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黄泉がえりの東條英機  作者: 広田昭和
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第2章 天皇陛下の御親拝

 歳月は流れ、1979年5月26日。三河湾を望む高台にそのホテルはあった。

 朝6時。既に寝巻からスーツに着替えた老人が、ホテルの山側の掃出し窓を開け放し、緑の濃くなった山の尾根あたりを見つめている。野鳥の囀りがかまびすしい。

 老人の顔には、深い皺が刻まれ、きゅっと強く結んだ口と厳しい眼差しがあった。老人は、直立したまま15分ほどであろうか一心に黙とうしていた。やがて、老人は、ゆっくりと頭を下げ、応接間のソファーに腰を下ろし、フーッと息を付いた。

 その時、ホテルの尾根から空の一角へ青白い光が「スーツ」と走った。

 この老人は、実は、昭和天皇であり、愛知県豊田市の植樹祭に出席するため、市内のホテルではなく、わざわざこの愛知県幡豆郡東幡豆町の三河湾を望む三ヶ根山のホテルに宿泊した。ホテルの部屋からは、「殉国七士の墓」が望めることができる。

 昭和天皇は、決して公式に親拝することが許されない立場を考え、ホテルの窓からこの墓に向かい、御親拝されたのであろう。

 

 さて、「殉国七士」とは、A級戦犯の「東條英機(陸軍大将、内閣総理大臣)、板垣征四郎(陸軍大将)、木村兵太郎(陸軍大将)、武藤章(陸軍中将)、土肥原賢二(陸軍大将)、松井石根(陸軍大将)、広田弘毅(文民、元内閣総理大臣)の7名である。


 この7人について、簡単に触れて置こう。

東條英機(1884年出生、64歳没)は、説明するまでもなく、太平洋戦争の開戦時の内閣総理大臣で、陸軍大臣、内務大臣を兼務していた。連合国極東裁判所が最も責任重大な人物としていた。

 板垣征四郎(1885年出生、63歳没)は、関東軍高級参謀として満州事変に深く関与し、陸軍大臣、支那派遣軍総参謀長を歴任し、中国に対する罪を問われた。

 木村兵太郎(1888年出生、60歳没)は、東條内閣時の陸軍次官であったことにより、連合国側からは日本の陸軍次官職について欧米並みの政治的権限を持つと考えられたことにより、A級戦犯の指定を受けた。

 武藤章(1892年出生、56歳没)は、東條内閣時、軍務局長の要職にあり、太平洋戦争開戦決定に際しては,その中心的役割を果したとみなされ、第14方面軍参謀長としてフィリピンで終戦を迎え,戦後A級戦犯に問われ、捕虜虐待の罪により死刑となった。

 土肥原賢二(1883年出生、64歳没)は、満州事変当時、特務機関長として活躍し、華北分離工作を進め,日中戦争時には土肥原機関を設立し、呉佩孚擁立工作を行っ

た。1945年4月には、教育総監となる。連合国極東裁判所では、中国から厳罰に処するよう要請があり、A級戦犯の指定を受ける。

 松井石根(1878年出生、70歳没)は、一貫して中国通として知られ、退役後も大亜細亜協会の会長を務め、中国への関与を続けた。日中戦争が勃発すると上海派遣軍司令官として、現役復帰し、南京戦を指導した。これにより、戦後、中国の強い要請により、A級戦犯に指定され、死刑となった。

 広田弘毅(1878年出生、70歳没)は、1936年の二・二六事件後、軍部の圧力が強まるなか、首相となり,当初外相を兼ねたが,閣僚の人選をはじめ,軍部大臣現役武官制の復活,〈国策の基準〉の決定など,軍部の意に追随せざるを得なかった。戦後、A級戦犯として南京虐殺事件の外交責任を問われ、文官中ただ一人死刑となった。



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