Scene#5 横浜市街・山下通
ステージの壁に映しだされた文字は、
『波の上の料理人』である。
同窓生の近況報告で、山本の番が回って来たのだ。
……埠頭上に整列した横須賀音楽隊が「日の丸行進曲」を演奏するなか、護衛艦はるかぜはその巨体を岸壁に横付けにした。
もやいが結合され、舷梯も降ろされた。
その上を渡って、艦長以下の乗組員が続々と一列になって降りて来る。
彼らは護衛艦隊司令官の前で整列し、艦長が代表してソマリア沖アデン湾海賊対処任務の終了と帰国を報告した。
周囲には、帰国を待ちわびていた家族が遠巻きにしている。
帰国行事が終了すると、解散が命ぜられ、乗組員たちは早速家族との再会を楽しんだ。
山本平八もそのなかに……いなかった。
「タマネギ、終わりました!」
調理室で戦っていたからである。
帰国日が金曜日だったため、昼食のメインはカレーライスである。
艦艇でも陸上基地でも、海自では金曜日の昼食にカレーライスが供される。
カレーの味の決め手の一つがタマネギであって、合計一〇キログラム必要である。
その他、野菜だけで人参一〇キログラム、ジャガイモ二〇キログラム。牛肉は六キログラムである。
レシピは艦・部隊ごと色々と工夫されているが、はるかぜも独自のレシピを有していた。
「人参終わりました」、「ジャガイモ終わりました」
野菜の細断は、新米海士の任務である。
山本たち三名は三〇分かけて、すべての野菜の下ごしらえを終わらせた。
「よし。タマネギ炒める」
給養員長森脇一曹は、既にドラム缶を半分に切ったくらいのサイズのスチーム鍋にヘットを溶かして待ち構えていた。
一〇キロ分のタマネギを入れたボウル数個の中身を、給養員たちが次々そのなかに投じた。
盛大に湯気が上がり、タマネギが徐々に色を薄めていく。
タマネギに茶色が着いた頃を見計らって、人参、そして一口切りの牛肉が投入された。
カレーの味を決定するこのプロセスと、前日から準備するブイヨンは、森脇一曹の独壇場だった。
同時に、副食であるサラダや、揚げ物、果物を準備しなければならない。
調理室は、常在戦場だった。
――同じ四人組テーブルに巨体を戻した山本は、グラスのなかのビールを一息に飲み干した。
「艦のなかじゃ、許可がないと飲めんのでな。半年間、辛いもんだった」
大きく息を吐いて、満足げに語った。
「お疲れさまでした」
ライトグリーンの上品なワンピース姿の星華は、空いたグラスにビールを追加した。
同じテーブルに、治と上原も座っている。
「山本くんは、どうして入隊したの?」
“背の高い男の子”と、昔は覚えていた山本に、星華は聞いた。
「おれの家は、暮らしが楽でなかったんでな」
高校三年の夏、「サガワンのジャイアントロボ」こと、山本が率いる相模湾高校男子バスケ部は、インターハイを目指して戦っていた。
過去、なんどもインターハイで入賞しているサガワンは、今年の神奈川県大会優勝とインターハイ出場を、確実視されていた。
「今年こそ、全国制覇」
この合言葉を胸に臨んだ県大会準々決勝で、しかしサガワンは敗退した。
まったくノーマークの無名校に、二点差で阻まれたのである。
試合後、男泣きに暮れるチームメイトたちに、
「泣くな。この負けが、いつか力になる!」
と、山本は叫んだ。だが、その当人こそが帰りの電車のなかで、場所も弁えずに悔し涙を流していた。
そして、暑い夏が終わり、現実という秋が訪れた。
父親は江ノ島近くにあるタクシー会社の運転手、母親もその近くのドラッグストアのパート店員で、狭いアパート内には中学生の弟が二人いた。
もはや、インターハイ優勝の実績で、どこかの体育大学に特待生……という未来予想図は夢と消えた。
就職しかないが、できれば安定した職業にしたかった。
出された答えは公務員だったが、現実は厳しかった。
一年生の頃からバスケ一筋で、勉強は赤点を取らない程度に留めていた上、初級公務員ですら競争率が高い。
県庁を初め、県内の市役所、警察、消防、果ては海上保安学校まで受験したが、すべて落ちた。
最後に採用通知をくれたのが、海上自衛隊だった。
卒業式の数週間後、山本は横須賀教育隊に着隊した。
入隊式では、長身で動作のきびきびした山本は、代表で宣誓文を読み上げ、執行者である横須賀地方総監・島村海将に手渡す役を命じられた。
全国制覇を目指した体力は、ここで大いに山本の味方になった。
毎日の体力練成は元より、基本教練や手旗訓練、射撃、陸戦、そして一番きつい短艇カッターまで、難なくこなすことができた。
教育隊を修業した山本とその同期たちの一団(そして、他の教育隊からも来た練習生がいた)が、京都府舞鶴基地の第四術科学校で受けた教育が「調理」だった。
教育の初日、教場で新隊員たちの前に立った給養科教官、海士以来調理一筋の海曹長高橋猛は、ホワイトスクリーンに「調理」の二文字を映して、
「お前たちの職務は、これである。分かったか!」
と、最初に宣告した。
「よいか、艦艇や基地の給養員は、学食や社食の調理員とはわけが違う。もし、有事に護衛艦の一隻で食中毒が発生すれば、それは護衛隊の行動を阻害することを意味する。護衛隊の行動の制約は護衛隊群、さらには護衛艦隊全体の戦力ダウンにつながりかねない。すなわち、お前たちの扱う包丁や鍋は、即日本国家の命運を左右するのである。
いかなる精強な部隊も、腹が減っては戦さにならない。新鮮で美味なる食事は戦う者の士気と体力の源泉であり、一膳の飯、一杯の味噌汁、一皿の副食が、実に最新鋭の誘導弾や魚雷に匹敵する威力を発揮するのだ。まず肝に銘じよ。調理室は戦場、調理即戦闘だ!」
包丁の使い方、野菜、肉、魚のさばき方、米のとぎ方に始まって、和洋中の各種料理の基本、栄養学、食品管理の方法等を定められた期間でマスターしなければならない。
正直いって、最初は給養に回されて腐っていた山本だったが、教育が始まると短時間で自分が最適の職務を得たことを知った。
運動神経といい、気力といい、持久力といい、バスケで培った力がそのまま役に立ったのである。
「おれは、天職を得たのかも知れん」と思うようになった。
ここでもトップの成績で修業を迎えた山本は、横須賀を母港とする第一護衛隊群に所属の新鋭護衛艦はるかぜに赴任した。
「はるかぜの護衛艦カレーは、全海自でもベストファイブに入るといわれているんだ。機会があれば、皆に御馳走したいくらいでな。これを是非ナンバーワンにしたい。そして、海曹になって、将来は練習艦隊勤務になり、遠洋航海に行きたいと思っている」
練習艦隊は、海外での寄港時、現地の軍高官やVIPを招待して供応を行う。
自分の力量で、世界と勝負できるのだ。
――おれの包丁で、世界制覇だ。
山本は、バスケ以上の情熱を、調理に注ぐ男になっていた。
上原に順番が回って来て、大型台風の来襲時の災害派遣で、渡河ボートを漕ぎ、一メートルを超す深さの浸水地に入って住民を救いあげて回った経験を聞かされて、
「二人とも、頑張っているのね」
天然ぽい性格の星華は、山本と上原の体験談を交えた会話にすっかり感心していた。
「しかし、もっと凄いのは角田だ」
ビールをさらに飲み干した山本は、事前の計画のとおりの台詞を口にした。
「そうだよな、空挺は陸自でも一番きつい部隊だからな」
これも計画していた上原の台詞である。
山本と上原は、「味方はしてやる」という約束の代償に、三次会まで飲み食いを治に奢らせたのである。
治の財布の中身は、本当に帰りの電車賃が残るだけとなっていた。
「特殊作戦群に行きたいんだろう。並みの覚悟じゃ、到底無理だ。立派だよ、立派」
あるいは、これは褒め殺しに近いものだったかも知れないが、治と同じく、お調子者の気がある上原は用意していた通りに治を持ち上げた。
「まず、これから空挺レンジャー課程に行く。そのあと、選抜試験に合格しなきゃならないけどな」
弱いところを見せるな、という山本のアドバイスに従って、自信たっぷりに治は語った。
自信のないそぶりは、見せないようにしろとも教えられていた。
――同窓会は二十一時半に散会となった。会場となったホテルは、道路を挟んで山下公園を望む場所にある。
「じゃあな、気を付けて帰れよ」
星華を駅まで送るという役割を治に割り当てて、山本と上原は、早々に二次会に消えた。
ともかくも、治は二人に心のなかで手を合わせて感謝するばかりだった。
「ちょっと歩いて行かないか」
という誘いに星華は頷いて、広い道を渡り、山下公園のなかに進んだ。
「同窓会、楽しかったわぁー。来てよかった。本当に」
と嬉しそうに口に出す星華は、同窓会の席で結構ビールやその他のアルコールを消費していた。
成人以来、休日の外出時にそれなりに酒は嗜むようになっていた。
というより、傍から見て、その吞みっぷりに、治たちはやや驚かされた。
実は、彼女の母親からして、ボトルワインを数本は軽く空けるくらいの酒豪で、現役CA時代には、合コンの席でお持ち帰りを狙う下心丸出しの男どもを何人も討ち取っていたのである。
そのDNAは、どうやら娘に受け継がれているようだった。
治にとって、小学生の時には考えられないような状況だった。
星華と同じ職業で、しかも二人並んで歩いている。
道行く人には、当たり前のカップルに見えるだろうと思った。
そして、周辺の状況を確認し、人がいないことを確認した。――今こそ!
治はタイミングを確認して、星華の前にいきなり進んで面と向かった。
「いいか、現在の自衛隊では、男女の比率は圧倒的に女が少ない。全体の六パーセント程度だ。つまり、女の圧倒的売り手市場。天辺にもとうの昔に虫がついていても、全然不思議ではない。となれば、下手な小細工は不要! 『海戦ノ要訣ハ先制ニ在リ』。正面から攻撃しろ」
これが山本のアドバイスだった。
治は、これに従った。
但し、自分なりの解釈を交えて。
その時、星華はアルコールで感覚が鈍っていたためか、治の動きの意味が分からなかった。
次の瞬間、治は星華の上半身を抱き寄せた。
一瞬して、星華は知覚し、そして反応した。
「角田くん、やめて」
星華は、治の上半身を突き離そうとした。だが、治はその力に抗して、強引にキスに及んだ。
「小学生の時から、好きだったんだ」
世界共通的に求愛を意味する行為のあとで、治は星華の体を離した。
少し離れて狼狽し、押し黙った星華に、治は懸命に説いた。
「でも、お前はあの時はいいところのお嬢様で、中学は別々になったから、縁がないと思って諦めた。でも、こうして同じ仕事になって、おれでもお前の力になれることが分かったんだ」
押し黙ったままその場から去ろうとする星華の腕をつかんで、治は語り続けた。
「おれ、特殊作戦群に挑戦する。お前に相応しい男になるよ。だから、おれと――」
肝心な最後の一言を告げる前に、星華は答えた。
「ごめんなさい。わたし、今は――」
「好きな男が他にいるのか? 空自とかに……」
それには答えず、うつむき加減のまま星華はつかまれた左腕を右手で自由を取り戻した。
「そうじゃないけど。ほんとうに、ごめんなさい。まだ、わたしパイロットになる途中だから」
やっといい残して、星華は治を残してその場から逃げるように立ち去った。
駅までの途上、そして京浜東北線の下り電車に乗ってからも、自分が置かれた境遇に頭が混乱していた。
――土肥原さんと……角田くん。
これを三角関係と称すると、窓の外をうしろに飛び去る家々の照明を眺めながら、少しして理解した。
女子高故に入隊前は恋愛からはやや縁遠い生活だったし、入隊後もパイロットになるため、意図して男性とは距離を置いていた。
しかし、ここに来て急に二人の男に挟まれた形になって、星華はどうするべきか分からなくなってしまった。
一方、取り残された男の方も、準備していたセリフの一部が不発になってしまったことに、不満を抱いていた。
――どうするよ、おい。
明白に拒絶されたわけではないが、かといって(半分以上は覚悟していたが)OKを貰えたのでもない。暫くは、今後の取るべき作戦が分からない。
星華に気が付かなったことが、一つあった。
霞が関でも横浜でも、自分を狙っているデジタルカメラがあったということを。




