Scene#3 霞が関
GWの初日。
本来ならキャピタル税理士法人の休業日だが、土肥原信彦は昼過ぎに出勤していた。
午後から、オフィスでクライアント相手のプレゼンが待っているからであって、最終的な詰めとリハーサルを行わなければならない。
デスク上のPCを立ち上げて、前日までに作っておいたパワポのファイルを開く。
プレゼンの順序に従って、スライドを流し、内容に論理性と説得力が備わっているか、再度自分の頭で確認して咀嚼しておかなければならない。
前日の内に上司の指導は受けたが、最終的には自分で責任を負わなければならないのが士業というものである。
だが、肝心のクライアントは、信彦が情熱と注意力を注いだほどには、プレゼンの内容に興味を持とうとはしなかった。少なくとも、信彦にはそう感じられた。
二十代後半のクライアントは、最近になって売れ始めたファッションデザイナーで、今回独立して自分の事務所を構えるから、信彦の勤務先に相談を持ち掛けて来たのであるが、「独立」がどういう意味を持つのか、今一つ理解できないようだった。
節税のテクニックやら、「なにが経費で落とせるか」というような質問は熱心にしてきたが、資金計画そのものについてアドバイスしようとすると、途端に熱意をなくした。
「――ですので、日常的に注意するべき点として、手元には、常に月商の二カ月分程度のお金を、直ぐに現金化できる状態でプールする必要があります」
でないと、不測の出費に堪えられない。
意味するところは、倒産である。
企業は赤字で倒産するのではない。
キャッシュが手元に亡くなった時に倒産する。
しかし、目の前のクライアントは今一つ実感を抱いていないようである。
ややラフな服装の彼は、退屈そうで、分かったような、分からないような顔をしている。
法人の先輩税理士に、こういわれたことがあった。
「短期間で潰れる起業家と、大きくなる起業家の違いは、第一に資金計画をマジに立てているかそうでないか、そして開業してから経費の支出に細かいかどうかだ」と。
自分の夢やビジネスプランには熱を入れて語る一方、開業資金の調達や、そのあとの運転資金の確保には関心を抱かない、あるいは自分の力をもってすれば、どうにでもなると楽観しているタイプは、まず長続きしない。
数年で廃業である。
事務所の家賃、人件費、光熱費、通信費、その他諸々の出費が、どれだけ経営上の負担になるか実感が持てないから、カネがあっという間に消えていく現実を目の当たりにして、身をすくませるのがオチなのだ。
いや、こんなのはまだ可愛い方で、最初からロクに業務をせず、短期間「社長」の肩書で遊興するのが目的の者すらいる。
名刺を切って札片をばらまき、遊ぶだけ遊んで、カネがなくなったら所在をくらます――このデザイナーも、あるいはそういう手合いの一人かも知れない、と邪推してしまう。
そういう気持ちを押し殺して、提供するべきは提供するのがプロ意識というものだと、分かってはいるのだが。
約一時間のプレゼンののち、退屈さから解放されたと顔に書かれているクライアントを送り出したあと、信彦はプレゼンで使用したファイルをPCから削除し、自分のワークスペースに戻った。
腕時計を見ると、約束の時間まで三〇分もなかった。
ネクタイを締め直して、オフィスに施錠し、エレベーターに向かう。
ビルの外に出ると、ビルとビルに挟まれた丸の内の狭い空を見上げた。
――彼女の飛んでいる空は、もっと広いんだろうな。
ふと思ってから、東京駅に足を向けた。
待ち合わせの場所は、主要省庁の並ぶ霞が関だった。
東京駅から地下鉄で四分程度だが、ギリギリは避けたい。
足早に東京駅の地下ホームに降りて、丸ノ内線に飛び乗った。
だが、霞が関で地上に上ってみると、待ち合わせの相手は、既にそこにいた。
春色のスプリングコートを着用して、にこやかな表情を浮かべた天辺星華は、
「土肥原さん」
と、父の勤め先の会計事務所長の息子に声をかけた。
「お待たせしたかな。失礼しましたね」
「いいえ、わたしもつい五分ほど前に着いたばかりですの」
「ならよかった。じゃあ、行こうか」
今日、信彦が予約したのは、霞が関の一角にあるアメリカ系のステーキハウスだった。
まだ税理士としては半人前の信彦にとって、少し敷居の高い店である。
堂々たる省庁の庁舎の谷間を並んで歩く二人は、カップルの典型に見えた。
スーツ姿の男性は、税理士法人勤務といわれても別に違和感はなかったが、女性の方は職業が自衛官、職務がパイロットのヒヨコだといえば、ギャップを感じさせるだろう。
部外にいれば、まだ星華はOLの一年生か、女子大生が相応なのである。
「いらっしゃいませ」
「予約していた土肥原です」
「お待ちしておりました」
丁寧な物腰の店員に予約していた旨を告げると、メインダイニングの一角のテーブルに通された。
スプリングコートを預けた星華は、黒のパーティドレス姿になっている。
「コースがいいかな。メインは、和牛フィレの六オンスにして」
「ええ。わたしもそれで」
注文を済ませて、二人は近況を話し合うことに移った。
星華が信彦と会うのは、これで三回目である。
最初は、飛行準備課程が始まって間もなく、父の就職祝いということで、信彦と彼の両親、そして星華の一家で、横浜のホテルのレストランで会食した時だった。
二度目が、初級操縦課程の途中だった。
お互い、それまでは目指す目標の途中であり、距離もあって早々頻繁には会いにくかった。
――コースが終わったあとで、コーヒーを前に置いて、
「実は来年、僕の勤務先はマレーシアに二番目の海外法人を設立する。そのスタッフに選ばれる予定なんだ」
信彦は本日のメインテーマの前に、来年の予定を持ち出した。
「すごいですね。海外赴任ですか。マレーシアのクアラルンプールは、中学生の頃、両親に連れて行ってもらったことがあります。いいところでしたわ」
両目を、やや大きめに開いて、星華は賛嘆した。
それを見て、いよいよ本題を切り出す時、と信彦は判断した。
「僕と、結婚してくれないか」
信彦は率直に告げた。
だが、聞かされた星華にとって、これはまったく予期していない提案だった。
最初、言葉を受け取り、次に意味を思い出し、そして、聞き返した。
「けっ、こん……ですか――」
「そう。一緒に来て欲しい。税理士試験もあと、一科目を残すだけで、今年最終合格するつもりだ。そうしたら、僕と結婚して、一緒にマレーシアへ行こう」
星華にとっては、いきなりといってよい展開だった。
会うのはまだ三回目で、好印象を持っている相手ではある。
父親の雇用主の息子ともなれば、粗略にはできないという計算もあった。
「でも、わたし、まだ教育中で、それに……」
星華は、慌てた調子で説明を続けた。
「パイロットになる途中ですし――」
「自衛隊は辞めて欲しい」
信彦の求めは、はっきりしたものだった。
「あなたの夢を壊しちゃいけないとは、僕も随分考えた。でも僕には、あなたがパイロットになったという姿が、どうしても想像できない。星華さんは、そんなことをやるよりも、もっと別の世界にいる方が相応しい人だと思う」
そして、信彦はこう告げた。
「直ぐに答えを出して欲しいとはいわないよ。ゆっくり考えて。僕も、八月の税理士試験までは、そちらに集中したい。でも、僕は約束する。結婚してくれたら、絶対にあなたを不幸にはしない。また、念のためだけど、もし断られたとしても、君のお父さんが勤めづらくなるようなことには、決してしないから」
店を出た二人は、地下鉄の駅まで並んで歩き、そしてホームで別れた。




