Scene#5 海上自衛隊江田島基地
舷梯を登る前に、一等海曹が注意事項を説明した。
「艦に乗る際には、艦尾の自衛艦旗への敬礼が必要です。よろしくお願いします」
呉地方総監部の所在する基地の埠頭で、航空学生たちの目の前には掃海艇が係留されていた。
呉基地の研修を終えた彼らは、これからこの艇によって次の研修地である海上自衛隊幹部候補生学校・第一術科学校が所在する江田島に向かう。
全員の乗艦が完了すると、もやいを解かれた掃海艇は、岸壁を離れて港外を目指した。
波の静かな瀬戸内海を、艦首で割りながら快調に進む。
学生たちは、甲板の上で右や左を指さして、はしゃいでいた。
「偶けんな、こげなのもよかよねー」
防府北基地のなかで座学と屋外訓練に追い回され――その間にも、色々と行事があるのだが――、外に出る訓練としては射撃があったくらいなので、ケイも気分転換になっているといいたいようだった。
「きれいな海……湘南の海とは、ちょっと違う感じだけど」
星華も相槌を打った。浜辺から先は太平洋という鎌倉の海と違って、両側を島に挟まれた海峡を進むというのが、新鮮に感じられた。
掃海艇は左手に江田島を見て、同島を北側から回り、宇品港の沖を通過した。
江田島の東岸に出ると海峡に入り、やがて速度を落として湾に入った。
表桟橋に接岸し、係留される。
「これから行く海自の幹部候補生学校は、戦前は海軍兵学校で、赤煉瓦の監獄といわれるくらい、厳しいところだったそう」
携帯音楽プレーヤーのイヤホンを外して、玲子が説明した。
聞き終わった曲は、谷村新司の「群青」である。
彼女の長兄・英一とって、幹部候補生学校は母校である。
英一、そして次兄・真二は、いずれも父親と同じ防衛大学校を卒業後、英一は海上自衛隊に、真二は陸上自衛隊に進んでいた。
ここに学んだのは、実は長兄だけではない。
玲子や英一の三代前、つまり曾祖父は、海軍兵学校卒の空母搭乗員であった。
曾祖父・海軍少佐藤堂晋は、昭和十七年十月、南太平洋海戦で、搭乗する雷撃機によりアメリカ海軍空母ホーネットに魚雷を命中させたのと引き換えに、戦死を遂げていた。
「赤煉瓦の監獄」と聞いて、星華は少々怖気づくところがあった。
極悪助教トリオプラス魔女の上を行く怖い指導役がいたのではないの? と思えたからである。
実際に海軍兵学校で恐れられたのは、教官ではなく上級生、なかでも最上級生徒の「一号生徒」だったのだが。
江田島基地にはもちろん陸路から入る正門も存在するが、公的には表桟橋こそが「正面玄関」の地位にある。
航空学生たちはその玄関から、基地グラウンドに降り立った。
右手に戦艦陸奥主砲砲塔、左手には第一術科学校学生館が見える。
奥には赤煉瓦の幹部候補生学校庁舎があり、その背後には、既に紅葉をまとった古鷹山が見えた。
グラウンドのなかに敷かれたトラックの近辺に松とかの植樹があるのが、防府北基地と違うように思われた。
「航空学生の皆さん、遠路お疲れ様です。本日の江田島研修のご案内をする、広報係の星野です。この春までは、准海尉でした――」
五〇代半ばの背広を着た長身の男性の挨拶で、江田島の研修は始まった。
「ここ江田島には、明治二十一年に東京から海軍兵学校が移転して来ました。以来、帝国海軍兵科将校養成の地となりまして、日清・日露戦争、さらに大東亜戦争で戦った多くの海軍士官がここから巣立ちました」
なにやら、自慢したい気持ちが満々の元准尉である。
「昭和二十年の終戦後、暫くの間進駐軍に接収されていましたが、昭和三十一年に横須賀市から術科学校が移転し、翌三十二年に幹部候補生学校、三十三年には第一術科学校が創設され、再び士官養成の地となったのであります。――」
聞きながら周囲を見回した星華は、普段いる防府北とは違う雰囲気を感じ取っていた。
確かに建物に始まって、その他の植樹一つ一つにも風格とでもいえばいいのか、古を醸し出しているかのようだった。
百数十年の歴史を有する江田島であれば、敷地から建物、植物までそれに相応しい歴史を有している。
星華は知らないが、戦後に一からスタートした空自に対して、陸海軍の施設を引き継いだ例の多い陸自・海自は、雰囲気が違う。
――
夕食後、割り当てられた宿舎に直行せず、江田島クラブで土産物を買い集め、そのあとで喫茶で腰を下ろした三人である。
「うーん、ちょっと疲れたわねぇ」
テーブルの上に置かれたジュースのグラスに手を伸ばして、ケイが共通認識を口にした。
「アナポリスにも旅行で行たこっがあるけど、どっかしら、似た雰囲気がある感じ。ネイビー同士からかな」
「アナポリス?」
知らない単語を星華が尋ねると、ケイは説明した。
「アメリカ海軍兵学校のこと。メインランド東海岸のメリーランド州にあっと」
アナポリスとは、アメリカ海軍兵学校の所在地であり、同学校が有する今一つの名称でもある。
実は、ケイは最初から空軍志望だったのではなかった。
というより、ボーイフレンドのニクラウスと同じ進路にしたかったのである。
ニクラウスは自分の進路をコロラドスプリングスの空軍士官学校か、アナポリスと考えていたので、ケイも同じところに行くつもりだったのだ。
「藤堂さん、お土産、なにを買われたの?」
星華は、コーヒーカップを口に運ぶ玲子に聞いた。
「江田島羊羹。戦前からの、ここの名物スイーツなの。父も兄も大好きでね。私も結構好きだったから」
実は、数本も連食すれば眉間が痛くなるほど甘い羊羹で、女性のボディラインやウエイトには大敵といってもよいほどの存在なのだが、こと甘味となると玲子は他の二人以上に自制心がなく、見境なく買い込んだのである。
白いレジ袋のなかには、赤煉瓦の幹部候補生学校庁舎が描かれた羊羹の包みが、五、六本入っていた。
「そういう天辺は?」
と、玲子が反問したところで、彼女の背後から、思わぬ人物が声をかけて来た。
「玲子ちゃん。――玲子ちゃんじゃない?」
三人の視線が集まった先には、黒と白のツートンカラーの制服を着用した長身の女性が立っていた。身長は170センチ以上ある。
星華はもちろん、玲子より高い。ケイと同程度かも知れないと思われた。
区分するとすれば、玲子と同じクールビューティという印象である。
胸の名札には「島村」と記されている。
「おねえさん」
そう答えた玲子の声は、ケイも星華も思わぬものだった。
三人は、次に反射的に立ち上がり、一〇度の礼をした。
「空自の航空学生が研修に来ると聞いたから、多分そうじゃないかと思ったのよ。元気?」
「おかげさまで、無事にやっております」
「楽にして。私も座っていい?」
四人は、こうしてテーブルを囲む形になった。
「なによ、藤堂。あんた、海自にお姉さんがいたの?」
「正確にいえば、私の上の兄の奥さんのお姉さん。つまり、義理の姉」
ケイの質問に、玲子は簡潔に答えた。
玲子の長兄、三等海佐藤堂英一は、現在厚木基地の第4航空群におり、哨戒機P―1の戦術航空士である。
英一の妻は、目の前にいる島村緑の双子の妹、朱音だった。
両家の交わりは、数十年間にわたる。玲子たちの父、藤堂護と、緑の父、島村多門は防大同期で、同時期にそれぞれ第一大隊と第二大隊の学生長を務めていた。
それぞれ空と海に進み、現在、護は航空総隊司令官、多門は海上自衛隊横須賀地方総監の地位にある。
ライバル同士であり、そして親友同士でもあった。
同じ年齢だった英一と緑・朱音は、自然と幼い頃から互いに面識があったが、英一が成長したのち、生涯の伴侶に選んだのは、妹の方だった。
その理由は、当人しか知らないが、「家に帰ってまで、自衛官を相手にするのは嫌だ」というものだった。
独身時代の朱音は、都内にある自動車販売店の事務員だったのである。
ちなみに、妹に本命を奪われたあとで緑の結婚した相手――島村家の婿養子となった――は、四歳下の航空機整備を職務とする三等海曹だった。
なお、藤堂・島村と、第三大隊学生長で、現在陸自西部方面総監を務める富山隆之介という陸上要員を総称して、当時の同期生や後輩学生たちは、「三軍神」とか「三バカトリオ」と呼んでいた。
「防大にも合格したそうじゃない。それを蹴って航空学生になるなんて、思い切った決心ね」
緑は、星華もケイも知らなかった情報を口に出した。
「私、パイロット以外になる気は、ありませんでしたので」
なんでもないこと、という調子で玲子は答えた。
実際、防衛大学校の女子学生は難関であり、父親もそちらを第一に勧めたのである。
だが、娘が敢然として選択したのは、航空学生だった。
兄二人もパイロット志望だったことは同じだった。
だが、お役所組織の実情は、すべての人員に等しく希望の進路を与えるとは限らないものである。
希望者数と当人の成績により(成績優秀者は、陸海空で均分する必要があるのだ)、不本意な道を割り当てられることがある。
英一も、次兄真二も、そのために海上要員、陸上要員とされてしまったクチである。
両者とも、そこから自分の力で改めてパイロットの道を切り開かなくてはならなかった。
その現実を知っていた玲子は、空自パイロットへの道が大前提となる航空学生を、躊躇なく選択したのである。
「五歳の時から、『私、パイロットになる』って、いっていたそうだものねぇ」
幼い頃、兄二人と一緒に父親の勤務する部隊の記念行事に連れて行って貰ったところ、実物の航空機を前に、次兄が、
「お父さん、僕パイロットになる!」
と宣言したので、末娘も負けじと、「れいこも、パイロットになる」と叫んだのだった。
長兄は、この時既に防大生だった。当人は大真面目のつもりだったが、父親は少し笑ってからこういった。
「そうかい。でも玲子には、かわいいお嫁さんになって欲しいな、父さんは」
まだ、空自が女性に飛行職種を開放して余り時間が経過していない時代だったから、将来がどうなるか全然分からず、無理のない答えだったが、娘にとってはプライドを傷つけられたように感じられた。
意地になって娘はいい張った。
「れいこもなるんだもん!」
笑いながら、緑は次々個人情報を暴露していく。
玲子は、赤面していた。ケイは興味津々で聞き入っている。
「初心貫徹。立派なものだわ」
その時、割って入ったのは、それまで聞く一方だった星華だった。
「あの、失礼とは存じますけれど」
星華は、緑のルックスと姓に記憶があった。
「九州の地震の時、TVに出られた方じゃございませんか?」
自分がパイロットを志すきっかけとなったのが、今目の前にいる島村緑だった。
「確か、ヘリコプターのパイロットだったと存じておりますけれども」
当然、緑は肯定した。
「ええ、そうよ。よく覚えているわね。――玲子ちゃんの同期?」
「はい。紹介します。山之内と天辺」
紹介に則って、ケイと星華もそれぞれ初対面の挨拶をした。
「女性でパイロットなんてすごいなぁ、と思いました」
思いもかけない出会いに、星華はちょっとばかり興奮していた。
「あなた、ご出身は?」
「神奈川県です。神奈川の鎌倉市で」
「そう。父の恩師が、そこに住んでいたはずだわ。大田さんという方だけど」
「ご存じなのですか? 実家のご近所にお住まいの方で……」
と、星華は合格発表の直後、訪問して来てくれた元地方総監部幕僚長の記憶を持ち出した。
「世のなかって狭いわね。うちの父親も、今同じ神奈川の横須賀勤務よ」
島村多門学生の防大時代の指導官の一人が、当時の大田二佐なのだった。
星華は、思わぬ繋がりがあることで、緑を急に近しい存在のように思えていた。
「今、パイロットをなさっていらっしゃるのではないのですか?」
「幹部候補生学校の教官よ。航空機関係のことを教育しているわ」
九州大震災の災害派遣が終わったあと、江田島に転属していたのである。
勿論、ユニフォームの胸には、航空徽章を付けたままである。
「わたし、島村三佐のお姿を見て、パイロットになろうと決めました」
運ばれて来たコーヒーを口にしつつ、緑は聞いていた。次に、おもむろに緑は反問した。
「光栄ね。で、天辺さんだったわよね、あなたはなぜパイロットになりたいの? その理由はなに?」
奇襲されたかのように、星華はまず絶句し、次に言葉を見つけるように答えを続けた。
「……ほかに、夢がありました。でも、事情があって、それを断念しなければなりませんでした。その時に、パイロットという道もあるんだと知って、それでわたしも飛べたらいいなと思って」
「それだけ? 飛びたい、というのは希望でしょう。私が聞いたのは、パイロットを目指す理由。あなたの動機。それはなに?」
内心、激励を期待していた星華にとって、奇襲としかいいようのない緑の質問だった。
「飛ぶだけなら、休みの日に飛行クラブでセスナにでもグライダーにでも乗ればいいの。でも、自衛隊のパイロットは仕事で飛ぶ。飛ぶのは単なる手段。あなたは、なんのためにパイロットになるの?」
ややきつめの目線を向けられ、星華は黙ってしまった。
あの日百里基地で初めて戦闘機を目にして、パイロットになるという新しい夢、生きる目標を得たつもりだった。
教育開始当初、ラオウこと加藤区隊長から「お前たちが目指すパイロットは、この国の空を守るため、命がけで任務を果たすパイロットだ」と申し渡された。
それは、今も忘れていない。
だけど、思えば「国を守るため、命がけで任務を果たす」という言葉の意味を、深くは考えていなかった。
緑の言葉は、その点を突いたかのようだった。
「パイロットって、飛行機を飛ばすのが仕事のように思われているけど、それぞれ飛行機によって飛ぶ理由は違うの。自衛隊の飛行機は、なんのために飛ぶか、なぜあたなはそれに乗りたいのか、考えている?」
「それは……」
答えに詰まった。
憧れの女性の正体が、毒女・水野二曹とあるいは同じ人種なのかも知れない、と星華は思い始めた。
その考えはそう間違ってはいなかったが、最初は厳しく、次に導くところは導くのも同じだった。
「まだ若いのだから、よく考えるようにね。実際にコクピットに座るまでは、時間があるんだから」
そういって、カップの中身を飲み干した緑は席を立った。
「明日は、古鷹山にも登るんでしょ。あそこは眺めいいわよ。じゃあね。玲子ちゃん、真二くんに会ったらよろしく」
「お元気で、おねえさん」
三人も立って、去る緑を見送った。
宿舎に戻っても、星華は緑の台詞を思い返していた。
「パイロットになりたい理由……」
――
『はい、こちらは藤堂です。ただ今電話に出られません。ピーっと鳴ったら、メッセージをお願いします』
「もしもし、英一さん。私です。今日、研修に来た玲子ちゃんたちに会いました。大きくなったわね。同期の子に、いかにもお嬢様ぽくてちょっと可愛い人がいたから、指導してあげたの。私も、幹部候補生の頃にされたことを、ね。立派になって欲しいと思ったから。それじゃ、また。妹のお腹はどう? 来月には生まれるでしょ。もう二人目の伯母さんになるかと思うとちょっと複雑。緑でした」
そこまで携帯に吹き込んだところで、緑を呼ぶ声がした。
「夕食ができたよ」
夫である。
現在、彼は江田島基地の敷地内にある第一術科学校の総務部勤務だった。
四歳年下だけあって、声もやや少年らしさが残っている。
フェイスときたら、更に三、四歳は若いのだが。
「はーい。今行くわ」
そう答えて、緑はリビングのソファから立って、キッチンへ向かった。
島村家では、食事の準備とあと片付け、ゴミ出し、掃除、洗濯は夫の任務と決められているのである。




