第1章 殉国七士
1948年11月12日、極東軍事裁判所からA級戦犯に指名された東條英機ら7名の死刑判決の言い渡しがあった。この日以降、三文字正平弁護士は、遺骨をどうやって遺族の許に戻か思案にくれた。
アメリカ人弁護士からマッカサー元帥に遺体を遺族に帰すよう依頼したが、元帥からは返事はなかった。そんな折、三文字は、懇意の米国検事から死刑執行の日を聞き出した。
「12月23日に決定か。皇太子明仁殿下の誕生日だ。」
三文字は、米国の底意地の悪さを感じた。
「皇太子殿下が天皇となった時国民は天皇誕生日を祝うたびにA級戦犯7名の刑死を思い出すことになる。」
三文字は、火葬場から遺骨を持ち出すことに決めた。火葬場が久保山斎場であることを突き止めると、近くの住職に相談を持ちかけた。さらに意気に感じた火葬場長からも協力の約束が得られた。
12月23日、マスコミに気づかれぬよう午前零時1分から20分にかけて、巣鴨拘置所で7名の死刑が執行され、予定どおり横浜市西区の久保山斎場で火葬に付された。火葬場の周囲は銃で武装した米兵に厳重に囲まれ、日本人は場長以下4人の職員のみだった。
彼らは米兵監視の目をかすめ、用意した七つの骨壺に遺骨を納めることに成功した。しかし、遺骨を隠した場所で線香を焚いたため、不審に思った米兵に発見され、没収されてしまった。
米兵は7人の遺骨を鉄棒で粉砕し箱に詰めて運び去り、東京湾に捨てた。残った分は全部ひとまとめにして骨捨場に遺棄した。
その報告を聞いた三文字はあきらめきれず、12月26日の深夜、住職とともに火葬場長に伴われ火葬場に忍び込んだ。
3人は、場長が案内する形で、場内を共同骨捨場に向かった。
「コツ、コツ、コツ」
ズック靴の音が、夜の斎場に驚くほど響く。共同骨捨場は、コンクリート製の「ほり」の形をしている。3人は、懐中電灯の灯りを頼りに、底冷えのする骨捨場の底に見える真新しい骨灰を竹竿の先につけた空き缶で、一般人の骨と交わらないよう、苦心の末に骨壺一杯ほどの骨粉を拾い上げた。
3人が外に出たとき、火葬場の屋根が青白く光っていたのを3人は知らなかった。
その後、しばらく7人の遺灰は、熱海の伊豆山に松井石根が建立した興亜観音に秘匿され、紆余曲折を経て、1960年7月17日に愛知県幡豆郡三ヶ根山に建立された「殉国七士の墓」に埋葬された。