表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

2 タッチアンドゴー

 そんなわけで僕は根無し草となり、空いた時間はサークルやバイトに勤しむでもなく、ただ一人で黙々と映画を見るような生活が続いた。片丘夕菜の行方は知れなかった。彼女の学部や年齢はおろか、名前すら知らなかったのである。熱心に探偵ごっこをするくらいなら、その時間で探偵映画を見た方が有意義だ。この時点では、彼女と僕との接点――「接」という漢字は最後までふさわしくないのだが――は未だ無いままであった。


 二度目の出会いは夏頃になる。ボキャブラリーが枯渇している故に、僕は「出会い」やら「接触」やら不適当な語を用いるしかなく、睫毛に前髪がかかるような気分で文章を書いている。手元にスマートフォンという名の板はあり、ブラウザという名の仮想空間へ頼ることも可能なのだが、急に感覚を現実へ引き戻す気は起きないのだ。


 それでなんだったか、ああ、友人からの自慢が切っ掛けであった。映画漬けの僕に友人?という疑問を抱いてもおかしくないだろう。家では映画の世界へ引きこもれても、大学ではそうはいかない。それは映画鑑賞以外の趣味人も同じのようで、授業時間や昼休みを無為に潰さないよう、友人を捜し求める者は大勢いた。


 FPSが趣味だというその男は、五月頃の一限で眠そうに瞼をこすっていた。その日は僕の瞼も重かった。朝方までSF映画を視聴して、それから一時間ほどの仮眠をとろうと思ったのだが、謎が謎を呼ぶ展開だっただけに、脳が休む気にならなかったのである。思わず親近感を覚え、もの寂しさもあったのかもしれないが、僕は彼に声をかけていた。思い出せば、嫌に明るい深夜のテンションであった。


 それでいて彼の反応は良さげであった。きっと彼には選り好みをする余裕がなかったのだと思う。それはミクロな視点では「眠さ」や「疲れ」のせいであり、マクロな視点では「友達が少ないから」だった。断るという選択肢は愚行だという認識が、彼の中にはあったのかもしれない。


 そうして、僕らは友人という関係に達した。講義では毎日隣の席に座っていたし、時折呑みに行くこともあったし、あるいは映画館で同席する機会もしばしばあった。とはいえ、彼の好みはアクション映画が主であり、僕にとっては鼓膜が痛くなる日々であった。……ドウェイン・ジョンソンは僕にはカロリーが高すぎる。

 まあ、それでも、なんだか悪い気はしないのだった。我々の習性は社会を築くことだ、他者との関わりには本能的な安心感を覚えるのだろう。


 だからこそ、七月の頭、彼が嬉々として「彼女できたんだよ」と僕に告げたとき、胸の奥がわずかにへこむような感じがした。机に置かれたスマートフォンの画面が、夏の強い陽光を弾くように光っていた。彼が得意げにスワイプしながら写真を見せつけてきたとき、僕は生返事をしながら画面を覗き込んだ。


 そこに映っていたのは、あの夜の女子――名前は数秒後に彼から告げられた。片丘夕菜であった。


 白いワンピースに日差しが透け、屈託のない笑顔が液晶を破って、こちらへ飛び込んでくるようだった。その笑顔には、あの夜に見た怒りはなかった。それでも僕の理性は、確かに同じ人間の顔だと判断していた。彼曰く、他学部と一緒に受けていた授業で偶然隣になり、それから彼が何度か話しかけ、告白したらあっさり受け入れられた……らしい。


「最近はさ、映画行ったり、カフェ行ったりしてる。こないだなんか、初心者マークでドライブデートしたんだよ。超怖かったけど」


 彼は鼻の穴を少しだけ膨らませながら、少年のような誇らしげな顔で語った。その顔を眺めながら、僕は「よかったじゃん」と、ひどく平坦な声で告げた。感情が抜け落ちたような自分の声に驚く。胸の奥に沈んだ重さが、じわじわと広がっていくのを止められなかった。


 待て…………僕は、片丘夕菜が好きだったのか?


 一瞬、そんな浅はかな問いが脳裏をかすめた。けれど、ハズレであって欲しかった。僕は一目惚れなんてできる性質ではないし、そもそも恋愛感情とは違う、もっと別種の熱のはずだ。だとしたら、何が気に入らなかったのか。


 考えているうち、ようやく分かった。

 彼女まで、ありふれた日常へと溶けていくのが嫌だったのだ。


 あの夜、居酒屋の空気を切り裂くように声を上げた片丘夕菜。場の空気も、権威の肩書も、金色にたなびく髪も恐れずに、自分の怒りの輪郭をそのまま差し出した少女。あの姿は、打算に染まらないままの、ほんの一瞬の透明さを帯びていた。あれがまるで、映画の中でしか見ることのできない「正しさ」みたいなものに思えたのだ。


 それにも関わらず、その彼女が、映画愛好会の新歓で怒鳴った理由を語るでもなく、日常へ回帰して、映画好きでもない男と無難なデートを重ねる。映画館、カフェ、夏の道路……。どこへでも転がっていきそうな、誰でも辿れるコース。


 彼女もまた、日常に飲み込まれていくのか。

 そう思った瞬間、胸のどこかに薄い亀裂が走っていた。


 人間が、旅先から帰ってきた時に感じる、あの色褪せの感覚に似ていた。特別だったものが、また平凡へと押し込まれる。光が影に、影が風景に。そんな変化を前にすると、僕は妙な喪失感に包まれる癖があった。

 写真の奥の片丘夕菜にも、同じような匂いを勝手に感じ取っていたのだと思う。正しくない推測でも、自分勝手な幻想でも、構わない。人は誰かの真実よりも、自分の解釈の方を愛してしまうことがある。


「……ふーん、マジでよかったじゃん」


 僕はもう一度言った。今度の「よかったじゃん」は、さっきより少しだけ柔らかく発音できた。その柔らかさには祝福など一切含まれていないのだが、彼には察せられないだろう。

 彼は画面をスリープしながら笑った。今の僕には自慢としか聞こえなかった。


「今度、紹介するぜ」


 画面に残った残光のように、彼女の笑顔だけが、薄く網膜に焼きついた。あの夜の、真っ赤な怒りの顔とともに。


 ……だが翌月、拍子抜けするほどあっさりと、二人は別れてしまったらしい。


 理由を聞くまでもなく、彼は飲み屋の隅で「振られた」とだけ呟いた。氷が溶けかけたグラスをなぞる指には、明らかに未練がにじんでいた。奢りの酒で慰めようとしたのは、友人として当然であった――と、少なくとも表向きにはそう言えた。しかし内心では、彼の落胆の度合いと反比例するように、僕の胸中で小さな高揚が泡立っていた。


 そんな自分を情けないとも思ったが、どうにも止められなかった。倫理観というやつは、酔いの席で役に立った試しがない。


「なんかさあ……急にカザフスタン行くって。大学のプログラム? 留学? よく分かんねぇけど、とにかく半年くらい行くから、別れよ、だと」


 彼は笑おうとして笑えず、結果として口元に歪な影を作っていた。……カザフスタン。唐突すぎて、僕は最初、彼の酔いが見せる幻覚かと思ったほどだ。しかし、その地名を耳にした瞬間、何かが腑に落ちたような感覚があった。


 ――ああ、やっぱり、そうか。


 思えば、彼女が映画愛好会の新歓で怒鳴ったとき、あの瞬間だけ彼女は確かに「旅をしていた」。常識という国境を越え、他人の顔色やサークルの空気という国境を越え、誰よりも遠いところに立っていた。あの日、彼女の声は、知らない国の名前みたいに鮮烈で、どこか僕の想像の外側にあった。


 それなのに、彼女は唐突にグーグルマップを指差すようにして、カザフスタンなんて場所へ行ってしまう。我々がストリートビューでしか知り得ない土地に、彼女は足を踏み入れる。


 彼女らしい、と勝手ながらに思った。


 旅行を終えた後は必ず家へ帰るように、空を飛ぶ鳥でさえ地上へ羽を下ろすように、彼女が彼の日常へ着陸したのは、ほんの一瞬のことだったのだ。その一瞬を、僕は勝手に「定住」だと勘違いして、彼女が平凡になっていくと嘆いていた。だが違った。彼女はただ、羽を休めていただけなのだ。


 日常は、彼女にとって空港のロビーのようなものだった。

 滑走路へ向かう前に水を飲み、少し眠り、また飛び立つための場所。


 そして彼女は、僕の想像していたとおりの、型破りな人間だったのだ。


 彼が語る別れ話の断片は、救急箱をひっくり返したように乱雑で、どれも痛々しかったが、その一つ一つの隙間から、僕はどうしようもなく彼女の姿を見ていた。透明でも穏やかでもない、風に逆らって飛ぶ、あの片丘夕菜を。


 僕は彼に、ありきたりな励ましの言葉を並べた。まあ、そのどれもが、零円のスマイルよりも薄っぺらいものだった。飲み屋の灯りが彼の顔を赤らめていたが、僕の胸の内側は、静かに冷えていた。冷えて、そしてどこか軽くなっていた。


 彼女が平凡へと戻っていくのではなく、ただ、彼の隣に一時着陸しただけだったと知ったからだ。僕の中の彼女は、やはり旅人として、どこか遠くを歩き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ