拝啓 勇者のいらなくなった世界で(下)
本作品は上下構成となっております。
本作を読む前に『拝啓 勇者のいらなくなった世界で(上)』を読むことを強くおすすめいたします。
壁の役割をしている板の隙間から入ってくる日の光を『それ』は反射させていた。
所々が腐り穴の開いている床を『それ』はズリズリと音を出しながら這いずっている。
沈み始めた太陽のような色に染まり、縦に切れ込みを入れたような黒い『それ』が僕を見る。
「見てみて! あのお兄ちゃんと一緒に作ったんだ!」
「ありがとう。綺麗なお花ね」
お母さんと呼ばれた存在は、優しい笑顔を浮かべて少女から花のリースを受け取った。
その手でそっと少女の頭に手を置き、ゆっくりと大切そうになでる。母親が子供に向ける愛情に間違いはなく、とても心和む光景ではあった。
それは間違いない。
この光景を見て、苛立ちがたまるような人はいないだろう。
でも。
この光景に納得はできなかった。
「見たことないお顔ですね。旅の御方でしょうか」
少女の母親は、こちらの顔を見る。
首をかしげると、髪の毛が重力に導かれて垂れる。その目が僕を見つめる。
「は、はい。その子から手伝って欲しいと言われたので、お花摘みを手伝っていました」
「そうですか。ありがとうございます。それにしても───」
ちらりと、子供を見てから。
子をなでる手を止めて、彼女はこちらをにらみつける。
「─────驚かないんですか」
「え、あ。あはは、いや、驚いていますよ」
ただ、驚きのあまり顔に出ないだけ。
驚愕のあまり、心の中で逆に処理できてしまい表に出てこないだけなのだ。
驚いているか驚いていないかで言えば、間違いなく驚いているし。
冷静だと言われればそれは間違っている。
「この体はやはり異形でしょうか」
「えっ、い、いや。そんなことないと……思う、ます」
「うふふ。窓、開けて良いわよ」
「え───」
「─────ほんと!?」
僕の言葉よりも何倍も先に、少女が反応を示した。
その瞳はとてもキラキラ輝いていて、窓を開けて良いと言う言葉が彼女にとって嬉しいことなんだと思った。
窓を開けることが、そこまで嬉しいことなのだろうか。
確かに、この部屋暗いなぁとは思ったけど。そこまで気にはしていない。
「ええ、今だけよ」
「分かった!」
少女はお母さんの膝上から立ち上がり、カーテンに手を伸ばす。
その小さな体で、精一杯腕を伸ばして布を掴む。
力を込めて、グッと引っ張る。
窓枠なんてない、でこぼことした板の端が見える。
だが、僕の視線はずっと少女の母親の方を向いていた。
少女の動きは目にもとめず、ずっと彼女の方を見つめていた。
「…………それは」
僕の目はどうやら、間違ってなどいなかったようで。
彼女の考えは、やはり正しかったようで。
「はじめまして、娘がお世話になりました」
頭を下げる。
姿勢を正し、僕の方を見てその頭を下げた。
それによってよく見えた。
日光に照らされて、目に焼き付けられた。
キラキラと輝くその『鱗』
ゆっくり、静かに揺れるその『尾』
そして、顔を上げたときに僕のことを見つめる蛇を思い起こさせるその『瞳』
少女の母親は───
─────人ではなかった。
☆☆☆
その日は、よく寝られた。
心地の良い柔らかいベッドで、ぐっすりと気を失ったように寝た。
寝て、寝て、寝て。
寝てどうにかしようと思った。
助けた少女の母親が魔物のような見た目をしている。
ドラゴンと人を足して二で割ったような見た目をしている。
それだけじゃないか。
そう、それだけが……、それだけだ。
そうなのに
「そうじゃない」
それだけ
「だと思えたら」
少女の母親を見たとき。
僕は何を思った。
彼女に対して
僕はどう思った
どうして
どうして
どうして、僕は倒さなきゃという使命感に駆られた。
今まで会ってきた魔物は全て倒してきた。
人間とは似ても似つかない凶悪な顔をして、何人もの人を殺すような危ない存在。
魔王に従う危険な存在。それらを倒して今までここにきた。
仲間と共に歩み、今の山に立っている。
僕の下には魔物が並んでいる。
そのことは分かっていた。
でも、それを特に気にすることはなかった。
仲間も気になんてしなかったし、それを誇ることさえもあった。
それは当たり前だった。
「だったのに」
どうして僕は、少女の母親を倒そうとしたことを許せないのだろうか。
どう見ても人ではない。魔物と言われればそうに違いない。
どう見たって魔物の一種だ。
きっとこの街の人が見れば、恐れ、悲観し、死を間近に感じるだろう。
倒すべき存在だと言うはずだ。
魔物を生かす理由なんてない。
倒さなければ人が襲われるかもしれない。
もし肉屋のおじさんが、あのご老人が。
その時僕は、責任を取れるだろうか。
討つべき敵を見過ごした存在として、僕は何ができるのだろうか。
「やっぱり分からない。分からなくなってきた」
あれは母親に過ぎず、魔物ではない。
ただちょっと人っぽくないだけで、人じゃないわけじゃない。
「何かあったときのために」
何もおきないように
「僕が見張っていれば良い」
そうしたら、みんな幸せだ。
☆☆☆
次の日から、僕は少女の家に足繁く通うようになった。
少女を見守るという大義名分を掲げて、彼女たちの平穏を守る為に、街の平穏を守る為に。
彼女たちと関われば関わるほど、一緒にいるのが楽しくなってくる。
最初こそ驚きを感じた少女の母親も、いつの間にか慣れ、そうあるのが当たり前だとさえ感じていた。
少女が外に遊びに行き、それに僕がついていく。
少女の母親にいってらっしゃいと言われ、いってきますと返す。
街の外を駆け巡り、お花を摘んだり川で釣りをしたり、なんてことない日常を過ごす。
日が昇り、僕らを照らし、沈む。
この街へ来た目的は、もう覚えていない。
ただ毎日、少女たちと過ごすことだけを幸せとして過ごしていた。
そんなある日。
「お兄ちゃん! お母さんが!」
少女の悲鳴のような声を聞き、僕は急いで少女の家へと向かう。
少女は今にも泣き出しそうで、本当ならもう少し後に行くつもりだったが急遽朝食を取りやめて、向かう。
朝の街は多くの人で溢れ、思うように進めない。
道を空けて欲しいと声を出し、針に糸を通すように苦戦しながら通りを抜ける。
小さな体を上手に使い、人の間を通り抜ける少女を追って、少し遅れながら僕も家に着いた。
少女はもう既に母親の側に居る。
「大丈夫ですか!」
「……わざわざ旅の御方を呼んだの? ごめんなさいね、娘がちょっとした風邪を早とちりしただけよ」
微笑みこそすれど、その声を聞いてああそうですかと帰れるような容態ではなかった。
顔色は悪いし、声も元気を感じられなかった。
ジメジメとしていて、日の光も入れないような部屋。
考えてみれば、この環境で体調を崩さずに暮らしていたこの二人が凄いんだ。どうしてこんな環境下でこれほど健康状態を保っていられるんだ。
「と、取りあえず、回復術士を───」
この街にだってけが人や病人を治すための回復魔法の使い手ぐらいと立ち上がろうとしたとき、僕の手を少女の母親はそっと掴む。
その病的な顔を横に振っている。
何が言いたいんだろうと。
暢気に思っていると、僕は思い出す。
慣れ始めていて
当たり前になってしまっていた、事実を思い出す。
「─────あ」
彼女は、人間ではなかった。
どこからどう見ても、魔物の見た目をしているんだ。
そんな人を、もし他の人に会わせたら。
彼女を見て、逃げ出さないと言い切れるのか。
魔物だと大声を出し、この街の人に言いふらさないと断言できるのか。
この街でそんな仲のいい人なんて……。
少女と遊ぶ日々。
この家に入り浸り、困り事の解決なんて忘れていた。
肉屋のおじさんと、ご老人を助けた以来。
僕はずっと彼女らの側に居た。誰も助けてないし、誰も助けようとしていない。
この街で僕は、ほとんどの人と関わりを持っていなかった。
いつしか彼女たちだけを考えるようになり、彼女たちだけしかいなくなっていた。
困ったときに手を差し伸べてくれる仲間はいない。
悩んだときに悩みを聞いてくれる友人はいない。
僕一人で、この状況を切り抜けなければならない。
生まれて初めて街を出たとき。
勇者に選ばれた存在だと言われ、期待に胸を膨らませながら歩き始めたあのときとは全く違う。
僕の心は不安でいっぱいだ。
どうしたら良いか、分からない。
でも
どうにかしなければならない。
今僕の目の前にいるのは。
困っている人なんだから
☆☆☆
「確か、基本的にどんな病気にだって効く薬草があったはずだ」
「じゃあ、それを探せばお母さんは」
「どうにかなるはず!」
そう言って、僕らは家を飛び出した。
周囲にいる人、街で暮らす人、商売のために来た人。
そこら中の人に聞き込む。
草の特徴を言い、効果を伝え、情報をもらう。
東の空にあった太陽が、ゆっくりと空を上りいつの間に頭の上にある。
頭の上にあった太陽が、少し傾いたぐらい。
「あぁ~、どっかで聞き覚えがあるな」
「ホント!?」
ふと目にとまった、いつかの肉屋のおじさんに話しかけたところ。
衝撃の言葉が飛び出した。
聞き覚えがある。
その一言で、僕の曇りっていた視界は一気に晴れ渡った。
「ああ、確か俺の親父がなんか言ってた記憶があるんだが、なんだっけなぁ」
「思い出して! お願い!」
「ちょ、ちょっと待てって。ここ、ここまで出かかってんだよ」
そう言って、おじさんはおでこの辺りをトントンと叩いた。
もうその位置は口から出てるよと、思いながら僕はおじちゃんが思い出すのを待つ。
うーん。うーんと、おじちゃんが唸っている間に少女が合流して、二人揃ってお店の前で待つかたちになっていた。
そろそろ次に行こうかなと、思い始めたぐらい。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
思わず耳を塞ぎたくなるような大声をおじさんは出す。
周囲にいた人々はみなおじさんの方を見ている。目の前に立っていた僕らは、あまりの大声にとっさに耳を塞いだ。もし塞いでいなかったら間違いなく鼓膜はおじゃんだろう。
「思い出した! あれだ」
「あれ?」
おじちゃんは、満面の笑みで親父さんから聞いた言葉をそのまま伝えてくれた。
その言葉に一言一句間違いはないと断言していて、その顔からも嘘を言っているようには感じられなかった。
それに、僕の元仲間によると商売は信用によって成り立つらしい。
嘘をどこかで言ったら、最後には自分に返ってくる。商売人は絶対に嘘を言わないよ。
と、じゃあ信じてみようと思うことはできる。
思えはしても、思うことしかできなかった。
『その草は、ここらでもっとも低い場所にある』
周囲を白い花に囲まれながら、僕は意味もなく言葉をつぶやく。
おじさんは間違いなくそう言っていた。おじさんも間違っていないと言っていたので、正しく僕には伝わっているはずだ。
伝わってはいる。
間違いなく。
「それってどういう意味なの?」
少女は問う。
きょとんとした顔で、僕の顔をのぞき込みながら言う。
「うーん、それが分からないんだよね」
丘の上から見る景色。
それは間違いなくここら一帯で最も簡単に行ける高い場所であり、低い場所を探す上なら間違いなく最適だった。
最適ではあったが、見つかるのとはまた別問題でどれだけ探しても低い場所というのはよく分からなかった。
最も高い場所があの遠くに見える雪の積もった山だというのなら、次に高いのは周囲の森林で、その次がこの丘だ。
そして、最後にあのゲールの街や街につながる道がある平原である。
じゃあ、平原にあるのではないかと思ったが、いくらなんでも範囲が広すぎる。
あんな所を探していたら間違いなく今日は終わる。
それに、謎解きをするにしては答えがむちゃくちゃだ。
わざわざ謎解きのような伝承を残すぐらいなら、もっと簡単で言われてみれば当然な場所になるはず。
少なくとも、仲間と巡った迷宮の謎はそんなものだった。人の考えを馬鹿にするみたいな質問で、言われてみればその通りだけど、言われてみなければ分かりそうにないものばかり。
僕らは、ここで質問者にならなきゃいけない。
回答者ではなく、質問者はどこでどう思って、どう考えてこれを作ったのか。
そうすれば解ける。
「って、言ってたけど。やっぱり、僕にはよく分からないよ」
色々と思い浮かべたけど、これは全て仲間の一人が言っていた言葉だった。
彼はあの謎解きの迷宮で無類の強さを誇り、次々と謎を解いていった。
その頭の回転と言ったらとても速く、僕には到底追いつけない速さだった。
その知恵を少しでも借りれればと思って訊いたときに答えてもらったのがあの解き方だけど……。
「うーん。ここらで最も低い場所……、そんなのあの街しかないじゃないか」
あの街とその周辺は間違いなく一番低いと思う。
それ以外にあるのは、山と丘と森と……。
「ん?」
後もう一つ。
場所があった。
見ているだけだと何も変わらない。
高さなんて全く同じ見えた場所が一つだけあった。
「あ……」
「ん? どうしたのお兄ちゃん」
僕は闇雲に立ち上がり、そこに視線を向ける。
ここらで最も低いと思われる場所へ。
そこの高さは、平原と変わらなかった。
実に穏やかで、そこの場所に高低差はない。その見た目だけなら、それは平面だ。
少し重なりが見えるだけで、ほとんど平面だと言っても大差ない。
その水面は、平面だ。
☆☆☆
「ここにあるの? でも、川に草は生えてないよ」
水面をちょんちょんと指で触りながら、少女は川を眺める。
透き通った川の中にはゴロゴロとした石に、優雅に泳ぐ魚が見える。
少女の指によって起きた水紋に反応した魚が、遠くに離れていった。
「あぁ~」
「ちょっと行ってくるから、ここを離れないでね。もし、襲われたらこのネックレスを投げると良い」
鎧を脱ぎ、必要最低限の布だけを体に巻き付けた僕は少女にネックレスを渡して川へ入ってく。
水はひんやりとしていて、心地が良い。
「え、これなに?」
「ちょっとした魔除けの石さ。君の身を守るぐらいならしてくれるよ」
と、僕が少女にネックレスの説明をしたその時。
謎の答えが現れる。
「だから、危なかったらすぐに使うん─────わ!?」
川の底は見ていた。
が、そこがあると思った場所に足場となるものはなく、僕はそのまま滑るように川に引きずり込まれる。
空が見えた。
そしてその景色は、一瞬にして水面へと切り替わる。
水温は気温とは全く違い、全身をどんどんと体を冷えで蝕み始める。
今のうちは良いが、あまり長居していると体が冷めてしまう。
あいにく、空気を作る魔法もえら呼吸になる魔法もない。
魔法が描かれたスクロールでも持ってきていたら良かったけど、街にそう言った魔法具店は見受けられなかった。
僕は、僕自身が身につけたこの肉体を駆使して草を探す必要がある。
この川底に隠れた縦穴の奥にある草を、見つけ出す必要がある。
意を決して、僕は穴の奥に向かって泳ぎ始める。
ただの川だ。さすがにクラーケンなんかはいなかった。
それに、水が透き通っていることも相まって穴の奥もそこまで暗くない。
ゆっくりと、でも空気が間に合うように急ぎながら。
止まることなく奥へと進んでいくと、他の生えている植物とは違ったオーラを放っている草を見つける。
深い緑色をしていて、ゆらゆらと優雅に揺れている。さらに、僅かに差し込む日光の場所のみに生えていて、より一層意識を向けられる。
これで間違いない。
これさえあれば……。
「──────」
僕は、草を抜き取ろうと伸ばしていた右手を急停止させる。
肺に入れていた空気の一部が、泡となって水面に向かって走り去っていく。
それは、僕を睨んでいた。
☆☆☆
「あ、お兄ちゃん」
「何もなかった?」
「うん。何にもなかった。お魚一匹ぐらい捕まえたかったけど全部逃げちゃうの」
「あはは、それは残念だね」
僕が川に入っていったときとほとんど変わりない位置で川を眺めていた少女と話しながら、僕は鞄に手を伸ばす。
乱雑に中を漁り、一本の瓶を掴む。
「何それ」
少女が、不気味な色をしている瓶に興味を持った。
黄緑色でドロドロと中の液体がうごめいている。水槽の中にいる魚を眺めているような気分になりそうな代物だ。
「ちょっとした薬だよ」
瓶の栓を抜いて、中の液体を頭からかける。
黄緑の液体が、僕の体の周りをダラダラと流れ落ちる。
川の水によって冷えた体と比べると常温で置かれていたこちらの方が暖かく、お湯を浴びているような気分になった。
ぬめっとしている見た目とは対照的に、肌で触れる分にはさらさらとしているのでそこまでの不快感はない。
短所をあげるとするならば……
「えぇ……」
端から見ると見た目的にすこぶるよろしくなく、引かれることだ。
頭から黄緑のぬめっとした液体を被るやばい奴になってしまう点が、この薬の最も悪いころだ。
唯一の短所であり、致命的すぎる短所だ。
端から見た人は使いたいとは思わない。
実際に使ってみれば話は別だが、この様子を見ている限り使いたいと思う人はそうそういないだろう。
好奇心旺盛な子供ですらこの様子だ。大人なんてもっと嫌がること間違いなし。
そんな誰もが嫌う液体は、僕の体をつたって地面に染みこんでいく。
瓶から出した液体が、全て地面に吸い込まれたことを確認して僕は鎧を着込む。
やっぱり、これがないと安心できない。
これがあるから安心できる。心に余裕を持つことができる。
「よし、じゃあ行こうか!」
「うん!!」
川底から取ってきた草にも興味を持った少女にいくつかその草を渡して、僕らは街へと戻っていく。
傾き始めた日によって、それは若干赤く染まり始めていた。
少女の母親の容体がどうなっているか分からない。
何かあってからでは遅いので、僕らは走って街へと向かうことにした。
川を出発してから十数分後ぐらい。
街中の見覚えのある道を歩く。
行ったり帰ったり、何度も通った道だ。
日が沈み始めて人の減った街は、まだかすかにいる人が横を通り抜けるだけでとても静かだ。
まるで他の人たちは全員寝ているのではないかと思うぐらい、静けさに包まれていた。
そんな中でも、僕らは小走りで家に向かう。
あの家には病に苦しんでいる少女の母親がいるんだ。
治す薬はここにある。苦しみから早く解放してあげないと。
「見えた!」
少女が声を上げる。
ボロボロで、今にも崩れてしまいそうな家が視界に入ってきた。
我慢できない少女は走り出し、乾いた石畳の道をその足で叩く。
未だ右手に強く握りしめられた薬草を大切そうにポケットに入れて家の扉を開ける。
「ただい───」
「─────ッ!!」
刹那、僕の横を人が通り過ぎた。
魔物ではない。
ただの人だった。
なんてことない人で、僕よりもちょっと───いや、かなり速く走っているだけの男の人だった。
そんな男の人が
目の前にいる少女を
幸福の階段を上っている最中の少女を
やっとのことで母親に会えた少女を
─────連れ去っていった
「待て!!!!」
怒号にも近い声で叫びながら、僕はその男を追いかける。
視界の端に、娘を連れ去られた少女の母親が出てくる様子が見える。
「出てきちゃダメだ!! 僕に任せて!!!!」
ここで彼女が外に出てしまったら、誰かにその姿が見られてしまう。
いくら日没が近いと言っても、鱗と尾を見て見ぬふりできるほど暗くはない。
「でも!!!」
「何でもダメだ!! 絶対に出てこないで!!」
誰にも使ったことのないような強い口調でそう言い聞かせて、僕はまだ視界からいなくなっていない男を追いかける。
鎧を着ていようとも、これぐらいなんてことない。
ただ走るだけ。
魔王との戦いとは比べものにならないほど楽だ。
「その子を返せ!!」
まだかすかに残っている通行人が僕の方を向き、その後すぐに男の方を向く。
追いかけられる者と、追いかける者どちらが悪かは一目瞭然だ。
「誰か! 彼を捕まえてくれ!!!」
太陽が沈んでいくように、僕のそんな叫び声も街に消えて行く。
静かに何事もなかったかのように消えて行った。
どれだけ呼びかけても、彼を捕まえようとする人物は現れない。
どうして誰も手伝ってくれないんだろう。なぜ、あの人たちは一緒に追ってくれないんだろう。
疑問は浮かぶ。
でも、そんな疑問に対して考えにふけっている時間はない。
気を抜いたら、いなくなってしまう。
気づいたら、視界から消えてしまう。
距離は確実に縮まっている。
彼はどうやら鍛えている人間ではないようだ。僕よりも遅く、ここからでも吐き出しそうな呼吸が聞こえてくる。
あと少し。
人一人分ぐらいの距離になった時。
彼は唐突に振り返った。
血走ったその瞳で僕を睨み付けて、ドラゴンの炎を連想させる力強い言葉を僕に飛ばした。
「それ以上近づくんじゃねぇぇぇ! もし変な動きしたら、容赦しなぇぞ!!!」
彼の右手には一本のダガーが握られていた。
もしも彼が激高したら、少女に刺さたっておかしくない。
「危ないよ!!」
「うるせぇ! お前らの方が俺にとっちゃあ何倍も危険だ!!!」
興奮した彼は、そのダガーの刃先を僕の方に向けた。
少女から刃先が離れた。今なら、そう思った僕は右足に力を込めて姿勢を低くする。
一瞬でつっき───
「─────あなた!!」
その時、聞き覚えのある声が後ろからする。
その声に引っ張られて、僕の足に込められた力は無残に散り、声のした方に視線が集まる。
「なんで……」
「お前……」
そこには、少女の母親が立っていた。
来ちゃダメだって言ったのに、彼女はそこに立っている。
「子供を帰して!!」
「嫌に決まってんだろ!! なんで、どうして魔物になったような奴に子供を預けなきゃならん!!」
アナタに、子供って……。
もしかしてこの二人は夫婦なのか?
言われてみれば、こうあるからそうでしかないと思い込んでいたが、母親だけしかあの家にはいなかった。
旦那であるはずの人が足りていなかった。
「その子が望んだ事よ! アナタだって、分かったって……」
「うるせぇ!」
男は、大きく息を吸う。
その肺いっぱいに空気を詰めて、口を開いた。
ダメだ。
言わせちゃダメだ。
そう思う頃にはもう手遅れで。
間違いなくこれは後悔だった。
「魔物だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
彼は、精一杯の声を出して魔物の存在を伝える。
きっと今までは黙っていたであろう秘密を、今この状況で明かす。
街中で響かんばかりの声で、僕のあの声とは全く反対な声が街に響く。
その声はどよめきを街中に与える。
ざわざわとした空気が周囲に現れ始める。
こちらを見る人たちが、口々に魔物だ、魔物だと口にする。
「誰か助けてくれ! 魔物に子供を奪われそうなんだ!!」
「アナタ! そんな嘘を───」
「助けてくれ!!!!」
彼の声は響き、彼女の声は打ち消される。
悲痛な叫び声と、街の人々のどよめきによって無きものにされていく。
どよめきはいつしか恐怖となり
恐怖は知らぬ間に、敵意になっていた。
「出て行け!」 「消えてしまえ、この魔物が!!」
「死ね!」 「この街からいなくなれ!!!」
群れた人々は、強かった。
魔物に対して必死の抵抗をする。石を投げ、鍋を投げ、時には包丁が飛んでくる。
その全てを、彼女は受け止める。
投げられる言葉も物も、全てに抵抗しない。
そして、誰も止めることはない。
魔物という敵に対して、街の人々は結託して勇敢に立ち向かっている。
その話の真相さえ知らなければ。
僕がもし少女と必要以上に関わりを持とうとしなければ、きっと僕は勇者として彼女を倒していたと断言できる。
少女と彼を守る為に、彼女を敵として倒していた。
間違いない。
「だけど」
この話の真相を知っている者として、この光景はとても腹が立った。
体の奥底にある心が、酷く怒っている。
なぜ。
なぜそんなことを彼女にするんだと。
彼女は善良な母親で。
魔物ではないのに。
みんな。
敵になった。
「うおおおおおお!!!!!」
僕も彼女も動けないその状況で。
一人の男性が、こちらに走ってきた。
あれは……。
肉屋のおじさんだ。
その手にきっと仕事道具だろう。大きな包丁を持って、彼女に向かって走ってくる。
その顔には恐怖があった。
その心には、決意があった。
「だ、ダメだ。彼女を傷つけちゃダメだ!!!」
その声もまた、すぐに消えてしまう。
おじさんの行動が周りの人のやる気を増加させて、他の男の人もこちらに走って向かってきている。
街の全員が。
彼女に指を指している。
「ダメ……や、やめ……」
嫌だ。
見たくない。
誰も傷ついて欲しくない。
僕がしたいのはこんな事じゃない。
みんなの困り事を解決して、笑って暮らして。
おはようって言って、おやすみって言って。
「死ねぇぇぇぇぇ!!!!」
おじさんがその包丁を振りかぶる。
少し錆びたその大きな肉切り包丁が振り下ろされる。
よりも先に
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
─────ザシュ
僕が剣を振り下ろしていた。
「旅の御方……」
「あ……ああ゛」
「ありがとう」
僕はその日初めて
人を殺した。
読んでいただきありがとうございました。