何より、隆にいが笑ってくれるのが、一番嬉しかった。

 こんな時ユーインは、すぐ側に、静かに控えていた。隆にいが興奮してくると、「隆人様。」と、冷静な声をかけるのだ。

 その声にも表情にも、色はなかった。

 しかし私は、かえってその無表情に、違和感を感じるようになっていた。

 あの、苦しそうな声は、なんだったのか。

 私の思いこみ、勘違いだったのか。

 いいや、そうではない。

 あのときの彼こそ、伯父の言っていた、だんだんに感情を得ていくということだったと思う。では、ここに今いる彼は、いったい何なのだろう。一度得た感情を、彼はなくしてしまうのだろうか。そんな物なのだろうか。

 そのうちに、自然と一つのことを考えるようになった。

 ユーイン。

 伯父が造り出した、世界初のアンドロイド。

 彼は本当に、人間ではないのか?


 夏休みを半分も過ぎたころ、私は久しぶりに、伯母と顔を合わせるようになった。朝や夕の食卓に、出てくるようになったのだ。

「おはよう、真由子ちゃん」

 しかもその日は、驚いたことに、私に挨拶までしてくれたのだ。それも、和やかな声で、である。

「お、おはようございます」

 私は吃驚して、どもってしまった。

「あの人はねえ、今日も帰らないんですってよ。いくら研究といっても、 週の半分以上もいないなんて、ひどいとは思わない?」

「え、は、はい、ええ」

 あの人というのが伯父のことだと、やっと気がつく。

「隆人も、最近ではずいぶん体調がいいの。真由子ちゃんも、部屋にきてやって頂戴ね」

 これは、ずいぶんの変化だ。

 あの、伯母が!

 私を嫌い、無視してきた伯母が。

 私はしばらく、伯母の顔を見つめてしまった。それこそ、伯父がアンドロイドでも造り出したかと思ったのだ。

「なあに、わたしの顔に、何かついている?」

「喜んで、お部屋に行かせてもらいます!」

 私は椅子から立ち上がり、そう叫んだ。

 声がひっくり返っていた。それくらい、嬉しかった。


「ユーイン!」

 さっそく隆にいの部屋に向かった私は、ドアの前に立っていたユーインを見つけ、その身体に抱きついた。

「ユーイン、伯母さんがね、隆にいの側に行ってもいいって、言ってくれたの!」

「そうですか。」

 彼は持っていた水差しを身体の横にそらし、器用に身をひいた。

「隆にい、ずっと調子良さそうだものね。それもあなたのおかげね。まったく伯父さんは、いいものを造ったわ。隆にいの調子いいのが、その証拠よ」

 今度は、ユーインの肩をつかんだ。

 彼は水差しを持った手を手品のように操って、再び私から逃れた。

「そうですか。」

 その声はとても平坦で、私ははしゃいだ気分に、水をかけられたような気がした。

「何よ、ずいぶん冷たいわよ、その言い方は」

 鮮やかに身をかわされた悔しさも手伝って、私は言いつのった。

「伯父さんはあなたを感情豊かに造ったと威張っていたけれど、それは失敗よね。あなた、ちっとも表情変わらないし。さわり心地はいいけれど。思ったより柔らかいし。

 ほらあ、こういう時はにっこり笑って、よかったですね、っていうものよ」

 私は、ユーインの顔を下から覗くように、見つめた。

 はっとした。

 彼の目は閉じられ、それからゆっくりと開かれた。

「わたしは、隆人様の人形です。柔らかくても当然です。感情という言葉は、わたしには理解できません。」

 しかし私は、見逃さなかった。

 無表情を装ったその唇の端が、かすかに震えていた。

 目に、怯えの色があった。

 私が伯母の前で見せていたのと、同じ色の。

「ユーイン」

 考えるより先に、言葉がでていた。

 ついと向けた彼の背中に向かって、私は言っていた。

「あなた、本当に、アンドロイドなの……?」


 それからしばらく、ユーインを見なかった。

 伯父は定期点検だといった。

 私たちは、たいていの時間を隆にいの部屋で過ごした。

 私と伯父と、伯母とである。

 隆にいはあくまで機嫌がよく、だから伯母は落ち着きを取り戻し、私たちは、本当の親子のようだった。

 家では考えられないことだった。この日々がいつまでも続かないかと、本気で願った。無理だということは、わかっていた。

 私たちは、不安定なガラス細工だ。

 何か一つでもバランスが崩れれば、こなごなに砕け散ってしまうのだ。

 不安で不安で、だから私は笑っていた。

 この不安定な関係の中で、いつまでも笑っていたかった。

 

 来週から学校が始まる、水曜のことだった。

 その日もまた、私たちは隆にいの横で、ベッドを囲んで一日を過ごした。

 今日の隆にいは、いつもよりはしゃいで見えた。苦しそうな呼吸で笑い、あえぎなからも、機嫌がよかった。最近ではすっかり常軌に戻った様子の伯母が、彼の背を優しくさすりながら、微笑んでいた。

「ああ、楽しかったよ、ありがとう」

 隆にいはにこにことそう言い、少し疲れたと、いつもより早く寝入った。

 夕食をとった後、私は自室で宿題と取り組んだ。そしてそろそろ寝ようかという時に、ドアがノックされた。

「誰?」

 ほんの少しの不安。

「失礼いたします。」

「……ユーイン」

 それは久しぶりに見るユーインだった。

 相変わらずの、仮面のような無表情だった。

 ユーインは、正確に一礼してから、言った。

「お支度を、真由子様。二分前に、隆人様が、息を引き取られました。」


 それからしばらくの事は、よく覚えていない。

 確か隆にいの部屋に駆けつけたのだと思うのだが、何をしたのか、隆にいがどんな姿をしていたのか、まるで思い出せないのだ。

 覚える必要がなかったとも、いえる。

 私たちは、いずれこの日が来ることを、あらかじめ知っていた。

 だからこそ、残りの日々を楽しく過ごそうと懸命だった。

 葬儀の日、伯母はしっかりとしていた。

 人々の弔問を、上の空とはいえ、ちゃんと受けていた。伯父が、伯母のそばを片時も離れなかった。しかし、私が初めて別荘に着いた日のように、取り乱してはいなかった。

 ユーインがいて、よかった。

 虚しい隆にいの遺影を見ながら、私は思った。

 彼がいたから、隆にいはあんなに元気になれたのだろう。隆にいの笑顔をみられたことで、これからもたぶん生きていける私たちは、彼に許しを乞うための、自己満足でしかない猶予時間を与えられたのだ。

 ユーインに会いたい。

 私はそれだけを考えていた。

 会って、隆にいのことを、思いきり話し合いたかった。

 しかし彼は、どこにもいなかった。

 家の中にも葬儀の会場にも、彼の姿はなかった。


「ユーインは、解体するよ」

 やっと落ち着いたころに、私は伯父に、ユーインの行方を聞いた。すると伯父は、思っても見なかったことを言ったのだ。

「解体って……」

「隆人は死んだよ、真由子。もう、ユーインの役目は終わったさ」

 書斎の椅子に深々とかけた伯父は、ずいぶんと年をとって見えた。

「でも伯父さん、解体って、どうするの。

 だって、ユーインは……」

 一度は躊躇した。

 だが、言った。

 疲れたような伯父に、私は言った。

「だってユーインは、人間でしょう?」

 伯父の肩が、びくりと震えた。。

 私の視線を力無く受け止めた。

 私は、ほおっと、息を押し出した。

 そう。

 ユーインは、人間だ。

 だって、アンドロイドのはずがないのだ。

「わかった、真由子。

 ついてきなさい、ユーインに、会わせてやろう」


 考えてみれば、簡単なことだったのだ。

 ユーインがアンドロイドだというのは、伯父とユーイン自身だけが言っていることであって、誰もその証拠を見たことはない。

 反対に、彼が普通の人だと考えればごく自然なことが、いろいろとあった。

 伯父の、常識では考えられない能力が強い煙幕となって、そんな途方もないことを信じさせていたのだ。

 伯父は、研究所に向かっていた。

 車の中で、私たちは無言だった。

 伯父に言いたいこと、聞きたいことはたくさんあったが、今はその時ではないと、思った。すっかり面やつれした伯父は、いたわるべき老人と、私に感じさせたのだ。

「ユーインは、二階の仮眠室にいるよ」

 私と視線を合わせず、伯父が言った。

「伯父さんは?」

「後で行くよ、真由子。いろいろと……。そう、いろいろと、片づけねばならないことがあってな」

 私は頷き、一人で仮眠室に向かった。


 仮眠室は、二階の奥にある。家に帰ってこないとき、伯父はたいていここで過ごし、研究について考えるのだ。私も、ここに泊まり込んだことがある。伯母との関係に、まだ悩んでいたころのことだ。

「ユーイン」

 ドアを静かに開けて、中に入った。

 ユーインは、そこにいた。

 はじめ驚いたように立ち上がったけれど、私と視線が合うと、静かに笑った。

「……あなたがここに来たということは、わたしはもう、お役御免ということですか? 真由子様」

「そうよ、ユーイン。もう、いいのよ」

 私も、静かに微笑みを返した。

 微笑みながら、泣いていた。


 ユーインは浅くベッドに腰掛け、私にも座るよう促した。

「あなたは勘がいいから、すぐに気づいてしまうかもしれないと、博士はおっしゃったのですが。

 いつ頃、気がつかれたのですか」

「あの日の、一週間くらい前よ。私、言ったわよね。本当にアンドロイドなのかって」

「ああ、やはりそうでしたか」

 ユーインのすすめに、手近の椅子に腰を下ろした。私たちは、ぼんやりと視線を混ぜ合わせていた。直接は、あわせられなかった。そしてまた、逸らすこともできなかった。

 でも本当は、もっと前に気づいてよかったのだ。あるいは、最初に彼にあったときに、すでに解っているべきだったのだ。

 伯父は言っていた、いつかは、アンドロイドがでてくるだろうと。でもそれは、いつかの話しで、昨日今日の話しではなかったではないか。いつも何でも、伯父は話してくれていた。アンドロイドが出来上がったのならば、もっと色々なことを、話してくれてよかったのだ。

「あの後わたしは、あなたに会うのが怖かった。わたしがアンドロイドではないと解ってしまったら、わたしの存在価値はなくなってしまう。そうしたらもう、あそこにいる理由は、なくなってしまう」

「どうして? あなたが隆にいにとって、ううん、私たちにとっても大切な存在だったことは、確かなのよ。いられなくなる事なんて、なかったと思うわ」

 いいながら、でも妙なことだと思った。

 どうして伯父は、わざわざアンドロイドだなんて、言ったのだろう。別に彼がアンドロイドである必要は、なかったのではないか?

「いいえ、いられなくなったでしょう。あなたは、勘がいいのだから」

 ふと視線をあわせ、彼は微笑んで見せた。

「伯父さんはどうして、あなたをアンドロイドだなんて言ったのかしらね。別に、そうである必要はなかったはずよね」

 いいや、それどころではない。

 アンドロイドであっては、困るのではないか?

 もしも隆にいが、こんな時期に亡くならなければ。

 もしもあと一年も二年も生きていたなら。

 彼は、成長するだろう。

 アンドロイドが、成長することになる。

 そうしたらどうしたのか……。

「ちょっと、ちょっと待って。

 まさか……」

 もしも、隆にいがこんな時期に。

 その時期が。

 「まさか、まさか隆にいは……」

 わたしは、目が回るのを感じた。

 自分の立っているところが一体どこなのか。位置しているのは果たして地面なのか。

 わからなくなっていた。

 隆にいが。

 ユーインではないのなら、隆にいが!

「ほら、やっぱりあなたは、勘がいい」

 泣きそうな笑顔で、ユーインが言う。

 いいや、泣きそうだったのは、わたしだ。

「隆にいは、じゃあ……」

「そうだよ真由子。隆人が、アンドロイドだったのだ」

 いつか戸口に、伯父が立っていた。


「あるいはもっと早くに、気がつくかと思っていたのだがな。案外、もったな」

 伯父は部屋の中にはいると、いかにも大儀そうに、ユーインの隣に腰を下ろした。

 ますます、歳をとっていた。

「さて、どこから話そうかな。やはり、隆人の事かな」

「隆にいは、いつ死んだの」

 やっと、それだけを口に出した。

「おまえが別荘に行ったときには、もう死んでいた。隆人は最後の発作に、耐えられなかった」

 危篤だといわれた。

 では、あのときにはもう……。

「だがそれよりも耐えられなかったのは郁江だ。そしてわたしは、それに耐えられなかった。これ以上、隆人のほかに、わたしは郁江をも失うのか?それは嫌だ。それだけは、避けたかった」

 伯母は、精神的に脆い人だった。

 私は、別荘で最初に見た伯母の様子を思い出していた。

「アンドロイドの研究は、もう一歩の所まで来ていた。出力としての身体は、充分に実用に耐えうるだろう。しかし、情報を統合する知能の方は、まだまだ大きすぎる。到底、ヒトの身体の中には収まらなかった。それで、思い切って頭脳は外側において、身体は端末に徹することにした。隆人の部屋の隣には、大きな人工知能があったのだよ」

 ユーインが立ち上がり、窓にもたれた。

 雨が降り出していた。

 ああ、そう言えば私は、隆にいがあの部屋から出たところを、見ていない。

 そうか。機械だったのだ。

 優しかった隆にいは、笑っていた隆にいは、すべて作り物だったのだ。

「いずれは無理がでる。小さな綻びを繕うために、私はユーインに助けをもとめた。私自身が始終そばにいられたなら問題はなかっただろうが、そうはいかない。それに、何かブラフが必要だったのだ。郁江は……、隆人の死を認められない郁江は、簡単に信じるだろうが、お前はそうはいかないだろう。必ず、どこかおかしいと思うはずだ。

 一生だませるとは、もちろん思ってはいない。郁江が隆人の死を受け入れられれば。隆人との間に、もっとふつうの、温かい思い出ができれば。それまでの間でよいと思った。

 研究所で助手のアルバイトに来ていたユーインに、私は助けをもとめたのだよ」

 でも伯父さん、どうして私までを、騙さなければならなかったの。私には、打ち明けてくれてもよかった。

 伯母さんを守るためだけならば、決して私に、うそをつく必要は、なかったはずだ。

「嘘よ。伯父さん、嘘をついている。伯母さんのためだけじゃないんでしょう? 私がどこまで騙せるのか、試してみたかったんでしょう……?」

 でも、だめよ。私だって、騙されていたかった。優しい隆にいに、いつまでもいつまでも、騙されていたかった。

「私だって、モニターには、なりはしないわ」

 泣いた。

 伯父は、何も言わない。

 その無言の肯定を受けて、私は泣いた。

「でも俺は、楽しかったよ」

 その時に、突然、ユーインが言った。

 あの優しい表情で、私の顔を覗き込んでいた。

「博士や奥さんや、そしてあんたと過ごした間、俺はすごく、楽しかったよ」

 私はすがるように、ユーインを見つめた。

「あんたを騙していることが苦しかったけれど、俺はずっと、あのままでもよかった。あのままあんたが笑っているのを、見ていたかったよ」

 でも、それではあなたは、認められないままだ。私の中でのあなたは、ずっとアンドロイドのままだ。

「俺はそれでもよかったよ。本当は、あのまま消えていたかったよ。だからたぶん隆人さんも、同じだ。きっとあんたの……、

 あなたの笑顔を、見ていたかったはずです、真由子様。」

 私の笑顔を、見ていたかった? 隆にい。

 本当に? 本当に……?

 涙は止まらなかった。でもその涙は、少しだけ違ったものになっていた。

「ユーイン」

 それはたぶん、私の聞きたかった言葉。

 私が求めた、唯一のことば。

「……ありがとう……」


 その後のユーインは、また元のように伯父の助手に戻っていった。

 伯母は正気を取り戻し、今では笑って、隆にいの話しができる。

 伯父は研究を続け、私はその後を継いだ。

 新聞の記事は、こう結んでいた。

 いつか彼らは、感情を持つという。そう遠くない未来、我々は彼らを、どう考えればよいのだろう。

 その答えは知っている。

 私とユーインだけは、知っている。



           

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― 新着の感想 ―
[一言] ヒューマンです。 素晴しい作品でした。 設定も構成もバランスが良かったと思います。
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