いかにしてその悪役宰相は、暗躍するに至ったか
「この婚約は破棄する!」
響き渡る宣言に、ホールの空気が凍りつく。華やかな舞踏会が催されていた会場は、一瞬にしてその色を失った。楽隊すらも演奏をやめてしまう。宣言者である第一王子は、気にも留めずに傍らの儚げな少女の肩を抱き寄せていたが。
第一王子は、婚約者の悪行をあげつらい、己の正当性を示そうとしている。対峙するのは婚約者の令嬢だ。彼女はこの国でもっとも位の高い公爵令嬢だったが、王子の突然の裏切りにも涼しい顔をしていた。
「ふふ……はははははっ! 血は争えないものだな!」
一方、騒ぎとは少し離れたところで、仮面の青年が嗤っていた。
壁際に佇む彼は、本来なら招かれざる客だ。
だが、誰も彼がここにいることに違和感を覚えていなかった。それだけこの青年は、怪しげながらも宮廷における地位を確立していた。
青年は渦中へと向けて一歩、一歩と歩みを進める。それでも王子の婚約破棄騒動に人々の意識の大半が注がれていたため、ほとんどが青年の歩みに気づかなかった。
「そのような愚かな判断をするとは、我が息子ながら見損なったぞ!」
「育て方を間違えてしまったようね。あの子の母として謝罪します」
王は大仰に頭を抱え、王妃は婚約者の令嬢に向けて微苦笑を浮かべる。混乱の主役の一人である第一王子、その弟たる第二王子は陰ながらほくそ笑んでいた。
「この婚約の重要性がわからない者に、王太子の座は与えられん!」
婚約者の令嬢の家がどれだけ国にとって価値のあるものか、そして令嬢自身がどれだけ優秀であるかを、王はつらつらと説いている。
果たして何人の古い臣下が、真面目な顔で聞けていることやら。青年は肩を小さく震わせながら、王達の御前に辿り着いた。
「よって王の名のもとに、」
「その沙汰、しばしお待ちいただいても?」
「王の言葉を遮るとは無礼な奴め。……確か、アルルカン伯爵と言ったか?」
誰もが固唾を呑んでことの成り行きを見守っていた。そんな中で現れた突然の闖入者を、王は訝しげに睨みつける。呟かれたのは青年の偽名だ。
「陛下にご挨拶できて光栄です。私のことは、ディードとお呼びください」
青年は微笑む────ああ、ようやくこの時が来た!
* * * * *
最後に覚えている幸せな記憶。それは、ディードがまだ六歳だった時のことだ。
いつもは仕事で忙しい父が、珍しく早く帰ってきた。家族三人で囲む晩餐の席。父も母も笑っていた。
二人は十も年が離れていたけれど、お互い愛し合っていた。父は若く美しい妻と遅くにできた第一子をいたく可愛がっていて、母は落ち着きのある年上の夫と素直で優秀な我が子を溺愛していた。絵に描いたような、愛の溢れた家族。それがディードの家だった。
普段の、母と二人で食べる食事も美味しいけれど、父が加わるだけでもっと美味しく感じられた。ディードは嬉しくて、今日読んだ本の話や、最近家庭教師に習った歴史の話なんかをしていた。年のわりに、ディードはこと学問については優秀だった。
試験の出来がよくて家庭教師に褒められたとか、庭にこんな色の花が咲いていたとか、魔術を試しに使ってみたけどうまくいかなかったとか、そんな話もした。父も母も、興味深げに聞いてくれていた。
ディードがもっと聡かったら、両親の笑みのぎこちなさに気づけたかもしれない。ディードにもっと勇気があったら、家の外の世界の騒がしさについて尋ねられたかもしれない。
けれどディードは、それについては何も言わなかった。両親が傍にいてくれればそれでよかったからだ。怖いことなんて、ひとつもなかった。
ある日を境に、一人、また一人と使用人がいなくなっていた。クビになったのか、あるいは自ら辞めたのか。ディードにはわからない。賑やかだった屋敷は、人が減って少し寂しく感じられた。だから、父が早く帰ってきてくれていっそう嬉しかった。
その楽しい夜のあと、父も帰ってこなくなって、母はぼうっと遠くを見るようになったり、どこかへ遅くまで出かけたりするようになった。
帰ってきた時の母は、いつも疲れたような、焦っているような……あるいは、おびえたような顔をしていた。装いが地味だったこともあって、遊びに行っているようには見えなかった。
そんな日が一週間も経っただろうか。母はディードの手を引いた。旅行に行きましょう、と。
父もいないのに、どこに行くのだろう。父と一緒がいいと思ったけれど、母の顔はあまりにも真剣だった。ディードは頷くほかなかった。
真夜中に、母とディードを乗せた馬車が発った。荷物は最低限で、使用人はいなかった。不意に馬車が跳ねて、ディード達は引きずり降ろされた。自分達を囲む屈強な男達がこの国の兵士であることに、ディードはしばらく気づけなかった。
「国外逃亡を企てるとは、なんと卑劣な」怖い顔をした大人がディードを掴む。「その子は我がヴァリエーリ家の嫡子です、無礼な振る舞いは許しません!」すかさず母がそう叫んだが、「喚くな! その名はなんの意味もない。お前達はただの、罪人の家族だ」母もまた男達に取り押さえられていた。「母上をはなせ!」涙ながらに上げたディードの声は震えていて、誰の耳にも届かなかった。
自分達の身に何が起きたのか、幼いディードには何もわからなかった。枷をつけられ、母と引き離されて、震えながら馬車に揺られていた。神に祈った。両親を呼んだ。助けは来なかった。
知らない場所に連れて行かれて、「逃亡を図った逆賊」とそしられて。言葉の意味はわからなかったが、その疑問符すらも顔に押し当てられた焼きごての痛みで塗りつぶされた。顔の右半分に醜く刻まれた紋様は、重罪人やその血縁者、人以下の穢らわしいモノであることを示す烙印……最下層民の証だった。
ディードはもう、かつての生活に戻れなかった。これまで自分がいた世界とはまったく別の世界へと突き飛ばされた。
名家の嫡男と呼ばれていた少年が、いきなり奴隷として競売にかけられることになったのだ。母とは別々に売り飛ばされた。状況を飲み込むだけでもかなりの時間を要した。尊大な振る舞いが抜けきらなかったり、少し何かにもたついたりするたびに、蹴り飛ばされた腹の痛みと口の中に広がる鉄の味をもって今の自分の立場というものを教え込まされた。
それから先の記憶は、思い出したくないことばかりだ。背中に走る鞭の痛み、強制的に味わわされる快楽の苦痛、昼も夜もなく強いられる奉仕の絶望、尊厳を封じた屈辱の枷。それでも、生きるためには仕方なかった。
ディードの心は、この世のありとあらゆる汚泥を煮詰めたように淀んでいった。母譲りの澄んだ紫の瞳はすさみ、ふくふくと愛らしかった頬はこけ、かつての天使のような笑顔はわずか二年で見る影もなくなった。
二年の間に、ディードは自分達家族の身に何が起きたのかを知った。
まず、この国の王が、大臣が取りまとめた隣国の末姫との婚約を破談にした。そして、視察先の辺境から連れ帰ったどこの馬の骨とも知れない町娘を妃にすると言い出したのだ。
当然のことながら、顔を潰された大臣と隣国の怒りはすさまじかった。何も聞かされていなかった側近達も、王の決定に慌てふためいた。
隣国の王家は、神に愛された聖女の末裔だと言われていた。その血筋がゆえにもたらせる、聖なる光は国を長く栄えさせるという。魔術を超えた、神の奇跡だ。
それが事実であるかはどうでもいい。そのような不思議な力を持つとされる一族だからこそ、大臣は長年の苦労をもってなんとか此度の婚約を結ばせたのだ。
国力はともかく、国家の歴史の長さでは隣国に劣る。現王朝も、まだ二代しか続いていない。たとえただの伝説であっても、王家を盛り立てる箔が必要だった。それをも王は鼻で笑い、末に生まれた平凡な顔立ちの姫だという理由だけでその婚約を嫌ったが。
王は、発言を撤回しなかった。すべては大臣の独断だと言い切り、王の名を勝手に使って隣国と通じたのだと厳罰を与えた。
一方的な縁談の破棄に、隣国の末姫は応えた。「あの王のことなど愛してもいませんし、政略とはいえ嫁がず済むなら幸いです。あのように愚かな王が君臨する国に、未来などはありません」と。
それでも、国の威信というものはある。一国の姫君が、たかが町娘に敗れたというのも認めがたい。侮蔑の代償として、隣国は制裁を下すことにした。
それは隣国の王族に伝わる秘技。聖なる光と呼ばれるなにか。恵みは時に毒となる。隣国から放たれた光は、祖国の国土を一瞬にして焼き払った。
それは奇しくも、王が妃にと望んだ娘の故郷……二人が出会った場所だった。領地がひとつ焦土になって、王は初めて事態の深刻さを知ったらしい。
神の裁きに巻き込まれてはたまらないと、諸国は口を閉ざして目を背けた。どの国も、隣国におもねることを選んだのだ。
隣国の機嫌を損ねれば、次は自国が標的になる。誰も蹂躙されたくはないだろう。……そうしたところで永劫無事でいられる保証などないと、今のディードは鼻で笑える程度に賢しくなった。
聖女のいわれだけならともかく、隣国が本当にそんな軍事力を隠し持っているなど、祖国の誰も知らなかった。
戦争になれば勝ち目はない。焦った王は、あっさりと前言を撤回した。
彼は、真実の愛とやらを抱いた町娘を「男を惑わす淫らな悪魔」と罵り、「悪魔を王に引き合わせ、我が国を乱して国家転覆を目論んだ黒幕がいる」と叫んだ。
黒幕に仕立て上げられたのは、たびたび王との衝突が知られていた宰相────ディードの父だった。
王の言葉を信じようが信じまいが、結果は変わらない。誰かが責任を取らなければいけなかった。これ以上、災いが降りかからないように。その“生贄”に、ディードの父はもっとも都合がよかったのだ。
王と長らく不仲で、かといって今回の王の暴走を抑えきることもできなかった、宮廷の有力者。人々の怒りと不満の矛先は宰相と、ほか数名の重鎮に向けられた。
それが明日の自分の姿にならないよう、他の宮廷人達も加担した。宰相位が空けばそこに自分が座れると、期待した者もいただろう。市井の人々も団結し、“黒幕”への断罪を求めて過激な声を上げた。そして、宰相の……否。元宰相の罪状が、定められた。
さすがに他国の領地を問答無用で焼いたのは、隣国でも賛否両論あったらしい。ディードの父を死罪に処し、和睦の証として首を隣国に送ったことで、この一件は手打ちになった。
隣国も、落としどころを探していたのだろう。その引き換えに宮廷の有力者達が何人も死に、父の家族だったディード達も身分を剥奪されて、非人間に落とされたけれど。
何事もなかったかのように、末姫も嫁いできた。町娘は投獄され、火刑に処された。焼け焦げた亡骸から赤子が取り上げられたと囁かれているが、真偽は不明だ。
少なくとも王は、末姫が生んだ子以外に自分の子はいないと言っている。王の婚約破棄騒動とそれに付随した数々の悲劇は、二年経った今は完全に“なかったもの”として扱われていた。
本当に、父はその町娘と通じていたのか。彼女をそそのかし、王を誘惑するよう働きかけたのか。今となっては、それを知るすべはない。
だが、そんなことはどうだってよかった。王は、民は、国は、ディードの父を悪と呼んだ。真相はどうあれ、その事実だけは変わらない。
二年前の事実を知ってから、ディードは自問するようになっていた。
親が犯した罪に対して、子供は無関係なのか?
国を滅ぼしかけた“黒幕”の息子が、奴隷の身に甘んじていいのか?
王を欺き、民を危険に晒すことも厭わなかった巨悪に、贖罪などという殊勝な心は備わっているのだろうか?
────答えは、すべて否。
無関係だというのなら、ディードの顔に烙印はなかった。この烙印こそ、世界がディードを大罪人の血を引く者とみなしている証だ。
この烙印があるからこそ、人はみなディードのことをそういう目で見る。罪人に連なる一族、罪を連座で課せられた者、いずれ罪を犯す者、人以下の薄汚いけだものとして。
だが、仮にも国の闇を背負わされた“黒幕”、その息子がそうも落ちぶれていていいわけがない。
たとえ今は奴隷の身でも、いつかは返り咲かなければいけない。父の後を継ぐ、“黒幕”にふさわしい場所に。
誰に何を償う必要がある。だって、そうあるように決めたのは国民のほうなのに。
確かに父の罪をディードも背負わされ、奴隷として過酷な扱いを受けることで贖いとさせられた。けれど、それはディードが望んで受けた罰ではない。ディード自身は、償いの意思なんて欠片も持ち合わせていなかった。だから、猛々しく吼えることになんのためらいも抱かない。
両親が、果たしてそれを望むのか。そんなこと、今となってはわからない。
父は処刑されたし、母も奴隷に落ちてすぐに亡くなったと聞いた。元々、美しいが気位の高い人だ。少年のディードより、もっと目に見えてわかりやすくひどいことをされてしまったのかもしれない。
あるいは、夫と我が子の末路を思うあまり心を患ったか。母のことは愛していたが、だからこそ母が奴隷の生活に耐えられるわけがないとわかっていた。母を愛していたのに、守れなかった。
咎める声であろうと、励ます声であろうと。両親の声はもうディードには届かない。それを奪ったのは、心ない人間達だ。
存在しない声に耳を澄ましたって仕方ない。だからディードは、自分のやりたいようにやることに決めた。
それからさらに四年が経ち、ディードは十二歳になった。六年前は砂糖菓子のように甘かったディードの容姿は、すっかり変わり果てていた。
痩せこけた身体と、濁りきったうつろな昏い瞳。それでもまだ中性的な美貌の面影は残り、主人から受けた虐待の傷もあいまって少年らしからぬ退廃的な背徳の色香を纏うようになっていた。
そのころ、主人は黒魔術に凝りだしたようだった。聖なる光の恐怖を忘れたのか、あるいはむしろ忘れようとしているのか。隣国出身の妃に対抗するかのように、上流階級の間で密かに悪魔崇拝が流行りだしたのだ。摘発されれば、またどこかの誰かが黒幕に仕立て上げられるのだろう。よく飽きもしないものだ。
二度目の性徴を迎え、少年から青年へと傾く一歩を踏み出したディードに対し、主人は日に日に興味をなくしていくようだった。
今のディードにはもう、かつてのような無垢な心も、あらゆるものに対する純粋な恐怖も、卑屈に笑いながら媚を売る健気さも残っていなかった。主人の欲望の対象は、擦れたディードではなく新しく買われた幼い少年に変わっていったらしかった。
────だから、主人が思いつきで始めたその『儀式』の贄にディードが選ばれたのは、必然のことだったのかもしれない。
(まだ僕は、“悪”になれていないのに……!)
祭壇に縛りつけられ、胸に迫る刃を睨みながらディードは救いを乞う。神でも両親でもなく、悪魔にだ。その悪魔に捧げられる贄が命乞いをしたところで、聞き届けられる道理などない……はず、だった。
*
「……ッ!?」
「うごいてはいけません! おまえは、血がたくさん出ていまして! 血が出ると、人は死んでしまうのでして!」
跳ね起きる。石造りの広い部屋。どこか寒々しく、まるで牢獄のような印象を受けた。その部屋の中には五、六歳ぐらいの子供が一人だけいる。声からして少女だろう。
こめかみのあたりから生える、ねじれた大きな角が目を引いた。そのくすんだぼさぼさの金の髪は、顔を覆うどころか床につくほどに長い。ろくに手入れもされておらず、襤褸を着ていることもあいまってひどくみすぼらしかった。
「なんだ、ここ……」
「わたくしさまのお部屋でして。おまえは、わたくしさまのお友達かしら? お友達がほしいとお母さまにお願いしたら、おまえがいたのですが」
「……そんなこと知らない。お前のことも、お前の母親のこともな。僕は死んだはずじゃ……これ、お前が手当をしたのか?」
ディードの胸には、破かれた生地が何重にも巻かれていた。包帯代わりらしいそれからは、血が滲み出している。
「はい、ぐるぐると巻きまして。前にわたくしさまがシンシアをけがさせたとき、みんなそうやっていたものでして。シンシアはそのまま死んでしまったけれど。おまえは、とっても魔力が高いので大丈夫そうでして」
「魔力……? ああ、うちは元々魔術師が多い家系らしくて……」
物騒な言葉は聞かなかったことにする。状況を整理するため、少女の言葉を順に噛み砕くことにした。
大昔は、魔力の質や量は貴族の資質に数えられていたらしい。だが、魔術なんて習得も行使も厄介なもの、現代ではとうに廃れていた。変わらず伝わっているものといえば、そもそも誰も本気にしていないような胡散臭い黒魔術の類いか、子供騙しの手品ぐらいだ。魔術を使えなかった他国が略奪のために戦を仕掛け、その際に魔術にまつわるあらゆる文献や研究結果が数多く失われたため魔術の文化は衰退したというが、その歴史さえ定かではない。
貴族に生まれたディードにも魔力はあるらしいが、魔術を実際に使えたことなんてなかった。魔術とのかかわりなんて、子供のときに、先祖代々の蔵書から大昔の魔術の教科書を引っ張り出して眺めていたぐらいだ。興味本位で試したって、なんの力にもならなかった。
「お前は、人の魔力がわかるのか?」
「とうぜんでして。わたくしさまは魔術だって使えますから。ほんの少しですけれど」
少女は誇らしげに笑って胸を張った。その拍子に、少女の顔を隠していた髪がはらりと揺れる。
わずかに垣間見えた少女の素顔。口元に、鋭い牙が見えた。横に長い瞳孔は山羊を思わせる。なにより、彼女の瞳の色は。
「王家の瞳……!」
この国の初代国王の血筋に連なる者だけに現れるとされる、二色に別れた不思議な瞳。歴史は浅くても、現王朝の開祖も二色の瞳を持っていた。だからこそ王朝を開くことを認められたのだ。
王族の中でも稀有な現象で、この瞳を持つ者は特別視されている。当代の王族には、この瞳の持ち主はいなかった。
少女の瞳は、上部が赤で下部が黒だった。まるで血を思わせるその双眸が、怪訝そうにディードを見ていた。
「お前、名前は?」
「シンシア達からは、アレとかソレとか呼ばれていまして。あと、たまにヒメサマ、と。シンシアが死んでしまってからは、誰も部屋までは来なくなって、名前も呼ばれなくなりまして。でも、こうきな人は“さま”をつけて呼ばれるのでしょう? シンシアは自分のことを“わたくし”と呼んでいたから、わたくしさまは自分を呼ぶときにわたくしさまと呼ぶことにしたわけでして」
少女は当然のことのように言った。牢獄のような場所で暮らす、正体不明の王家の娘。疑念が確信に変わる。“悪魔”の子は、間違いなく王との間に生まれた子だった。
「アレもソレもヒメサマも、人の名前とは言えないな」
「そうなのでして? わたくしさま、名前がなかったのかしら。じゃあ、おまえの名前はなんと言いまして?」
「ディード。ディード・ヴァリエーリ」
ヴァリエーリ家は、とうに取り潰しになっている。もはやその家名になんの意味もないし、奴隷に落ちた時点で名前などあってないようなものだ。それでもディードは名を名乗った。すると、少女は羨ましげな目をディードに向ける。
「お友達に名前があるのに、わたくしさまにないのはいやでして。ディード、わたくしさまに名をつけなさい。これはめいれいでして」
「命令って……」
「お友達なのだから、とうぜんでしょう?」
ああ、まただ。ちらりと見える、牙のような鋭い歯。そして彼女の、将来の美貌が約束されたような愛らしい顔立ちは、なにか人知を超えた凄みを感じさせた。今は薄汚れてはいるが、綺麗に磨き上げて、あと数年も待てばきっと誰もが振り返る美少女に育つことだろう。
(“悪魔”っていうのは、あながち間違いじゃなかったのかもしれないな)
昔、本で読んだことがある。強い魔術を扱えるが弱点の多かった魔族は人との戦争に敗北して以降数も減り、世界の片隅でひっそりと生きるだけだと言うが、絶滅したわけではない。中でも悪魔と呼ばれるもの達は、魔族の間でも別格として扱われていた。
種族の異なる者達が子を残すのは難しい。それでも、何かの奇跡が起きることはある。悪魔と人の間に生まれた子は、人ならざる才能と美貌、そして邪悪な性質を持つとか。その力は、悪魔ですら凌駕するという。
彼女は、父が失脚してヴァリエーリ家が没落する元凶のひとつだ。彼女の両親が恋に酔わなければ、あの騒動が起きることはなかった。だからそのツケは、彼女にも払ってもらわなければ。
「その言い方は好きじゃない。命令じゃなくて、お願いって言え。少なくとも僕に対してはな」
「そうだったのでして? じゃあ、お願いをすることにしまして」
「わかった。考えてやる」
少女はあっさり言葉を変えた。その素直さは心地良い。
“黒幕”を目指す少年。“悪魔”の娘。親の役を継いだ自分達こそ、次代の役者にふさわしい。
国が望んだ“悪”を、現実のものにしてやろう。お前達が仕立て上げた“悪”は、あんなものでは終わらなかったと嗤ってやるために。
「エレリカ・ダートルッシュ。背負うのは王家の名だ。王女のお前にふさわしいだろう?」
「王女? わたくしさまをそう呼びますか。ディードは面白い人のようでして」
この日から、二人のいびつな友情が始まった。
*
結論から言えば、あの日主人が行った儀式は見事に成功してしまっていたらしい。あの主人だって腐っても貴族階級だ、魔力はあったということだろう。たとえ本人は遊びのつもりでも。
儀式の進行者、そして生贄。どちらも魔力を有していたことが、儀式の成功の原因だった。そして悪魔に捧げられた生贄は、儀式の際に使われた魔力とともに悪魔の元へと送られた。生贄なんぞ捧げたところで、何か見返りを与える気などエレリカにはないようだが。
遊び半分で黒魔術に手を出している他の輩の魔力も、同様にしてエレリカが吸収しているらしい。エレリカ本人に自覚はあまりないようだったが、人間から魔力を得るたびに彼女はますます美しく輝くようになった。とても年端のいかない少女だとは思えないほどのその妖しい色香は、やはり彼女が人ならざるものであればこそだろう。
ディードが彼女の髪を切り揃えたこともあり、あとは服装さえどうにかできればいっぱしの姫君として通用しそうだった。
丹念に磨いたフォークでエレリカの髪を梳き、ディードは小さく笑う。
今のエレリカは、まだ幸せだった時の自分と同い年ぐらいだ。そんな彼女を磨き上げるのは、まるで人生のやり直しをしているような気分だった。
エレリカの牢獄にディードがいることは、誰にも気づかれなかった。あるいは、気づかれても知らないふりをされているのかもしれない。それぐらい、エレリカは放置されていた。
エレリカの食事は日に二度、粗末なものが届けられる。けれどエレリカは食事よりも魔力のほうが力を得られるらしい。いつのころからか、食事は大体ディードが食べることになっていた。
かたん、鍵のかかった扉から今日も音がする。下側に取り付けられた小窓は食事などを受け渡すためのものだ。清拭用の水が入った桶と布もここから渡される。
この部屋の外には「使用人」がいるようだが、彼らは中に入ってこない。エレリカの出自から、あまりかかわりあいになりたくないと思われていても無理はなかった。おそらく、シンシアという女性の身に何かあったことも関係しているのだろう。
欠けた食器に、質素なサラダと色の薄いスープが一皿ずつ。固いパンを二つに割って片方をエレリカに渡し、薄汚れた水差しから水を注ぐ。エレリカはもそもそとパンを口に運んだ。
「宮廷には、もっと美味しいものがたくさんあるんだ。いつかここを出て、そういうものをたくさん食べよう。お前だって、嗜好品としてなら楽しめるだろ」
「食事が楽しい……? それはりかいできないものでして。ディードの魔力のほうがおいしく食べられまして」
「それは、こんなものしか食べてないからだ! たとえば、ローストチキンっていうものがあってな……」
今はもう遠い昔の食卓に思いを馳せる。けれど、その味はもう思い出せなかった。
ディードの前にあるのは、最低限の栄養さえ摂取できれば味は問わない、と言いたげな料理だ。だが、奴隷の時は食べ物と呼べもしないおぞましいものか、残飯同然のものしか食べさせてもらえなかった。この粗食すら、奴隷の日々を思えばごちそうに見える。そう感じることが、惨めだった。
「む。ディードが泣くのはめずらしいことでして。ろーすとちきんがあれば、喜びまして?」
「泣くわけないだろ!」
慌てて目元をごしごしぬぐう。「とにかく!」涙声をごまかすように、ディードは声を張り上げた。
「僕達は必ず外に出る。でも、ただ出るだけじゃ駄目だ。力をつけないと」
「わたくしさまは、外に出てもいいのでして? お母さまは、わたくしさまが危険な目にあわないようにお守りをくださいまして。外の世界はおそろしいところなのでは?」
エレリカは不安そうに尋ねる。王の私生児であり悪魔の娘であるエレリカが殺されることなく幽閉されていたのは、他ならない母親の魔術のためだった。
彼女の母親が悪魔そのものであったことは、もはや疑いの余地はない。悪魔が人に恋をしたのか、人が悪魔に魅入られたのか。どちらが先だったかはわからないが、それでも悪魔は人の子を宿した。
そして、悪魔は生まれてくる我が子にまじないをかけた。悪意ある他者の手で傷つけられることのないように、と。そのまじないは、エレリカ本人の力をもってより強固な護りとなった。
町娘に扮していた悪魔は、火刑に処されることで消滅した。しかし悪魔の胎内にいたエレリカはまじないのおかげで生きながらえ、ある意味呪いとも呼べる誕生をした。その異様な出生は、エレリカに対する人々の恐怖を掻き立てたかもしれない。
呪われた、悪魔の娘。市井に放てば王の血が民草に混じってしまう。かといって殺すこともできない。幽閉は当然の落としどころだ。
「逆だ。そのまじないがあるから、外の連中はお前をここに閉じ込めるしかなかった。だから、怖いものなんて一つもない。それにお前はここで魔力を集めてるじゃないか。魔力を集めれば集めるほど、お前はきっと強くなる」
「わたくしさまの魔術は、魔力の他にも人の負の感情をげんどうりょくにしておりまして。だからディードがいると、わたくしさまはもっと強くなれまして」
安心させるように微笑むと、エレリカはうっとりと応えた。彼女の手が、ディードの烙印に触れる。
くらり、ディードは頭を無意識に垂れる。エレリカに魔力を吸われているのだ。最初の頃は違和感しかなかったが、今ではすっかり慣れていた。
魔力はどれだけ吸われても、一晩経てば回復する。負の感情については、吸われているという感覚はない。煮えたぎる憎悪と絶望を知るディードが傍にいるだけで、エレリカは相応の力を振るえるのだろう。
実際に彼女の魔術がどれほどのものなのかは、まだ見たことがなかった。だが、着実に彼女は力をつけているはずだ。彼女の力はまだ伸びる。それこそ、いつかこの国を────世界を、覆い尽くすほどに。
*
「ディードのことは、眷属にしてあげてもいいと思っていまして」
ディードに頭を預けながら、エレリカは歌うように囁いた。
かつて何もなかった牢獄は、物で埋め尽くされていた。エレリカの魔術で具現化した調度品や嗜好品の数々に囲まれながら、それでも心は満たされない。
「わたくし様は悪魔……とうの昔に人々から追いやられた魔族達の筆頭でして。魔族は人間のことを嫌いますが、わたくし様はディードのことは好きでして」
「それは光栄だな。なんだ、不老不死でも授けてくれるのか?」
「それがディードの望みなら。でも、もう少し成長してからでして」
エレリカの頭を優しく撫でる。共に牢獄の中で過ごした五年の月日は、二人にとってお互いがかけがえのない存在となるのに十分な時間だった。
「わたくし様は、ここでたくさん魔力をたくわえまして。ディードから読み書きも計算も教えてもらいましたし、もう外の世界に出ても怖くないと思いまして」
不思議な色彩の瞳が、じっとディードを見つめていた。「珍妙な言葉遣いは直せなかったな」茶化して微笑みかければ、「直す気がないのでして」とエレリカはむくれながらディードの烙印に手を伸ばした。
「ディードのあるじはわたくし様です。ディードの憎悪も絶望も、すべてわたくし様も背負いましょう。お母様を裏切ってわたくし様を捨てたお父様への復讐ならば、わたくし様も手伝うべきでして」
華奢な指先が、罪人の証をそっとなぞる。くすぐったかった。この小さな姫君になら、主人ぶられても気に障らなかった。
「それにわたくし様は、悪魔の娘なのでして。神の威を借りる者が国にいると思うと、落ち着かなくなりまして」
神に愛された一族。かつてこの国を焼いた女。過去の負い目からか裁きへの恐怖からか、王も妃には頭を上げられないという。彼女が王の妻であることを快く思わない者は、きっと探せば大勢見つかるはずだ。
「ディード。わたくし様、この国が欲しいのでして。外の世界を見てみたいし……迫害される他の魔族に、希望を与えてあげたいのです。神の国があるなら、悪魔の国もないと不公平だと思いませんか?」
悪魔の国。悪魔が統べる、魔族のための国。それはとても甘美な響きだった。悪魔の手を引き、この国を奪う。“黒幕”にふさわしい所業だ。
エレリカは半分人の血を引くからか、あるいは母の愛ゆえか、魔族にありがちな弱点……陽の光とか、純粋な金属とか、そういったものとは無縁だった。弱点のないエレリカなら、魔族を導くに足りるだろう。なによりも、エレリカはこの国の王の娘だ。王位を継ぐのに不足はない。
「知識と力は蓄えた、あとは根を張って待てばいい。……僕が必ず、お前を女王にしてやる」
「なら、ディードは宰相でして。わたくし様が直々に任命してあげまして」
幼い君主に誓いのキスを捧げる。王位簒奪のための筋書きはもう、ディードの頭の中にあった。
王には二人の王子がいる。どちらもまだ十歳にも満たない、幼い子だ。だが、何も変わらない。親の罪は子供も背負うべきだと、王が定めているのだから。
まずは人材集めと、悪魔の姫君の喧伝だ。王家に叛意を持つ者と、エレリカに臣従を誓う魔族を探して簒奪のための下地を整える。囚われの身であるエレリカだが、今では魔術でこっそりこの牢獄を抜け出すことなど造作もなかった。
とはいえ、エレリカを直接働かせるまでもない。ディードが自分で動けばいいだけだ。女王には悠々と座していてもらわなければ、下の者に示しがつかない。
その日から、ディードは牢獄を抜け出して国の闇を渡り歩くようになった。
烙印を隠すように顔の右半分を覆う仮面をつけて、付け入りやすい貴族達に王家への疑念とエレリカの魔術で生んだ金をばらまいた。搾取される民衆に、神への憎悪を問いかけた。叛意の芽を持つ者達は、ディードの知られざる協力者になった。
異国の女王の名代としてやって来た仮面の貴公子、道化師伯爵。その看板とともにディードは社交界に潜り込んだ。
素性の知れない胡散臭い男でも、莫大な金銭と多少の学をちらつかせれば伝手などどうにでもなる。息のかかった高位貴族を一人仲介に立たせれば、人脈を築くのは簡単だった。
明らかな偽名を名乗る謎めいた伯爵は、たちまち社交界でも注目の的になった。元々、上流階級の生まれだ。記憶をひっくり返せば立ち居振る舞いもすぐ馴染んだ。
よく回る舌はありもしない話で人々の興味を引き、見せかけの善意で彼らの信用を勝ち取る。金払いのよさが、多少の不審さから人々の目をくらませていた。
宮廷での暗躍と並行して魔族探しも行った。強大な悪魔の魔力を漂わせるディードに、自分から寄ってくる魔族もいた。
中にはディードを喰らおうとした者もいたが、エレリカの眷属であることが功を奏したのかみな返り討ちにした。それでも従わない手駒ならば必要ない。ディードの話術、そして纏う魔力からディードを通してエレリカの威を知り跪いた魔族のことは、丁重に迎え入れた。
怪しげながらも博識な伯爵として、人々の悪魔崇拝をひっそりと助長させることもした。
異国の医術だ、学問だとうそぶいて、秘薬のレシピをちらつかせた。禁忌の儀式を仄めかした。彼らの魔力がエレリカに捧げられるように。簒奪に直接関与しない貴族すらも、エレリカの糧とするためだ。享楽に耽る貴族達は形だけの黒魔術に溺れ、けれど言い逃れできないほどの異端に手を染めた。
そしてディードは、第一王子に仄かな恋心を寄せていた、下働きの少女に近づいた。少女に惚れ薬を渡し、悪魔の笑みでこう囁いた。
「一滴垂らせば、愛しい人は貴方の虜になるでしょう」
自分の身分ではとても王子に近づけないと嘆く少女に、ディードは甘い声を重ねた。
「貴方はこの薬を纏うだけでいいのです。王子の秘密の東屋を教えます。王子は二週に一度、そこで数時間ばかり一人で休憩を取る。庭園の花を摘むうちに迷い込んだふりをして、この薬の香りを嗅がせればいい」
香水の形をした惚れ薬を、少女は震えながらぎゅっと握りしめた。
「心を惑わすことに罪悪感があるというなら、あくまでもこれはきっかけだと思いなさい。何事も、契機がなければ始まらない。最初の出会いだけ勇気を借りて、あとは自力で掴むのもいいでしょう」
そして後日、少女はなみなみと中身の残った小瓶をディードに返した。何も知らない少女は、幸せそうにディードに礼を言ってきた。
本当にたった一度きりで返されるとはさすがのディードも予想外だったのだが、問題はなかった。それ以降、王子と少女は陰ながら逢瀬を重ね、愛を深めていったからだ。二人の間に惚れ薬などもはや必要なかった。
第一王子の婚約者が、彼のことなどなんとも思っていないことは、口さがない者達を通じてディードも知っていた。婚約者の令嬢はむしろ弟王子といい仲で、そのせいで婚約者同士の間は冷え切っているらしい。着飾ったおしゃべりな鳥達は、ディードにとってはいい情報源だ。
弟王子と婚約者の令嬢については、わざわざディードが暗躍するまでもなかった。噂が真実ならば、勝手にうまくやってくれるだろう。たとえ作り話でも、計画に支障はない。
九年の歳月を経て、ディードはアルルカン伯爵として宮廷を蝕んだ。エレリカを信奉する魔族が、エレリカの糧となる人間が国中にいた。
神や王家への不満が高まる中で、第一王子は名も知れない少女と恋に落ちた。手駒も揃えた。悪魔の王女はいつでも披露できる状態だ────歯車は、すでに回っていた。
* * * * *
「アルルカン伯爵。これはこの国の問題だ。異国の者に出る幕はない」
「無礼を承知で、少しだけお時間をいただければと。第三者だからこそ見えるものや言える言葉もありましょう」
胡乱な眼差しの王を前に、ディードは微笑んで恭しく礼をする。二十年前に父を売った男。ディードがすべてを失った元凶。初めて目にしたその王は、ディードを視界に収めていた。心がどろどろに溶けていく。
溢れそうになる感情を抑えるため、ディードは視線を第一王子に移した。気を紛らわせようと、上着の隠しポケットに忍ばせておいた短剣に触れる。外側からそのシルエットが見えることはないが、上着越しでもわかる凶器の感触に、少し心が落ち着いた。
「恐れながら、第一王子殿下。婚約破棄など、軽々しくおっしゃっていいことではございません。公に交わした約束を一方的に反故にするような振る舞いは、貴方の立場どころか国としての威信を揺らがせます」
「だが、私は彼女を愛している……! 彼女のためなら、王子の身分を捨てても構わない!」
ならば望み通り平民として生きるがいい。愛と希望に目を輝かせる第一王子は、なんの邪魔にもなりえない。ディードは笑みを深めた。
「恋に浮かれて使命を見誤るとは! もう貴方のような愚か者を息子とも思いたくもありません! その売女とともにどこへなりとも消えなさい、貴方は廃嫡とします!」
王を差し置いてすべての実権を握る王妃は、きっぱりとそう言い切った。
震える下働きの少女に、町娘の姿をした悪魔を重ねているのだろうか。お得意の神の裁きが下る前に、ディードは王妃と恋人達の間に立った。
「ねえ、あなた。王太子の座は、第二王子こそふさわしいですわ。愚かな兄の後に座るなどあの子が可哀相ですけれど、もはやあの子しか希望はありません」
「ああ、そうだな」
「ご冗談を! 婚約者がいる身ながら別の少女との不貞に走った兄王子が廃嫡で、兄の婚約者と不貞を重ねた弟王子を後継に据えるなど、道理がとても通りません!」
王と王妃の戯言を一笑に付し、ディードはやれやれと首を横に振った。第二王子と元婚約者の令嬢の顔色がさっと変わる。
「先ほどから聞いていれば……! 異国の者といえど、これ以上の看過はできぬ! 余らを愚弄するのも大概にせよ、伯爵!」
「これはこれは。では、一つ訂正を。私、生まれも育ちもここアートリシア王国でして。自国の王家のことなれば、多少口を挟んでも許されますか?」
怒り狂う王を軽くあしらい、ディードは居並ぶ王侯貴族達の前で仮面を外した。
さんざん異国の貴族だと思っていた仮面の男の素顔に、この国の罪人の烙印が刻まれていたのだ。今の彼らのように、呆けた顔の一つも晒したくなるものだろう。
「二人の王子よりもよほど王の座に相応しいお方を、私は知っています――それはアートリシアの第一王女、エレリカ・ダートルッシュ殿下でございます!」
高らかな宣言とともに、ディードの隣に一人の美しい娘が現れた。エレリカが魔術で転移したのだ。
悪魔たる残忍な牙と禍々しい角、豪奢なドレス、まばゆく輝く波打った金の髪、女神かと見紛うほどの美貌。瞳孔こそ奇妙だが、赤と黒の二色の瞳は紛れもなく王家の人間であることの証だった。誰もエレリカの素性を疑えないだろう。
「お初にお目にかかります、お父様……と、王妃様? それから、異母弟達も。貴族の皆様は、いつもわたくし様に魔力を献上してくれていましたね。褒めてつかわしまして」
悪魔の王女は天使のように美しく微笑む。若い世代の者達はぴんと来ていなかったようだが、ある程度年のいった者はその“王女”の正体をすぐに掴んだようだ。
王でさえ腰を抜かし、震えながら娘を見上げていた。王妃は驚愕を露わにしてエレリカを見つめている。
「ディード、ここがわたくし様の国でして?」
「その一部さ。ここは王宮、これからお前が住む場所だ。気に入らなかったら、全部壊して新しく建て直せばいい」
「そうすることにします。ここは聖なるものの気配が染みついていて落ち着きません。王妃様がいるからでして?」
エレリカは不満そうな顔で、「悪魔の娘……! どういうことですか、あの女との間に子はいないと言っていたでしょう!」「違う、どうしようもなかったのだ! アレは殺せない、だから閉じ込めていたというのに……!」言い争う国王夫妻を一瞥する。
視線に気づいたのか、王妃ははっと居住まいを正した。そして、荘厳な声音で裁きを願う神への祈りを────
「静かにしてほしいのでして」
紡がれた聖句は、醜い音の塊として結ばれた。悲鳴を上げる暇もなく斬り離された王妃の首が、ぼとりと床に落ちる。一拍遅れて、ほうぼうから悲鳴が上がった。
「弟達にはどちらも王位継承権がないことになったのでしょう? なら、わたくし様が女王でいいはずでして。文句のある方はいまして? まず初めのお仕事として、叛逆者の首を刎ねておきたいのですけれど」
蛮勇を奮った兵士がいっせいにエレリカとディードに飛びかかる。彼らは瞬きの間に首を刎ねられた。魔術によって不可視の刃を放ったエレリカは、ドレスに返り血がついていないか心配そうに裾をつまんであちこち見回していた。
悪魔に人の倫理観など通用しない。もはや王女の宣告に、異を唱える者はいなかった。代わりに、我先にとホールの外に逃げ出そうとしている。
しかしどこに逃げても同じだ。窓の外を見れば、飛行できる魔族達が押し寄せてくるのがわかる。空を飛ぶものだけではない。地を駆ける魔族も、すでに王都のあちこちで殺戮を繰り広げていることだろう。耳を澄ませば、外からも悲鳴が聴こえてきそうだった。
ディードが結成した、最下層民を中心とする革命軍も魔族達と合流するはずだ。おとなしく投降する無力な民の連行は、革命軍に任せてある。国を盗った後の労働力と生産力は必要だ。
自分達の背後にいた者が魔族と繋がっていたと知ったって、臆する者など最初から革命軍にはいない。革命軍に加わっているのは、人間のほうがよほど“悪魔”だと知っている連中ばかりなのだから。
今日の夜会に第一王子が婚約の破棄を宣言することは、すっかり信頼を得た下働きの少女から聞かされていた。身分差を不安に思う臆病で慎ましい少女の思考を利用して、大々的に宣言することで横槍を防ぐべきだ、少女への愛を広く知らしめて彼女を安心させるべきだと第一王子を遠回しに誘導したのはディードなのだが。
それをもってエレリカの即位の儀とすると、ディードはあらかじめ決めて手駒達にも通達していた。二十年前に国王が行ったものとまったく同じその宣言は、王子二人が継嗣として不適格だと晒すのにぴったりだったからだ。
「何を怯えているんだか。お前達は神に叛き、黒魔術に縋ったじゃないか。遊びだったなんて今さら言わせないぞ」
慌てふためく人々が逃げ惑う光景を見ながら、ディードも嗤った。ふと視線を巡らせると、第一王子と下働きの少女がいた。王子は少女を背にかばうようにして立っている。
「平民になってもいいんだろう? 王子の責務なんてさっさと捨てて、その女と一緒にどこか遠くへ逃げればいい。叛かないなら殺しはしないさ、エレリカは慈悲深いからな。運がよければ、外の魔族からも逃げ切れるだろう」
ディードが浮かべた悪魔の笑みに、第一王子は何か言いたそうに歯噛みする。それでも結局声にはならず、王子は恋人の少女の名を呼んでその手を引いた。
少女は困惑に揺れる瞳で一度だけディードを見たが、そのまま最愛の王子とともにホールの外へと駆け出した。
ほとんどの招待客はホールから逃げおおせたようだ。まだ残っているのは、ディードの呼びかけに応じていた反王家派の貴族達ぐらいだった。
保身のため、あるいは権力のために悪魔につくことを選んだ彼らは、王と第二王子が逃げないように取り囲んでいる。王族の地位を捨てるつもりだった第一王子とは違い、彼らは新王朝の脅威になりかねないからだろう。第一王子の元婚約者の令嬢は、王妃の出血にあてられたのか気絶していた。
「お前……お前は、何者だ……? アルルカン伯爵……お前が、あの悪魔の娘を牢の外に出したのか……?」
「ディードと呼べと言ったはずだが。……お前が僕を知るわけがないか。あの頃の僕は、社交界に出られる年でもなかったし」
それでもこの顔立ちに見覚えはないかと問えば、王は青い顔で首を横に振った。ディードはため息をつき、静かに王の元へと歩みを進める。
一方で第二王子はディードを口汚く罵っていた。穢れた血の分際で、自分が何をしたのかわかっているのか、地獄に堕ちろ。感情的に放たれる言葉の羅列は、もはやただの騒音だった。
「わたくし様の宰相を侮辱する者は、わたくし様を侮辱したも同然でして」
すかさず不可視の刃がエレリカから放たれる。第二王子は物言わぬ屍と化した。
肉塊も同然の姿で床へと落ちた第二王子には目もくれず、ディードは王の前に膝をついた。
「二十年越しに、お前の言葉を真実にするために来た。どこの馬の骨とも知れない小娘に王子をたらしこませ、麗しい悪魔をそそのかしてお前に会わせ、祖国を乱して世界をひっくり返しにな」
ディードは口元を悪意に歪めた。王は何かを思い出したのだろうか。はっとして呟かれたのは、今は亡き父の名だった。
憎悪に燃えるディードの双眸は、まっすぐに王を見つめていた。王から目をそらさないまま、ディードは胸の短剣に手を伸ばす。
「お前の言葉通り、ヴァリエーリこそこの叛逆の黒幕だ!」
短剣は、王の柔らかい首筋を貫いた。鮮血が溢れる。王は酸素を求める魚のように口を動かし、血を吐き出した。
「……ッ!」
仇にとどめを刺して安堵したのもつかの間、再び聖句の詠唱が聞こえてきた。振り返る。気絶していた令嬢が起き上がり、第二王子の成れの果てを抱きながらディードを睨みつけていた。
なるほど、道理でこの令嬢が第一王子の婚約者に選ばれたわけだ。恐らく、同じく神の愛を受けた者として王妃に気に入られていたのだろう。
魔術とはまったく異なるその清らかな力の使い手は、この国ではとても珍しい。聖女の血筋が扱う光には遠く及ばずとも、魔族達や……眷属として悪魔の影響を大きく受けているディードにとっては、ひどく忌々しいものだ。
「目障りでして」
だが、その頭は一瞬にして弾け飛ぶ。
悪魔の女王の前で、神の威光など届くわけがないのだ。血溜まりや肉片をヒールで避けながらディードのもとに歩み寄ったエレリカは、ディードが浴びた返り血をぬぐいながら天使のような笑みを浮かべた。
「さあ、戴冠式をしましょう。それが終わったら、神の国を滅ぼさないと。隣の国が聖なるものに連なる国だというのは、やはり嫌でして」
「もちろん。エレリカ、お前がこの国の新しい女王だ」
膝をついたエレリカに、前国王の頭から転がり落ちた王冠を捧げる。血のついた王冠が、美しい女王の頭上で煌めいた。その場にいた貴族達は、瞳に恐怖を宿しながら無言のまま跪いた。
彼らは、自分達は変わらずに生きていられるとでも言いたげに卑屈な笑みを浮かべている。だが、そうしていられるのも今だけだ。魔力を持つ貴族は家畜、持たない平民は奴隷になるのだから。
魔族の国に、上流階級の人間など必要ない。重用するとしたら、優秀かつ忠実な手足だけだ。革命軍は、人間達のいい牧羊犬になるだろう。
「落ち着いたら、新しい王冠がほしいのでして。だってこれ、お父様の血がべっとりでして」
「わかった。お前にふさわしい、最高のものを用意しよう」
形式だけの戴冠を済ませると、エレリカはすぐにそれを放り投げた。そして窓へと近づき、隣国の方角を眺める。
「神の裁きとやらが、お母様の故郷を焼いたと聞きまして。それなら悪魔の裁きは、どこまで滅ぼせると思いまして?」
「気の済むまで試してみるといい」
無邪気な問いに、笑みをもって返す。エレリカは嬉しそうに頷いた。
この日、地図から一つの国が消えた。その隣の国では王朝が新たなものに挿げ替わり、魔族の手に堕ちた。
一夜にして陥落し、魔族のものとなった国の名はアートリシア。おぞましい魔族達が支配する国には不死身の女王が君臨し、神の威を嗤い暴虐の限りを尽くした。
女王の強大な力によってアートリシアは明けることのない闇に包まれ、魔族の跋扈する永遠の夜の世界となった。かろうじて生き残ったアートリシアの民や周辺諸国は、長らく魔族の脅威に苦しめられることとなる。
女王の傍には、同じく不老不死の宰相が常に控えていた。元は人間だった彼が、いかにして女王の右腕になったかを────彼が暗躍するに至るすべての始まりが一人の王の失言だったことを知る者は、女王の他にはすでにいない。