1 異邦人
旅をする理由の一つは、自分を好きになることだと思う。
知らない川の名前、錆び付いた「ようこそ」の文字、どこか違和感のある山の色。それらを見知るたびに、身体がどこか、縁取られているような感覚を覚えるのだ。自分の居る座標を移しただけで、友人や家族の知らないものを知っただけで、何か特別になれた気がしてならない。だから、帰郷の瞬間が嫌になる。自分という人間が、平凡な風景画の一部へと戻っていくかのような、あの色褪せていく瞬間が。
きっと彼女も似通う部分があったのだ、と勝手に思っている。
片丘夕菜のことである。彼女の趣味が旅行だと知ったのは、別に本人が言っていたわけでも、果てには誰の口から聞いたわけでもない。単純な話、彼女がSNS上に、旅行先と思われる写真を多数アップロードしていたからだ。私は言葉を交わすこともなく、「いいね」を付けることもなく、単なる推察が頭をよぎるだけで終わった。だから「知った」というよりは「察した」だが、こんな細かな言葉選びはどうでもいい。誰を傷つけるわけでもないだろう。
以上の情報を鑑みれば、ここまでの文を流し読みしていようと、私と彼女がそれほど深い仲でないことは察せると思う。単に、友達の友達程度の関係であった、と私は認識している。初めに彼女を知ったのは大学の映画愛好会──いかにも出会いを求めていたように思われがちだが、純粋に同胞のSF嗜好家を求めていたのだ──の、新入生歓迎会であった。「繋がり」を求める先輩が多かったからか、当サークルは新歓に中々力を入れていた。路地裏の居酒屋を貸切にしては、ビラやタダ飯に釣られてやってきた新入生たちを、ぞろぞろと先輩方の間に座らせていっていた。
その際も、出会いと言えるような対面はしていなかった。私は座敷席の通路側、彼女は入り口付近のカウンター席に座っていた。確か、私はその配置に少々不満を覚えたのだったか。何しろトイレの扉が右後ろにあるもので、アルコール摂取により催した先輩方が、数分に一度は背中を掠めるようにして通るのだ。特段害という害はないのだが、食事や歓談の際、嫌でも「排泄」という行為を意識させられるのが御免だった。そういう生々しさはスプラッタの中だけでいい。しかもあれだって、フィクションだからこその味なのだ。
……話が脱線した。これからもこういうことは良くあると思うので、どうか勘弁して欲しい。それで私は新歓が始まると、対面する先輩に、いの一番に質問をぶつけた。
「先輩は、最近なんの映画見ましたか?」
すると彼は、少し頬を掻きながら逡巡し、答えた。
「あー……ちょっと最近は、見てないかな」
危惧していた解答であった。もちろん私とて、全ての映画サークルメンバーが映画を求めて入ってきた訳ではない、とは知っていた。問題はそのような人種の比率である。対面している彼は、飲み会始めの紹介にて、サークルの副部長であると喧伝していた。そんな立場ある人間が「映画を見ていない」? 大学生の一、二時間など、赤子の手を捻るより簡単に生み出せるはずなのに。
瞬間、私はもはやサークルに入る気をなくしかけていた。辺りの会話に耳を澄ましてみても、まるで映画に関する話題は入ってこない。楽に単位が取れる講義だの、上手な授業日程の組み方だの、新入生たちはここを教務課か何かと勘違いしているらしかった。
私はあと十分ほどしたら、何か理由をつけて帰ろうと決めた。正味、同胞を見つけるだけならば、わざわざ映画愛好会なぞに入る必要はないのだ。そうして、ジンジャーエール入りのジョッキをぐっと握り、少しだけ飲むスピードを速めていった。
そのときだった。
「何も分かってない!」
店中の空気を切り裂くような、甲高い声であった。私は喉に詰まりかけたジンジャーエールを懸命に飲み干した。それから、恐る恐る声の主の方を見つめた。
入り口近くのカウンター席に、彼女はいた。化粧っ気のない黒い髪は、頭の後ろで乱雑にまとめられていた。回想という行為の中では、彼女の顔の横に「片丘夕菜」という名が浮かぶ。店内の時が止まったような空気が、一点へと向けられた視線群が、彼女の怒れる顔へスポットライトを当てているようだった。
「あなた会長でしょう!? ディカプリオですよ! 知らないなんて冗談、笑えませんよ!?」
その顔は茹で上がったかのように真っ赤だった。当時の僕には、その原因が怒りなのか飲酒なのか、判別がつかなかった。結果論だが、当時の彼女は未成年であり、赤さは百パーセント怒り由来だったらしい。
彼女の隣に座っていた会長らしき先輩は、周りの視線から逃げるように身体を縮こまらせていた。それでも、綺麗に染まった金髪が光を受け、嫌でも目立ってしまっていた。後から聞いた話だと、彼は特段映画には詳しくなかったが、映画愛好会内での人間関係の緩衝材となっており、そんな温厚さを見込まれて会長に推薦されたのだという。その逸話を聞いたせいだろう、この回想には哀愁の漂うインストが付加されている。
会長は謝罪とも弁解ともつかない言葉を返すと、周りへ頭を軽く下げながら、ばつが悪そうに笑いかけた。それにより、飲みの席には波紋のように賑わいが戻っていった。その後の各席においては、部長を面白がって弄る者、片丘夕菜に対する不快感を滲ませる者、様々な声が聞き取れたが、部長を擁護するような声が大半であったと記憶している。
まあ、それは当然のことである。「映画」「愛好」「会」で最も重視されているのは「会」の部分であろう。映画なら一人で見れば良し、愛好なら一人ですれば良し、けれども会は一人では出来ず、場を乱すような行為は不要とされる。そのために「映画」の部分が軽視されてしまうのが、彼女にとって、そして当時の僕にとっても不服であった。
あの時の僕の心中に芽生えたのは、「ロックだ」という澄んだ感想だった。盗んだバイクで走り出すような不良に憧れるロジックが、理解できたようだった。
新歓は揉め事の一つもないまま、無事に終わりを迎えた。片丘夕菜による魂の叫びは、まあ、揉め事と言えなくはなかったが、あくまで無礼講の中での些事に済んでいた。それは会長の手腕ゆえだろう。だがその手腕は、新入生二人の入会を逃すこととなった。片丘夕菜と、僕である。




