Scene#2 航空自衛隊浜松基地
航空自衛隊浜松基地は、静岡県浜松市の北部、三方原台地上に所在する。西に浜名湖が存在し、北には三河山地がなだらかな山容を見せており、南は太平洋・遠州灘が開けている。
標高は四六メートルに過ぎないが、台地上にあるだけ基地周辺は平坦であるものの、浜松市の中心部との間には多少のアップダウンのある地形を挟んでいる。
市の中心部とはバスで三〇分足らずであり、滑走路のある基地としては外出に便利であるので、勤務先としての人気が高い。
航空教育集団司令部、第一航空団、第一術科学校、第二術科学校など、教育に関係する機関・部隊が多数を占める。
何回かは、ドラマや映画の舞台にもなっていた。
「オレの仕事は、パイロットを育てることだけではない。パイロットに向いていない奴を篩い落とすこともだ! 着いて来られないようなら、いつでもいえ。地上職種に変えてやる」
基本操縦課程で指導に当たる第31飛行隊飛行班の教官操縦士、三十代前半と思しき一等空尉下川均は、無骨を絵に描いたような男であって、教育開始の日、簡潔な自己紹介に続いて星華にこう宣告していた。
浜松基地での五四週間に及ぶ基本操縦課程は、前の初級操縦課程と同じく、マンツーマンで教育が行われる。
この宣言は、星華を少々怯えさせる程度には迫力があった。
――オレは、女だからといって甘やかすつもりはまったくないからな。
という、神崎一佐の教育姿勢をそのまま引き継ぐものだった。
もちろん、これまで航空学生課程でも、次の飛行準備課程、そしてTー7による初級操縦課程でも、性別故の下駄を履かされた感情は抱いていない。
「宜しく――お願い致します」
気おされ、少しして心を持ち直して、星華は一礼した。
「怖い方だこと……」というのが、星華の第一印象だが、それは直感的に正しかった。
ガブリン下川――31SQでは、下川を陰でそう呼ぶ者が多かったのである。
基本操縦課程は、T―4中等練習機で教育が行われる。
初等練習機T―7がプロペラ機で、最大巡航速度203ノット(時速376キロメートル)、上昇限度25,000フィート(7620メートル。但し、実際の教育では、11,000フィートが上限である)に対し、T―7は双発ターボファンエンジンを搭載するジェット機であり、最大速度マック0・91(560ノット)、実用上昇限度50,000フィート(15,240メートル。但し、教育中はこの半分程度までしか上昇しない)と、段違いの性能である。
練習機であるため、特に安定性と操作性を重視した機体となっている。
練習機以外でも、各飛行隊の連絡機として配備されており、また松島基地第4航空団第11飛行隊、つまりアクロバット飛行チーム「ブルーインパルス」もこの機体を使用している。
星華の同期たちにも、ブルーインパルスの飛行を見たことが志願動機だという者とか、将来ブルーを目指している者は多い。
シミュレーター教育を含む座学期間のあと、初フライト当日、オペレーションルームでのブリーフィングが終わった学生たちは、それぞれ緑色のフライトスーツの上に対Gスーツを着用して、ヘルメットを入れたバッグを手にエプロンへ向かった。
第一に実施しなければならないのは、機体の細部点検である。
先頭部から各翼、エンジン、脚・車輪等、自ら一つ一つ呼称して、異常がないことを確認しなければならない。
もちろん、一機ごとに整備小隊の機付整備員三名のプロが整備するのだが、最終的にはパイロットが自ら点検するのである。
すべての点検部分に異常がないことを確認すると、候補生は機体の付近で待つ教官に搭乗を報告する。
「天辺候補生、同乗します」
「よし」
と、星華の敬礼に下川は答礼した。
にこりともしない。
星華は、初フライトから怒られないか、それが気がかりだった。
――間違えないようにしないと。
前席に星華が、後席に教官の下川が搭乗する。
腰を抑えるラップベルトと、上体を抑えるショルダーハーネスで、身体を固定する。
エアマスクを連結して、酸素の供給を確かめた。
それから、座学とシミュレーターで教育された手順を思い返す。
計器チェック。エンジン、無線装置、操縦系統――全計器異常なし。
続いてエンジンスタートに移る。
前方の整備員の動きを確認しながら、まず右エンジン、続いて左エンジン。
整備員と手信号で連絡を取り、RPMが60パーセントに達したところで外部電源のアウトを指示した。
左右の車輪、そして機体上部に設置されているスピードブレーキをチェックする。
続いて、エルロン、水平尾翼、ラダーの順に、翼の可動部を、そして機体内の燃料の減少に応じて機体のバランスを取るトリム、ヨーダンパ―、最後にフラップをチェックする。
すべて異常なしだった。
「オールクリア、タクシーライトオン」
『ラジャー』
星華の報告に、後部座席の下川は短く応じた。
キャノピークローズ。
風防がコクピットを外気から遮断した。
機体後部両脇に控えていた整備員たちが、車輪止めを外す。
開局済みの無線機で、順番を待って管制塔を呼び出す。
「ハママツGRD、チェッカースリーワンワン、リクエストタキシ―」
『チェッカースリーワンワン、ハママツGRD、タキシートゥ・ホールディングポイント、ランウェイ・ジロナイン、ウインド・トゥーナイナジロ・アット・トゥー、キューエヌエイチ・トゥーナイナナイナファイフ』
「チェッカースリーワンワン、タキシートゥ・ホールディングポイント、ランウェイ・ジロナイン――」
交信相手は、浜松基地管制塔の地上管制である。
滑走路の東端まで移動する許可を出してきた。
復唱し、ラダーをつま先部分で操作して、ブレーキを解除する。
T―4は、整備員の見送るなか、滑走路に向けて前進し始めた。
待機点に到達。
エンジンの最終チェックに異常はない。
主翼、尾翼、垂直尾翼の稼働部にも問題はない。
『チェッカースリーワンワン、ウインド・トゥーナイナジロ・アット・フォー、ランウェイ・ジロナイン、クリアードフォー・テイクオフ』
「クリアードフォー・テイクオフ、チェッカースリーワンワン」
風力が若干、増した。
右手でスティックを保持しつつ、左手のスロットルを手前に引く。
排気音が高くなった。
皮革製の航空手袋を通して、エンジンのパワーが伝わってくるようである。
初めはゆっくりと、しかし短時間の間にキャノピーの外を景色が流れるように飛び去り始める。
目の前に伸びる滑走路は、ピラミッドと化した。
タイヤ痕が無数の隆盛となって、外を後方へ飛び去って行く。
平坦なはずの路面の、微妙な凹凸が発生させる振動が体を揺らせる。
速度計がV1に達したことを示す。
T―7とは加速性も出力も比較にならないことを実感した。
――もう直ぐVR。
130ノットジャストで操縦桿を少しだけ手前に引く。
T―4は機体を持ち上げた。
「V2」
呟くように発声する。既に地表は見下ろすような下方である。双発エンジンの叩き出すパワーがGを作り出し、星華の身体をシートに押し付けた。
T―7とは比較にならなかった。
――
だが、浜松基地の全員が、玲子と星華に好意的であったわけではない。
「出る杭は打たれる」の謂があるが、マスコミと男子隊員の注目を集める二人に、友好的とは正反対の視線を向ける者たちも、当然のようにいた。
二人が浜松基地で基本操縦課程に入って約一月が経過した週末、浜松市中心部の居酒屋でジョッキを手に、生ビールやサワーをあおりながら、次のような会話を交わす婦女子が三人いた。
「一体、ナニサマのつもりよ、あの二人!」
忌々し気に叫んだのは、航空教育集団司令部の宇山三曹。
「ちょっとばかりルックスがいいからって、お高くとまってんじゃないわよっ!」
高ぶった感情をぶちまけたのは、警戒航空隊の寺田三曹。
「男どもも男どもよ。どいつもこいつもっ!」
今まで自分たちをちやほやして、周囲に侍っていた男子隊員への怒りを口にしたのは、高射教導群の佐川三曹。
彼女たちは、それまで浜松基地で若手男子隊員の人気を三分していた独身女性自衛官の三人衆だった(「タカビー三人衆」と呼ばれることもあったが……)。
彼女たちは、それぞれ微妙な力関係を形成・維持して、勢力圏を均衡させていたのである。
だが、玲子と星華の出現は、従来の楽園を無慈悲に破壊してしまった。
それまで宇山たちをアイドル扱いしていた男子隊員たち、そして基地の取材に訪れるマスコミは、ことごとく容姿と話題性を兼備した玲子・星華に視線を集中させるようになってしまった。
しかも、二人は特定の男を決めて付き合うならまだしも、教育中であるという理由で、相手を選ぼうとしない。
それが、逆に人気を高める結果になってしまった。
当然、貢がれるプレゼントの数も、デートの順番を待つ男の数も減った三人衆には、面白い訳がない。
他の女性自衛官・職員のなかにも、程度の差はあれ、似たような感情を抱く者も何人かいた。
アルコールが回った頭で共有された結論は、次のようなものだった。
「思い知らせてやるわ!」
一方で、長身かつ美貌の玲子に宝塚歌劇団の男役視するかの如き視線を向ける年下のWAFもいたが、残念ながら玲子には、そちらの趣味は皆無だった。
教育を受けている間の常に冷静かつ合理的で同期の追随を許さない秀才ぶりとは別に、内心では男の視線を浴び、その関心を集めることに無上の喜びを覚える点で、玲子はまったく正常な女である。
父や兄を敬愛はしているが、だからといってファザコンでもブラコンでもない。
彼女の男性の趣味は、独特なものだった。
「私に相応しいのは、加藤健夫中佐か、ハンス・ヨアヒム・マルセイユ大尉並みの男だけ」
陸軍中佐加藤健夫――大日本帝国陸軍航空隊屈指の名指揮官にして撃墜王である。
対米英開戦時に最新鋭戦闘機一式戦「隼」を装備する飛行第六四戦隊を率いて出陣し、マレー半島上陸作戦を皮切りに、次々と任務を完遂した。
その軍歴における撃墜総数二六八機、感状授与七回の記録は、日本航空戦史上、比肩する者がいない。
一方、ドイツ空軍大尉ハンス・ヨアヒム・マルセイユも、「アフリカの星」と呼ばれた撃墜王である。バトルオブブリテンとアフリカ戦線での撃墜総数は一五八機。
搭乗するメッサーシュミットBf―109のエンジントラブルの際、脱出に失敗し、北アフリカの戦場において戦死ではない形で死去した。
享年二十二歳。
戦時下であるにも関わらず、ドイツ本国から最前線まで、彼に魅了された女性ファンからのラブレターが連日のように届いたという。
……という次第で、玲子はいつか着るウェディングドレスを夢見る一方、この両者に匹敵すると思われる男が現れるまでは、自分を決して安売りしないつもりでいた。
この浜松でも、同期の候補生仲間や防衛大学校・一般大学を卒業して教育に合流した幹部学生はもちろん、航空教育集団司令部とか、第一・二術科学校とか、いい寄る男は各部隊に何人もいたが、自分には人一倍自信のある彼らのなかにも、気の毒なことに誰一人玲子を攻略し得た者はいなかった。
――
本日の航法訓練、つまり地形を確認しながら、予め計画した飛行ルートに沿って飛ぶという訓練の第一段階で、星華は早速T―4後部座席の下川一尉から怒声を浴びせられた。
「なにをやっている! 遅いぞ、遅い!」
浜松基地を離陸して西に直進、浜名湖の対岸の正太寺鼻直上で右に九〇度旋回し、北上、恵那山方向を目指すという当初設定したルート上で、最初の基準点を見過ごし、あっという間に右旋回の機会を逃して、浜名湖が遠く背後になってしまった。
練習機とはいえ、秒速200メートルは出る。
数秒無駄にしただけで、大きくルートを逸れるのである。
自動車と違って、空中で停止はできない。
「はい、済みません。――ライトターン、ナインティ……」
懸命になって取り返そうとする星華の上ずった声を、更なる大音量が襲った。
「遅れて曲がるのに、90はないだろう! 計算しろ、計算!」
二十歳そこそこの小娘が相手とは思えない叱責、いや罵声ですらあった。
星華は、操縦と、遥か下に見える地形を並行的に確認するのに手いっぱいで、涙ぐむことすらできなかった。
地上に戻ってからも、ガブリンの舌鋒は続いた。
「T―7に乗って、なにを習ってきた!」
本日の飛行後のデブリーフィングで、星華は下川一尉からそう詰問された。
「地形を見て位置を確認しながら飛ぶのは、初歩の初歩だぞ! あらかじめ目標を頭のなかに入れておいて、遠くの地形を見て自分の位置を判断しなければ、間に合わないだろうが。よくそれで、初級操縦課程をクリアできたな。トリムの取り方もなっていない!」
ガブリンのひとことひとことが、星華のいたいけな乙女心に突き刺さって、そこから血か涙が吹き出す思いがした。
実は教育中の飛行幹部候補生なら、この程度の叱責を受けるのは当たり前なのだが、だからといって辛さが軽減されるものでもない。
……訓練終了後、訓練日誌に下川の手で墓のイラストを描きこまれるというダメ押しの鉄槌を下されて意気消沈した星華が、入浴を終えて居室に戻ると、玲子は椅子に腰かけて卓上の菓子に手を伸ばしつつ雑誌を眺めていた。
「藤堂さん、それ……」
声をかけられた玲子は、
「お帰りなさい。あなたも見る?」
上機嫌で雑誌の表紙を向けた。
本日発売の防衛省の広報雑誌『守護者――SHUGOSHA』だった。
先月に二人は取材を受け、それが巻頭のグラビアに掲載されているのである。
二人とケイが航空学生として入隊した時、週刊誌の特集に載ったことがあった。
先日の投稿動画サイトへのアップでも、書き込みが大変な数になっていて、なかには「星華タソに会いたいから、漏れ空自に入隊木盆!」なんてものがあった。
「なかなかよく撮れているけど、できればもう少し、記事に工夫が欲しいな」
菓子に手を伸ばしつつ、愉快そうに玲子はコメントを述べた。
箱からすると基地内の売店で買えるものではない。
多分男子隊員からのプレゼントだと思われる。
前回のホワイトデーでも、義理チョコを贈ったのは、同じ飛行隊の同期や教官たちだけだったが(星華は下川にも贈ったが、下川は形だけ礼をいって、面白くなさそうに受け取った)、それとは別に覚えのない相手から、幾つもの上等なクッキーやらキャンディーが二人のところに届いていた。
集団司令部や、航空団、各術科学校、警戒航空隊、高射教導群、浜松管制隊、中部航空音楽隊とか、上は指揮幕僚課程修了のエリートコースに乗った幹部から若い空曹まで、基地内の各部隊の多数の独身男子隊員からラブレター付きで手渡されるのである。
二人は、想定外の「義理返し」を準備しなければならなかった。
――この事実が、三人衆の怒りに航空燃料を注ぎ、統合直接攻撃弾を投下したのはいうまでもない。
手渡されてもにっこりお愛想笑いで受け取って(もちろん、なんの言質も与えないが)平然と食い倒す玲子に比べて、断るに断れず、そして受け取ってから「どうしよう。どんなお返しを差し上げなければならないかしら」と真面目に悩むのが星華だった。
ケイだったら、(筋肉男に限って)ご機嫌で毎週末ごとに違う相手とデートを設定するかも知れないが、輸送機コースを選択した彼女は、現在鳥取県美保基地の第三輸送航空隊で教育を受けている。
時たまメールやショートメールを送って来るが、ある時は「こっちには筋肉のある男がいないわー」と、寂しげなことが書かれていた。
マスコミの取材時、玲子はもちろん、星華も取材相手の望む対応をしなければならなかった。
理想と情熱を抱き、前向きに訓練に挑戦する女性パイロット候補。
教官を初め、周囲にいるスタッフも、皆立派な先輩ばかりで、日々やりがいを感じて教育に取り組んでいる――というポーズを取らなければならないと、暗黙の裡に要求されるのである。
『SHUGOSHA』の誌面を見て、趣向を凝らした記事の見出しや麗々しい文章で書き立てられるヒロインのような自分と、毎日のように空中と地上でガブリンに絞り上げられる現実の自分のギャップに、
「なんなのかしら、わたしって……」
と思わざるを得ない。
おまけに、今日は浴場での帰りに不穏な目に遭わされた。
靴を履こうとして右足をなかに入れたところ、鋭い痛みを感じ、急いで足を引き抜かなければならなかった。
「痛っ!」
思わず声を挙げ、次いで靴を逆さまにした。
転がり出て来たのは、数個の画鋲である。
休日の朝食のパンが、受領に行ったときには既に星華と玲子の分がなくなっていたとか、これまでもあったが、
「またこんなこと。誰なの……」
天然な性格故、いい寄って来る男子隊員に対する自分の態度によって、自らが他のWAFに睨まれているとか、ジェラシーを集めているとか想像しない星華には、理解に苦しむことだった。
高校時代の耳学問では、CAの世界でも、年増CAによって「指導」という名称の、ありとあらゆる陰湿な新人イビリが行われていると知っていた。
実は、彼女の母にも、先輩からやられた経験も、後輩に対して行った経験も豊富にあったのである。
家のなかでは良妻賢母そのものだった星華の母は、エアライン社内ではまったく別の顔を持っていた。
彼女に睨まれた後輩たちで、挫折を味わい、夢を失って会社を去った者は二人や三人ではない。
「つっかえないわね」
「あなた、それでもプロなの」
「その程度の覚悟なら、辞めておしまいなさい」
というお得意の殺し文句三つが、多くの新人CAを機内で凍り付かせた。
社内で母・天辺真由里が額縁入りで奉呈された「客室部の尼将軍」、「メデューサ」、「テッポウユリ」、「コールドブラッド」、果ては「オニババさま」という数々の極めつけな綽名は、伊達ではなかったのである。
CAの世界と同じようなことは自衛隊にもあるのかも知れないと、この時思い始めた。
今思うと、水野二曹の指導にも、そういう一面があったのかも知れないが……
――
「タッチダウン、行きます」
「よし、ゴー」
下川の声を聞くと、星華はスティックを握る右手と、スロットルとを握る左手に、神経を集中した。
速度を落とした星華のT―4は、一度浜松基地北側で180度ターンしたのち、滑走路東側から着陸しようとしていた。
浜松コントロールが、タッチダウンを許可して来た。
風の方向と風力は想定内である。
フラップダウン、ギヤダウン、速度は150ノットドンピシャ。
滑走路は目の前に、小さく三角形となっていた。
両主翼のフラップは最大限の角度で降ろされ、揚力を増強している。
滑走路は、ピラミッドから電柱のような形状に変化した。
着地すると同時に、地面の感触が全身に伝わって来る。
「ワン、ツー――ナウ!」
声に出して数え、そして予めイメージトレーニングした通りのタイミングで、スティックとスロットルを同時に引いた。
キャノピーのなかで、前方の地平が下に動いて行く。
高度計は順調な上昇を示した。
「フラップアップ、ギヤアップ」
十分な高度に達すると、逆に失速の原因になるから、フラップの角度を元に戻し、車輪も機体内に収納しなければならない。
手順は守れた、と星華は安堵した。
呼吸はまだ荒い。
離陸と着陸の段階では、誰しも緊張で荒くなる。
これで第二段階の空中操作試験は、全科目終了したはずである。
当初の空中機動であるエルロンロール、ループに始まって、スプリットS、スライスバックなど、戦闘機を操縦する上で基本となる機動の操作を行った。
自動車とかの地上の乗り物と違って、飛行機は三次元で動く。
スティックを左右に倒しただけでは曲がれない。
曲がるためには両足で操作するラダーを同時に動かさなくてはならない。
既にT―7で経験済みだったのだが、やはり最初は緊張と性能の違いからパニックを引き起こす候補生は少なくない。
星華も、その一人だった。
円を描いて宙返りするループでは、一度目は目の前に海面が見えて墜落するような錯覚を起こして急激なスティック操作を行ってしまって、
「なにやってんだぁ! アイハブ!」
と、大声を出した下川に操縦を取り上げられてしまったりした。
4Gの負担も、実体験すると大変なものに感じた。
頬の汗の一滴に大きな重さを感じるといわれていたことを実感した。
紙の上に絵で描くと単純な機動も、両手両足を同時に操作して行わなければならない。
星華ばかりでなく、焦って操作を誤る候補生は何人もいた――というより、誤らない方が少数派だった。
星華にとっては、これが最初のピンクになった。
だが、星華は徐々に各種の機動に慣れ、手こずることはあっても、パニックはそれ以後、起こさなかった。
「OK。RTB」
「ラジャー。――ハママツコントロール、チェッカースリーワンワン、リクエストRTB」
管制塔は、着陸を許可して来た。
デブリーフィングで、着席した下川は手にした書類に改めて目を落としたあと、
「天辺候補生。第二段階、合格だ。よくやった」
と、いつもの不愛想な口調でいい渡した。
心のなかで、大きく安堵したあと、星華は、まず破顔し、そして、
「ありがとうございます、教官!」
と、一礼した。
――だが、第二段階の試験が上手く行かない者も、同期のなかには当然のようにいた。
夕食の場で、食堂の隣に座っていた男子同期同士の会話が、星華と玲子の耳にも入った。
「おい、仲村のやつ、試験の一回目落ちたぞ」
「またか。あいつ、第一段階でも落ちかけたよな」
同期のなかで、一番トロい奴視されている仲村正則の名が挙がっていた。
「初級課程を通ったのが、信じられなかったもんな」
その会話の中身は真実だった。
第二段階の試験でタッチダウン後、上昇してから、仲村は後部座席の教官から質問された。
「なにか忘れていないか?」
「え? なにかって……」
「フラップだ、フラップ!」
名詞を持ち出されて、仲村は初めて自分の操作ミスに気が付いた。そして、それは遅過ぎた。
着陸後のデブリーフィングで仲村は、教官から次の一言を突き付けられた。
「いいか、大事故につながるところだったぞ。次が最後だ!」
星華や玲子は、同期たちの会話を黙って聞いていた。
同情しているような余裕はない。
正直な心情はそうだが、矛盾するようでも星華には、「大丈夫かしら」という気持ちもある。
自主退職した飛田省吾以外にも、成績面の限界により初級操縦課程で七人、既にエリミネートが出ていた。
肩を落とした仲村が、その時、夕食をプレートに乗せて現れた。
見るからに落ち込んでいる。
「あの、仲村くん」
と、星華が声をかけても、背を丸めて反応しようとしない。
玲子も、他の同期たちも、声をかけなかった。
「行くわよ、天辺」
そういって、先に玲子は席を立った。
周囲の男子同期たちもそれに習った。星華も、仲村を助ける方法はないと悟っていた。
二回目の試験も落ちた仲村正則が、免飛行幹部候補生となって浜松基地を去ったのは三日後だった。
詳しい消息を、誰も積極的に聞こうとはしなかった。
航空学生の教育開始以来、既に同期の数は八名減っていた。




