人を値踏みする物差しは、いつか自分に向けられる刃になる。採点していたつもりが、採点されていたのは自分だった。
夫婦は、傍から見れば不釣り合いだった。
妻は誰もが振り返るほどの美人で、夫はお世辞にも整った顔立ちとは言えない、はっきり言えば不細工だった。
それでも二人は仲睦まじく、周囲がうらやむほどの夫婦として2年を過ごしてきた。
事の発端は、テレビドラマだった。『人は見た目がだいじです』というドラマを見ていて、夫がふと呟いた。
「まあ、その通りだよな」
「そうかしら」と妻は言う。
「人の良し悪しなんて、顔や体つきで決まるものじゃないでしょう。少なくとも私は、そんなものを判断基準にしたことはないわ」
「いや、そうは言うけどさ。人間なんて、まず見た目から判断するのが当たり前だろう。だって、初対面の相手の中身なんて分かりようがないんだから。見た目しか判断材料がないんだよ」
「極端すぎるわ」
「いやいや、極端じゃない。よく考えてみろよ。見た目で判断するっていうのはな、いわば引き算なんだ」
「引き算?」
「人と会った瞬間、まず100点満点で採点が始まる。清潔感がある、笑顔がいい。そこまでは加点もあるが、そのあとは基本的に引き算だ。性格が悪いと分かれば減点、頭が悪いと分かれば減点、言葉遣いが悪ければまた減点。そうやってどんどん点数が削られていって、最終的にその人の評価が決まる。だから第一印象、つまり見た目の点数が高いほど、多少の欠点があっても持ちこたえられるんだよ」
妻はその理屈に眉をひそめた。
そして、静かに、しかし着実に反論を始めた。
「あなたの言う『引き算』は、単に他人を値踏みする側の傲慢さを正当化しているだけよ。人間の価値を点数化すること自体がおかしいと思わない? それに、見た目の印象なんて、あくまで主観的で、時間が経てば経つほど薄れていくものだわ。むしろ、最初は気にならなかった仕草や言葉の端々に、後から惹かれていくことだってあるでしょう」
「それは理想論だね」
「理想論じゃない。現実にそういう人はたくさんいる。私だって・・・・」
妻はそこで言葉を止めた。夫が「私だって、何?」と聞いても、妻は首を振るだけで、それ以上は語らなかった。
心の奥に浮かんでいたのは、3年前のある夜のことだった。
当時勤めていた会社の忘年会の帰り、妻は酔った上司にしつこく絡まれ、駅前の路地に連れ込まれそうになったことがあった。師走の冷たい空気の中、居酒屋の看板の明かりが遠ざかっていくのを感じながら、悲鳴を上げる間もなく、力ずくで腕を掴まれた。抵抗すればするほど強く握られ、恐怖で頭が真っ白になり、体が言うことを聞かなかった。
「はな、して……」
絞り出した声はほとんど誰にも届かなかった。そのとき、暗い路地の先から、ひとつの足音が近づいてきた。たまたま忘れ物を取りに会社へ戻る途中だったという、同じ会社の別部署にいた、この冴えない風貌の男だった。
「あの、それ、嫌がってますよね」
彼は相手が上司だと気づいても、一切ひるまなかった。「やめてください」とだけ言って、妻と上司の間に体を割り込ませた。「お前には関係ないだろう」と怒鳴られ、突き飛ばされても、彼はよろけながらまたその場に踏みとどまった。上司が苛立ちに任せて拳を振り上げたとき、彼はとっさに妻をかばうように背中を向け、まともにそれを受けた。鼻から血が流れ出し、白いワイシャツに赤い染みが広がっていくのを、妻は今でもはっきりと覚えている。
それでも彼は退かなかった。周囲の視線が集まり、上司はばつが悪くなったのか、舌打ちをしてその場を去っていった。静まり返った路地に、妻と、鼻血を垂らした男だけが残された。
「大丈夫でしたか」
彼が最初に発したのは、その一言だった。自分の顔が腫れ上がっていることにも構わず、ハンカチを差し出しながら、何度も「大丈夫ですか」と繰り返した。妻が震える声で「あなたこそ、血が」と言っても、彼は「これくらい平気です」と、困ったように笑うだけだった。
タクシーを拾って、家まで送ってくれた車内、妻を家の玄関まで送り届けた時の道すがら、彼は一度も恩着せがましいことを言わなかった。
自分が殴られたことにも、上司の名前を聞き出して後で問題にしようとする素振りさえ見せなかった。
「今日のこと、誰にも言わなくていいですから。ただ、一人で歩いて帰らせるのが心配だっただけなので」
その一言を最後に、彼は妻の家の前で軽く頭を下げると、暗い夜道を一人で帰っていった。血の滲んだハンカチを握りしめたまま、妻はしばらくその場から動けなかった。
後日、妻がきちんとお礼をしたいと申し出ても、彼は「当たり前のことをしただけです」と困ったように笑うばかりで、食事の誘いすらなかなか受けようとしなかった。ようやく実現した食事の席でも、彼はあの夜のことを武勇伝のように語ることは一切なく、むしろ「殴られ慣れてないから、次の日筋肉痛でした」と自分の不格好さを笑いのネタにするだけだった。その不器用な笑い方と、見返りを一切求めない静かな強さに、妻の心は静かに、しかし確かに動いた。
世間的に評価される容姿でも、如才ない話術でもなく、誰も見ていない場所で、誰かのために何を差し出せるかという一点だけで、妻は彼を選んだのだった。
その夜のことは、誰にも。もちろん夫本人にさえ詳しく語ったことはなかった。恩着せがましくなるのが嫌だったし、何より、あの人はきっと自分がしたことの重みを分かっていない、そのままでいてほしいと思っていたからだ。理屈ではなく、彼が誰も見ていないところで見せた咄嗟の律儀さに、いつの間にか心を許していたのだ。それを今、あらためて言葉にする気にはなれなかった。
だが夫は、妻の沈黙を勝利と勘違いしたのか、あるいは酒の勢いもあってか、問わず語りに話し始めた。
「まあ、正直に言うとさ。俺だって、お前に一目惚れしたクチだよ。最初に会った時、その顔だけで、ああ、この人だって思った。百点だったよ、あの時は」
「それで?」
「それで……そのあと、まあ色々あったよな。お前、料理は上手いけど、片付けは苦手だろう。あれでマイナス5点。それから、俺の親の前でちょっと愛想が悪かったことがあった。あれもマイナス10点くらいかな。あとは、たまに感情的になって物に当たる癖、あれも良くない。それでマイナス8点ってところか。それと、朝は機嫌が悪くて口数が少ないよな。あれも地味に減点だ、マイナス3点。友達の結婚式のスピーチで、ちょっと空気読めない発言したことあったろ。あれで俺、ヒヤヒヤしたよ。マイナス7点。あと、服にお金をかけすぎるところも正直気になってる。家計のこと考えろよって話で、これもマイナス5点。それから寝相が悪くて布団を全部持っていくのも、地味に毎晩ストレスだからな、マイナス2点。あと、俺の話をちゃんと最後まで聞かずに、途中で結論だけ求めてくるところ。あれも減点だな、マイナス4点。そうやって一つ一つ積み重ねていくと、今のお前の点数は、正直言って・・・60点くらいまで落ちてるかもな」
妻は声も出さず、ただ夫の顔を見つめていた。
「でもまあ」夫は笑いながら続けた。
「60点でも十分合格点だろ。俺は寛大な男だからな」
その瞬間、妻の中で何かが静かに、しかし決定的に崩れ落ちた。あの夜、鼻血を流しながらも恩着せがましいことなど一言も言わなかった彼と、今、目の前で減点項目を得意げに並べ立てる彼が、同一人物だとはとても思えなかった。今まで6年間、優しいと信じていた夫の言葉の裏に、こんな採点表が隠されていたことを知り、妻は初めて夫の本性を見た気がした。愛だと思っていたものが、実は値踏みの結果にすぎなかったのかもしれない。そう思うと、それ以上その場にいることができなかった。
妻は静かに立ち上がり、何も言わずに寝室へ向かった。その夜のうちに荷物をまとめ、翌朝、夫が出勤している間に家を出た。置き手紙もなかった。ただ、玄関の鍵だけがテーブルの上に置かれていた。
夫が異変に気づいたのは、その日の夜だった。仕事を終えて帰宅すると、いつも玄関で灯っているはずの明かりが消えていた。靴箱の上に置かれていたはずの妻の鍵入れも、洗面所の歯ブラシも、クローゼットの半分を占めていた服も、きれいさっぱりなくなっていた。まるで最初から誰も住んでいなかったかのように、部屋だけが妙に広く感じられた。
何度電話をかけても妻は出ず、留守番電話に切り替わるだけだった。実家に問い合わせても、母親らしき人物から「娘はしばらくそちらには行けないと申しております」と、他人行儀な言葉で突き放されるように告げられた。
最初の数日は、夫もさほど深刻には捉えていなかった。少し頭を冷やせば帰ってくるだろう、そのうち連絡があるだろうと、高を括っていた。しかし一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、妻からの連絡は一切なかった。
一人の食卓は、想像していた以上に味気なかった。コンビニ弁当を温める電子レンジの音だけが響く台所。誰も「おかえり」と言ってくれない玄関。テレビをつけていないと、部屋の静けさに押しつぶされそうになった。洗濯物は溜まる一方で、シンクには洗われていない食器が積み上がっていった。夫は初めて、七年間当たり前のように享受してきたものの重みに気づき始めていた。それでも、自分のあの発言のどこが悪かったのか、心のどこかでまだ本気では分かっていなかった。「点数の話をしただけじゃないか」「正直に言っただけだろう」と、自分を納得させようとする自分がいた。
三週間が過ぎた頃、夫はついに妻が本当に戻ってこないのだと悟った。焦りと、埋めようのない喪失感が同時に押し寄せてきた。そしてその焦りは、悲しみよりも先に、次の相手を探すという、いかにも夫らしい方向へと向かっていった。
そこでふと思い出したのが、独身時代からの知人である、ある女性のことだった。どちらかと言うと不細工だが、誰に対しても分け隔てなく優しく、気立てのよさでは周囲の評判も高い女性だった。夫は迷った末、彼女に電話をかけた。
「急な話で申し訳ないんだが……実は妻と別れることになってね。もし良かったら、再婚を考えてもらえないだろうか」
受話器の向こうで、女性はしばらく黙っていた。そして、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「ごめんなさい。私、あなたとは暮らせないと思う」
「え……」
「だって、あなた、ちょっと……見た目がね。正直に言うと、そういう人と毎日顔を合わせて暮らすのは、私にはとても耐えられそうにないの。最初から点数が低い人から減点していったら、マイナスにしかならないのよね」
その言葉は、夫の胸に鋭く突き刺さった。かつて自分が妻に対して、そして無数の他人に対して振りかざしてきた「引き算」の理屈が、今、そっくりそのまま自分に返ってきたのだ。
電話を切ったあと、夫は長い間、暗い部屋の中で一人座り込んでいた。自分がどれほど傲慢な物差しで人を測ってきたか、そしてその物差しが、今度は自分自身に向けられたのだということを、痛いほど思い知らされた。
妻がなぜ自分を選んでくれたのか。その本当の理由を、夫はついに聞くことができなかった。
今さらそれを悔やんでも、もう遅い。ただ、静まり返った部屋の中で、夫は自分の心の醜さに気付かざるを得なかった。




