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人形話集『コッペリア』  作者: 一条香夜
1/3

鬼想(きそう)の朱(あけ)

約1000年ほど前の平安時代。

今よりもまじないが行われていた時代のある夜。

丑の刻参りで名が知られる貴船神社に一人の女が現れる。

時を同じくして、体調を崩した貴族の男から依頼を受けた陰陽師は占術である結果を見た。

愛と穢の絡まりが人形に打ち付けられる。

【壱】

 ゆらり。ふらり。ゆらり。ふらり。

 長い髪を垂れ流した白装束の女が一人、夜の道を歩いていた。

 あちらこちらには自由に植物が伸び、夜道では視認が難しいが大小様々の石も転がっている山道である。

 女が行く先に音は無く。光も無く。細い月明かりのみが僅かに蔽い茂る木々の合間から射し込む程度、影すら喰わんとするような闇の中を恐れる様子も見せず女は、迷いなく歩みを進めていた。

 季節は夏。

 国家安寧の為、四神相応の地に建設された平安京。その都より北西の山中に立つ貴船神社へ、女の足は進んでいた。

 水を司る龍神であり、都にて雨乞いを行う際には朝廷より勅使が派遣されるほどに名高い高龗神(たかおかみのかみ)闇龗(くらおかみの)(かみ)を祭る社がある場所に相応しく、近くを流れる川と、生い茂る木々のせいか空気が水を含む。それが山の空気を合わさり、都の温度よりも湿り気と涼しさを帯びていた。歩くことでの汗と、空気の水分が女の垂れ下がっている髪にまとわりつく。

 「日も数えて恋衣…」

 低い声が滑り落ちる。

 ただ低いだけではなく、落ちる言葉は少しくぐもっていた。口には五寸の釘が咥えられている。言葉もくぐもるはずである。右手には(かね)の槌、左手には藁の人形が握られていた。

 長い髪の隙間からほんの少し覗く目に光はない。しかし光ではない何かが爛々と、歩む先を見据えているようでもあった。

 「想ひそめに悔しけるかな…ああ悔しい口惜しい……」

 白装束が土に汚れようと構わずに歩みは進む。

 ふと、真っ直ぐに進んでいた足が止まった。

 女が止まった目の前。

 貴船の宮。そのすぐ近くの杉林。

 昼の日が照る中で見れば、それは立派な杉の木が今は静かに闇に聳えていた。その巨木の幹には点々と不自然に闇の深い場所がある。

 闇の溜まったように見えるそれは穴であった。

 ちょうど女の目線の高さにある穴の大きさは、口に咥えられている釘先の大きさと同じ。

 左手の人形を幹にあて、咥えていた釘を人形の頭と胴体の間に軽く刺す。女の右手の金の槌が、鉄輪に嵌った光を鈍く弾く。

 「ああ恨めしい…捨てられて」

 かん。かん。かん。かんっ。

 音の無い夜に金の高い音が響く。釘が打ちつけられている人形の胴の位置には何かが貼られていた。

 ―丑の刻参り。

 藁などで対象に見立てた人形を拵える。その人形を草木も眠る時刻に神木などに打ち付け行う呪術の一つである。

 呪詛として名高いこれは、本来は夜参りという祈願の方法の一つといわれている。貴船神社の祭神は丑の年丑の月丑の日丑の刻に降臨したと言伝えられており、丑の刻に神仏に参詣することで願いが叶うとされている方法であった。

 いつしか陰陽道などが民間に入っていく中で、人形を用いた呪術の厭魅(えんみ)の法などと混ざり現在の呪詛になったとされている。   

 人に見られては叶わないと考えられていたこと。一説には神木や社殿などを傷つけ行う方法であるがため、呪詛となったという説もある。

 人形に呪詛の対象の体の一部を埋め込むことや、名前を記した紙を張って打ち付けると効果が増すとも考えられていた。

 何か貼られたように見えるのはおそらく何者かの名前が書かれている紙なのだろう。人形へ槌が振りかざされては釘が打ち込まれていく。 

 深く。深く。

 女の口からは呼気と低く重く言葉が漏れる。

 「恨めしい…されど恋しさは募るばかり…」

 恨みの中に恋慕を込めて、女は釘を打ち込み続ける。

 かん。かん。かん。かんっ。

 動きに合わせて長い髪が揺れる。

 「恋しさ故に想いは捨てられず」

 「せめて…いでいで命を取らん」

 人気は無く。音は金の打ち合うものと、怨恋。ただ一つの光はゆら、ゆらと揺れて。

祈願を、呪詛を成さんと髪を乱しながら、女は募る感情に身を任せていた。

 かんっ。

 一際大きな音が夜に鳴り響いた。

 精根使い果たしたのだろう。ふらりと地面を這う草に時折足を取られながら、女が杉林から出てくると来る時までなかった灯りが一つ。灯りを持っていたのは翁と言われる年齢に差し掛かろうかと見える男であった。

 「もし。そこの御方」

 顔を伏せて通り過ぎようとした女を、翁が呼び止めた。

 「ああ、そんな気を張り詰めずとも。私はこの宮に勤める者です」

 この貴船に勤めるという翁は、女が聞いているかも気に止めず言葉を続けた。

 「貴女様が来られてかれこれ一月半にもなりましょうか」

 伏せられていた女の顔が勢いよく上がり、生気がなく淀んでいる目で鋭く翁を睨んだ。

 「……ご老人。お答えください。もしや見られましたか」

 「いいえ。我々は音のみしか聞いておりませぬ。貴女様がずっと通っておられると気付いたのはその声にて」

 決して呪詛の最中は見ていないと、頭を振る翁をなおも女は睨む。

 「では何故に今宵は私に声をかけられたのでしょう」

 ちろちろ。翁の持つ灯りが揺れる。それまで女をじぃっと見ていた翁が、何かを思い出すように夜空を見上げた。

 「もうどのくらい前になりますでしょうか。まだ私が若い時分であった時のことです」

 女と同じように貴船の宮に刻参りに来る者は昔からいた。都から貴船までの道のりもあり、七日も続けば長いほう。そのような中で女と同じように一月以上もの間、刻参りに通っていた人間がいたと、翁は語った。

 「貴女様に似たような方が通われて一月になるくらいの夜でした。いつものように眠っておりましたら夢で私に語りかけてくる声がございました」

 夢の声はこう言った。

 「今宵宮に来る者に伝えよ。願望は成就した」

 姿見えぬ声は更に続ける。

 「赤い衣を纏い、顔には丹を。頭には鉄輪を被りその三脚へ火を灯し、その怒りの心を鎮めることなく抱き続けたならば」

 ―その身は鬼神へと変わるだろう、と。

 「私はそのお告げを違えることなく、その方へお伝えいたしました。もう十年以上も前のことでございます。あの方が今どうされているか、お告げの通り願いを成就し、人の身から鬼へと転じたのかも分かりませぬ」

 深く広がる夜空から、翁の目が女へ移った。

 「実は今宵はあの時のような夢を見たわけではございません」

 「では、何故に」。

 今語られた過去に見たという神託の夢。今日はそれを見たわけではないという。

 なのに、丑の刻に現れる女を待って昔話を語ったのか。

 「何故に…何でしょうな…」

 神託は下っていない。

 女と似た者へ語られたことを行ったとて、今日まで刻参りに込めた願いが叶うかはこの場の誰にも分からない。

 そも、人を呪わば穴二つ。女の身に何が起こるかもしれない。

 「しかしながら、この一月、途切れることなく通われるほどの強い想いを持った方をどうして見過ごすことができましょうか」

 女の目が見開かれる。

 そのうちに、くつくつと笑い声がする。何かたがが外れたのか次第に笑いが大きく、釘打ちの音のように夜闇に響く。

 そんな女の姿を少し見つめたあと、翁は宮へと踵を返した。もう自分のすることは終わったと言わんばかりに、振りかえることなく灯りが少しずつ遠のいていく。

 翁の背後では女の笑い声が夜に混じる。

 二十六夜の月の下。

 水滴が地面を這う葉に弾かれ、地面へと落ちていく。

 墨よりも濃く重くどろりとした闇の出来事であった。



【弐】

 「ううむ・・・ううむ・・・」

 男は近頃、悩みを抱えていた。

 しばらく前より頭に鈍い痛みが走っているのだ。

 ()(くに)では古来より東西南北を守護すると考えられている神獣。その一体である玄武。それが司ると見立てられた船岡山をはじめとする山々が北方に位置し、盆地になる京の都の夏はじめじめとした暑さがやってくる。

 始めはこの夏の暑さに体が弱ったのだろうと、一時もすれば治ると思っていた。しかし痛みは日に日に増していくばかり。藤原摂関家の一門ではなくとも、公卿に近い貴族であった男は一向に治らない痛みに耐えかね、懇意にしている薬師(くすし)にも頼った。煎じられた薬を飲み、普段よりも早めに休めばそのうちに治ると思っていた。

 男の期待は外れた。何人かの薬師に頼っても痛みは全く治まる様子を見せない。

そればかりか日を重ねる毎に痛みが増し、ここ半月はぐっすりと眠ることもままならない。食も万全の時に比べ量が減り、目に見えて痩せ細ってきた。

 眠れなくなる日も出てきた頃からであろうか。

 男は痛みだけではなく、声が聞こえるようになった。疼きに合わせてぼそりぼそりと聞こえるその声は、女声(じょせい)であった。何と言っているかは分からない。言葉は分からずとも、声は聞き覚えがあった。

 何ヶ月か前まで通っていた女の声を低くすれば、頭で響く声に似てなくもない。

 思い浮かんだ考えに男は頭を振った。

 「そんなわけはあるまい」

 あの女の所へ通わなくなったけれども、そもそも自分は本気で通っていたわけではない。向こうも一時の縁と分かっているはずだ。

 これが病ではなく、たとえ何者からの呪詛であってもきっとあの女ではないだろう。

もし自分の役職を恨む者が行っていても、陰陽師や僧侶を頼ればいい。そのために日ごろから抱えていてやっているのだから。

 そう少しばかり楽天的に考えていた文月のある日の夜のこと。

 頭痛が始まってから常となっている浅い眠りに就いていた男は、頬に当たる風に違和感を覚えて目を覚ました。

 頬に触れた風がひんやりと冷たかったのである。

 文月に入ってはいるが雨が降れば風も涼しくなることはよくあることだ。ただの冷えた空気ならば、浅い眠りとはいえど、特に気にすることもなく、うとうと眠りの続きに就いている。

 「これは・・・」

 男が感じた違和感。

 空気が冷えているだけではない。それがまるで男の首にまとわりつくような重さを感じる。心なしか心臓辺りに痛みと、息苦しさもある。

 音は聞こえないが眠っている間に雨でも降り出したのかもしれない。

 起き上がって確認しようと、体に力を入れたはずであった。

 ぴくり、指一本も動かせぬ。家人を呼ぼうとすれど、声を出すことも叶わない。男の自由にできるのは目線を動かすこと。呼吸を行うことのみ。

 風が御簾(みす)を捲る。

 「ひぃっ」

 その向こう。

 無人のはずの庭に男は見た。長く乱れた髪が伏せた顔を覆い隠している、赤い衣を纏った人影を。頭には逆さの鉄輪を被る人影は闇に溶けてしまいそうなほど青白い。鉄輪には火が灯った蝋が刺さっていた。

 左手には人型の物を握っている。

 長い髪の下に隠れている瞳。

 見えていないそれと視線が合ったのを、男は感覚で知った。ぞわりと心臓が氷水に埋められたように冷たく縮むようだった。そろりと人影が庭から屋敷に向かって歩み始める。

 「……しい」

 音が男の耳に届く。低い声だ。頭の鈍い痛みと共に男を悩ませている声であった。

 いつの間にか高覧(こうらん)を跨いでいた人影は元に戻っている御簾を透け通り、室内へずるずると滑り込む。御簾を透け通るなどことなど人間ではできない。

 出せるならば間違いなく悲鳴を上げているのに、声は一向に出てくれない。逃げたくとも手の指足の指一本も動かせないままであった。

 「…めしい」

 何度も聞いた声が次第にはっきりと言葉を伝えてくる。

 「ああ恨めしい…」

 男は声も出せず。動くこともできぬ。できたのは一心に経を心の中で呟くのみ。瞼を閉じることもできないので、せめてもの抗いに目線だけは必死で合わせないようにしながら、男は経を念じた。

 床近くまで寄ってきた人影が伴う空気に、辛うじてできている呼吸も塞がれそうな圧を感じた。

 必死に唱えている経の加護であろうか。人影はその先へは近づいてこない。

 「あと僅か。あと僅かでその首にも手が届く…」

 近づけないにも関わらず、その声は楽しそうに嬉しそうに言葉を漏らす。近づくまでに届いた言葉と、間近で聞こえたそれに男は漸く自分が何者かの恨みを買っていることを悟った。

 そして。

 男は見た。今唯一自由が利いた目を動かし、侵入してきた何かを。自身を苦しめ、呪詛の言葉を紡ぎ、彼岸へ連れて行かんと望む者を。

 「ああ恋しい恨めしい…」

 長い髪をずるずると垂らし、およそ正気とは思えない装いと空気を纏ったその存在。

 一番初めに頭の中で否定し、しかしどこかで引っかかっていた。

 既に関係を終えたと思っていた女。丹を塗り頬骨が浮き出ているその顔に、にんまりと慈愛と怨恨を溶かした笑みで、男を見つめていたのであった。



【参】

 翌日。

 男は陰陽師を屋敷に呼び出した。 

 抱えている陰陽師に話しをしたところ

「それは私では手に負えませぬ」

と言われ、口利きをしてもらったこの度初めて相対する陰陽師であった。

 貴族の男とこれまで懇意にしていた陰陽師より若い男である。陰陽師は男を見るなり、まだ若い顔を顰めた。

 死相。

 この言葉の他に当てはまるものがない。貴族の男の顔は土色になり、頬はやつれきっている。体にはどんよりした気配がまとわりついていた。

 生霊。それも貴族の男への刻参りの呪詛を行っている女の生霊があることを占が示す。

 「…これはまた」

 占の結果を伝え、男から事のあらましを聞いた陰陽師は頭を抱えた。

 聞けば昨晩実態なく現れた女とはしばらく前に契りを交わしていながら解消することもなく、そのまま他の娘に通っているらしい。何も伝えていない男の自業自得と席を立ち上がりたくなるが、依頼であるならば何かしら対応しなければならない。

 陰陽師は己の師であった男から聞いた話を思い出す。

 陰陽寮の上司でもある師も、呪詛を行っている生霊に憑かれた者から過去に同じような依頼を受け、返しを行ったと語ってくれたことがある。

 しかし。

 正直、これは憑かれている男だけでなく陰陽師も一つ間違えれば命が危い。それだけの恨みつらみを女は抱え、呪詛を成さんとしている。

 外では夜中からの雨が降り続いている。

 「私が何をしたというのか。これだから落ちぶれたところの娘は…少し援助をしてやれば勘違いをする」

 どうやら呪詛を行っている女の家は落ちぶれていたようで、女の家より上位の貴族である男から援助を受けていたようだ。そのうちに関係を結んでいたのだろう。

 上位の貴族にありながらか、それとも上位であるからか。人が抱える想いの深さを読み誤っている男に、陰陽師は盛大に漏れそうになる溜息を殺した。

 「恐れながら申し上げます。ここまでになりますと返すのは大変難しいでしょう」

 「何を言うか!何のためにそなたのような者を呼んでいると思っている!」

 陰陽師の言葉に激高した男がごほごほと咳き込む。

 「あやつもそうだが、何のために貴様ら陰陽師や僧を頼みにしていると!」

 「…この呪詛は効果がじわりと出てくるものでございます。先ほどお話をしましたが昨晩現れたのは生霊でございましょう」

 死んだ者ではなく、生きた人間の強い念が形を成したもの。それが生霊。

 それは時に死霊よりも強く影響を与える。

 「ここまで入り込むくらいです。これほど呪詛が進んでいる時に取れる方法はあまりございません」

 途端。男の目が据わった。

 「あの女がいなくなれば良いのか?」

 男の指す“いなくなる”の意を酌み取った陰陽師は無言で頭を振った。

 「それは全く意味を成しませぬ」

 殺せば女は確かに此の世からは消える。

 「ここまでの想いを持っているのです。その方が亡くなれば終わるどころか、より深く強い念を抱くでしょう。そうなれば今の呪詛より強くなるのは道理かと」

 正負、どちらの方向の想いであれ強ければ強いほど、深ければ深いほど呪はその効果を発揮する。

 人は想いを抱く。抱いた想いを言葉で。行動で示す。結果云々はともかく、それらにて想いを昇華する生き物である。

 愛であろうと、怒り憎しみであろうと昇華できず深く抱え込んだものが果たしてどうなるのか。

 ごろごろと重い雷鳴が遠く北方から聞こえた。

 陰陽師には、この天候が貴船の祭神である龍神が女の想いを代弁していると感じてしまう。

 浮かんだ考えを頭の片隅へ追いやり、貴族の男を陰陽師は真っ直ぐ見据えた。

 「ここまでの呪詛です。私も命を賭して返しを行いましょう。けれども、先ほども申しましたようにこれはあまりも強い呪詛にて、貴方様の身の内…お命を今も削っております。故に返しを行う際には、返し漏らしがないようご一緒をお願いいたします」

 「…必ず返せるのか」

 「今から私が申しますことを必ずお守り頂けますならば返せましょう」

 陰陽師が真正面から男を見据えた。

 「守って頂けない、その際は」

 言葉をわざと切る。

 檜の香りが漂う扇を強く貴族の男は握った。

 女の想いなぞ男には知ったことではない。順調に官位を重ね、藤原一門にうまく取り入りゆくゆくは政を動かすのだと決めているのだ。今ここで死ぬわけにはいかない。

 「良い。その方法とやらを申せ」

 「かしこまりました。それでは…」


 朔月の夜は月の光もなく、夏であっても闇が深くなる。

 しばらく降り続いた雨は止み、男の屋敷の池も今は風が起こす波紋が静かに立っている。

 御簾が下がった男の部屋。

 ゆらゆらと燭台の灯りが部屋を映す。三段の高台に五色の丙。高台には供え物がある。そして部屋の中心には褥が準備されていた。

 褥が整えられている床には複雑に文字と図が描かれ、褥には藁と茅で拵えた成人男性くらいの大きさの人形が横たわっている。人形の胴体には男の名前が赤く記された紙が胴体の辺りに張られていた。

 普段は置かれていない一つの几帳。その陰に男と陰陽師が息を潜めていた。



◆  ◆  ◆  ◆


「ご用意頂きたいものがございます」

 陰陽師が告げた。

 「まず貴方様の大きさを作れるような藁や()をお集めください。それで身代わりの形代(かたしろ)を作ります」

 「そ、そのようなものが代わりになるのか?」

 「代わりにするのです。ただの人形を作るでは当然意味もございません。形代とするため貴方様の爪や髪を頂きます」

 「う、うむ。爪、髪で良いならいくらでも渡そう」

 懐紙に爪と髪が包まれ、陰陽師の目の前に準備された。

 屋敷中の家人を駆り出し作った藁と茅の人形に、懐紙が埋め込まれた。胸元には男の名前を記した紙を貼る。

 「これにて形代の準備が完了でございます。あとは前に訪れた時間に合わせ、術を行います。その際に、必ずお守り頂きたいことが」

 「何だ」

 「術はこの部屋にて行いますので几帳を一つご用意頂き、私と貴方様が潜みます。まだ早い段階の呪詛ならば同席頂かなくても良いのですが、ここまで進んでおります。こうでなければ身の内を蝕むものも完全に返せないでしょう」

 「うむ」

 「そしてこの術を行う間は絶対に声を上げてはなりませぬ。いくら姿を隠し、御身の一部を用いて形代を作り術を行っていようとも、声を出されてしまえば途端に効力は切れてしまいます。形代はあくまでも身代わりとなる人形」

 本物ではないことが分かってしまえば、いくら身代わりの術を仕込んでいようともたちまち意味を無くしてしまう。

 「どんなに恐ろしくも決して声を上げぬと、お約束頂けますか」

 「声を上げなければ良いのだな。それくらい可能だ」

 「必ずお約束下さい。そうでなければ術が解けた瞬間、貴方様のお命は無いものとお思い下さいませ」


◆  ◆  ◆  ◆


 朔の闇は深く、静かに時を進めていく。

 池の波紋を生む風は時折強く吹き、雲が庭に影を落とした。じりじりと燭台の灯りが夜に抗う。

 夜も更け、丑の刻。

 それまで雨上がりの湿気で少し温く感じていた風が変わったのを、二人は几帳の裏で察した。いつのまにか風が葉を揺らす音さえ消えていた。

 空気が冷える。

 冷えた空気が渦巻いたかのように、庭に白い影が形を成す。

 几帳の裏で陰陽師が印を結んだ。

 「伏して願い奉る…」

 昨晩と同じく頭には蝋を灯した鉄輪を嵌め、乱れ垂れ下がった長い黒髪を引きずりながら赤い衣を身に纏い、現れた女はゆっくりと庭から部屋へと歩を進める。

 昨晩は伏せられていた顔には丹が塗られ、血走る目と合い間って女の狂気を強く感じた。

 「長かった…ようやっと…この祈願が成就致します」

 女が低い声で笑んだ。

 衣を引きずり歩みを進める。衣から見える足には、刻参りの山道でついたのだろう幾つもの傷が生々しく、深いものは膿かけてもいる。

 歩くのも辛いはずだろうに、生霊であれば痛みを感じないのか足取りはしっかりと部屋へ向かう。

 ずるり。ずるり。

 庭から高覧へ。高覧から御簾を透り抜ける。

 きしり。みしりと、床を踏む音が立った。

 一歩ずつ褥の傍まで近づく女を、男はただ言われたまま声を殺し見つめた。

 昨日は近づけなかった距離を越え褥に横たわっている形代の人形に女の手が触れた瞬間、上げそうになった悲鳴を必死で殺す。悲鳴を殺すために噛んだ手が痛む。

 もしあそこにいたのが自分だったらと思ったのだろう。

 陰陽師が横目で男に語った。

 ―決して声を上げてはならぬと。

 「貴方様と交わした契りを信じ、待てども便りも訪れもいつしか絶え。あれから幾月が経ちましたでしょうか」

 術の効力で褥にあるものが想い人に見えている女は座して、形代の頭に優しく触れた。

 「人の想いは移ろうものと解ってはおります…気持ちの移り変わりほど神仏が知らぬものもありますまい…」

 声に嗚咽が混じる。

 形代の頭を撫でる左手の手つきは悲しいくらいに優しい。

 「せめて。せめて別れの一言を下されば、この悔しさも涙の中でいつか消えていったやも知れませぬ。貴方への恋しさを殺して生きようと…そう思うておりました」

 一変。

 冷えていた空気に重さが増す。

 一転。反転。

 くわり。女の目が見開かれる。

 言葉を紡いでいた口から漏れた呼気が鬼火かと錯覚するように白く見えた。

 優しく撫でていた手は、人間であれば首の辺りにかけられ、女の左手だけで、藁と茅でできた人形をぎりぎりと音を立てて圧迫していく。

 「音に聞けば他の娘と契りを交わしていたと…容易く捨て切られたこの悔しさをどうして殺せましょうか」

 室内の空気が冬の寒さよりも冷えきり、重さだけでなく痛みを感じるほどに鋭さを帯びた。

 「かくなるは……思い知れいっ…!」

 右手が衣の袂へすっと動く。

 見えたのは槌。そして一本の五寸釘。

 「恋しさ憎さ積もり積もればこの悔しみ晴らさん…」

 形代から離れた左手が釘を握る。切っ先が刺さった場所は人であれば心の臓。

 かんっ!

 かんっ!かんっ!かんっ!

 音を立て釘が埋められていく。

 几帳の裏で男が震えた。

 「苦しいでしょう辛いでしょう。ああ…お可哀想に。お可哀想に」

 丹の溶けた朱色の涙を流し、女は笑む。

 「けれど我が身の内を焦がし、心覆う恨みはかようなものにあらず…」

 慟哭。

 殺すに殺せず、積もった苦しみと悔しさと恋しさが恨みとなり、女をここまで突き動かした。

 几帳に隠れたままの男の握られた拳がふるふると震えている。

 ちらり。視線の端で男を見つつ、陰陽師は術を続けた。

 鬼にもなれず、さりとてここまで生霊を成せば呪詛を成す身にも影響が出る。現に生霊である女の顔は窶れ果てている。ここまで至った恋情の一つの果ての姿を、陰陽師はよく知っていた。何度も見ていた。

 せめてこのまま形代が恋い焦がれた男であると術で思い続け、その恨みが晴れればと願った。呪いを返す終わりとなるがこの男の心中を知らぬままであればいいと。

 …それが叶わぬであろうことも。

 直接相対するのは今回が初めてであるが、此度依頼をした貴族のこの男の性格を聞いていたからこそ。

 横にいる男の震えは恐怖でもあった。同時に怒りでもあった。

 境界として立てられた几帳の裏。空気が変わり、異様な出で立ちをして現れた、人であり人でない女を男は恐れた。しかし、守られているという安心感が貴族の男に僅かな余裕を生んだ。

 女に見られぬようにこそりと陰から覗き、慈愛で形代の人形に触れた姿を見た。憎悪に身を任せた姿を。

 愛しさと憎しみが混ざり合った呪詛を聴いた。

 余裕が生まれた中で聞いた女の言葉に、男は怒りが滲む。怒りは憎悪に変わり、空気の冷たさをも男から忘れさせた。

 陰陽師から必ず守れと何度も念を押されて言われた、たった一つの忠告をも。

 拳を握ったまま、激高した勢いのまま男が几帳から飛び出した。

 「貴様という女は!!」

 馬手で結んだ印は口元に当てたまま、陰陽師は紡ぎ続けていた(しゅ)を止めた。

 姿隠しの結界の境であった几帳から出てしまえば、これ以上続けていても最早意味を成さない。形代は今ただの人形となった。

 「勝手に想い違いをしておきながら私を呪詛するとは!」

 握っていた檜の扇を女へ向けた。

 槌を振りかざしていた女は物音の方向へ体を向けた。瞳は見開かれたまま、男を凝視する。

 「これは…」

 女の右手から槌が落ちた。左手が人形の顎辺りから胸元を確かめるように何度か撫でる。

 風が御簾を揺らし、室内を満たす。鋭い空気はいまだ部屋に満ちていようともそのようなものなど、男にはどうでもよかった。

 「私が少しの気紛れで通ったことに感謝もせずに斯様な行いに出るとは」

 男が今あるのは女への激昂。怒り。

 死の恐怖が反転した、憎悪。

 「没した家の娘などに私が誠意で通うと思っていたとは。これだからそなたの家も没するのだ。どうせそなたの親も、一族も欲に目が眩んだゆえに没したのではないか?」

 怒りのまま、男は続ける。

 「そなたは今言うておったな。人の心は移ろうものと。私の心はそなたに一片たりともない。戯れで持ち合わせていた情も最早消え失せた。解ったのであれば、早くこの下らぬ呪詛を止めよ!」

 じりじりと燭台の灯りが減っていく。

 はあはあと、部屋には男の息遣いの音だけがする。

 血走った目のまま、女はその眦を和らげた。術が解けるまで男として見ていた人形へやっていた笑みよりも慈愛と悲しさを織り交ぜた顔だった。

 「そうでしたか…」

 釘を打ち込んでいた時とは全く違う、低さを無くした声。

 ゆっくりと立ち上がり、赤い衣をずるりと引きずって男へ一歩ずつ近づく。丹を塗った顔は歪に綺麗に艶めいていた。

 勢いよく喚き肩で息をする男は気づいていない。

 人形を使っていた術の効果は既に無いことを。貶してはいけないものを貶したことを。

 ―自分の命の行方を。

 「もう…、いいえ。きっとはじめから私へのお気持ちは無かったのですね」

 ごろごろと重い音が近くで鳴り響く。

 「薄々と解っておりました。それでも想いは止められず、私の内に澱を溜めてゆきました」

 女の笑みを見て、男はこれで終わったと思った。これで悩まされていた不調も何もかも解消されると。

 伝えるものは伝えた。あとは陰陽師がこの術を終えて、女へ呪詛返しを行うだけだと。

 足元に渦巻く白い空気が己の足首に纏わりついているのも見えぬまま。

 瞬きも追いつかない、一瞬のことであった。

 青白く血管の浮き出た両腕が伸びる。伸ばした腕は男の首を絞め、女は笑みを浮かべたまま泣いていた。

 「愚かと思っていたのでしょう?ええ。ええ。確かに愚かでございました。貴方様の戯れを戯れと気付けず、かように想いを積んだこの私を」

 昨夜のように、それ以上に男の呼吸が塞がれていく。手を引き離そうとも息のできぬ体には力が入らない。

 血走った目を女はかっと開いた。

 「私を貶されるだけならばまだ許せましょう。愚かでありました…。浅はかでありました」

 女には誇りがあった。自分はその家の生まれだと。男の言うように没落した家であろうと、援助を受けてしまうほどに落ちてしまったけれどもその家の生まれであったと。

「しかし我が家までもを貶されて…どうして貴方様を許せましょうか」

 元々呪いの果てに男の命を奪うつもりではあったが、一言、男から言葉があればそれでも止めることも考えていた。

 が、そのような情けは消え失せた。自分だけを貶すだけではなく、家を貶すことはこれまで女を慈しみ育ててくれた父母をも貶されたに等しいものであった。

 故に。

 「この身を鬼に成し……今こそ祈願を成さん…!」

 容赦は無い。

 ぎりぎりと女のものとは思えない万力で首を絞め上げ、男の足がばたつく。

 元より土気色に近い男の顔は死人寸前の色に変色する。そのまま少しずつ布を捻るように女の手が動いた。

 刹那。

 鈍い奇妙な音が落ちた。浮いていた男の体が身代わりになるはずであった、藁と茅の人形の上に重なる。

 倒れた几帳に点々と斑な(あけ)が飾られる。濃く生々しい香りが冷えた空気によって下から這い上がってくる。几帳に散ったのは男の朱か。それとも丹の混じった雫だったのか。

 頭に逆さにした鉄輪を嵌め、赤い衣を纏った女は濃い朱に染められた中、それはそれは幸せそうに両手の中にある捻じ切った首に口づけた。

 女の口は裂け、獣のように伸びた犬歯が下唇を傷つけている。鉄輪の嵌った頭からは一対の白い角が生えていた。

 今ここに刻参りは成就した。

 女のその身を、生きながらに鬼と化して。

 ずるり。ずるり。

 事切れた落ちた男の体には目もくれず、止めることをしなかった陰陽師をちらりと一瞥した女は首を抱えたまま、部屋から姿を消した。

 重く暗い静かな夜に雷光が映え、ごろごろと北方で雷鳴が鳴っていた。



【肆】

 その夜から暫くの後。

 陰陽師は男の家人から聞きだした女の家へ足を運んでいた。

 あの日、結果としては依頼を果たせなかった陰陽師ではあるが家人や男の親族からは何一つ咎めはなかった。予め貴族の男に一筆、呪詛返しで仮に男が命を落としても陰陽師のせいではないことを書かせていて正解だったようである。

 左京の南側、少し内裏より離れた場所にあの女の屋敷はあった。

 門の木は朽ちかけ、塀はところどころ崩れている。庭には鬱蒼とあちらこちらに草が茂っていた。

 無人の屋敷であった。軋む高覧をあがり、部屋を覗く。

 「…やはり」

 あの夜が明けた日から感じていた予感が当たっていることに、陰陽師は目を伏せた。

 広がる赤い衣には変色した斑。口元は裂け牙のように伸びた歯。頭部には一対の角。

 鬼と化した女が、部屋の中央で目を閉じていた

 左手にはあの夜に千切った首を。右手には小刀。女の首には脈に合わせて裂けた傷。流れ乾ききった赤と黒。

 女の隣には胴に男の名前が書かれている藁でできた人形が一つ。

 祈願を達した女は自害していた。自らの終わりを持って真の祈願成就と言わんがばかりに。

 息絶え横たわった体を見下ろすように、白い影が佇んでいた。

 「やはり、己で終わらせておられたのですね」

 部屋に入った陰陽師と女の目が合う。

 「貴方は、あの時の…」

 あの夜、女は立ち去る際しか陰陽師を見ていなかったと思っていたが覚えられていたらしい。

 そのことに少し驚きつつ、あの場にいた者であることを陰陽師が肯定した。

 「ここへ…何用でしょう」

 「貴女様が事を成したあと、もしかしたらと思いまして」

 「そうでしたか…」

 祈願を成した女の目が静かに陰陽師を見つめる。

 丹を塗り、血走った目をしたあの雨の夜には一度も浮かべなかった顔であった。

 「これからどうなさるおつもりか」

 そのままいくべき場所へ向かうのか。それともまだ漂うのか。

 「…もう、あの人を手にかけてしまった私には他を恨む気持ちも何もございません」

 心を読んだような言葉が返ってくる。

 答えを聞き、陰陽師は穏やかに微笑んだ。他へ何かを為さないのであれば、陰陽師にできることは一つ。

 「ゆかれますか?」

 「はい…せっかく貴方様に来て頂きましたので。それにもうこれ以上いる意味もありませぬ…」

 人から鬼へとその身を変じさせたほどの想いは、全てあの男へと注ぎ尽くした。

 あの翁の昔話を聞かなければ、きっとただ呪って呪って呪って。積もった想いを抱えたまま朽ち果てていたかもしれない。翁は女に対しては神託の夢を見なかったと語っていたが、人ならざる身になった今、あの出会いがもしかしたら神託だったのでは、と女は思った。

 いずれにせよ、女の想いは自分の体の傍に置いた、首の持ち主だった者にしか向けられない。

 「ゆかれますなら、僭越ながら案内を」

 「はい、お願いいたします」

 呪を唱え始める陰陽師へ、女がふと浮かんだことを問うた。

 「なぜあの時、貴方様は私をお止めにならなかったのですか」

 今こうして女へ行くべき道を指し示すとするような技量があるならば、あの夜に男が姿を表してもこの陰陽師は呪詛を返せたのでは。

 姿の薄れゆく女の問いに穏やかに浮かべたままの笑みを変えぬまま、返す。

 「さて…なんででしょうな…」

 男の自業自得と思っていたのもある。依頼を受けた際に必ず守れと伝えたことを破られてまで、返そうと思っていなかったのも一つ。

 呪を続けながら、あの夜を思う。

 止めなかった理由はある。けれども幾つか浮かぶそれらの理由よりも。

 人の身を変じさせるような想いは、師の話の中だけでしか聞いたことがなく。

 「貴女様を止めなかったのではなく、止められなかったのです…」

 あまりに女のその愛が深く哀しかったから。

 白い影が薄く、空気に滲み。最後に仄かな光だけを残して女は消えた。

 結んでいた印を解き人形を拾う。

 女の体と男の首。最後に人形を埋め、そのまま陰陽師は無人の屋敷を後にした。

 どうか女のような想いを抱える者がもう出ぬようにと。

 きっとこの願いは人が誰かへ想いを抱く限り、叶わぬ願いであるのだろうと思いながら。



 そして。

 深く墨よりも濃い闇の中。静まり返った丑の刻。

 都の北方。月の光をも遮らんばかりに植物が伸び、夜道では視認が難しいが大小様々の石も転がっている貴船に一つの人影があった。

 かつん。かつん。かつん。

 金属の当たる音が静寂の中に響いている。

 その場所には何者かの名前を記した紙が貼られた、一つの人形が刺さっていた。



《終》



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