「ウロボロス」
地下の区画は昼も夜も存在しない場所だった。
時間を示すものは天井に埋め込まれた白色灯だけだ。それも一定の間隔で明滅し、外界のリズムとは切り離された空間を作っている。
巨大な強化ガラスの向こう側にそれはいた。
――龍。
研究員たちはそれをまだそう呼ばない。
報告書にはただ無味乾燥な記号が並んでいる。
被験体:VX-0001
分類:変異体
状態:安定
だがガラスの向こうに横たわる存在はそんな型に嵌まった言葉では収まりきらない何かだった。
黒く艶やかな鱗が、室内を照らす鈍い光をそのまま吸い込んでいる。
長大な身体が収容区画の冷たい床をゆっくりと満たし、その太い尾は何重にも折れ曲がっていた。頭部はほとんど動かない。呼吸の微かな上下運動すらあるのかないのか判別できない。
そもそもあの星間戦争の渦中において異星兵器の過剰な干渉によって齎された異形に人間と同じ意味での「生死」など存在するのだろうか。
この場に立ち会う誰もが、眼前の“命”のありようを理解できずにいた。
龍はただ静かにそこに存在している。
まるで世界が始まる前からそこにあったもののように。
観察室の分厚いガラス越しにその静寂を静かに見つめている人物がいた。
フェノム・システムズ最高代表――フレデリーク・マリ。
彼女の背後には白い白衣を纏った数人の研究員が控えるように立っていた。
誰も余計な口を開かない。空気は冷たく重く張り詰めている。
……やがて一人の研究員が、意を決したように控えめに口を開いた。
「代表」
フレデリークは振り返らない。
その視線はガラスの向こうの漆黒の鱗に固着したままだ。
「この個体の命名ですが……」
「コードで十分でしょう」
「VX-0001のままですか?」
「ええ」
淡々と答える。その声には一切の感情の揺らぎがない。
研究員は持ち手の手元にある端末のデータを手早く確認しながら、言葉を選んで続けた。
「しかし……現場の職員の間では既に俗称が広まり始めています」
「俗称?」
「はい」
ほんの少しの沈黙。冷たい機械の駆動音だけが室内に響く。
「……“龍”と」
フレデリークは鼻から小さく息を吐いた。
人間という生き物は理解を超えた未知の事象に直面するとすぐに神話を作ろうとする。人知の及ばぬ能力や異形に対し、既存の物語や概念を割り当てる。名前を付け、便宜上の意味を作り、そうして自らの根底にある恐怖を和らげようとするのだ。
――あまりに愚かで感傷的な自衛本能。
だが、それが完全に間違っているわけでもなかった。
フレデリークはようやく靴音を小さく響かせて歩き出した。
観察窓のすぐ前まで進み出でる。
ガラスの向こうの龍は何一つ微動だにしない。
巨大な頭部が冷徹な床に横たわり、閉ざされた眼の輪郭の上を室内の明滅する影が静かに流れていく。
「この個体の能力は何?」
フレデリークが背後に問いかけた。
研究員が慌てて手元のタブレットに視線を落とし、光る画面をタップする。
「……不審死した個体の意識および生体データを別の肉体へ転写します」
「距離制限は」
「現状、半径数メートル以内にとどまっています」
「対象条件」
「異星兵器および変異体の影響に起因する死亡個体です」
フレデリークは黙った。
提示された事実と単語を頭の中でゆっくりと並べ替えていく。
死。転写。別の肉体。
――そしてまた、死。
それは途切れることのない輪であり、終わりのないループだった。
彼女は細い指先を分厚い強化ガラスにそっと触れさせた。
ここはずっと冷たい。施設最深部の空気は熱というものを一切拒絶しているかのようだ。
その時だった。
向こう側に横たわる龍の長い尾が、わずかに揺れた。
ほんの数センチ。肉眼で注意深く観察していなければ見落とすほどの微小な動き。だが確かに動いた。
研究員が短い息を呑む音が聞こえる。
フレデリークは微動だにせず、その光景を注視し続けた。
黒い鱗の波が、さらに滑らかに滑り出していく。
ゆっくりと、まるで己の長い体を這うようにしてしなやかに曲線を描き、やがて――その先端が龍自身の顎のすぐ近くへと届いた。
まるで自分自身の尾の感触を確かめるかのように。
広大な観察室は完全に静まり返っている。
フレデリークはその一連の所作を氷のように冷ややかな瞳で見つめていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……なるほど」
誰に向けたわけでもない言葉。
冷ややかな空気の中へ、独り言のように静かに溶けていく。
龍の巨体は再び動きを止め、元の静寂へと戻った。
ただ、その尾だけは顎の近くに置かれたままだ。
自身を包み込むように輪になりかけた形――未完成の円を描いて。
フレデリークはガラスからゆっくりと手を離した。
「VX-0001という名称は廃止します」
背後の研究員たちが一斉に驚きを含んだ顔を上げた。
「では……代表、新しい開発コードを?」
フレデリークは未だガラス越しの異形から目を逸らさない。
その声は恐ろしいほど落ち着いていた。
「これはただの機械ではない」
「……」
「単なる変異体という現象でもない」
彼女の鮮やかな口元が、わずかに歪んだ。
薄く、冷酷な嘲笑を浮かべたのかもしれない。
「これは概念だよ」
最前にいた研究員の一人が、小さく喉を鳴らして息を呑んだ。
フレデリークは静かに言葉を重ねていく。
「終わりと始まりが全く同じ場所にある存在。理不尽な死と生を循環させるための巨大な装置」
ガラスの向こうで龍の尾の先端がほんのわずかに脈打つように動いた。
「さて、ふさわしい名前を付けましょう」
研究員が慌てて手元の記録用端末を構える。
歴史的な一瞬を刻むための入力体制に入った。
フレデリークはガラス越しの巨龍を見つめたまま、明確な言葉を発した。
「――ウロボロス」
静謐な観察室の中に、その名が重重しく落ちた。
「自分の尾を喰らう蛇。永遠の循環」
名を与えられた龍は動かない。
だがその圧倒的な質量を持つ身体は確かにそこに命として、あるいは絶対的なシステムとして存在していた。
決して途切れることのない、終わらない円のように。
フレデリークは一度だけ深く頷くと、研究員達に背を向けた。
「正式名称はそれで登録してください」
緊張に包まれた空気の中で、研究員が指先を叩かせる。
画面上の文字が書き換わっていく。
『被験体名称:UROBOROS』
フレデリークはゆっくりと出口へ向かって歩き出す。
その足取りに迷いは無かった。
気密扉の前で立ち止まり、背後の観察室に向かって最後に一言だけを滑らせた。
「……破綻したこの世界をやり直すには丁度いい象徴でしょう」
重厚な金属音とともに扉が閉まり、彼女の姿は消えた。
静まり返った部屋には観察室の青白い灯りだけが淡く残されている。
ガラスの向こう側、静寂の深淵で、龍の尾がほんの微かに蠢いた。
そして静かに慈しむように自らの尾に触れた。




