「死は一つの目覚め」
薄暗い病室の静寂を切り裂くように、生命維持装置の規則的なビープ音が無機質に響き続けていた。
循は硬いベッドに横たわり、息を吐き出すたびに胸の奥から湧き上がる激しい痛みに眉をひそめた。ジェノエッジ・バイオサイエンス社と監察局による容赦のない襲撃から奇跡的に生き延びたものの、彼女の肉体は文字通り限界を迎えていた。
首から手首、そして足首に至るまで全身に白い包帯が幾重にも巻き付けられ、露わになった僅かな皮膚には酷い内出血の紫痣と鋭利な破片で切り裂かれた傷痕が痛々しく残っている。
それでも心臓は脈打ち、呼吸を繰り返していた。
生きている。生き延びてしまった――ただ一人、あの狂気と炎の惨劇から。
「……環……」
擦り切れた声で小さく呟き、循はベッドサイドの丸脚テーブルに置かれた冷めきった水のカップへ、力なく視線を滑らせた。その透明な水面に映る自分の青ざめた顔を見つめていると不意に脳裏へ一つの面影が鮮明に浮かび上がる。
環。
感情の起伏を感じさせない無表情の裏側に不器用で深い優しさを隠していた青年。銃声と怒号が飛び交い、死の匂いが充満する極限状態の現場においても彼はいつだって氷のように冷徹で、沈着冷静に状況を打開してみせた。循にとって彼のその揺るぎない存在こそが、殺伐とした日常における唯一の心の支えであったのだ。
彼がいなければ今の自分という存在はこの世のどこにも存在していない。あの絶望的な夜、押し寄せる襲撃者の群れを前にして、環は躊躇うことなく自らの身を投げ打ち、循を逃がすための時間を作り出した。
目覚めるたび、意識が浮上するたびに彼と共に歩んでいくはずだった穏やかで温かな未来の断片が頭をよぎっては儚く消えていく。
――だが、どれほどの日数が経過しようとも彼の姿がこの病室の扉をくぐることはなかった。
監察局の過酷な取調室で冷たい鉄格子に繋がれているのだろうか。それともジェノエッジの非人道的な研究施設へ引き渡され、実験材料としてその肉体を切り刻まれているのだろうか。想像するだけで吐き気がこみ上げる凄惨な可能性の数々に循の心は言いようのない底なしの不安と恐怖によって苛まれ続けていた。
そんなある日の午後、静まり返った病室のドアが、滑らかな音を立てて静かに開いた。
扉の隙間から滑り込むように現れたのは一目で周囲の空気を凍りつかせるような冷ややかな微笑を湛えた女性――フレデリーク・マリであった。
腰まで伸びた艶やかな長い黒髪。その内側の毛並みと同じ、鮮烈な青の双眸が、ベッドの上の循を射ぬくようにじっと見つめてくる。
「元気そうで何よりだ」
フレデリークは一切の無駄がない優雅な動作で洗練された仕立ての服の裾を整え、ベッドの傍らに置かれたパイプ椅子へ腰を下ろした。その簡素なパイプ椅子すら、彼女の指示によってこの部屋へ運ばせ入れた代物であると聞いている。彼女はこうして、傷ついた循の「見舞い」と称して、何度も病室を訪れていた。
(……そう、私はこの人の部下にあの惨劇の後に助け出されたのだから……)
循の記憶にはあの夜の襲撃の後半に関する記録がほとんど存在していない。環が命を懸けて自分を遠くへ逃がそうとしてくれた切迫した記憶だけが、途切れ途切れの朧げな残像として胸の奥に残っているに過ぎなかった。気付いた時には彼女――フレデリークの手によって拾われ、手厚く保護されていたのが動かしがたい現状である。
一つのセクターを統括する巨大企業の代表という雲の上の存在が、何故か自分という一介の研究者の名前と顔を知っており、過去のささやかな功績を買ってくれていた。そして何より彼女はこうして破格の資金を投じ、自分の治療と療養に全面的に手を貸してくれているのだ。
現在、循が横たわっているのは、大企業「フェノム・システムズ」が保有する最新鋭の医療施設であった。
もちろん、あまりにも都合が良すぎる話だと頭のどこかで警戒はしていた。だが、今の自分には頼るべき当ても逃げ込めるあても存在しない。身の安全と生命を保障してくれるというのであれば、それが蜘蛛の糸であろうと縋り付かなければ生き残れないのだ。
「……環の件、何か進捗は有りましたか?……すみません。フレデリークさんにはただでさえ多大なお世話になっているというのに」
循は痛む胸を押し殺し、かすれた低い声で問いかけた。
この施設で奇跡的に意識を取り戻した際、彼女が真っ先にその唇から零したのは自分を救って消えた親友――環の名前であった。会話がまともにできるようになってからの循の行動は早かった。
フレデリーク自らが病室を訪れた際、循は意を決して、環の捜索を彼女に切実に要請したのだった。そしてフレデリークは、有能な部下たちを即座に動かして捜索に当たらせると、冷たくも快くそれを了承してみせたのである。
循の胸中にはかすかな、しかし確かな期待の火が灯っていた。
自分のような人間がこれほどの破格の優遇を受け、傷が完治した暁にはフェノム・システムズの中核へ来るよう打診されているのだ。自分以上に優れた技術と知識を持つ環であれば、なおのこと同様かそれ以上の素晴らしい待遇で迎え入れられるに違いない。
(場所や形は変わったとしても……またあの人と共に同じ未来を夢見て笑い合える日が来るかもしれない)
そんな微かな希望を胸に抱き、縋るような眼差しを向ける循に対し、フレデリークは淡々と唇を開いた。
「残念だけど。もう二度と会うことはないでしょう」
――今日はそれを伝えに来たのだと。
フレデリークの深い青の瞳が、一瞬だけ不自然に揺れたように見えた。だが、彼女は瞬時にいつもの無表情を取り戻し、冷たく短い言葉を吐き捨てた。
その瞬間、循の心臓が巨大な氷の塊で強く締め付けられたかのような衝動に襲われた。
フレデリークの放った言葉が意味する残酷な事実を理解するのに時間は全くかからなかった。
(そんな……嘘でしょう……? 環は誰よりも強くて、どんな窮地でも生き延びてきた人だ。きっとどこかで身を潜めて、私のことを捜してくれているはずなのに……)
循は震える手でベッドのシーツを強く握りしめ、声にならない声で呟いた。
「彼は貴女のために命をかけた。ジェノエッジに捕らえられ、その命を落としたのだよ。……実に残酷なことだ。だが、それは貴女という存在を守るためだった。貴女という人間により価値があると彼自身が判断したからこそ、そうしたのだろう。……彼の死が無駄にならないようにしなさい」
(……そういうところが、本当にこの国の人間らしいな)
フレデリークの語り口には一切の感情の抑揚が存在しなかった。
まるで道端で枯れ葉が吹き飛んだ程度の何でもない日常の出来事を報告するかのように淡々と語ってみせる。
循は完全に言葉を失った。
視界が急激に暗転し、肺の酸素がすべて吸い出されたかのように息が詰まる。
環が、自分を守るために死んだ。それが突きつけられた唯一の現実なのだ。
誰か嘘だと言ってほしい。性質の悪いタチの悪い冗談だと笑って否定してほしい。
しかし眼前に立つフレデリークの冷ややかな表情には己の発言を撤回したり否定したりする気配など微塵も存在しなかった。
「どうして……どうして、そんなことに……っ!」
「それが、この国だからさ。私達はいつだって大切な何かを失い続ける。それが逃れられない現実というものだろう」
――だが、その喪失を無駄にしてはいけない。生き残った者が、それを糧として立ち上がるべきだ。
フレデリークは静かにそう言い添えると絶望に打ちひしがれて視線を彷徨わせる循から背を向け、ゆっくりと立ち上がって窓の外の寒々しい街並みを見つめた。その完璧な横顔は刃物のように冷たく無機質だった。
職場や研究室でいつでも無感情を貫いていた環の姿には慣れていたはずだった。だが、フレデリークが纏うその無表情は彼のそれとは根本的に異なっている。比べものにならないほど暗く、深い。
まるで底の知れない夜の海だ。その深淵をじっと眺めているだけで精神が狂い狂いし倒れてしまいそうなほどの圧倒的な異質さ。
(彼がいないこの世界に、一体何の意味があるというの……? 私一人でこれから何が出来るというの……?)
循の意識は底のない暗闇へとゆっくりと落ち込んでいった。
◇
それから数日が経過しても循は病室のベッドからほとんど身を動かそうとしなかった。
投薬と手厚い処置のおかげで肉体の傷は順調に回復の兆しを見せていた。しかし、彼女の心はすでに不可逆なまでにへし折れていたのだ。
運ばれてくる食事にもほとんど手を付けず、ただ窓から差し込む光の移ろいを眺め、時間が過ぎ去るのを無目的に待つだけの虚無の毎日。リハビリの計画は全く進まず医師や看護職員たちが訪れるたびに循は無言で重い瞼を閉じた。
――環がいない。
――彼はもう二度と戻ってこない。
その冷徹な事実が重く湿った鎖となって循の全身を強く縛り付け、あらゆる感情や生への意欲を奪い去っていく。フレデリークが残していった言葉が脳裏で鼓膜を震わせるたび、彼女の精神はより深い絶望の闇へと引きずり込まれていった。
だが、施設側の対応は奇怪であった。
循がどれほど無気力に塞ぎ込み、治療やリハビリを拒絶しようともこの施設の責任者――ひいては最高代表であるフレデリークはそれを黙認しているようだった。
職員たちは無理に循をベッドから連れ出そうとせず、かといって役に立たない患者として施設から追い出す気配すらない。ただ淡々と一日三食の膳を運び、定期的に腕から採血を行い、手際よく服薬の介助をこなしていった。
口の中へ放り込まれる錠剤や液体が一体どのような効能を持つ薬なのか、今の循には知る由もなかった。ただ、日を追うごとに処方される薬の数が減っていっていることだけは理解できた。思考することを放棄した鈍い頭で、意味を喪失した自分の日々の変化を循は他人事のように漠然と眺めていた。
――そうして、ある日の夕刻。
病室の扉が開き、フレデリークが再び姿を現した。
今回の彼女の顔にはかつて見せたような上辺だけの優雅な微笑みすら存在しなかった。氷のように冷徹で目的を見据えた実験者の顔であった。
「気分はどうだね? ……私はね、必要な投資であるならば金も時間も惜しむつもりはないのだよ」
現にこうして多忙な合間を縫って、君に何度も会いに来ているのだから。
だが、呼びかけられた循は微動だにしなかった。フレデリークの声はまるで遠くの深い水中から響いてくるかのようにくぐもって聞こえ、彼女の頭脳には一切の意図が届かない。
「環は死んだ。……だとしても、貴女には彼の死を無駄にさせないための力があるはずだ。貴女にはまだ、成すべきことが残されているのではないかね? ……たった一人の男を救うためだけに、君はこれまで活動してきたわけではないのだろう? 初期の目的を思い出すといい」
フレデリークの静かな声が、病室の不気味な静寂の中に響き渡る。
彼女の言う通りだった。
自分は理不尽で原因不明の不審死によって大切な家族を奪われた。二度と自分のような悲劇を生み出さないため、人々を不審死の恐怖から解放するために血の滲むような努力を重ねてここまで辿り着いたはずだったのだ。
そして何より、環という存在はその過酷な人生の途上において不意に現れた協力者の一人に過ぎなかったはずだ。……それなのに、絶望の淵にいた自分を見捨てず、最後までその身を賭して尽くしてくれたのは世界中で彼一人だけだった。
循はそっと目を閉じ、脳裏に環の記憶を鮮明に思い浮かべた。
静かで落ち着いた声。胸の奥に秘めた強く折れない決意。いつだって無表情で何を考えているのか読み取れなかった――けれど、間違いなく世界でたった一人の、かけがえのない親友。
その瞬間。
循の胸の奥深くで、何かがパリンと高く鋭い音を立てて砕け散った。
――バチバチッと全身の神経を灼き尽くすような、絶大な衝撃が駆け抜ける。
その刹那、循は己の肉体と世界において決定的な「狂い」が生じていることに気がついた。
視界が不気味にぐにゃりと歪み、色彩がドロドロに溶け出していく。
血管の隅々にまで、常世のものではない異常な「何か」が爆発的に混ざり込み、自らの純粋な意識を根本から汚染し、書き換えていく。内臓と骨髄を内側から激しく掻き回されるような狂おしい不快感と悪寒――そしてそれらの苦痛の限界を超えた先で、循は自らの肉体がすでに自分自身のものではなくなっていくという恐ろしい錯覚と戦慄に囚われた。
「な……何、これ……っ!? ああぁぁぁっ!?」
循は激痛と恐怖のあまり絶叫しようとしたが、声帯が変質し、掠れた異音しか喉から出てこない。四肢の自由は急速に奪われ、指一本すら動かすことができなくなっていく。
「……まだ出来ることがあると言っただろう? 彼の死を、素晴らしい糧としなさい」
フレデリークは歪みゆく部屋の中で冷酷に言い放つと感傷の欠片もない動作で踵を返し、部屋を後にした。
彼女と入れ替わるようにして、重厚な装備に身を包んだ複数の施設職員たちが、銃器を構えて雪崩のように部屋へと雪崩れ込んでくる。
(どうして……? どうして私にそんな武器を向けるの……? 私は……私はただ……)
循の肉体はすでに人間の形状を保つことをやめていた。包帯を突き破り、皮膚の底から不気味な異形構造が蠢き、恐ろしい変化を遂げていく。
急速に霞んでいく視界、消え去ろうとする意識の濁流の中で、群がる職員たちの姿は黒い影となって朦朧と映るのみだった。
彼らは叫んでいた。怒号や指示を大声で飛ばし合っている。しかし変質した循の鼓膜と脳にはそれが何の言語なのかすら理解することができない。
こうして循の「人間」としての意識は完全なる底なしの闇へと飲み込まれていった。
途絶える意識の最後の最後、絶望の深淵で循の頭の中に浮かんだのは――やはり、あの無表情で不器用な親友の顔だった。
――それが、人間としての循が見た最後の景色であった。




