13 呼び捨てにしたい
その日の夜、エルヴィはユリウスの部屋を訪れた。きっちりとした夜着を着ていたので、ユリウスは安心した。
これならば、変な気を起こさずに済みそうだと思ったからだ。
「どうぞ」
「はい!」
ユリウスはエルヴィを布団に招き入れた。すると猫のように丸まって、ユリウスの胸の中に飛び込んできた。
すりすりと頬擦りをして、嬉しそうにくっついてくるエルヴィの髪をユリウスは優しく撫でた。
ぬくぬくと温かくてとても心地がいい。ユリウスは、だんだんと意識が薄れてきた。
「……ユリウス様」
「ん……なんですか」
「お、おやすみのキスをして欲しいです」
「えっ!」
その言葉にユリウスは眠気が一気に吹き飛んだ。だが、きっと自分の考えているキスではないだろうとすぐに気が付いた。また勘違いをするところだった……と気を引き締めた。
なので、エルヴィの前髪をサラリと分けておでこにちゅっと軽いキスを落とした。
「エルヴィ嬢、おやすみなさい」
ユリウスはニコリと微笑んだが、エルヴィは無言のままじっとこちらを見つめてきた。
「ん? どうかしましたか」
「……唇がいいです」
その爆弾発言に、ユリウスは眩暈がした。
「だ、だめですか?」
好意をもっている女性に、頬を染め潤んだ瞳でそんなことを言われて断われる男がいるはずがない。
「だめではありませんよ」
ユリウスはくるりと体勢を変えて、エルヴィを押し倒しそのまま甘く深いキスをした。
「ユリウス様、大好きです」
「私もエルヴィ嬢が……好きですよ」
「ふふ、気を遣わせてすみません。なんだかこうしていると本物の恋人みたいですね」
エルヴィは、ユリウスの言葉を社交辞令で言っているのだと思っているようだ。ユリウスはそう思われていることが辛かった。
「……気なんて遣っていません」
「そうですか?」
「ええ、私があなたのことを好きなことは本当ですから」
嬉しそうにふにゃりと笑ったエルヴィが可愛らしくて、ユリウスはもう一度軽く触れるだけのキスをした。
「……おやすみなさい」
「おやすみなさい、ユリウス様」
これ以上触れると我慢ができなくなりそうなので、ユリウスは無理矢理この甘い雰囲気を終わらせた。
しばらくすると、すーすーと規則正しい寝息が聞こえてきた。
「この状況でもすぐに寝られるのか」
エルヴィの好意は純粋なものだが、ユリウスの場合は少し違う。全く同じ気持ちならいいのに、そう純粋なだけではいられない。
「……このまま時が止まればいいのに」
幸せそうに寝ているエルヴィの顔を眺めながら、ユリウスはそう願った。そんな願いは叶わないことを知っているけれど、そう思わずにはいられなかった。
だが、時間が止まることなどない。だからエルヴィとユリウスは、その後も毎日穏やかに一緒の時間を過ごし……夜になれば二人でベッドで眠りについた。
そして最初の約束通り、もう一度初めてデートをしたレストランにステーキを食べに行った。
「わたしも五百グラムに挑戦します!」
「それはいいですね」
「ええ! 食べられそうな気がしてきました」
お腹を空かせたエルヴィは、ウキウキしながらステーキを食べ進めて行った。
「やっぱり美味しいです!」
「良かったです」
「もう一度食べられて幸せです」
「……ええ、そうですね」
エルヴィの寿命はあと三日。特に体調が悪くなったり、しんどそうになるわけではないので……三日後に死んでしまうなんて思えなかった。
「ユリウス様、もう一つ我儘を思いつきました」
エルヴィはステーキを頬張った後、ニヤリと悪戯っ子のように笑った。
「なんですか? 何でも仰ってください」
何を言われてもユリウスはもう驚くことはない。そして何でも受け止めるつもりだった。
「わたしのこと『エルヴィ』って呼び捨てで呼んでください。恋人や夫婦はそうするらしいので」
「呼び捨てで?」
「はい!」
「……では、私だけでは不公平です。エルヴィも『ユリウス』とお呼びください」
お願いをした瞬間に、自然にサラリと呼び捨てにしてくるあたり……ユリウスはやっぱり大人だとエルヴィは感心していた。
「わたしなんかがユリウス様を呼び捨てなんて畏れ多いです」
「どうしてですか?」
「だって、ユリウス様は……わたしが尊敬し憧れている大好きな人ですから」
相変わらずの真っ直ぐな告白に、ユリウスは頬を染めた。この一カ月で何度このように好きだと言ってもらえたか分からないが、まだ慣れることはない。
「そう……言ってもらえるのは嬉しいですが、それならば私もあなたを尊敬しているし……大……好きです。だから、その理論でいくと私もあなたを呼び捨てにはできないことになりますよ?」
好意をはっきりと口に出すことにまだ慣れていないユリウスは、少し言葉に詰まりながらもなるべく思っていることをそのまま伝えた。
「ううっ……そう言われると」
「どうしましょうか?」
ユリウスはエルヴィにそう問いかけた。
「では僭越ながら、わたしも呼び捨てにさせていただきます!」
「ええ、どうぞ」
「ユ、ユ、ユリウス……」
エルヴィは顔を真っ赤にしながら、震える声でユリウスの名前を呼んだ。
「よく呼べましたね」
目を細めて微笑んだユリウスがあまりに格好良くて、エルヴィは倒れそうになった。
「うう……わたし、もう思い残すことはないです」
「名前くらいで大袈裟ですね」
「いえ、本当に……あ、でも一つだけありました。思い残したこと」
ユリウスはその言葉が気になった。
「それは何ですか? 私にできることなら……」
「ええ。ユリウス……がいないとできないことです」
「私がいないと?」
「はい。食べ終えたら、人気のない場所に連れて行ってください」
エルヴィの言葉の意味をユリウスはまた測りかねていた。
「ひ、人気のない場所?」
「はい」
「どうしてそんな場所に」
「……見られたくないからです」
思い残し、人気のない場所、見られたくない……そしてユリウスがいないとだめ。
普通ならば、エルヴィがユリウスと一つになりたいという意味としか考えられらない。
だが、相手はあのエルヴィだ。果たしてそんなことを言うだろうか。
「お願いします。わたしにユリウスの時間をください」
「……エルヴィ」
「あなたにあげたいものがあるんです」
「あげたいもの!?」
「はい」
動揺する気持ちを何とか抑えて、ユリウスはレストランを出た。隣にいるエルヴィは、腹が立つほど普段通りの様子だ。
「……あそこのホテルはどうですか」
ごほんと咳払いをした後、ユリウスはこれから行く場所の提案をした。一流で高級な間違いのないホテルだ。スタッフの教育も行き届いているので、きちんと人払いもできる。
エルヴィはただユリウスと二人きりで話がしたいだけかもしれない。屋敷では使用人の目が気になることもあるだろう。ホテルならエルヴィがそういうつもりでもそういうつもりでなくとも、どちらでも対応できるため最適の場所だと考えていた。
「ホテルですか?」
エルヴィは、とても困惑した顔で眉を顰めた。
「ホテルじゃないほうがいいのですか?」
「密室は困ります。もっと開放的な場所でないと」
「か、開放的な場所!?」
「はい。やるのは外がいいですね」
「そ、外っ? やるって……何を」
一体エルヴィは何をしようとしているのだろうか。まさかまた刺激的な恋愛小説読んで、変な知識をつけたのではないかと疑いの目を向けてしまう。
「まだ秘密です」
エルヴィは唇に人差し指を当てて悪戯っぽく微笑んだ。




