第26話「あの島で――⑦」
ファン=クローはルーナ島以外の場所を知らない。
だが、ルーナ島はそれでも世界の一部だ。
ルーナ島が世間から隔たれていたとはいえ、この世の理は常に変わりない。
「誰か――動けるものはいないのか!?」
ファンの呼びかけに対して、返す言葉を持つ者はいない。
波がぶつかり合う音にかき消されている上に、クラーケンの金切り声が周囲を包む。
足は既に水に浸っており、想像以上に可動範囲が狭くなっている。
相対するクラーケンは幾つかの触手をうねらせており、とてもではないが一人で戦えるような相手ではない。
そもそも、ファンはクラーケンの存在自体を知らない。
「……クソっ、どうすりゃいいんだよ……!」
うねる波に足を取られつつ、常に携帯している剣を鞘から抜く。
揺れる水面と垂直に、ファンはその切っ先をクラーケンに合わせる。
明確な“敵意”を感じたクラーケンは、その視線をファンに合わせた。
どこが視覚なのかすらも分かっていないファンだが――その一方で斬れば殺せるということだけは分かっていた。
手元には、長剣と短剣が一本ずつ。
そのうちの一本は、かつての親友だったケルンの血が付いた短剣。
勝利の象徴を、むやみに振りかざすわけにはいかない。
抜かれた長剣を握り、クラーケンに向かって走り出す。
同時に、クラーケンもまたファンに向かって触手を一気に数本伸ばしていった。
「掛かって来いよ、化物――僕は誰にも負けない、この島の統治者だ。こんな化物に踏み荒らされていいような土地じゃない――ッ!」
ぬめりとした触手と、ファンの握る長剣が交差する。
茹でダコを斬るような感覚とは遥かに違う、躱わされるのでもない不思議な感覚だ。
当たっていないのか――?
そう思わせるほどの手ごたえしかなかった。
直接攻撃が当たらないのなら、魔法を使うしかない。
そう考えていくつも打ち込むが――一切の手ごたえがない。
やってきた触手を躱すことばかりに気を取られて、攻撃に返り咲くことができない。
どうすればいいのか、と考えていたのは最初だけだった。
どうしようもない、という思考が一度頭の中に入って来てからは、それが支配するのに時間はかからなかった。
徐々に水がファンのことを島の外へ外へと押し出して遥か果てしない海へと誘ってゆく。
それは同時に、島から水が引き始めているということでもあった。
海に引き込まれないように、ファンは徐々に島の内側へと引き返していく。
海の水とは思えないくらいに土の色と血の色に塗れていて――倒れた人が波に呑まれて流されている光景はまさに死屍累々だった。
そんな中で――
「うっ……ガハッ」
幽かに、息を吹き返す人の声がした。
倒れた人のほとんどは水の上に浮かび、血をその海に放出している。
だが――ファンと同じように防御魔法を撃っていた人間がわずかでもいる。
ほぼ諦めかけていた中、ファンは領民という希望を見出した。
ルーナ家の血筋は政治を行う上で排除した。
それが領民の望みだと信じて。
そしてそれは間違っていなかった。
領民は少なくとも、喜んでいた。
数多くの領民はこうして今、横たわっているが――だが、あの瞬間は喜んでいた。
こうして集まってくれたのは、僕に対する――クロー家に対する信頼と忠誠に他ならない。
もしこの場に、わずかながらにでも生き残りがいるのなら――それは、今僕が諦めない理由になるだろう。
ファンは――脳内で何が起こったのか、そして今何が起こっているのかをしっかりと把握し。
それから、息がある数人の兵士を叩き起こす。
数百人いたうち、しっかりとした生存が確認できたのがおよそ七十名余。
防御魔法は、一瞬しか聞かないがその分効果は絶大だ。
強い衝撃に対して生きるか死ぬか――まさにデッドオアアライブの二択から生き延びた彼らもすぐに今の状況を把握した。
巨大すぎるクラーケンを見て、何をしなければならないかを理解した、と言ってもいいだろう。
「対象、海の化物――これが最後の苦難だろう、付いてこいッ!」
ファンが率いるかつてのルーナ家の軍隊は。
生き残りとだけあって、戦略に長けた人間が数多い。
そうでなければあそこで魔法を使うというとっさの判断は出来ないだろう。
だからか――いつも以上の制度で統率がとれていた。
アレットの魔法が解けていることもその理由の一端にはあるのかもしれない。
だけど、そんなことを考えている暇は既にファンには無く。
ただただ、目の前の敵を斃すことだけを考えていた。
※
やがて、かつてのルーナ島に一つの船が訪れる。
その船は、最も近い大陸から寄越されたものだった。
大陸は大津波の被害に遭い、だが同時に空から島が降下している様子も視認できるエリアにあった。
クラーケンの海域が近くにあるため、水害に対する対策は十全であった。
それでも、一つの島が近くの水域に墜ちた影響は計り知れないが――島の調査をする程度の余力はあった。
そこに始めて訪れた者が見たのは、斃されたクラーケンと、夥しいほどの死人。
そして、わずかながらに残された島に残る原住民。
「初めまして、私はファン=クロー。この島の主を務めている」
その島を訪れた名も知らぬ船を、快く歓迎しながら迎えてくれた。
後ろにあるのは、小高い山ではなく――クラーケンの死体。
その表情は、疲れなんてどこにも見えない程、人間離れした笑顔だったという。




