3 キスがしたい②
「うわぁ……や、や、やめてくださいっ!」
屋敷中に情けない声が響いているだろうが、仕方がない。そんなことを気にしている場合ではないからだ。強度な拘束魔法の前では、ユリウスが鍛え上げた筋肉がまるで意味がなかった。
細く小さな手で頬を包まれて、強引に柔らかい唇を押し付けられた。驚いてユリウスが口を開けると、舌が入ってきてあむあむと食べられるような激しいキスをされた。
いや、これがキスと言えるかは怪しい。ただただ唇や舌を『強引に押し付けられている』と言ったほうが正しいかもしれない。
「んんっ……!」
変な声が出たことに、ユリウスは顔を真っ赤に染めた。
いい年の自分がこんな若い女性に強引に唇を奪われるなんて、思ってもみなかったのでかなり恥ずかしかった。エルヴィは真剣な顔をしながら、まだキスを続けている。
身体は動きそうにない。抵抗を諦めたユリウスは、されるがまま身をゆだねることにした。
今まで意識して見たことがなかったが、エルヴィの紫の大きな瞳はとても美しいことに気が付いた。紫の瞳は魔力が多いことを示すものだと聞いたことがあったな……とユリウスは思考回路が停止しかけている頭でぼんやりと考えていた。
「旦那様、どうかなさいましたか!」
その時、ドンドンドンと扉を叩く音がした。どうやら叫び声を聞いた執事のジュードが、心配して来たらしい。ユリウスはこの場面を見られてはまずいと我に返った。
「エル……ィ……嬢、離れ……んんっ……!」
なんとか言葉を紡いだが、真剣にキスに取り組んでいるエルヴィには聞こえていないようだった。
「旦那様! 旦那様、返事をしてください」
したくてもできないのだとユリウスは心の中で叫んだが、声にはならない。力を入れてみても、もちろん身体はびくとも動かなかった。
「旦那様、すみません。失礼いたします!」
焦った様子で扉を開けたジュードは、部屋の光景を見て数秒固まった。なぜなら、自分の主人がエルヴィに押し倒されて熱烈な口付けをされていたからだ。
エルヴィは、いきなり扉を開けられたことに驚いてユリウスから唇を離し拘束魔法を解いた。
優秀な執事であるジュードは瞬時に状況を察知して、何も見ていなかったかのように無機質に微笑んだ。
「お邪魔いたしました。どうぞそのままお楽しみください」
即座に存在感を消し、静かに扉を閉めて出て行った。廊下からは「しばらくこの部屋に誰も近付かないように」という他の使用人たちへの指示がうっすら聞こえていた。
「すみません。見られてしまいました」
謝るところはそこなのかと、ユリウスは眉を顰めた。ため息をついて、濡れた唇をぐいっと袖で乱暴に拭った。まさか何十年ぶりかのキスが、だいぶ年下のエルヴィに無理矢理されるだなんて誰が想像できただろうか。
ユリウスは少なからずプライドが傷ついていた。いつでも余裕で冷静で、大人な自分は女性をスマートにリードする側だったのに。エルヴィの前では、普段通りの自分ではいられなかった。
「エルヴィ嬢、そこに座ってください。話があります」
「は、はい」
「キスとは拘束魔法をかけながら、無理矢理するものではありません」
「そ、そうなのですか。でも……小説にはそう書いてありました」
厳しい表情で説教をすると、エルヴィはしゅんと小さくなった。
「一体どんな小説を読んだのですか!」
どこの小説に魔法で身体を拘束して、強引に唇を押し付けろと書いてあるというのかとユリウスはため息をついた。そんなことが書かれているはずがない。
「……これです」
どこにしまっていたのか、エルヴィはポンと手に一冊の本を出した。どうやらこれも魔法の一種らしい。ユリウスが渡された小説をペラペラと捲ると、それはただの恋愛小説よりはかなりハードな内容が書かれていた。
「男は女の手を強引に押さえて身動きのとれぬように拘束し……激しく唇を奪うと彼女は恥ずかしがりながらも喜びに震え二人はひとつに……って、なんですかこの破廉恥な小説は!」
「は、は、破廉恥なんですか? 書店で若い女性に人気の恋愛小説だと聞いて購入したのですが」
「ああ……そうですか。最近の若いお嬢さん方は好奇心が旺盛ですから、こういうのを好むのでしょう。でもこれでさっきのあなたの行動の理由がやっとわかりました」
エルヴィは真剣にこれを信じて、行動にうつしたのだ。男役がエルヴィで、女役がユリウスにすり替わっているだけだ。
もちろんこの小説の拘束とは、魔法の拘束ではなく手を軽く押さえることなのだが……恋愛知識が著しく欠けているエルヴィは勘違いしたのだろう。
「これは没収です。恋とはこんなものではありません」
「そ、そうですか。わたしは恋なんて生まれて初めてのことなので……よくわからなくてすみません」
すっかり元気をなくしたエルヴィを見て、ユリウスは少しだけ心が痛んだ。
「……今回は許します。で、初めての口付けはどうでしたか?」
やり方を間違ったとはいえ、エルヴィにとってはファーストキスだったはずだ。死ぬ前にしたいことの一つ……満足できたのかが気になった。
「小説にはとても気持ちいいものだと書いてありましたが、実際はそうでもありませんでした」
「え?」
「強いて言うのであれば、お互いの唾液を交換したという感じでしょうか……?」
淡々とそう告げるエルヴィに、ユリウスはワナワナと震え出した。
好き勝手に唇を吸われたのに『気持ちいい』とか『ドキドキしました』ではなく『唾液の交換』と言われた男の気持ちは、なんとも言い難いものがあった。
「……もう勝手にキスするのは禁止です」
「はい」
「ちゃんと基本的な恋愛の段階を踏みましょう。わかりましたね?」
「は、はい!」
こうしてユリウスは、一からエルヴィの恋愛指南をすることになった。