23 新しい名前
「嫌です」
「え?」
「絶対に嫌です。私はあなたと結婚して籍を入れ、正式な夫婦になります」
ユリウスは全く折れることなく、自分の意見を貫いた。
「我儘だとわかっています。でも……私はエルヴィのことについては、もう二度と遠慮しないことに決めました」
「……ユリウス」
「大人の振りも、理解がある振りも、もうしたくありません」
いつでも冷静なユリウスがこんなに感情を露わにするのは珍しかった。
「そんな小さなことは問題ありません。社交なんてしなくていいです。私はナターシャが亡くなってから、ずっと一人でしたが困ったことはありません。それに平民の妻を迎えることも、誰にも文句は言わせません。そもそも再婚なのですから、大っぴらに公表しなくてもいいくらいです」
ユリウスは、まるで何の問題もないかのようにハッキリとそう言い切った。
「他に不安はありますか?」
「名前はどうするのですか」
「名前か。そうですね……ルビーはどうですか? エルでは流石にあからさま過ぎますし」
「……ルビー」
それは今のエルヴィに響きは似ているが、頭文字が違うので確かに違う印象になる。
「ルビーという名前は嫌ですか?」
「いいえ、気に入りました。ユリウスが付けてくれた名前ですから」
エルヴィがそう言って微笑むと、ユリウスも嬉しそうに笑った。
「ご存知の通りルビーは宝石の名前です。実はこの石には騎士たちの中で古くからの言い伝えがあるのです」
「それはなんですか?」
「騎士がルビーを身に付けると『無敵になる』といわれており宝石の王者と呼ばれています」
このような宝石言葉は貴族の中では有名な話だ。パートナーに送るものを選ぶ際に必要なものなので、教育の一環として学ぶからだ。
だが、魔法ばかりの生活を送っていたエルヴィは宝石に意味があるなんて全く知らなかった。
「そ、そんな意味があるのですね。そんな素敵な意味がある名前……いいのでしょうか」
「私はあなたがいれば誰よりも強くなれます。だから、エルヴィの新しい名にはぴったりだと思いました」
「ありがとうございます。では、わたしは名に恥じぬよう頑張ります!」
エルヴィが勢いよくそう叫んだのを見て、ユリウスは目を細めて眉を下げた。
「頑張らなくていいですよ。そのままのあなたがいいのです」
「そうですか?」
「ええ。ではあなたは屋敷に戻ったらルビーとして生きてください」
「はい」
王家で管理されている貴族の出生を誤魔化すのは難しいが、平民ならば素性が曖昧でも何とかなる。普通の人間であれば不可能なことでも、公爵家の力を使えば可能になることも多い。
それは貴族社会の嫌な部分ではあるが、ユリウスは自分の持ち得る全てを使ってでもエルヴィをルビーとして存在させると心に決めた。
「出発は午後からでも構いませんか? 明日の朝は、ここにある薬を全て商店に持っていきたいのです。しばらく村の人たちが困らないように」
「この村には医者がいないのですか?」
「ええ。昔はいたそうなのですが、老齢で亡くなってしまったそうです。それに定期的に王都と村を行き来していた師匠も亡くなったので、薬師も居ないらしいのです。若い方は、なかなか田舎にはいてくれないですから」
「それは……困るでしょうね」
村人にとっては、医者や薬師がいないのは大問題だ。きっとこの問題は、他の場所でも起きているだろうとユリウスは思っていた。
「早急に対処すべきですね。陛下にも進言しましょう」
「ええ」
「エルヴィを連れ帰る私は、村人たちからすれば悪役ですね」
薬師を調べていた時、村人たちが教えてくれなかった理由がわかった。エルヴィは貴重な存在なので、失いたくなかったのだろう。
「でも、私はエルヴィをここへ置いておくことはできません。これは誰に恨まれようとも譲れませんから」
「……」
「でも放っておくつもりもありません。こういう問題は根本解決をせねば始まりませんから」
「ありがとうございます」
エルヴィは頭を下げた。
「いや、当たり前のことですよ。妻の懸念事項を取り去るのは夫の役目ですから」
「つ、つま……」
どうやらエルヴィは妻と呼ばれることがまだ恥ずかしいらしく、そわそわと指を動かしていた。
「それに、私は将来国全土にきちんとした医療体制を整えるつもりです。だからその一環でもあります」
「それは素晴らしいお考えです」
「だからエルヴィにも力を貸して欲しいです」
「はい、喜んで」
二人はエルヴィの僅かな荷物と薬だけ持ち、小屋を出て村に向かった。
顔を見られたくないため黒いローブを被ろうとするエルヴィを、ユリウスは静止した。
「それは逆効果かもしれません。むしろ普段着の方がいいでしょう」
「え? どうしてですか」
「黒いローブ姿のあなたは、今やこの国で知らぬ人はいませんよ」
ユリウスは苦笑いをしながらそう言った。どうやらあまり知られていなかった『大魔法使いエルヴィ』の容姿は、死後に姿絵としてかなり広まってしまっているらしい。
「それ……絶対格好つけた絵になってるんじゃ」
「はは。どれもかなり勇ましく凛々しい魔法使いとして描かれていますね。身長も実際よりだいぶ高くなっています」
ユリウスは少し気まずそうに苦笑いをしている。英雄というものは、基本的に本物より良く描かれるものだ。それが亡くなった英雄であれば、なおさらその傾向は強くなる。
「うわぁ……! さ、最悪です」
頭を抱えて青ざめている彼女を、ユリウスはじっと見つめていた。実際のエルヴィが、こんなに小さくて童顔の可愛らしい女性だと知っている人間はこの国にごく僅かしかいない。
「だから普段着の方が、あなただとバレないと思います」
「ううっ……では、そうします」
「はい」
そのまま商店に向かい、エルヴィが作った薬を置いてもらうように伝えた。
「これは解熱剤、これは腹痛の時に飲むものです。こっちの袋は消毒薬で、もう一つは解毒剤になっています。どれも一般的で簡単な薬ですが、効果は保証します。これを使っても治らないようならば、すぐに隣町の医師に診てもらってください」
あとでわからなくならないように効能や使用方法を書きながら、エルヴィは店主に説明をした。この店主は村長でもある。
「あなたは山の麓の小屋の薬師様なのですね」
「……はい。この村を離れます」
「そうですか。残念ですが仕方ありません。この村の人々はあなたに何度も救われました。ありがとうございました。これのお代はいくらですか」
「いいえ、不要です。その代わり、これは必要な時に必要な分をあなたが無償で皆さんに渡してもらえませんか?」
エルヴィは費用を受け取らなかった。元々この村に住んでいた時も、生きるために必要な最低限の金を稼ぐだけだったので一般的な薬の値段より安くで売っていた。
「ありがとうございます」
「いえ、たいしたことはしていませんので」
「そんなことはありません。村の皆が助かります」
何度も頭を下げられて、エルヴィは恐縮していた。
「では、行きましょうか」
「はい」
ユリウスに促されて、エルヴィは店を出た。ユリウスが乗ってきた愛馬に跨ろうとしたその時、小さな女の子が駆け寄ってきた。
「せんせーっ!」
それはいつか、エルヴィが咳の薬を作ってあげた女の子だった。
「先生ありがとう。あれから私、ずっと元気だよ」
「そう。良かったわ」
「もうせきがコンコン出ないし、おそとでも遊べるようになったの。ぜーんぶ、先生のおかげ」
そう言って、エルヴィに小さな花束を差し出してくれた。これはこの村に咲いている花だ。きっと摘んできてくれたのだろう。
「くれるの? ありがとう。綺麗ですね」
「えへへへ」
エルヴィは涙が出そうになり、ぐすっと鼻を啜った。魔法が使えなくなったら自分には何も残らないと思っていたのに、目の前のこの子を救えたことが嬉しかったからだ。
「すみません……先生、この子のこと本当にありがとうございました」
家から必死で追いかけて来たこの女の子の母親が、息を切らしながらエルヴィに向かって頭下げた。
「エルヴィ、やはり君はすごいです。さすが私の妻ですね」
ユリウスは優しく微笑み、エルヴィの肩を抱き寄せた。
どこから聞いたのか……先生が村を出て行くと聞きつけたたくさんの村人たちに見送られながら、二人はラハティ公爵領に向かった。




