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5.頑固なキューピッド

ある年の1月のふたり。

「はぁ……」


「……ちょっと…。涼!」


「……え?」


「ちょっ!何してんのよ?クリームべとべとじゃない!」


礼奈の声に我に返り、手元を見た俺は一瞬固まった。


ボゥルから器に移そうとしていたカスタードクリームが、入るべき器に入らずにキッチンテーブルにボタボタと着地していた。

思わず眉間に皺を寄せてにらみつけた器は真っ白に輝き、俺をあざ笑っているかのようだった。


「……悪い」


「どうしたのよ。お菓子作りに集中できないなんて、アンタらしくない。亜子さんと何かあった?」


「亜子さん……」


亜子さんは数年前のイヴに付き合い始めてからゆっくりゆっくりと、でも確実に絆を深めてきた俺の一番大切な女性ひとだ。

数年の間には勿論不安も誤解もあった。でもそんな状態で翌日を迎えた事はない。

長引けば不安は大きくなる。最初の喧嘩の時、無口になった俺に不安そうに、泣きそうな顔で亜子さんは一生懸命言葉を紡いだ。


「ちゃんと、話しましょう?小さい穴は一晩で大きくなるもの。諍いの元になってるのが今小さな塵でも、一晩で岩みたいに大きくなるの。ふたりの胸に風穴を開けるのだって簡単な、大きな大きな不安になるんだから。こんな気持ちで、お互い眠りについても良い朝なんて絶対来ないもの。どんな事でも、問題はその日の内に解決しましょう?解決できなくても、今日の内に少しでも小さくしておきましょう?」


その日は深夜まで話をした。

そして、ようやく明け方になって眠ったんだ。少し寝坊した翌朝は、初めて一緒に迎える朝だった。

朝日と一緒に見た亜子さんのはにかんだ笑顔が忘れられない。昨日は泣いていた瞳が笑みを浮かべている。胸が愛しさでいっぱいになった。

その日からは亜子さんの言葉通り、どんな小さな疑問も不安も正直に話してお互いの思いを確認してきた。

時にはつまらない嫉妬もあったし、仕事のすれ違いで会えない日が続いたりもしたけれど、今となってはいい思い出だ。


そう、つまり、俺は今幸せだ!!!


「……なら何でそんなイージーミスしてんのよ……」


礼奈から呆れたような視線が投げかけられる。


「え?俺、今声に出してた?」


「出してたってモンじゃない!ニヤニヤもしてた!気持ち悪いったら!シングルの姉に向かってノロケ?」


「いや……あの、つまり……亜子さんとずーっと一緒にいたいんだ。その……プロポーズしようかと……」


「ほんとに!?やっとそこまできたかー!でも、ならなんでため息ついてたのよ」


「……なぁ、プロポーズってさ、一生に一度の事じゃん?やっぱ特別にしたいっていうか……特に女の人はさ、そーゆーの、あるよな?」


「あるわね。方法で悩んでたわけね?ばっかねぇ。涼には涼にしか出来ない、涼だから出来る方法があるでしょ?」


「俺の?」


「そうよ、悩みなさい。それこそ一生モンなんだから」


くそっ。もう充分悩んでるっつーの。とりあえずこのクリームを片付けるか……。

チラリと向けた視線の先には、カレンダーが貼ってある。

新年は始まったばかりで、まだ新しいカレンダーだ。1月の予定はニューイヤー企画の文字だけ。

片付けを終え手を拭くと、カレンダーをめくって2月を見た。

今年に入って一番に書いた予定がそこには大きく書いてある。2月はバレンタイン企画があり、その後は2週間店を休む事にしている。

いまだパリに居る母が還暦なのだ。パリに居るとはいえ、日本人の母にとっては還暦というのはまた特別なようで、できれば……亜子さんを連れて行きたいと思っている。

つまり、このプロポーズ大作戦には期限が設けられているのだ。


「航空券は買ったのにな……。俺、なんか順番間違ってる……」


亜子さんが相手だと、まるで自分が何もできない子供になったような気がする。

とてもじゃないけど、余裕なんてない。

守りたいのに、困らせてばかりな気がする。愛してると伝えきれてない気がする。役に立ちたいのに、教えてもらってばかりだ。

でも、俺にだけ見せてくれる笑顔を知ってる。俺とは分かり合いたいと言ってくれる。それだけが俺を勇気付ける。

元に戻した1月のカレンダーが揺れた。


「1月……ニューイヤー企画……そうか!!」


さっきまでの悩みは一瞬にして吹き飛んでいた。


「ちょっと!涼?どこに行くの?」


ホールに出ていた礼奈が慌てたように声をかけてきた。


「指輪。無いとダメだろ?」


「なぁに?吹っ切れた顔してる。いいわ、お店は任せて。行ってらっしゃい!」


外は身を切るように寒い。今年は全国的に厳冬なのだそうだ。夏とは打って変わってひどい乾燥とときおりうっすらと積もる雪。これにはどうにも慣れないけれど、気にせずに通りを足早に歩いた。


駅前のショッピングモールに入っている宝飾店にそのままの勢いで入店したが、その勢いはすぐに削がれる事になる。


「ええと、指輪を……見たいんですが」


「はい。こちらでぇす。婚約指輪をお探しですか?」


「ええ……」


「サイズは何号でしょう?」


あ。と思った。俺、亜子さんの指輪のサイズ知らない……どこまでバカなんだろう、俺って。


顔に出ていたんだろう。店員の顔が少し歪んだ笑みになった。


気の所為かもしれないが、そこに少し憐れみが見えたのだ。


「……また調べてきます。今日はいいや。すみません」


店を出る足取りは重い。やっとプロポーズの演出が決まったっていうのに……。

このまま店に戻ったら、礼奈に何を言われるか……。


「おい、そこの。何を考えこんどる?」


「え…?」


遠回りして店に戻ろうといつもと違う通りを歩いていると、扉の前の雪を掃いている老人に声をかけられた。


「板垣さん……」


「そーんな顔で歩いとったら事故にあうぞ。ちょっと寄るか?」


声を掛けてきたのは、図書館の常連の板垣さんだった。直接の交流はないが、亜子さんを迎えに行ったりする時に何度か挨拶をかわした事がある。

いつも難しい顔をして本を選んでいるが、亜子さんには柔らかい表情で話していた。


「全く。これっぽっちの雪でも、扉と一緒に中に入るから敵わん」そう独りごちると、少し曲がった腰を叩きながら扉を開け、俺に中に入るように促した。


見上げると扉の上にはクラシカルなデザインの看板がある。そこには『板垣宝石店』と書かれていた。


「ホレ!早く入らんか!」


「あ、はい……。板垣さん、宝石店やってらっしゃるんですか?」


「まぁ、客は少ないがな。なんじゃ。顔色変えおって」


「いえあの……実は、やっと亜子さんにプロポーズをしようと思ったのに、指輪のサイズが分からなくて……情けない話です」


「7号」


「……え?」


「あのの指輪のサイズなら、7号じゃ」


「なぜそれを…?」


「企業秘密じゃな。ホレ、問題が解決したならさっさと店に戻れ。どうせ店で怖気づいて出てきたんじゃろ」


「その通りなんですけど……あの、板垣さんが作ってくれませんか?」


「ワシが?」


「あの店はなんだか機械的でどうも……一生の物なんだし、亜子さんのことを知ってる板垣さんに作ってもらえたら嬉しいんですが……」


「ふん。誕生月位は知ってるだろうな?」


「!!はい!9月です!」


「……サファイアか。深い青だ。あのによく似合う。それともダイヤにするつもりじゃったか?」


「深い青……いえ、誕生石でお願いします。深い青は、亜子さんの色だ」


出会った時の紫陽花の傘や、印象的な雨の日の浴衣を思い出した。

あれからもう何年も経つ。あの傘が無かったら、出会っていなかったかもしれない。そう思うと、深い青色は俺にとっても意味のある色だった。



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「あら?これは何?王様?」


カウンターの上に並べられたパイを見て、亜子さんは目を丸くする。


「フランスの伝統的なお菓子だよ。ガレット・デ・ロワって言うんだ。毎年1月にこれを食べるんだよ」


「へえー。じゃあ、買おうかな。後で一緒に食べよう?」


「それは別で用意してるから、亜子さんは買わなくていーの。さ、座ってて。店が終わったら、ふたりで食べよう」


「……?うん」


その日はガレット・デ・ロワを買って帰る人が多く、閉店までには在庫はなくなってしまった。


「片付け終わった?すごい。あのパイ、全部無くなったのね」


「うん。僕達のはコレ。さぁ、食べよう」


店に出していたものよりも一回り小さなガレット・デ・ロワには金色の紙の王冠を被っている。


「中に何か入ってるの?」


「フランジパーヌとフェーヴがね」


「え?何?」


「アーモンドクリームと、フェーヴはね……幸運を与える小物で、フェーヴが出た人は幸運が1年間が続くって言われてるんだ」


「ふふ。美味しいおみくじみたいね」


「そうだね」


緊張してパイを二つに切り分ける。切り口からフェーヴが出てきたら興ざめだ。入れた位置は覚えているから大丈夫なハズ……。


「わぁ!私のに入ってたわ!」


亜子さんが食べようとした場所から、コロリと丸いものが出てきた。


「何かしら?開けられるのね……中は……え?」


中からは小さな深い青色の石がはめ込まれたシンプルなデザインの指輪。

すぐに手に取り、彼女の傍らに跪く。


「え?え?あの、藤城さん……」


「亜子さん、愛してる。俺と結婚して?俺のこと、名前で呼んで?亜子さんにも藤城になってもらいたいんだ」


左手を取り、ゆっくりと薬指に指輪をはめていく。板垣さんの言った通り、指輪はぴったりと亜子さんの指におさまった。


「ほんとに?私でいいの?」


目を潤ませながら小さな声で聞いてくる亜子さん。


「亜子さんこそ。俺でいいの?」


「勿論!藤城さ……涼じゃなきゃ、嫌だわ」


「俺も。亜子じゃなきゃ、嫌なんだ」




数日後、サロンの定休日に図書館に向かうと、図書館の階段の下に板垣さんの少し曲がった背中を見つけた。

数年前の改修工事で階段横にはスロープがつくられたのだが、板垣さんは必ず階段を使う。

それは亜子も充分承知していて、案の定少ししたら亜子が図書館から出てきて板垣さんに手を貸した。

その様子を見て、俺は思わず「あ!」と大きな声をあげてしまう。

そうか。だから板垣さんは亜子の指輪のサイズを知っていたんだ……。

俺の声に気付いた板垣さんは振り返り、俺を見止めると少し口角を上げぎこちなく微笑んだ気がした。

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