Scene#10 K空域
玲子と星華のT―4は、並んで浜松基地を離陸した。
そのまま二人は、コンバットスプレッド、すなわち左右5,000フィート、上下3,000フィートの間隔で二機編隊を維持して、コリドーを通過し、浜松基地から南西方向にある遠州灘と紀伊半島に挟まれたK空域を目指す。
民間機の入らないK空域で、最終試験、つまり編隊飛行試験が行われるのである。
課目は二つ。
まず、一度距離を取った一機が後方から前方の編隊長機に接近して、その後方30度、左右の間隔3フィートの基本隊形に入るストレート・ジョインアップである。
第二は、スプレッド。
編隊長機の真下を、出力を落として右から左へスライドするのである。
いずれも単純そうな機動だが、実は高度な技術とチームワーク、そして相互の信頼が要求される課目である。
「よし、チェック・スタート」
編隊長の後部に乗る教官操縦士・浜田三佐が命じた。試験は始まった。
編隊長機の玲子から、無線が入った。
『編隊直線集合。右側付け。進路250度。速度270ノット』
「アートミス。こちらリリィ。ラジャー」
星華は、やや緊張して応答する。
「イメージトレーニングどおりだ。いいな。ゴー」
「ラジャー」
前部座席にいる小田桐の一声で、星華は左手のスロットルを前に倒し、パワーを絞った。
右手にあった玲子の編隊長機が徐々に前方の離れて行くのが見えた。
「行きます」
前方に、十分距離を取って編隊長機が小さくなっているのを、星華は確認した。
これから、編隊長機の右から接近し、空の上では至近距離である3フィート、約2・4メートルにまで接近しなければならない。
一呼吸置いて、星華は、
――さあ、行こう。
と自分にいい聞かせた。
「焦るなよ」
星華は、小田桐の声を聞きながら、スティックとスロットル、そしてラダーを操作して、距離を詰めていく。
既に、機体をどう動かすには、どれをどう動かすか、体に染みついていた。
理屈を忘れてはならないが、それだけでは、飛行機は動かせないと学んでいた。
『少し速い。――オーケー、そのまま右へ』
編隊長機からの通信が、レシーバーを通じて星華の耳に届く。
玲子の声は、冷静そのものだった。
編隊長機は、微動にしない。
飛行は安定しているように見えた。
星華には、それが玲子の実力と、いつも冷静さを失わない強靭な心理を示しているように思える。
――あと100フィート。80フィート。50フィート……
星華は、目測で編隊長機と自分の距離をカウントする。
「いいぞ、そのままだ」
小田桐の声は、少し高ぶっていたかも知れない。
――こいつは、ただの小娘じゃない。今までの男子の誰より、接近がスムーズだ。
そう実感していた。同じ思いを共有しているのが。
編隊長役の玲子である。
――上手い。こっちも怖くない。
そして、星華は規定とおりの3フィートのクリアランスを取って右側にT―4を付けた。
そのまま、編隊を維持して、飛行を続ける。
『リリィ、セパレート。続いてスプレッドに移る』
「ラジャー」
星華は、T―4を右にバンクさせて、玲子との距離を取った。
次が、課程最後の課目となる。
スプレッドは、一度二機が横に並び、そこから僚機が出力を絞って高度を下げ、編隊長機の真下を右から左へと横方向に通過するのである。
「レッツゴー」
「ラジャー」
編隊長機から開始の無線を聞いて、小田桐が促すと、星華は応じた。
航空手袋のなかで、汗がにじむようだった。
スロットルを少しづつ前方に押すに従い、左前方にいた玲子のT―4が、近寄って来る。
そして、両機のクリアランスは開始の時点のそれとなった。
――さあ。
スロットルを絞る。
ラダーを操作して、自分の高度を徐々に下げる。
『こちらアートミス。オーケー、続けて』
玲子の声が聞こえた。
編隊長機は、止まっているかのように星華の視界のなかで動かない。
息は合っている。
星華には、そう思えた。
スティックとラダーの操作で、星華のT―4は、滑らかに玲子の下方を横に動き、そして通り抜けた。
そして、出力を上げて、そのまま高度を戻す。
「アートミス、こちらリリィ。コンプリート」
『こちらアートミス。ラジャー』
――完璧じゃないか。
声には出さなかったが、小田桐はヘルメットのなかで舌を巻いていた。
これが、少し前に訓練事故で飛べなくなった候補生とは、まったく思えなかった。
一方、玲子もコクピットのなかで、驚きとともに脅威さえ覚えていた。
航空学生の頃から、自分のうしろを追ってくる存在だった星華が、いきなり背後に立ったような感覚を覚えた。
――この子は……私のあとを、少し遅れているだけなのかも知れない。
航空学生時代、星華が体力不足で悩み、また理数系の科目を苦手としていた時には、保護者になったかのような気持ちで接して来た。
玲子に、奢り高ぶった感情はなかったが、星華を自分に追いつく存在とは感じもしなかった。
だが、浜松でT―4に乗って以来、急上昇を思わせる成長を見せるようになった。
墜落事故と教官の殉職に遭遇して、パイロットへの道に挫折しかけたに見えたけれども、今の星華に、その迷走は痕跡すらも残っていないようだった。
「教官、ジョインアップします。RTB」
玲子は、驚きを一時脇に置いて、浜田に同意を求めた。
「オーケー。午前はこれで終わりだ」
二機のT―4は、試験前の隊形に戻り、浜松基地への帰路についた。
――空が、蒼い。
浜松基地に向かって続くコリドーのなかを進みながら、速度250ノットの機内で星華は感じた。
本当なら、CAの制服を着て、旅客機に乗って飛ぶはずだった大空を見つめた。
乗客に微笑みながらサーブするためのカートを押すはずだった手で、今自分はスティックを握っている。
CAより、遥かに狭き門をくぐり、真に選び抜かれた者だけがたどり着けるコクピットのなかにいた。
もう直ぐだった。
もう直ぐ本当のパイロットになれる。
砕けたCAの夢の代わりに得た、生きる目標に手が届く。
――わたし、成し遂げました。教官。
星華が報告したのは、既にこの世にいない下川だった。
乙女心をズタズタに引き裂くようなセリフを平気で口にし、情愛という言葉とは縁遠いような人だった。
だけれども、下川の、命を投げ捨てた導きがなければ、自分はここまで来れなかったと思えている。
身体的鍛錬では、航空学生課程の時の加藤二尉の方が厳しかったかも知れなかったが、実感として一番厳しかったのはやはり下川一尉だった。
そして、星華は左の手を右上腕部に回した。
パイロットスーツの下には、自分の運命を変えた傷があった。
傷を負い、それが完治しないものであると知った時は、自分の運命を呪いさえした。
しかし、これがなかったら、パイロットになることもなかったのである。
不思議なものだった。
今となっては、愛おしささえ感じていた。




