Scene#1 防府北基地・体育館
四月第一週。今期航空学生の入隊式が挙行された。
式典会場である体育館に移動する前、支給されて何日か経った制服に袖を通した学生たちは、やや緊張の面持ちで、服装や靴の磨き具合を点検していた。
星華たちも、女子用の居室で相互に服装を点検して、リボンタイプのネクタイや、制服のほこりの有無に注意を払っていた。
居室を出ると、廊下の壁に装着してある姿見の前で、星華は入隊式に備えて習った不動の姿勢、そして敬礼の動作を取った。
かつて部活で練習したCAの基本姿勢では、両手を自然と前に組み、つま先は拳一つ分だった。
表情は常に笑顔でなければならなかった。
だが、今は大きく違う。
――踵を合わせ、両の脚に隙間ができないようにして、右手は肘から手首まで一直線。拳は軽く握る。
姿見に写された自らのダークブルーの制服姿は、かつて夢見たCAのそれとは違ったが、こちらはこちらで、十代女子の美的感覚に応えるものだった。
――
「国歌斉唱。ご来場の皆様は、ご起立下さい」
司会のアナウンスが終わると、西部航空音楽隊長が、逆ハの字に両手を振り上げた。
それが振り下ろされると同時に、整列した音楽隊の厳粛な演奏が始まり、国歌君が代の歌詞が体育館のなかに満ちる。
「団司令式辞」
第12飛行教育団司令・神崎鋼二郎一佐が演台の位置に進み、式辞を懐から取り出す。
「――航空自衛隊の主戦闘力たる戦闘機三百六十機余りを初め、固定翼・回転翼航空機合計約四百九十機に搭乗する操縦士の実に七十パーセントは、航空学生出身者です。即ち、ここに集った諸君こそは、二十一世紀の日本の防空の主役となる身です。我が国を巡る安全保障環境が増々厳しさを増すなか、自らの意志でこのような重い責務を担う地位を志願した諸君は、まさしく日本国の至宝であって、敢えて険しい道を選んだ諸君の決意にまず、深甚なる敬意を表するものであります。……」
式典は進んで、最も重要なパートに差し掛かった。
「入隊学生気を付け」
「気を付け!」
代表学生の号令が響く。
七十五人の学生が起立する足音で、体育館内は大きく揺れた。
これから、航空学生の身分を得るための命令が示されるのである。
「航空学生任命。――航空幕僚副長、中央の位置へ」
背後の壁に、大きな日の丸が掲げられている。
儀礼肩章を両肩に装着した空自ナンバーツーの将官が、壇上の演台の位置に立った。
「代表学生前へ」
選抜試験で首位の男子学生が、列中から学生の中央前へと進む。
もう少し玲子の成績がよければ、この役割は彼女のものだったはずである。
二位だった令子は、その隣に並んだ。
「敬礼!」
学生全員が、壇上に向けて挙手の礼をする。航空幕僚副長が答礼した。
「命課」
航空幕僚副長が、白手袋をはめた両手で開いた命令書を、ゆっくりと読み上げる。
「命課。陸士長飛田省吾、空士長に任命する。藤堂玲子以下七十四名、二等空士に任命する。航空学生を命ずる」
命令書を読み上げた航空幕僚副長が、それを演台の上に置いた。
「申告」
「敬礼! 直れ。陸士長飛田省吾、空士長に任命され、航空学生課程の履修を命ぜられました」
「藤堂玲子以下七十四名、二等空士に任命され、航空学生課程の履修を命ぜられました」
この瞬間、星華を含む七十五名の若者が航空学生となった。
星華は、敬礼の瞬間、両膝のうしろを意識して伸ばした。
――夢が、いよいよ始まった。わたしの夢が。
受験を決意してから、問題集と首っ引きになった日々。
志願票を提出に行った日。
そして、静浜基地で初めて操縦桿スティックを握った日。――初めは暗闇のなかで、遠くに灯る灯を求めて這進むようだった。
一次試験に合格し、二次試験に合格し、少しずつ灯が大きくなっていった。
そして今、夢は確かな光の筋となって、自分に向けて差し込んで来る。
続いて、宣誓が行われる。代表学生が、茶色のファイルカバーに挟まれた宣誓文を読み上げた。
「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います」
儀式は、航空学生の歌の斉唱、そして司会の閉式の辞で終わりとなった。
入隊式に引き続き、飛行場上空で卒業生の操縦する各種航空機が展示飛行を行った。
アナウンスは、各航空機の編隊のパイロットの名と部隊を告げる。
初等練習機T―7、中等練習機T―4、支援戦闘機F―2、輸送機C―1、救難ヘリUH―60J……最後が、F―15J戦闘機だった。
「第305飛行隊、指揮官は航空学生×期、一等空尉黒江康雄、石川県出身です」
二機のイーグルが、爆音を轟かせながら、基地上空に進入し、地上の観客の前で勇姿を通過させ、そして緩く旋回して翼端からベーパーを引きながら飛び去ってゆく。
学生たちは、両目を輝かせ、機体を指さしながら歓声を挙げた。
彼らはまだ知らないことだが、たった二機であろうと、フォーメーションを維持して飛行するのは、高い技量を必要とするのだ。
紅白に飾られた観閲台の上で各編隊に敬礼を送りながら、後輩たちの姿に神崎一佐は、「あの日は、オレもああだったな」という感慨を噛み締めている。
やがて、目の前の若者たちも、そのスキルを身に付ける試練に直面し、そして乗り越え、あの蒼空に飛翔する日が来るはずである。
――オレはその時には既にここにいないが、卵からヒヨコには孵してやる。オレの最後の仕事として。
両眼を輝かせていたのは、星華、玲子そしてケイも同じだった。
星華は、見学に行った百里基地で初めてF―15Jのテイクオフを目の当たりにした瞬間を思い返しながら、誓っていた。
「六年後、わたしもパイロットになって、あの空に」
玲子、そしてケイも同様な思いを抱いていた。
――
記念会食のテーブルに着くと、学生と父兄に基幹隊員が挨拶して回っていた。
「天辺学生のお母さんですか。ここの担任だと思って頂いて結構ですが、区隊長の加藤です」
白い儀礼肩章を濃紺の第一種制服に装着した加藤二尉は、星華とその母のところにも来た。
「天辺星華の母でございます。娘を、どうかよろしくお願い致します」
星華の隣で、ベージュ色のスーツ姿の母も挨拶に応じた。
「女子学生の指導には、こちらの内務班長、水野二曹が当たります。航空自衛隊の全女性自衛官の中から、特に選抜された優秀な者です。どうか、ご安心ください」
加藤に伴われた亜美が、一礼した。まだ、この時点では「魔女」の本性を現していない。
目の前に並んだ会食のメニューは、鯛の尾頭付きを初め、祝いの場の食事としては世間一般的なものだった。間もなく、会食が始まった。
「はい、いいですねー。では行きまーす」
入隊式に付随する記念会食が終わってから、午後の課業が始まるまでの間、自由時間が与えられている。
星華、玲子、そしてケイの三名の女子学生は、神崎一佐の予想したとおり、マスコミ各社の記者たちに包囲されていた。
「なぜ、パイロットになろうと思ったのですか?」
「訓練には、着いていけそうですか?」
「将来、どんな飛行機に乗りたいですか?」
等々、多くは予め予想できた質問だった。
最後の質問に、玲子は明確に、
「戦闘機に乗りたいです」
という答えを返した。ケイは、
「輸送機です。国際貢献とか、平時に一番活躍するのは輸送機だから」
と、独特な主張を述べた。
「戦闘機に乗ってみたいと思いますけど、でも――まだ分かりません」
照れを隠しながら、星華は最後に答えた。
あらかた質問やTVカメラの録画が終わった後で、週刊誌の腕章をつけたカメラマンが三人に撮影を求めてきた。
「どうも、週刊文秋のカメラマン、平島と申します。ちょっと、お三方に撮影をお願いします」
手にしたデジタル一眼レフカメラの他、何台もカメラを首からぶら下げている。
最初はなにげなく応じた星華たちだったが、カメラマンの平島は直ぐに三人をペースに乗せてしまった。
最初は三人まとめて、次は一人一人、バックに展示用の飛行機やら記念碑やらを入れた構図でポーズを求め、シャッターを切る。
星華やケイだけでなく、玲子までまんざらでもない表情で、何枚ものカットに収まった。
「はい、それじゃ、ありがとうございましたー。五月になったら、うちの雑誌のグラビアに載るので、お楽しみにー」
マスコミへのサービスタイムは終わった。
駅へ向かう父兄を乗せたバスが出る時刻が来た。
「じゃあ、お母さん。心配しないで」
真新しい制服に身を包んだ娘の別れの言葉に、母は少しだけだが心配の気持ちを残しているようだった。
「――ええ、そうね。頑張りなさい」
「大丈夫。友達もできたし、一人じゃないから」
ケイの両親は、来なかった。聞いたところでは、現在アメリカにいるという。
玲子も、母親だけが来ていた。この母にして、この娘ありと思わせるような凛とした感じの女性だった。心配している素振りは見られない。
学生たちが敬礼で見送るなか、バスは発車した。
その一時間後。洗礼とも呼ぶべき儀式が始まる。
――もう、お客さんは終わりだぞ。
という宣告、「対面式」である。
隊舎前に、新入の後任期学生全員が整列を命ぜられた。
服装は紺色の冬制服ではなく、緑色の作業服に作業帽、そして編上靴である。
「いいか、お前ら!」
既に一年間を航空学生として消化し、空士長の階級章を装着した先任期学生が、横隊に整列した新入後任期学生相手に叫ぶ、というより怒鳴る。
「お前たちの階級は二士だが、ただの二士じゃない! 航空学生だ! 六年後には三等空尉で、幹部自衛官になるんだ。妥協は絶対許されんぞ、分かっとんか!」
団司令が聞いたら、「真に結構だ」といいそうな台詞だった。
「はい!」
声を合わせて、新入学生が答える。星華も、思い切り声を出した(積りだった)。
「声が小せえー!」
「はいぃっ!」
女子高でこんな受け答えを求められた経験は、もちろんない。
ここまでで、星華は既に縮み上がってしまった。――その他の同期も、似たり寄ったりだったが。続いて隊舎内に移動し、自己紹介の時間が待っていた。
一般の学校ならばクラスに相当する区隊の教場に移動を命ぜられ、整列させられた。
「今から、相互に自己紹介を実施する。俺たちの期がまずやるから、新入学生は同じ要領でやってみろ」
と告げられる。
そして、次に新入学生たちの耳に入って来たのが、これまで聞いたことのないような大声だった。
真似しろといわれても、頭のなかは真っ白になってしまって、足がガクガクしてくる。
先任期学生の自己紹介はあっという間に終わり、後任期学生の番になった。
先任期は、列の最右翼最前列にいた新入学生に狙いを定め、「お前からやって見せろ」と命じた。
「はい、仲村学生!」
と答えたが、まずそれに対して先任期は素早く彼の周囲を取り巻き、
「なんだ、そりゃ、その対応要領はぁー!」
「脇が甘いんだ、脇が!」
「なんじゃ! その声はぁー!」
とたちまち集中砲火を浴びる始末だった。
一人一人新入学生が自己紹介すると、
「聞こえん!」
「小さい!」
「やり直し!」
の嵐である。
着隊から一週間、本日の午前中まで、手取り足取り、丁寧さすら感じられた指導をしてくれた先任期たちの凄まじい変貌ぶりに、唖然とすると同時にいい知れぬ恐怖まで感じていた。――もっとも、去年は彼ら先任期学生たちも、同じように怒鳴りあげられる立場にあったのだが、もちろんそんなことは、今の星華たちに考えの及ぶところではない。
女子学生のなかでは一番前列に並んだため、星華は女子の標的第一号となった。
「天辺二士! 神奈川県出身……」
仮に大学の新歓コンパの会場なら、男たちの欲望と競争心をいたく刺激したかも知れないセレブな声だったが、ここでは先任期たちの迎撃目標でしかない。
「聞こえんぞ! お前、なめとんかぁ!」
に始まり、たっぷり三十秒以上の暴風を浴びせられた。
女性人権活動家が目の当りにしたら、目を吊り上げて糾弾しそうな光景である。
「次!」
この時点で心のなかではべそをかいていた星華を放免して、今度は玲子が指名された。
先任期たちは、既に「こいつの父親はお偉いさんだ」という情報を得ている。
もちろん、それを理由に手加減の必要性を感じるほど、彼らの血は冷たくなかった。
「藤堂二士! 東京都出身! 東京都立西多摩高校卒業!」
――私、父も兄も自衛官だから。
と、玲子は星華に着隊当日に語っていた。
本当は、もっと昔から代々この方面の職業に就いていたのだが、そこまではまだいわない。
「ご家族に、一人もいらっしゃらないの?」
着隊後、案内された居室で、星華の出身地が神奈川県だと知って、玲子は聞いた。
この点、彼女も固定観念に囚われていた。
一見、神奈川県は自衛隊や米軍が多数の基地等を置いているので、ミリタリーな色彩の濃い土地柄だというイメージがあるが、それは横須賀市や座間市、厚木市とかその周辺に限られている。
県北部や西部では、「自衛隊の実物なんか、一度も見たことがない」という住民が大半である。
そして、星華と彼女の家族もそういう部類に入っていた。
外見に似合わずというか、外見以上というか、玲子の声は響き方も音量も、先週まで外部にいた者とは思えないレベルだった。
少なくとも「お偉いさんの娘というが、どんな答え方するか、見てやろうじゃないか」という先任期側の期待を上回るものがあった。
狼と化してやり直しを命じるつもりだった男たちは、出鼻をくじかれる格好となった。
「山之内二士! アメリカ合衆国ニューヨーク州出身! ジャクソン・ハイスクール卒業!」
といい切る以前に、ケイの自己紹介も先任期たちの爆撃ターゲットとなった。ケイは、割と思ったことが正直に顔に出る性分なようで、やり直しが三回目に達すると、露骨に不満然とした表情を浮かべた。
「なんだぁ、その顔は!」
と、男だったら締め上げられたかも知れないが、この点ではケイは性別によって得をしたかも知れない。
新入学生は全員腕立て伏せ三〇回を命ぜられて、自己紹介タイムは終わった(三人の女子のなかで、やり終えることができなかったのは、星華だけだった)。
続いて、入室のやり方の教育が始まる。
先任期の居室を上官の執務室に見立てて入り方を習わせるのである。
一度要領を展示されたあと、新入学生が実際に行わせられる。
「入ります!」
と発声したあと、入室し、ドアを閉じ、一歩進んで、先任期の位置に向けて方向を小変換し、一礼する。
「やってみろ」
といわれて実施するが、新入学生はほとんど皆、ここでも罵倒に近い叱責の嵐を浴びることになる。
「声がちいせえ、声が!」
「方向変換のやり方がなってない! やり直せ!」
「両手首を体側から離すな! ピッタリくっ付けろ!」
ここでも、女子だからといって手加減される――そんな訳は勿論なく、むしろより強い嵐を浴びせられた。
まず、玲子が実施させられたが、彼女ですら二回やり直しを命じられた。
次が星華だった。
精一杯の積りで声を挙げて、ドアを開く。
「入ります!」
「聞こえん!」
声が小さいと先任期に怒鳴られ、三回やり直し。
次の回れ右に続くドアの閉鎖で二回、そして先任期に対する敬礼を二回やり直しさせられた時点で匙を投げられ、
「藤堂を呼べ」
と命じられた。星華に連れられて入室した玲子へ、先任期は命じた。
「お前、こいつに教えてやれ」
玲子は、「はい、分かりました」と答えて、先任期の代わりを引き受けることになった。
試練の時間が終わって居室に戻ると、そこは水野二曹の手でありとあらゆる物がぶちまけられていた。
これが、星華たちにとっては記念すべき台風の第一撃となった。
点呼が終わり、消灯ラッパが鳴り響く。
激動の一日を終えた新入学生たちは、漸く就寝した。
――わたし、ひょっとしたら、とんでもないところへ来たのかも知れない……
ベッドのなかで、頭まで布団を被って星華は昼間の洗礼を思い返し、自分に誤算があったのかも知れないということを考えていた。
しかし、それは彼女の独占物ではなかったのである。
程度の差はあれ、新入学生たちは、ほとんど全員が同じことを考えていた。
確かな一筋の光に見えた夢が、今また遥か遠くの微かな光に戻ったかのようだった。
耳学問では知っていた。
CAの採用後の初任研修でも、各社共通に「鬼女」あるいは「蛇女」とも称するべき教員による、数か月間の「地獄」が用意されている。
そこで、夢多き若い女性の群れは、いきなり泥沼に頭から叩き込まれるような目に遭わされるのである。
実は、星華の母・真由里も、現役時代は初任研修の教員として、あるいは現場のアシスタントパーサーとして、後輩たちから恐怖の目で見られる存在だった。
その指導の厳しさに挫折あるいは絶望して、憧れのCA生活に短期間で終止符を打った者は、二人や三人ではない。
家庭内では良妻賢母そのものの真由里の、夫や娘が知らなかった別の顔である。
だが、この防府北で待ち構えていた地獄は、全然度が違っていた。
そして、期間は二年間である。
本日の洗礼によって抱いた予感は、翌日からの日々において、ほぼ間違いのない現実と化すのだった。
――
午前六時。起床ラッパが基地内に鳴り響く。学生を含む、基地所在の全隊員が起床するのである。航空学生は区隊毎整列し、以上の有無を当直に報告する。
「一区隊総員二十五名、事故なし、現在員二十五名。番号、始め!」
全区隊が異状の有無を報告し終えたら、間稽古と称して全学生が一体となって三千メートルを走る。
「左、左、左、右、ソーレ!」
「一、ソーレ、二、ソーレ、三、ソーレ、一、二、三、四、一、二、三、四!」
走り終わると、直ちに居室に戻ってベッド上のシーツ、布団、毛布を整える。
そうこうする内に、十分後には朝食時間を告げる次のラッパが鳴る。
「右へならえ! 直れ、右向け右! 前へ進め!」
班毎に縦隊を組んで食堂に直行し、配食の列に並ぶ。
星華を含め、新入学生がまず驚いたことは、先任期たちの飯の盛り方だった。
普通の家庭にある飯茶碗より一回り以上大きい椀に、山盛りに飯を詰め込み、その上に目玉焼きとかを乗せて掻っ込むのである。
これまで、特に将来の進路を考えて日々の食事を自分なりにセーブしていた星華には、当初まったく信じられない食欲だった。
――教育が本格的に始まると、直ぐに理解し、他の二人と共に時間を置かずそれに習うようになったが。
「いただきます!」
と唱和して食べ始めるが、最初の入隊前のように時間をかけてよく噛んで――という食べ方は、数日で返上した。
先を争うように主食、副食、味噌汁を片付け、盆に乗せた食器を返納口に戻し、来た時のように列を作り、隊舎に帰る。
「よい兵士の条件は、食事が早いこと、便所が早いこと、走りが速いこと」という戦前のいい習わしは、現代でも生きているかのようである。
居室に戻ると、これまた急いで洗面所に駆け込んで洗顔し、続いて身辺整理を行う。
こうしないと時間が足りなくなるということは、短期間で学ぶことができた。
星華たち女子学生はその上、最小限だがメイクも施す必要があった。
例えば、当初三人が普通にメイクして朝礼に臨むと、
「男を釣りに来たの? ここでは色気なんか、必要ない!」
と、水野二曹から叱責され、翌朝は逆に化粧なしで並ぶと、
「色気は必要ないといっただけです。女であることを忘れてはなりません! 腕立て伏せ十! 姿勢を取れ!」
という具合である。
次に六時五十分から十五分間で、居室を初め、廊下、階段、トイレ、玄関等の受持ち公共場所の清掃を行わなければならない。当直や先任期学生が目を光らせているので、さぼることはできないし、やり損ないがあれば、それが「台風」を呼ぶこともある。
清掃後は、課業準備である。教材やノート等、教育で使用する物品を準備する他、服装や靴の手入れを行う。朝の時間では、ほとんど唯一のリラックスタイムでもあるが、靴の磨き方一つでも手抜かりがあれば、容儀点検で先任期や助教から指摘されて罰直の理由にされる。
七時三五分から八時までは間稽古であり、前日の教育で難しかった英語の表現とか、基本教練とかの復習を行う。八時から課業行進で、隊を組んで群庁舎前まで移動する。そこで朝礼である。朝礼台上の学生隊長・風見二佐に、
「学生隊長に敬礼」
「頭かしら―、中! 直れ!」
「おはよう!」
「おはようございます!」
八時一五分。国旗掲揚。君が代に合わせてポールに掲揚される国旗日の丸に、全員で挙手の礼で敬礼する。
航空学生の教育は、心身両面に亘る。
八時二十五分から始まる午前中の訓育は、主として教育隊によって行われる座学である。その範囲は、
精神教育:国防の重要性や自衛官の使命と心構え
服務:自衛官の行動に必要な知識
人文科学:哲学、倫理学、心理学、歴史
社会科学:法学、政治学、経済学
英語:航空英語、口語英語
自然科学:数学、物理、気象、電子計算機
航空工学:航空工学に関する課目(実験を含む)
電子工学:電子工学に関する課目(実験を含む。)
文章技法:文書作成の知識
講話:部外講師による。
行事:基地内外で行われる各種行事に参加
研修:他の基地や史跡の研修
ドリル展示:伝統あるドリル隊の演技
環境整備:生活環境の美化に努めよりよい環境を維持
……と、学ぶのが当然と思える分野から、一見パイロットになるにも、飛行機を操縦するにも関係があるとは思えない分野まで含まれている。単にパイロットになるのではなく、幹部自衛官たる者には必要な教養の一部であることは、彼らにはまだ分からない。
防衛学:国防論、作戦運用、戦史
「――以上が、我が国の安全保障戦略の概要である」
教育隊で防衛学を教育するのは、主に自衛官の教官である。その教育隊教官の一人、梶谷一尉は去年まで松島の第2航空団でF―2Bに乗っていた。「その下で、空自が担当するのは、いうまでもなく防空であるが、具体的には六種類のミッションに分けることができる。まずは警戒監視。全国二十八カ所に設置された固定レーダー、これをレーダーサイトと呼ぶが、これとともに空中において領空を監視する早期警戒機E―2C、早期警戒管制機E―767、さらに地上において機動的に警戒網を構成できる移動式三次元レーダーTPS―102が、その手段である。これらによって、我が国の領空は三百六十五日二十四時間、一分一秒の休みもなく警戒されているのである」
パワーポイントによるスライドを次々切り替えて、装備品やイラストをスクリーンに映しながら、梶谷は説明を進めた。
「これらから得られた情報は、自動警戒管制システムJADGEによって空自組織の脳に相当する航空総隊司令部・航空方面隊司令部に伝達され、領空侵犯や弾道ミサイルといった脅威を瞬時に識別し、対領空侵犯阻止スクランブル、弾道ミサイル破壊措置等の対処が発令される」
午前中の課業は、十二時五分まで続く。終了すると、食堂に直行し、昼食を取る。
午後は、一転して屋外での課目が多くなる。
少しでも早く食事を終え、学生舎に戻って着替えなくてはならない。
制服から迷彩柄の作業服にである。
体育課目であれば、体育服装になる。
教練:自衛官の行動に必要な動作及び精神の訓練
教練には、自衛官として必須の動作を身に付ける基本教練や射撃、戦闘訓練等がある。
基本中の基本であるために「基本教練」と称される課目は、停止間の動作、行進間の動作に分かれ、それぞれ徒手の動作・執銃時の動作がある。
さらに、着帽時と脱帽時にも、それぞれ別の動作がある。
「気を付け!」
この号令がかかると、両足を閉じ、爪先を男子は六十度、女子は五十五度に開き、踵を密着させ、両腕を体側に密着させて、両手の拳を握らなくてはならない。
「注目!」
既に銃の貸与式は終わっており、各学生には小銃が持たされている。
最初は、銃を用いない徒手の動作から始まるが、それは入隊式前に終わっている。
第三区隊助教・今村二曹が、学生の面前で声を張り上げる。
本日は、執銃時の動作を教育されていた。
「不動の姿勢は、銃を肩から吊っている以外、徒手と大きな違いはない。不動だから、動いてはならない。右肘で、銃床部が右臀部に接するように銃を支えるとともに、銃を概ね垂直に保つ……目をキョロキョロ動かすな!」
視線を自分から外した学生を、助教は叱責した。
一通り展示と説明が終わると、区隊を分割して学生たちの実施とこれに対する助教たちの指導になる。
体育:自衛官として必要な体力の鍛錬
体育は、筋力トレーニングや持続走に加えて、遠泳やサッカーなど基礎体力の充実
四月第三週の金曜日午後、体力測定が実施された。
腕立て伏せ、腹筋、三キロメートル走、懸垂、走り幅跳び、ソフトボール投げの合計六種目を規定の時間内で一定以上の回数をクリアしなければならない。
一部を除いて男女同種目である。
採用試験には体力科目はないので、多くの学生はここで厳しい体験をしなければならない。
「……さんじゅう、さんじゅういち……」
腕立て伏せは、二人一組で行う。
一人が実施者の両腕の間に手を置いて、手の甲に触れると一回にカウントする。
入隊前にスポーツをやっていた玲子とケイは、順調に回数を重ねた。
「あたし、ハイスクールではリアリーディングやっちょったんだ」
と、ケイはスマホのなかの画像を見せながら、初日に語っていた。
「チアって、体力要っの。第三のプレーヤーとゆわれちょっくらいでね。――NFLでパフォーマンスする、プロのダンサーになろうかと思もたこともあったんだ」
――言葉どおり、脚力でも、腕力でも、ケイは女子学生のなかでも抜きん出ていた。
この点で、玲子も及ばないところがあった。
玲子は、進学校でありながら女子テニスの強豪校でテニス部女子キャプテンを務め、インターハイ出場を果たしていた。
二人が終えると、星華が顎の下に玲子の手を置いて、腕立て伏せをする番になった。助教のホイッスルが鳴った。
「いち、……にい、……」
ここまでで、既に星華の両腕は震え始めていた。
入隊前、広報官の四ツ谷から「今の内から、少しでもいいから運動しておいて下さい。体力は、自衛隊のどこでも要求されますから」と、アドバイスは受けていた。
ただ、それがどれだけのレベルを意味するか実感がなかったから、星華は家の周囲のジョギング程度しかやらなかった。
そして、それは甘過ぎる認識だったと、最初の週で既に思い知らされていた。
「に……」
やっとのことで腕を伸ばした。
だが、既に一直線に伸びていなければならないはずの肩から足までは、くの字に曲がっていた。
そして、三回目に挑もうとした時に星華の腕が限界に達して、上半身を地面に落とした。
肩で息をしていた。
「天辺学生、二回」
と非情に水野二曹が記録する。意味するところは――不合格である。
その日の終礼では、魔女が暴風を吹かせた。
加藤二尉から区隊全員の点数と、合否が発表される。
そして、級外つまり不合格を申し渡されたのは、星華ただ一人だった。
降下する国旗に敬礼し、解散が命ぜられると、水野は女子学生だけに残留を命じた。
「天辺。あなたは、自分の立場が分かっていますか?」
「はい、班長。――分かっています……」
「そう。一人だけ、一人だけ級外! それも、六科目中、五科目不合格で! これが意味するところは、今のあなたは航空学生どころか、まず自衛官として不適格ということです!」
両目を炯々と輝かせ、お局は口から炎のように厳しい言葉を次々と吐き出した。
ガイガーカウンターがその場にあったら、針が振り切れたかも知れない。
星華は、「客室乗務員の訓練センターにいるインストラクター」にもこんなタイプがいると知っていた。
「(わたしだって、一生懸命やったのに)……これから、努力します、班長」
泣きたくなるのをこらえて、星華はなんとか答えた。
「努力? やって当然。問題は、どう努力するかです。それをよく考えなさい」
――解放されたあとで、意気消沈した星華をフォローしたのはケイである。
「なにさ、あの毒女!――天辺、最初いっばんさっからでくれあ、誰も苦労せんよ」
実は、男子学生でもギリギリの点数で合格という者も何人かいた。
過去には、やはり最初の体力測定で不合格という例もある。
運動をしていなかった星華が合格できなかったのも、実のところ無理はないのだった。
「行きましょう。早く行かないと、夕食に間に合わない」
ケイのオーバーヒートのピークアウトを見計らって、玲子が促した。
相変わらず冷たさを感じさせない程度にクールである。
隊舎に戻り、体育服装から作業服に着替えて、食堂に直行するのが行動パターンだが、その途中で、
「ごめんなさい。二人とも、先に行っていて」
と星華が離脱して、一人だけ学生隊の方向に走り出した。
星華は助教室に直行し、ドアをノックした。
「入ります!」
近頃板についてきた一連の入室の動作を取ったあと、星華は水野二曹の前に進んだ。
「天辺学生は、班長にご指導を受けに参りました」
帰り支度か、卓上を整理していた亜美は、じろりと目線を向けると、
「なんですか?」
と事務口調で聞いた。
「班長、わたしに、体力測定に合格する方法を教えて下さい」
助教室には、他に残っていた本間二曹が出て行ったので、二人だけになった。
星華としては、最大限謙虚かつ懸命に指導を受けたつもりだったが、班長の方は視線を机の上に戻してつっけんどんな答えを返した。
「よく考えなさい、といったはずです。考えたんですか?」
少しためらったあと、星華は最大限、真剣さを込めて質問を口に出した。
「考えても、分からないことだと思いました。わたし、これまで特に運動をやったことがありません。――お願いします、班長。体力測定に合格するため、どうやったらよろしいのか、教えて頂きたいと思います」
そこまでいって、星華は最大限上半身を折って、亜美に頼むゼスチャーをした。
「――最初に、区隊長がいわれたこと、覚えている?」
顔を上げて、視線を正面から星華に向けた亜美が聞いた。
「目標は、しっかり持っているか?――そう、区隊長はいわれたはずです。覚えている?」
「はい。覚えています」
入隊式の翌日、朝礼時に、加藤は学生たちを前にして次のように申し渡した。
「本日から本格的に教育が始まる。皆、目標は、しっかり持っているか?」
「はい!」
そう唱和した学生たちにとって、あるいは意外なセリフかも知れなかった。パイロットになる。そのためこそに、ここにいるはずだからである。
「お前たちが目指すパイロットは、ただの飛行機乗りではない。この国の空を守るため、命がけで任務を果たすパイロットだ。それは、戦闘機に乗ろうと、ヘリに乗ろうと、輸送機に乗ろうと、本質的に変わるもんではない! その覚悟を持った人間だけが、ここで学ぶ資格があるのだ。その覚悟が持てない者に、ここにいる資格はない。民航にいけ。あっちは年収一千万以上だ。きれいなCAともよろしくやれるぞ。だがな、ここにいる資格があるのは、そういうものは一切いらん、ただ命を国に捧げる覚悟で飛ぶ人間だけだ。――目標を持つとは、まずそういう覚悟を固めるということだ」
加藤は、一気にまくし立てた。
「区隊長は、ここが命を賭ける覚悟のあるパイロットを育てるところだ、といわれたはずです」
「はい。そうです」
「天辺、あなたはどう? それだけの覚悟を固めた?」
直ぐには答えられなかった。なんといっても、実のところ星華はまだ十代の小娘なのである。同年代だったら、男女の別なくそれだけの実感を持って覚悟を固めることは容易でない。
「まだ、かも知れません……」
「正直ね。で、本題に戻るけど、なぜ体力が必要なのか、分かる?」
「自衛官として、基礎だからです」
「単なる基礎ではありません。いい? この先、飛行幹部候補生になったら、実際に練習機に乗ります。T―4でも、飛行中にかかるのは最大7Gです。60キロの体重が、420キロに感じられる。F―15に至っては9Gです。その時に、それを支える体力がなければ、飛行中に失神して墜落、殉職となります。命を賭けるための絶対に必要な基盤だから、体力をつけるんです。分かった?」
はい――と、単純に反応することが、星華にはできなかった。
去年、百里で見たイーグルのコクピットでは、それだけの過酷な状況が発生するとは、今知らされたからである。
「単なるノルマではなく、パイロットという明確な目標にたどり着く、そのために、欠かせない手段だから体力をつける、そこをまず理解しなさい。それから――」
亜美は、ようやく具体論に入った。
単にやみくもに走ったり、腕立て伏せをするだけでは、やったという自己満足に終わるだけである。
明確な数値で、今月は千メートル何分、腕立て何回と定め、何がなんでもそれを達成する。
それを積み上げて、最終合格に達するよう、努力を毎日重ねる。
なにがあっても自分を甘やかさない。
「それを貫徹するのです。いい? 航空学生になったからには、やり遂げなさい。これは、体力測定に限らないから、それもよく覚えておくこと」
「はい!――天辺学生、帰ります」
助教室を辞去した星華は、駆け足で食堂に向かい、食器を片付けつつある同期二人を見つけた。
食事を載せたプレートを卓上に置いて、
「ごめんなさい、遅くなって」
といいつつ星華が座る。
「なにしちょったんよ? 航友会に間に合わんよ」
ケイが聞いても、「ええ、ちょっと」とだけ答えるに留めた。
「お先に。遅れないようにね」
玲子が席を立つと、ケイも「じゃあね」といってあとに続いた。




