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退廃都市の記録係  作者: theo
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第34話 茶筒

 環とアキは互いに同じ方向を見つめながらまったく異なるものを見ていた。

 アキは見るからに面白くなさそうな顔で流れてくる物体のシルエットを目で追っている。環は環で視線を遥か遠く明後日の方向へと漂わせていた。


 アキは最近、コンベヤで流れてくる物にすっかり退屈していた。どこにでもある有り触れた物品――それも何の異変も異常も抱えていない「普通のゴミ」にはどうしても心が動かなくなっているらしい。そういった場合には「先輩、どっちが記録します?」「お前がやれ」といった一言二言の雑な会話を交わし、単なる作業として淡々と処理する。

 無駄な怪異に脅かされないという意味では環も大いに助かっているのだが、刺激を求めるアキからすれば退屈で仕方がないようだった。


 そうして彼らの退屈や鬱屈とした気持ちを余所に目の前に滑り込んできたのは何の変哲もないシンプルな白い茶筒であった。

 飾り気のない金属製のそれは一見するとどこの銘柄のものかも見当がつかない。安物の市販容器だけがぽつんと運ばれてきたパターンかと開ける前から観察者の好奇心を損なわせるには十分な佇まいだった。


 第一、今回の搬入品には「開けろ」という明確な作業指示すら添えられていない。このまま特に検定もせずスルーして流してしまっても問題はないのかもしれない――言葉にせずとも二人の意見は静かに一致していた。

 先にアキが気怠げに手を伸ばし、茶筒をコンベヤから持ち上げる。その折、僅かに彼女の興味を刺激する要素があった。


「……あ、先輩これ重いですよ。ずっしり口きり一杯入ってます。まるでどこかの家の棚からそのまま持って来たみたいですね。そういえば今は丁度御中元のシーズンでしょ? ああ、先輩の故郷にはそういう行事ありました? うちは有ったんですけど……」


 アキが手元で茶筒を弄びながら喋る言葉を環は最初の一言二言ほどしか理解出来ていなかった。

 御中元とやらについてはかつて大学時代や研究者時代に親友から聞かされていた上、以前働いていた製薬会社の職場にも夏場になると控室にいくつか届いていた記憶がある。シーズンになると上司が社員たちにそれを適当に分配することもあった。知識としても経験としても理解はできる。それは大した問題ではなかった。


 問題だったのは環のすぐ隣でアキが何の気なしに茶筒の蓋を開けたことだ。


 茶筒の外蓋を外した瞬間から、ふわりと持ち上がってきた仄かな香りに嫌な予感はしていた。だが、彼女が内側のプラスチック製の内蓋をポンと軽快な音とともに開けた瞬間、その予感は最悪な現実となって鼻腔を刺した。


「悪いが――早急に蓋を閉めて、片付けてくれないか」


 自分が口を開かなければやれこの匂いは高級品じゃないかだの、どこの茶葉だろうかだのと矢継ぎ早に話していたであろうアキの口を環の異様な低音が一瞬で黙らせてしまった。

 アキはショックを受けているというよりかは普段冷静な環らしくない激しい動揺っぷりと切迫した声色に疑問を感じているといった様子で目を丸くしている。


 強烈に立ち上る香りの所為で彼女が何かを喋ろうとする言葉すら頭に入ってこなくなった。脳の奥が不快な熱を帯び、視野の端が白く霞む。これは一種の錯乱状態だった。


 アキの手元にある茶筒の中身――そこに詰まった茶葉の匂いは環にとって嫌というほど馴染み深い物であった。

 細かく砕かれた茶褐色の茶葉に混じって、鮮やかに際立つヤグルマギクの青い花弁。ベルガモットの柑橘香が華やかに立ち上り、「紅茶のシャンパン」とも表現される高貴で華美なアールグレイの香気。それは環の意識を一瞬にして、地獄のような過去の記憶へと引き戻した。


 これは「懐かしい思い出」などという綺麗な響きで片付けることができる代物ではない。

 塞ぎかけた自分の古い傷口に爪を立てて引き裂くような静かに潜んでいた痛みの引き金を無理やり引いてしまうような劇薬。


 先日の夜に見た嫌な夢が、色濃い香りを伴ってそのまま現実に侵食してきたかのような悪夢――今、この部屋にはアキと自分の二人しかいないというのに。あの女の影が、たった一筋の匂いだけで部屋全体にちらつくのだから相当だった。


 目を閉じれば自分が冷たい椅子に縛り付けられるようにして腰掛け、目の前のテーブルにはあの絶対的な支配者――フレデリーク・マリが優雅に腰を下ろしている。

 監視カメラの赤い光が見つめる二人きりの閉鎖空間で、彼女が淹れたこの香わしい茶を啜りながらいつ終わるとも知れない命懸けの「他愛のない会話」を交わしたあの時間。


 あの女とはもうあの事件以来直接会っていないというのに。

 限定的とはいえこの香りを嗅ぐ度に脳の扁桃体が勝手に恐怖と屈辱を思い出し、全身の筋肉が硬直してしまう。

 環は手で空気を払い除けるような仕草をしながら、アキの手元から露骨に視線を逸らした。


「……あ、すみません。これで匂いはマシになりましたか? 先輩、もしかして紅茶苦手なんですか?」


 環の真迫の要請に応じて、アキは手早く茶筒の内蓋と外蓋を締め直してくれた。

 その気になればこの地下作業室には自分たちが持ち込んだ電気ケトルと紙コップがあるのだから、アキのことだ「せっかくですし一杯淹れて飲みましょうよ」と提案してきてもおかしくなかった。だが、環が尋常ではない様子で怯え、消耗しているのを見て取ったのだろう。彼をここまで追い詰めてまでお茶会を強行する度胸はアキにもなかったようだ。


 「お茶を飲む」くらいなら普段通り味のない白湯を飲んでいればいい――アキはどうにも落ち着かない様子で目線を泳がせる環を横目で見やりながら、茶筒をそっとベルトコンベヤの上に置くと一人で自席のパイプ椅子へと戻っていった。

 その間にいくつか環に向かって問いを投げかけるも彼の返答は放心状態に近く、酷く落ち込んだような有様であった。


「匂いがキツいってことですかね。私も昔、他所でバイトしていた時に休憩室の中に充満しているコーヒーの匂いが凄く苦手だったりしたんですよね。でも家族が家で淹れるものやデパ地下とか店でやってる試飲の香りは全然平気だったりしたんですよ。不思議ですよね」

「……そう、なのか」

「まあ、この施設で紅茶なんて出してる食堂も見たことないですし、ここから先は入ってこないんで怖がらなくて大丈夫だと思いますよ」


 匂いはマシになった。自分は紅茶が酷く苦手だ。

 普段から口数が少ない方の環であったが、今回は特に投げやりで今にも消え入りそうな返答だった。

 アキがどこまで己の過去や事情を察しているのかは不明だが、無駄に重くなった場の空気を察して、必死に他愛のない話題へ切り替えようとしてくれているのだろう……今は素直にそう思いたかった。普段であれば軽く流してしまうようなくだらない日常会話ではあるが、今回はあえてその話題に乗ることにした。

 意識をアールグレイの香りから遠ざける必要があったからだ。


 特定の匂いや刺激に対して強い苦手意識を持つことについては環も概ね同意見だった。

 ただ自分はそもそも「嗜好品の試飲」などという洒落たことをやっている店自体を人生で見たことがない――かつて製薬会社で働いていた頃、親友が何度か「駅の地下街や商業施設の中に他セクターからの珍しい輸入品を売る店があって店頭でコーヒーの試飲をやっていた」と楽しそうに言っていた覚えがあるのだが、アキの口からも同じような話を聞くとなればそれは世間ではそこそこ大規模な有名チェーン店なのかもしれない。

 親友が「店の前を通るだけで香ばしくて良い匂いがするんだ」と言っていた記憶が蘇る。彼女は時折、その店で買ったというコーヒー豆を大切そうに挽いて職場に持ってきてくれたものだった。


 生憎と環自身は昔から飲み物や食べ物の味に固執しないタチであった。

 嗜好品という概念自体は彼の故郷にも存在したし、それを好んで嗜む者も周囲にたくさんいた。当然、人それぞれに好みや強い拘りがあることも理解している。

 しかしながら環の場合、飲食物全般に対してそれほど強い拘りや執着が無かった。

 強いて言えば「どうでもいい」という広大な関心の薄さの中にごく稀にトラウマと結びついた「嫌い」がいくつか存在するだけだ。環は自らのことを色も情熱もない心底退屈な人間だと自負していた。


「やっぱり嫌な記憶と場所や環境が結びついちゃうのかもしれないですね。よく通勤中に大好きな音楽を毎日聴いていると、その曲を聴くたびに満員電車の鬱陶しさを思い出して、かえってその曲のことが嫌いになるなんて話もあるんですよ。あとは好きなことを仕事にしたら元々趣味だったのに仕事以外で一切やりたくないってくらい大嫌いになるとか。自分の『好き』以外で仕事のモチベーションを上げるってのも世間じゃ至難の業ですけどね」

「……言われてみれば、そうだな。他の飲み物は、そこまで嫌悪感はない」

「でしょう。人間、嫌いな事象やトラウマの『象徴』になっちゃう物があるとそれだけで思考がロックされちゃって良くないんでしょうね」


 精神的な動揺が残る環は今回、検定済みのシールを貼る係に回ることにした。

 本への記録や端末への入力作業は今まさにキーボードを軽快な音で叩いているアキがやってくれているのだろう……今の環の状態ではまともな観察記録や文章を書ける自信が到底なかった。そもそもあのアールグレイを口にしたり、直接匂いを嗅ぐことが無かったとしても「アールグレイ茶葉、異常なし」と文字に起こすこと自体が、精神的に強く擦り減る原因になる。今回はアキのさりげない気遣いとして、素直に配慮を受け取るべきだと環は一人で静かに頷いた。


 彼女の言う自己分析は珍しくごもっともだった。

 手元で器用に文字を打ち込みながらこちらと途切れることなく会話を続けるアキ――こいつは時折、ぞっとするほど的を射た真実を口にする。

 「これって悪用すればこれから別れる恋人相手に一生消えないトラウマという名の致命傷を負わせられそうですよね」という彼女らしい悪趣味な余談も含めて。


 ……フレデリーク・マリは、断じて自分の恋人などではない。

 もっともあのような冷酷な女と特別な関係になった覚えもなければ、それらしい甘い行いをした記憶も一度たりとも存在しない……と自分では確信しているが、向こうの歪んだ頭の中で何が考えられているのかはサッパリ分からない。アキの軽口に環はゾッと背筋が寒くなるのを感じた。


「でもちょっと不思議に思ったんですよね。先輩がそこまで露骨に嫌いなアールグレイが、なんでこのタイミングでピンポイントに流れてくるんでしょうね? 先輩って昔から運が無さそうだから単に日頃の行いの延長線上ってことですかね」


 超天文学的な偶然の確率か。それとも、カメラの向こうから自分を観察している誰かの意地の悪い悪意か――。

 アキはどこまでも他人事のように呟くとベルトコンベヤの前に立ち尽くしている環に向かって「先輩、記録終わりましたよ。シール貼ってください」と指示を出した。今回の検定記録は終了だ。

 いつもと比べて恐ろしく手早く作業が終わっているあたり、やはり彼女なりにこちらへ配慮してくれた結果なのだろうが、アキの言葉には一々無自覚な棘がある。こちらを傷付ける明確な意図はないのだろうが、どうにも言葉の当たりがきつい時があった。


 環は深く胸の底から溜息をついた後、茶筒に貼るための指定シールの束を抜き取ろうと、制服のポケットへと細い手を伸ばした。その瞬間、自分の制服の袖口から覗く腕にびっしりと鳥肌が立っていることに気付く。


 どうやら自分が自覚している以上にあの香り一つで、心身ともに相当追い詰められているらしかった。

 環は無言のまま白く冷たい茶筒の表面に拒絶するように手早くシールを貼り付けたのだった。

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