3 飛べない渡り鳥
そうして、時は何気なく過ぎていった。
大学二年に進級しても、相変わらず僕は、モラトリアムという名の休み時間の中で、現実を指先でいなしながら過ごしていた。授業と映画鑑賞と、なんとなく伸びきった午後たち。その隙間を縫うように、友人には新しい彼女ができたらしい。バイト先で知り合ったという相手の写真を見せられたとき、僕は言葉より先に、片丘夕菜の姿が歪んでいくのを感じた。それは少々不愉快な感覚だった。
整えられた茶髪、くりくりした丸い目、二次元から切り抜いたような愛嬌。片丘夕菜とは、あまりにも対照的だった。
一瞬、「節操がないな」と思った。だが同時に、これは彼なりの防衛かもしれないとも思った。片丘夕菜があまりにも強烈で、彼はきっと、正反対の子を選ぶことで、あの哀れな季節を塗りつぶそうとしているのではないか。最悪の場合でも、記憶と記憶をぶつけて対消滅させるつもりで。
そんな野暮な推測が、頭の中に勝手に巣をつくりはじめていた。僕は珍しく「おめでとう」と言った。いつもの口癖である「よかったじゃん」は、喉仏あたりでそっと封じた。
対する僕はというと、いまだに片丘夕菜のSNSの更新を見てしまっていた。友人と彼女が続いていた短い期間中、何の脈絡もなく、突然彼女にフォローされたのだ。僕もなんとなく返してしまい、それ以来、彼女の旅先の写真が、日常のどこかに混じり込むようになった。もうすでに、友人はフォローを外しているというのに。
まあ、彼女の映す景色が好きだったのだ。
カザフスタンの冷たげな砂漠、モスクワのタマネギのような宮殿、沖縄の奇妙にねじれたマングローブ樹林。その一枚一枚に想像を彷徨わせている間だけ、僕は停滞した現実から目をそらしていられた。だが、その事実に気づいた瞬間、思わず呟きそうになった。
「…………映画と同じかもな」
「かも」と言ってしまったのは、きっと、それを真実にしてしまうのが怖かったからだ。僕の語り口が俯瞰めいているのも、腹の底には恐れがあるからだろう。僕の身に起こったこと、起こること、それに対して感じること……何もかもを、「実感」にしたくないのだと思う。
だけど、この後、僕は嫌でも分からされる。
大学二年の初夏、まだ冷房が稼働しきっていない時期のこと。湿り気を帯びた講義室の中に僕はいた。
昼下がり、講義室の明かりはまだ、白々しく灯っていた。ぼんやりとした陽光と混ざり合い、教壇近くにだけ淡い影をつくっている。文化人類学――普段なら選ばない授業をとったのは、ただ時間が合ったからで、深い理由なんてなかったはずだ。けれど、授業が終わるころには、僕はなぜか前方の席に腰を据えたまま、PCの「更新してからシャットダウン」を押してしまった自分を呪いながら、帰りそびれていた。
ふと耳に届く声があった。顔は見ずとも、声だけで分かる。
……片丘夕菜だ。
彼女が、教授と並んで話していた。調査がどうとか、研究計画がどうだとか、まだ大学二年の僕には、遠い異国語のような響きだった。僕はキーボードを閉じる指を休め、言い訳を並べるように「前に座っていたから」、「PCが遅いから」と自分を誤魔化しながら、それでも結局、ただ耳を澄ませていた。
現実を見れば、彼女だって僕と同い年だ。なのに、そこに立つ彼女は、別の季節をまとっているようだった。僕がまだ知らない風を吸い、僕の届かない空気を平然と歩いている。そんな印象を抱かせる会話だった。
PCをようやく片付け終えたとき、ちょうど彼女たちの会話も一区切りついたらしい。教授が、少し寂しげに、しかしどこか期待するように言った。
「大学院、行ってくれないのかあ」
その言葉に、彼女は控えめに微笑みながら答えた。
「就職を考えてるので」
その微笑みは、教室の乾いた空気よりも静かで、けれど否応なく胸の奥に落ちてくる確かさを持っていた。
途端に、僕はまるで、酔いの回った顔に冷水を浴びせられたような気がした。胸の奥のどこか、曖昧に熱を帯びていた部分が、一気に覚めていくのを感じた。誰かが無言で背筋を伸ばせと言ってくるような、そんな痛みだった。
今になって、適切な例えを用意できる。
当時の僕は、渡り鳥は自由だと思っていた。風を切り裂き、雲を踏みしめるように飛び、季節を跨ぎ、海さえ越える。地図にない大地を選び取る、気ままな旅人だと信じていた。
でも、彼らはなぜ飛ぶのか。本当は知っていたはずだ。遠くへ行くのは、生きるためだ。子をなし、種を残すためだ。あれほど自由だと信じていた渡り鳥こそ、「真っ当な人間」たちと同じように、生の重みを抱え、地に足をつけていた。
……彼女は、敷いたレールの上を歩いていたのか?
そう思った途端に、今まで遠くに見えていた彼女が、それでいて大きく見えていた彼女が、どこか等身大の姿へと萎んでいくように感じた。
後方から薄曇りの影が、講義室全体を覆っていくような気分であった。彼女も、教授も、まるでいなかったかのように、僕は機械的にパソコンをしまい、教室から急くように出て行った。
そうして、僕の中に張りつめていた薄い膜のようなものは、どこかでぱたりと剝がれ落ちた。廊下へ出た瞬間、教室の冷えきらない空気を引きずったまま、夏の湿気が肌にまとわりついてきた。だが、そのまとわりつきでさえ、さっきまで僕を覆っていた幻想よりは、よほど現実に近かった。
片丘夕菜は、飛んでいく鳥ではなかった。
僕の知らない空を、好き勝手に行き来する象徴ではなかった。
ただ、どこかの企業に提出するエントリーシートを書き、教授に進路を訊ねられ、普通の学生らしく笑ってみせる、一人の人間だった。
そう気づいた瞬間、胸の奥に沈殿していた、形をもたない熱はすっと消えていった。熱が消えた場所には、妙に澄んだ空洞のような感覚が残った。痛みとも寂しさとも違う、もっと軽い、風の通り道みたいな空白。そこに風が吹くたび、僕は自分が少しずつ冷静になっていくのを感じていた。
階段を降りながら、ふと、映画のスクリーンを思い出した。暗闇のなかで光が揺れ、人影だけが一瞬だけ大きく映し出される。でも、上映が終われば全ては溶けていく。
――僕が惹かれていたのは、片丘夕菜でなく、「片丘夕菜」という映画だったらしい。
その考えは、思いのほか自然に胸へ落ちていった。
恋でも執着でもなかった。ただ、彼女の怒号が、旅先の写真が、僕の停滞した日々の中で「映画のワンシーン」として輝いていただけなのだ。僕はその輝きにすがりつき、自分でも気づかないほど都合よく物語を仕立て上げて、そこに逃げ込んでいた。
僕はキャンパスの外へ出て、ゆっくりと空を仰いだ。曇りがちな白い空。どこにも渡り鳥の影はない。それでも、視界の広さに少しだけ呼吸が軽くなる。そうして歩き出しながら、自分でも驚く言葉が心の中に浮かんだ。
もう、いいのかもしれない。
何が「いい」のか、言語化はできない。ただ、彼女を特別な象徴のまま握りしめていた指を、ようやく離してもいい気がした。
離したからといって、何が失われるわけでもない。ただ、本来の大きさへと戻るだけだ。等身大の彼女は、スクリーンから降りて、単なる人影へと帰っていく。それでいいのだろう。
大学の正門を出るころ、風が少しだけ湿り気を帯びていた。夏の匂いの混じる風だった。頬を撫でるその感触に、僕はゆるやかに歩調を緩めた。
旅をする理由の一つは、自分を好きになるためだ。知らない街で、知らない夜に触れたとき、自分だけが一瞬だけ特別になれる気がする。その高揚にすがってきた僕が、今はようやく気づき始めていた。
誰かの旅を眺めても、自分の物語は始まらないらしい。
片丘夕菜が飛んだ空は、彼女だけのものだ。当然だ。
ふと、信号が青に変わった。僕はゆっくりと横断歩道を渡りながら、なんだか、一人でもどこかへ行ける気がした。それが旅と呼べるほど遠くなくてもいい。海でも、映画館でも、電車で一駅先でも。
自分の足音だけを頼りに歩くこと。思い返せば、そういう経験はろくにしたことがなかった。僕の旅は今まで、ガイドブックやら行き交う人間やら、何かに寄りかからねば成り立たない代物だった。片丘夕菜も、あくまで道しるべの一つだったろう……あまりに目映くはあったものの。
そう思うと、不思議なほど急かされる気分だった。まるで長い映画が終わり、客電がゆっくりと灯りはじめる瞬間のような、明るくて少し寂しくて、それでも前へ進めと言われているような。そんな気配が、確かに胸の奥で揺れていた。
……ふと、何かの通知音が鳴った気がした。
けれども、僕は黙って、夏を始めんとする空を見上げていた。




