第19話 話としての箸休め
アキがゆっくりと目を覚ますとそこはいつもの見慣れた職場であった。
アキは冷たく無機質な白い床の上に丸まって縮こまるような体制のまま固く目を瞑っていた。瞼がまるで鉛でも仕込まれたかのように重い。
このような妙に非現実的な感覚を覚えるのはこれで人生二度目のことだった。
瞼こそ重く持ち上がらないものの、身体のどこかに激しい痛みが残っているわけでもなく、吐き気や目眩のような直接的な不快感も一切無い。例えるならば休日の朝に重い眠気が頭の奥に残っている、あの出勤前の時間帯の感覚に酷く似ていた。
それほどまでに穏やかで何の変哲も無い平穏な目覚め――自分のすぐ傍らで環が不自然に倒れているということさえ除けば。
「……先輩、大丈夫ですか……?」
徐々に持ち上がり始めたぼやけた視界の端に白い床の照り返しの中で一層際立つ黒髪が映り込む――さらさらとした癖のない彼の黒髪が、だらしなく無機質な床の上で乱雑に散らばっていた。
アキのすぐ隣で環がうつ伏せになったまま微動だにせず倒れていたのだった。
とはいえ環の体勢はアキに対して足を向けるような角度になっており、距離にしてアキからは数メートルほど離れている。まるで稼働前の静かなベルトコンベヤに向けて吸い寄せられるように前のめりになって倒れ込んだかのような不自然な体勢だ。
耳を澄ますと彼の胸元からごく微かに規則正しい呼吸の音が聴こえてきた。
アキは重い上体をゆっくりと起こすとふらつく足取りで静かに立ち上がり、そのまま環の傍らにしゃがみこんだ。
「……平気だ。……死ぬのは前任者ぶりだな」
「……私達、さっき死んだんですか?」
「多分な。死ぬタイミングとしてはお前の方が先だったんだろう。だからお前の方が俺より目覚めるのが早かった。……それにしても肝心の『モノ』が無いんだな」
「……ええ、私が目覚めた時にはコンベヤの上にも周りにも何もありませんでしたよ」
環は思いの外、死からの復帰が早かった。
アキが少し不安になって環の頑丈な肩に手を掛け、数度揺すってみると彼は低い声で小さく呻いた。
まるで休日の早朝に無理やり起こされた時のようなその程度の気怠げな反応であり、揺する側のアキも、揺すられる側の環もお互いに「一度死んで生き返った」という絶望的な事態に対する緊張感など微塵も無かった。
環は弱々しく左腕を持ち上げると自分を執拗に揺すり続けるアキの手を控えめに払いのけ、そうして漸く床に両腕を突いて、うつ伏せの姿勢からゆっくりと起き上がった。
然しながらまだ立ち上がって自分の長机の席に戻ったり、ベルトコンベヤの前で毅然と立っていられるほどの身体的コンディションではないのか、彼は床に座り込んだ体勢のままアキの問いに応対した。
目覚めたばかりのアキの頭はまだぼんやりとして冴えない――だが、アキの疑問はいたって単純だった。
自分たちは先ほどベルトコンベヤで流れてきた「何か」によって確実に殺害されたのだ。
普段の記録の仕事であれば途中でどれほど酷い目にあって仮死状態になろうが、自分たちを殺した物質の姿形くらいはハッキリと覚えているものなのだが……今回ばかりはまるで鋭利な刃物でくり抜かれたかのようにすっぽりと記憶が「その存在の形」ごと切り抜かれて消失していた。
二人の人間が死亡している短い間に施設の上層部か何らかの力によって記憶操作が行われた可能性も無きにしも非ず――然しながらアキの知っている一般的な記憶操作と言えば、特定の時間軸に行われた体験すべてを綺麗に消去するというものである。
だが、環はしっかりと自分が息絶える直前までの「感覚」を覚えていたのだ。
半狂乱、或いは発狂……普段の冷徹で無感情な自分では絶対にあり得ないような酷く異常な高揚感に囚われ、普段なら思い付きもしない狂気的な言葉を口走っていた記憶が、かに彼の脳裏に残っていた。
そうして自分は何らかの圧倒的な存在を仰ぎ見つめ、吸い寄せられるようにしてベルトコンベヤへと手を伸ばしていたはずなのだ。
「……お前は死ぬ直前の事を覚えているか?」
「いえ、全然。……先輩はどうなんですか?」
「……それが不可解でな。自分が気が狂っていたという自覚と感覚はハッキリ覚えているんだが、その原因となったモノの姿だけがどうしても思い出せない。……恐ろしいほどの凄まじい高揚感だったな。昔見た重度の薬物中毒者を思い出す」
「うわあ……先輩みたいな人がそんな状態になるなんて、私がもしそれを見てたとしたら相当やばい醜態晒してたんじゃないですか?」
環には自身が持つ「耐性」についてひとつ明確な覚えがあった。
自分の場合、普通の人間に比べ、この施設に並ぶ不気味な検体に対する精神的・肉体的な耐性がいくらか備わっているのだ。
仕事の過程で傷付き倒れることもあれば、精神を蝕まれて気が狂うこともある。
然しながら、一般的な常人であれば遭遇した一瞬で命を奪われるような極限の死態であっても、自分だけは都度しぶとく生き残ってきた。或いは、死に至るまでの時間が常人より圧倒的に遅かった。
自分自身が身体的にかなり頑丈であるという自負に加え、それには大した仕掛けではないものの、彼自身しか知り得ない明確な理由が存在していた。こればかりは他人に言葉で教えたところでどうにかなるような問題ではない。
話は再び二人の「記憶」の有無へと遡る。
身体的な耐性の強弱とは別に死亡時の記憶が残留するかどうかには明確な個人差が存在していた。かつて環とペアを組んでいた前任者の作業員は身体こそ常人並みに弱かったものの、環と同様に生命活動が途切れる直前までの記憶を鮮明に保持するタイプであった。
然しながらアキはそうではなかったのだ。死の衝撃に脳が耐え切れず直前の記憶が綺麗に脱落してしまう。ある意味で彼女にはそうした死の負担に対する精神的な耐性が無いと評価すべきであった。
だが、こうして二人一組のペアで仕事をしているのだから片方の自分が覚えていてやれば済む話ではあるのだが。
あれこれと生前の不可解な記憶について思考を巡らせる環の隣でアキは彼のどこか淡々とした言動に引いていた。
……彼からすれば死んで生き返ることなど日常茶飯事の些細な出来事なのかもしれないが、自分より遙かに頑丈で狂いにくい人間が正気を失ってしまうような恐ろしい事態において無力な自分が無傷かつ無事であったとは到底思えなかったのだ。
環の不愛想で容赦のない性格を考えれば「私って死ぬ時どんな感じでした?」と尋ねれば躊躇いなくその無惨な死に様を具体的に答えてくれることは容易に想像できたのだが――現状、何らかの錯乱状態に陥った自分の惨めな姿を見たであろう環が、こちらに対する態度や対応を特に変えていない以上は下手に突っ込まず黙っているのが賢明かもしれないとアキは思い直した。
二人の人間が同時に死亡し、そして何事もなかったかのように蘇生するという本来であれば人生を揺るがすほど衝撃的な異常事態が起きているというのに……。
「学校でトイレを出た後に、スカートが捲れ上がったままの恥ずかしい状態で教室に戻ってきてしまった」という程度のどこか間抜けた気まずさと同じ感覚でこの事態を捉えているあたり、自分も環の異常さに毒されて感覚が相当麻痺してきている証拠であった。
「……まあ、お前の醜態はどうでもいい」
「私はちっともどうでも良くないんですけど」
「……今問題なのは記憶の『感覚』だけがあるのに肝心の姿形が思い出せないことだ。狂った記憶はあるのに何を見て狂ったのかが分からない」
「……案外、それ自体が完全に透明だったのかもしれませんよ?」
アキと環の間には時折こうした妙に噛み合わない微妙な感覚のずれが生じる。
恐らく先程の死に際に環がどれほど惨めな醜態をさらし、それを後から空きがどれほど揶揄ったところで彼は何一つ動じることなく聞き流すのだろう。
環はアキが恐れていた「死に際の自分の様子」についての質問にはすげなく素っ気ない返答を返すのみであったが、彼女がふと口にした「検体が透明だったのではないか」という指摘に対しては不思議そうに首を傾げて長考に入った。
自分にとって無関心なトピックには徹底的に無関心を貫き、業務や異象に関わる点にだけ過剰に反応するのは相変わらずの彼のスタンスであった。
「……透明か。光学的になのか、それとも概念的になのかは分からんが……」
環は床からゆっくりと立ち上がるとまだ少しおぼつかない足取りでベルトコンベヤの脇へと歩み寄った。
無機質に伸びる金属のレーンには血痕ひとつ残されてはおらず、まるで最初から何も流れてこなかったかのように静まり返っている。
アキもまたパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろし、冷めきった白湯の残りを一口飲んだ。
記憶のどこかが切り取られたような不気味な空白感を抱えたまま地下の静寂は再び二人を優しく、そして冷酷に包み込んでいく。
次にコンベヤのベルが鳴り響く時、自分たちが何と対峙することになるのかも分からないまま、二人はただ流れていく無意味な時間を共有し続けていた。




