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Scene#8 静浜基地上空――事故

 離陸までは、少し心に引っかかるものがあった。

 地上で気になることは、幾つもある。

 治が嫌いであるわけではない。

 習志野で再会して以来、時々メールやショートメールもやり取りして来た。

 小学校の同級生で同じ職業ということから、親近感は感じていた。

 治から、GWの末に「来週から空挺レンジャー課程が始まる」と伝えるメールが届いていた。

 その末尾で、「勝手なことをして済まなかった」という詫びも付け加えられていた(治にとっては、これも作戦の一部だが)。

 星華は、その部分には触れずに「来週からがんばって」とだけ返事をした。

 一方、信彦からは連絡がない。

 きっと、税理士試験の最終科目受験に向けて、全力投球しているのだと思えた。

「どうしよう――わたし、どうすればいいの……」

 という思いは、あれ以来、常に付きまとっている。

 誰かに相談したくても、性質上、相手が簡単に見つからない。

 ケイが近くにいれば相談相手になったかも知れないが、遥か彼方の美保基地であり、玲子に相談しても、「教育中でしょ。気を散らすべきじゃない」と、たしなめられて終わりだと思われた。

 GWの休暇明けから、課程は第三段階の計器飛行訓練に入る。

 従来とは逆に、教官が前方座席、学生が後部座席に座り、訓練に入ると後部座席のキャノピーの下には蛇腹状のフードが設置される。

 上空で訓練に入ると、フードがキャノピーを内側から覆い、学生の視界を遮断する。

 外が見えない状況で、計器だけを頼りに予定のコースを飛行しなければならないのである。

 悪天候や夜間のように、地表の地形地物を見てフライト出来ない状況を想定した訓練だった。

 T―4は、豊橋市上空で予定の位置に達した。

 一切の雑念を払うように、星華は一度深呼吸した。

 レシーバーからは、下川の命令が聞こえて来た。

「フードクローズ。始めるぞ」

「ラジャー。フードクローズ」

 蛇腹状のフードを右から左へ、右手で動かした。

 これで、後部座席からは外部が見えない。

 星華は、改めてスティックを握る右手の感触を確かめた。

 ――集中しなきゃいけない。

 自分にいい聞かせた。

 今は、異性関係のことなんか、考えている余裕はない。

 高度は25エンジェル、つまり25,000フィート。メートルに直すと、7,625である。

 これから北北西に進んで木曽御嶽山南山麓、西南西に方向変換して甲府市、南下して富士市上空を経由、浜松基地に帰投するフライトプランだった。

 この飛行を計器と時計だけで正確に実施しなければならない。

 夜間や悪天を想定した訓練だった。

 既にTー7で経験済みだが、速度と高度は大きく違う。

 秒単位の飛行管理を誤ると、最悪の場合、地上と激突である。

 もちろん前部座席には教官が搭乗しているが、いざという時は助けて貰えると思って飛んでいたら、ピンクを突き付けられるのは確実である。

「高度、ファイブエンジェルに上げます」

 次の基準点は木曽御嶽山の南山麓にある小秀山で、標高は2,000メートル近い。

「ライトターン、エイティフィフ」

 速度計と高度計、そして時計が正しければ、現在位置は小秀山上空であり、次は中央アルプスを横断して、甲府市上空を目指さなければならない。

 前席のガブリンは沈黙を保っている。

 ――どうか、コースを外れていませんように。

 と星華は心のなかで祈るばかりだった。

「トリム、忘れるな。トリム」

 一度、下川の声がレシーバーから聞こえた。

 スティックの最上部に、前後左右に動かせる小さな突起がある。

 これをトリムと呼び、右手親指で操作するが、機体の微妙なバランスを調整する役割がある。

 以前、星華はこの操作を誤ったことがあり、それ以後も忘れる傾向があったので、下川としては、

「これ以上やるなよ、ピンクを出すぞ」

 という意味なのだろう。

 ――分かっております、教官。

 と思いつつ、「ラジャー」とだけ答えた。

 ――富士市上空に到達したはずだった。

「リバー、#4ポイント、富士市上空です」

 星華は、マイクに声を送り込んだ。リバーというのは下川のTACネームである。

「OK。フードオープン」

 その声を聞いてから、星華は閉じた時と逆の手順でフードを下ろした。

 機体前方の下方向に駿河湾が見える。

 もう間もなく海上に出ようという地点だった。

 現在位置は、富士市上空に間違いなかった。

「いいだろう。浜松に戻るぞ。RTBだ」

「ラジャー。RTBハママツ」

 復唱した星華は、大きく胸をなでおろした。

 計画通りのルートを飛行できたのだった。

 ――わたし、ここまでできた。

 という満足感が沸き上がって来る。

 少し気が緩んだのか、飛行前の考え事が、ふと再び頭をもたげた。

 ――土肥原さんと角田くん……どうしよう。

 土肥原の誠実な為人は分かっている。

 自衛隊を辞めても、自分を一生大事にしてくれそうだった。

 でも、土肥原と同じ人生を選ぶためには、今日まで耐えて来た教育のすべてを捨てなければならない。

 この空を、夢を捨てなければならなかった。

 一方、治は昔の友達であって、いきなり唇は奪われてしまったが、それはなぜか怒り切れない気持ちがあった。

 同じ職業だから、もし仲が進んでも自衛隊を辞めろとはいわないと思われた。

 でも、今一つ「同級生」の一つ上のなにかを持てているかというと、それも断言できなかった。

「おい、なにをしている。リクエストRTB」

 ガブリンに促されて、星華は我に返った。

 ――いけない。わたし、フライト中だった。

 自分を叱ってから、浜松管制塔を呼び出す。

 だが、浜松基地の管制塔は、

「現在、浜松周辺はダウンバーストの兆候あり。着陸は危険。着陸を静浜へ変更せよ」

 と返答して来た。どうやら、朝の時点のブリーフィングと異なって、天候が急変したらしい。

 ダウンバーストは航空機を強圧で地面の方向に押し付ける強力な下降気流である。

 過去、何度も重大な航空機事故の原因となっていた。

「真夏でもないのにダウンバーストか。止むを得ん。静浜に降りろ」

「ラジャー。静浜にリクエストします」

 静浜基地は、同じ静岡県内にある基地で、大井川の北岸にある。

 滑走路のある基地としては、空自では最小の基地だった。

 自分にとっては、航空学生試験の会場でもあった。

 富士市からは約40キロメートルの距離であるので、到達まで数分しか時間がない。

「シズハマコントロール、チェッカースリーワンワン、リクエストランディングインストラクション」

「チェッカースリーワンワン、シズハマコントロール、付近に雷雲が接近中。注意して接近せよ」

 西から急速に天候が下り坂に入っている模様である。

 進行方向にはグレーの暗雲が見えていた。

 駿河湾上空で、前方に静浜基地のある陸地が視界に入った時だった。

 星華たちのTー4を閃光、そして衝撃が襲った。

 ――なに?

 という驚きに続いて、それが機体への落雷だということに気が付くのに数秒かかった。

 次に頭に浮かんだのは、マニュアルにあった計器のチェックだった。

 だが、計器盤に目を走らせて星華は、瞬時に血の気が失せた。

 ――だめ、高度100フィート、速度3ノット。

「教官、インストルメントアウト! インストルメントアウトです!」

「分かってる!――シズハマコントロール、デクアリングエマージェンシー! インストルメントアウト! デクアリングエマージェンシー!」

 通常、飛行中に航空機が被雷しても、搭乗中の乗員は、ファラデー原理により被害は発生しない。

 だが、現代の航空機にとって必須の電子機器は別である。

 時と場合によっては、高圧電流である雷が、それらを損傷することがある。

 意味するところは、イコール操縦不能である。

 静浜基地で、非常事態を告げるサイレンが鳴り渡った。

「配置に付けー!」

 各隊長の号令と共に、基地業務群に属する施設隊や衛生隊に属する消防車や救急車といった車両や対処関係の人員が、墜落事故に備えて走り出した。

「アイハブ、いつアンコントロールになるか分からん!」

 下川の声が必死の響きを帯びていた。

「ユーハブ!」

 星華は、操縦を下川に渡した。

 だが、操縦系統もエンジンも電子機器のコントロールを受ける。

 無事に着陸できる可能性は、下川にも非常に低くなったように思える状況だった。

「ベイルアウト、ベイルアウトしろ!」

 レシーバーから伝わって来る下川の声は、既に絶叫の域に達していた。

「しかし、教官!」

「急げ、こいつは海に落とす!」

「ラジャー、ベイルアウトします!」

 復唱した星華は、座席の頭上にある赤い環状のベルトに手を伸ばし、下に引いた。

 次の瞬間、後部座席のキャノピーが爆砕され、座席のロケットモーターが点火した。

 強烈なGが星華の身体を襲い、縦方向に全身を圧縮する。

 後部座席が射出されたTー4は、急速に左にひねり込んだ。

 このまま基地を目指せば、基地周辺に被害が及ぶかも知れなかった。

 それを避けるためには、時間がないことを承知の上で急旋回し、海面に降りるしかない――下川は短時間で判断した。

 だが、この決断は、彼自身が脱出する時間がほとんどないことを同時に意味した。

 落下傘降下しながら、海面に突入するT―4を目の当たりにして、星華は呆然としていた。

 彼女の目にも、教官がベイルアウトする場面は目に入らなかった。

 フードオフして、一〇分も経過していない時点での出来事だった。

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