第38話 ジェノエッジ・バイオサイエンス社
「ジェノエッジ・バイオサイエンス……」
ベルトコンベヤの上から無造作に流れてきたクリアファイルを手に取り、資料に落とした視線のままアキがぽつりと呟いた。
彼女の手の中に握られているのはA4サイズの用紙が複数枚入った厚みのある透明なクリアファイルであった。そこにはぎっしりと細かい文字の羅列が整然と印刷されており、表紙の左上に控えめな小文字でその企業名が印字されている――どうやらこれは上層で開催された就職説明会か何かに参加した、将来ある優秀な学生たちに向けて配布されたパンフレット資料のようであった。
クリアファイルの中には文字ばかりの資料だけでなくフルカラーで印刷された豪華なパンフレットや事業案内の写真入りの用紙が入っており、よく見れば透明なファイルそのものにもその企業のスタイリッシュなロゴマークが箔押しプリントされている。説明会の会場に足を運んだ学生たちにこのセットごとノベルティとして配布されたのだろう。
(……ああ、ダメ。私、こういう文字がギチギチに詰まった資料読むの本当に苦手なんだよね)
興味のない分野であれば、なおさら脳が文字を拒絶する。
アキは自分で読むことを一瞬で諦めると黙って隣に立つ同僚の環に向かって、クリアファイルごと資料を押し付けた。
環はやれやれと言った様子でわずかに眉をひそめつつも静かに彼女の手からファイルを受け取った。
「ジェノエッジ・バイオサイエンス社だ。各種生物の遺伝子を精緻に操作し、特定の高い能力や有益な特性を人為的に付与する先端技術。先端薬品の臨床開発や各種治療法の画期的な改善に利用されている。近年は特に遺伝子改変技術を応用し、難病の治療薬開発や、原因不明の不審死の予防・解明に積極的に取り組んでいる企業だな」
「……え、ちょっと待ってください。先輩、それまさか暗記してるんですか?」
試験を直前に控えた必死な学生じゃあるまいし……。
自分が手渡した瞬間に「読む気を一切失った」はずの難解な資料を環は顔のすぐ近くまで引き寄せ、穴が開くほど食い入るように凝視しながら流暢に読み上げていた。その異様な没入ぶりにアキは少し引いたように半歩身を引いた。
彼が単に資料の概要を素早く速読して読み上げているだけなのか、それとも彼自身の持つ過去の知識をそのまま口に出しているだけなのかは定かではないが、傍から見ていてどこか浮世離れした恐ろしさを感じさせることには変わりなかった。
詳細にどのような研究やビジネスを行っているかまでは定かではないが……一応、アキもこの企業の名前くらいは知っていた。
五十セクターの中でも特に名の知れた組織の一角であり、昔アキが暮らしていたセクターでも稀にテレビの街頭モニターや地上波の合間に豪華なCMを流していたほどの超有名企業だ。
当時のアキはその企業名を耳にするたびに「何となく名前からして理系の頭いい人たちの会社なんだろう」と軽く流していたのだった。そして文系で落ちこぼれの自分には逆立ちしても一生涯縁のないような遠い世界の場所だとも思っていた。
『――あらやだ、生物の遺伝子を勝手に付け替えるなんて。映画に出てくるマッドサイエンティストじゃない!』
アキの母親は昔、家族で夕食を囲んでいる最中、番組の合間に流れてきたその企業の優雅なCMを見て不機嫌そうにそう呟いていた。
彼女の生まれ故郷の地元セクターでは、何となくイメージの悪い「気味の悪い企業」として大人たちの間で扱われていたが、当時の幼いアキには周囲の大人たちが何故そこまでその技術を嫌い、恐れているのかが理解出来なかった。
今思えばそれは自分たちの理解の及ばない高度すぎる科学技術に対する、外部セクター特有の漠然とした恐怖感や拒絶反応だったのかもしれない――こうして成長し、環の口から具体的な業務内容や目的を聞いて解像度が上がると不思議と「不審死を防ぐ良い会社なのかも」とイメージがマシになるものだ。
「……でも先輩、どうしてそんなにその企業のことに詳しいんですか。まさか、ここに雇われる前の前の勤め先がそこだった、とか?」
「……それは違う。個人的に多少の関がりがあっただけだ。それに……ここはうちと事業提携を結んでいる」
環はそう静かに告げるとクリアファイルの中から一枚の薄い資料を引っ張り出した。
それは企業間の「業務提携・協力会社一覧」が記載された項目であった。その一覧の中には、今アキたちが身を置いているこの企業――アキが今朝までロゴマーク以外の存在理由をすっかり忘れていた「フェノム・システムズ」の名前もしっかりと印字されていた。
アキは環の指差す資料の文字と自分の作業着の胸元に下がった社員証のロゴマークを静かに見比べる。
(……何をどうしたら遺伝子改変の製薬会社とこんなゴミ溜めみたいなうちの会社が繋がるんだろう……?)
アキには何一つピンと来ず、ただ静かに首を傾げるばかりであった。
「まあ、提携してるってことは……何かしらの技術を提供してもらったり、相互に協力関係にあるってことでいいんですよね?」
「……ああ」
「平和的に考えるならうちの危険な現場で傷ついた職員の治療面とかで向こうの高度な医療技術に助けてもらっている……と考えるのが妥当なんでしょうね」
(あるいは……動物の人間離れした特性を人間に移植したり、複数の生物の特性を併せ持つ最強の兵士を作ったり……。改造人間とかを裏で作ってもらっている可能性の方が夢が有るけど)
アキはふと頭に浮かんだ、そんな不謹慎でSFチックな妄想をぐっと呑み込んだ。
しかしながら昔の地元ではテレビCMを見た子供たちが実際に「あそこは怪人を作ってるんだ!」などと騒ぎ立てて遊んでいたのは紛れもない事実であった。
特にその企業のCMが流れるタイミングが子供たちの大好きな特撮ドラマやミリタリーSF系のアニメの放送枠と被ると子供たちの変な妄想に火をつけるという意味でタイミングとしては最悪であったのだ。
遠い昔のしょうもない思い出をぼんやりと回想するアキの隣で環は資料から未だに視線を外そうとしない。
このまま無言で見つめ続けていたら紙面に熱で穴が開いてしまうのではないだろうか。
アキはこの重苦しく静まり返った空気を少しでも変えようと意図的に別の話題へとハンドルを切った。
「さっき『個人的に付き合いがある』って言ってましたけどまさか先輩も昔、あそこにお世話になったりしたんですか? 遺伝子を弄ってもらって、こんな頑丈な身体になったとか」
「……何も受けていない。あそこの提供する施術やサービス全般はどれも異常なほど高額だからな」
普段と変わらないポーカーフェイスのまま、環は小さく首を横に振った。
アキからクリアファイルを返すよう促され、環は黙ってそれを彼女の手へと手渡してやる。
――環はこの「ジェノエッジ・バイオサイエンス」という企業のことを痛いほどよく知っていた。
他でもない、過去に自分を捕虜として苛烈に拘束した企業であり、都市の監察局と共に自らの前職の職場や仲間たちを跡形もなく破壊し尽くした張本人の組織だからだ。忘れるわけがなかった。
そもそも彼がかつて所属していた前職のオフィスは彼らの管轄するセクター内に存在していたのだ。
「星間就業法に重大な違反があった」という、どこからのものかも分からない匿名の密告を受けた彼らはその違反事実を大義名分として掲げ、環たちのいた中小規模の事業所を容赦なく蹂躙した。
同じ「不審死の克服」や「未知の因子の解明」という目的を掲げる同業者同士――競合他社の足を引っ張り合い、自分たちにとって都合の悪い存在を抹殺する理由作りの巧妙さというものは理解出来るのだが……それはある種、この歪んだ国家における「御家芸」とも言える汚いやり口であった。
かつてはその企業に対して激しい怒りや憎しみを煮やした時期もあった。
だが、そもそも「こちらの隠された存在」に彼らが気付いたからこそ、刺客や監察局を放ってきたのだ。
彼らが自ら内部に密偵を潜り込ませていたのか、それとも外部の人間からの裏切りによる密告だったのかは今となっては定かではないが――あの一件以来、環はそれまで以上に他者を容易に信用しない、疑り深い人間になってしまったと自覚している。
一方、横でカラー刷りのサービス案内をパラパラとめくっていたアキが、「えっ、この遺伝子修復コース、高すぎるんじゃないですか!?」「一回で上位区画の高級マンションに一生住めるレベルの額ですよ!」などと一人で騒いでいる様子を横目に環は静かに小さなため息を吐いた。
無知な彼女の騒々しい態度に腹を立てているわけではない。
ただ流れてきた偶然の資料一枚によって、不意に暗い過去から冷たい手が伸びてきて忘れかけていた胸の古傷に容赦なく爪を立てられたような、不快で痛ましい心地を味わわされただけであった。
「……でも先輩、遺伝子改変といえば違うセクターで『異種生物融合』を大々的にやってる企業もありましたよね? ウサギとネコとトリを混ぜ合わせたみたいな奇妙な生き物を作ってるところ。あっちの会社とはどうやって棲み分けしてるんでしょう」
「……あれは遺伝子改変というより、原型の残る『キメラ』の製造だな。あちらは主に軍事用の生体兵器であったり……あるいは富裕層向けの愛玩動物としても大量に繁殖させて売っていた」
「へえ、そういうものですか。あれだってオーダーメイドで注文するとバカみたいに高いって話でしたよね。私、小学生の時に誕生日プレゼントであのペットが欲しいって親にねだったらものすごい勢いで怒られたんですよね。……でもクラスの裕福な同級生の中には実際に家に飼ってる子もいたんですよ。遊びに行ったら庭に飼育用の巨大なガラス小屋が建ててあって……」
生物の本体代金だけでも目眩がするほど高額なのに維持費や専用の小屋まで用意しなきゃいけないなんて……あの時、親が本気で怒った理由が大人になってようやく理解できましたよ――とアキは手元の資料を見つめながら自虐的に笑った。
どうしてこの国の巨大企業のサービスというものはどれもこれも庶民の手には届かないほど値が張るのだろうか。
そうした先進的な技術に限って企業が強固な特許を独占して取得しているせいで下層に安価な類似サービスが出回ることもなく、完全な市場独占状態が続いている――アキは昔テレビで見たCMの中の類似技術をふと思い出し、何となく話題に出してみたものの、話を広げれば広げるほどこの国の構造的な嫌らしさと格差を再認識させられるようで次第に気分が悪くなっていった。
そしてこれほどまでに異常で危険な環境――アキは本物の「国外」というものを一度も見たことがないが、こんな理不尽な国家で暮らしていても自分たちのような一般庶民はそうした恩恵のある高度なサービスに一生触れることすらできないこと。
ただ息をして、劣悪な環境で「普通」に生き延びることだけに必死になっている己の現実にアキはつくづく辟易させられるのだった。
隣に立つ環はそうした社会の不公平等な話題には特に興味がないのか、それとも過去の出来事で深い物思いに沈んでいるのか、アキの言葉に対する返答はどこか空疎な生返事ばかりであった。




