第04話 蠢く影と潜む猫
「不思議な子、ですよね」
綺麗な看護師はそう言いながら、口元に手をあてクスッと笑った。
いつもなら麗しい顔を見ながら、多少なりとも面白おかしい会話に興じていたと思うのだが、俺は目の前の少年に釘付けになってしまっていた。
「え? あ、あぁ……。天使の病室と間違えたかと思ったよ」
咄嗟に返事が出なかったし、軽口にも冗談にもなっていなかった。
「そうですよね」
と、すぐさま同意されてしまったからだ。
アルビノって感じじゃ全く無いのだが、良く見れば黒髪と白髪が交じり合った銀の髪に、透き通るような白い肌。それらは窓から差し込む日の光を受け輝いていた。
顔立ちは日本人と言われれば日本人なのだが、髪や肌の色と相まって国籍も、いや、聞いていなかったら性別だって分からなかったに違いない。
白髪にしたって老けて見える原因のひとつに上げられてる気がしたんだけど、こうなるとただのお洒落に見えて来る。
実際本当に神秘的かつ中性的だと思ったし、確か天使って性別が無かったんだっけ。なんて考えていたもんだから、思わずそのまま、天使の病室、だなんて口から出てしまったんだ。
おかげでまぁまぁ恥ずかしい台詞になってしまった。
もっとも、看護師さんに同意されているのだからセーフと思いたい。
そんな俺の気配に驚いたのか、少年の手から青い小鳥が窓の外へと飛び去っていった。
参ったな。
「初めまして。ちょっとタイミング悪かったかな」
少し申し訳なく感じながら、そう切り出し少年に歩み寄ると、
「え? 日本語? 日本人?」
と、大きなおめめをもう一回り大きくさせて驚いてくれた。
「そうだよ。俺は大崎 尊 20歳。タケルでもタケル兄ちゃんでも。好きなように呼んで欲しいな」
と、出来る限りの子供向け安心安全スマイルを心掛けて握手を求めたのだが、差し出した手を見て不思議そうな顔をされてしまった。
警戒されてしまったのかな。と俺の打たれ弱い心がチクりと痛んだ。
髭も剃って来たのに。
「えっと、結崎 瞬夜 8歳です。タケルさん。タケル兄ちゃん? この手はなに?」
意外な質問が飛んできた。
まずい。露骨に驚いた顔を見せてしまった気がする。
いや、だって、いくら8歳とは言え、握手を知らない事があるだなんて、考えた事も無かったから。
「タケル兄ちゃんでいいよ!」と、明るく答えたが動揺は隠せなかっただろうなぁ。
体調の事を考え、念の為ベッドに腰掛けて貰うと、俺は看護師が差し出してくれた椅子に座った。
聞くと、日本人は俺以外にお母さんと近所のおっさん。
ロシア人は接した事がある程度で、まともに会話をした事のある人がいない。
ので、たった今出会ったばかりの俺を含めて、3名としか他人と言葉を交わした事が無いのだと言う。
一応テレビはあったが、
「ロシア語は分からないし電気代がもったい無いと思った」
だなんて事まで言われたから、胸が苦しくなってしまった。
「そうだったんだね」
と、ただ微笑みを返す事がとても困難だった。
母親は日本で育ってロシアに渡ってきたらしいが、普通に日本で産まれていたら、絵本もテレビも見る事なく、学校も行かず、他人ともまともに会話もせず。そうして8歳を迎えるなんて事が有り得ただろうか。
いや、ロシアで産まれてたってそうそうある事では無いはずだ。
もしかしたら、そんな環境で育ってきているのに、今、少年がこのレベルで日本語が話せている事自体、お母さんの教え方の賜物なのかも知れないがちょっと珍しい事なのかも知れない。
(そして今回の事件か……)
俺は民間人だ。
本来、他国の民間人に捜査内容なんて、そうは簡単に教える訳にいかないはず。
だから、少年の事や事件の細部を教えて貰えなかったのだろう。
そう思っていたのだが。
もしかしたら、そもそも、この家族と外部との接点が少なすぎ、ロシア警察もいまいち情報を得る事が出来ていないのかも知れない。
勿論、少年に伝えられて困るような事もあるだろうから、そういった意味でも俺に対して多少の情報制限はあっただろう。
ともかく。
今日の目的は顔合わせと信頼を勝ち取る事だ。
せっかく明るくいてくれてるのに「可哀想」なんて口にも顔にも出す訳にはいかない。
なんとか話題を明るい方向に変えていかないと。
「鳥、飛んじゃったね。ごめん来るタイミング悪かったね」
そう謝ると瞬夜くんは、
「シーニィって言うの! 呼べばすぐ来てくれるから平気だよ。ママが怪我してるシーニィを家に持って帰って来てくれたんだ」
一日でこんなに自信を打ち砕かれた日がかつてあっただろうか。
過去最低記録である異国の地における全裸逮捕などと言う、忌まわしい汚点でさえも塗り替えられてしまったじゃないか。
たった二言三言交わしただけで殺された母親の話を持ち出させるなんて。
あぁもう。俺は俺を見損なった。
「何て種類の鳥?」
「わからないの。小さい時は黒かったんだけど」
これは汚名返上のチャンスかな。
「瞬夜くん。出来れば明日も遊びに来たいんだけど、その時に鳥の図鑑を持って来ても良いかな? 一緒にさっきの鳥、シーニィだっけ? 探してみない?」
そう提案すると、世界中の人々が「待ってました!」と喝采を送ってくれそうな、これぞまさに奇跡級の笑顔で、
「うん! ぜったいに来てね! 待ってるからね!」
と応えてくれた。
マジ天使。
俺は「日本風の約束の仕方」と指切りを教えた。
瞬夜くんは「こっちにも」と首にかかったロザリオを差し出してきた。
二人でロザリオを握り合い誓いを交わし、この日は帰宅した。
俺は看護師にも別れを告げ廊下に出た。
近くの椅子で待機していたらしい女性警察官が近寄り「どうだった?」と聞いて来たから、一連の会話を説明。鳥の図鑑の手配を頼んだ。
何冊もね。分厚い奴をね。と念も押した。
ついでに、すこーし遠慮がちに、
「今日は収穫が少なかったから安いホテルで良いよ」
と話したら、
「お前にはテントがあるだろう」
と、こちらを見もせず応えられた。
俺は懲りずに、
「貴女が来てくれるなら」
と言おうとしたのに、四文字目くらいで腰元の手錠に手をかけられたから、
「ご飯だけはお願い致します」
と、俺は初めて使う事になる最上級に丁寧なロシア語でお願いした。
そう言えば、まだお互い名乗ってさえいなかった。
些細な事だけれど、気がついてしまうと悲しいものだね。
警察署のシャワールームを貸して貰える事になったから、テントの中でタオルやら準備をしていたら、彼女がやってきて幾つかサンドウィッチをくれた。
安物では無さそうだし、思っていたほどには嫌われていないのかも知れない。
強めに投げ入れられたせいで具材の形状に若干の異常は見て取れるのだが、今までに比べたら一歩前進である。
もっとも、シャワー帰りに立ち寄った購買部で全く同じ物が売られていたので、わざわざ買い出しに出てくれた線は薄くなってしまったし、単純に上司の指示だったりする線も濃厚だけれど気にしたら負けだと思ってる。
その夜。
月明りのみが差し込む病室のベッドに腰掛け、少年は窓の外を眺めていた。
「う~み~は~ひろい~な~おお~き~な~」
地図を見ながら母が歌ってくれていた故郷の歌を口ずさみながら、少年は首から下げた銀のロザリオを握りしめ俯くと、静かに玉のような涙を幾つか落した。
その時。
月明りを受けた少年の背に伸びた影が怪しく揺れ動くと盛り上がり形を成した。
膨らみ大きくなって見える影は、そのまま背後から少年を包み込んだのだった。
完全に寝不足だった。
昨日出会った少年、瞬夜くんの事を考えていたら、いつの間にやら朝になっていたのだ。
思っていたよりも随分ヘビィで、かつ、難しく繊細な案件だった。
昨日のような失敗を何度もする訳には行かないし、彼の境遇を思えば、俺でも俺なりに少しでも捜査協力をしたいと思っていた。
最初は少年の笑顔に驚いたが、普通に考えたらあれが強がりでないはずがないんだ。
浴槽の中で遺体になった母親を抱き締めるように眠っていたと聞いているし……。
だとしたらだ。
彼はあんな小さな体に背負い込んだ不幸を受け止めた上で、周囲の大人達に気を使い、自分は元気だとアピールしている事になるだろう。
勿論、ただの予想だから違う可能性はある。
けれど、万が一にでもそんな事をしていたら。
当然そんな事はしなくていい。させちゃいけないんだ。
同世代の子供達に囲まれ、我がままを言い大人達を困らせて、当たり前に泣いて笑って生きる権利があるはずなんだ。
図々しく生き抜こうとしていた自分に、こう多少なりとも正義感のようなものがある事にも驚いたけれど、これが縁なのだろう。あの子の為に、やれるだけやってみたいと思った。
とは言え、妙に明るい笑顔だったようにも思える。
影のような、自分の知らない何かがまだある気がする。それは一体なんなのだろう。
胸に引っかかる小さな違和感。そんな事を考えていたら朝になってしまったのだ。
後、あれ。
ここ、一晩中パトカーが出入りしてるからサイレンが凄いうるさい。
初日は檻の中。二日目は熟睡してて気がつかなかったけど、公園に帰りたいくらいの騒音だった。
中学の頃の同級生は実家が大学病院の近くだったらしく、毎晩聞こえる救急車の音がうるさくて嫌だと言っていた。
当時は、確かに窓を閉めてても酷そうだ。なんて思ったものだが、ここはそんなレベルではない。
隣、どころか警察署の敷地内で、窓、どころかテントの布でしか仕切られていない。
今は心から、この世界が、いや、ロシアのこの警察署のエリア内だけでも平和と安寧と安眠でありますようにと祈りたい。
そんな事を考えながら、本日も歯磨きに髭剃りにと勤しんでから、テントを片付けて警察署内で預かってもらっている所に、我らが美人警察官が両手に大量の鳥図鑑を持ってフラフラとお迎えに来て下さりました。
なんだか微笑ましいな。と思い見ていると、
「何をニヤついて見ている」
と到着するなり無愛想な顔で睨み付けてられた。
「いや、優しそうな顔だなと思って。それなら……」
と、続きを言いかけてる途中で腰の警棒に手を伸ばされた。
「ちょっと、ちょっと待って。落ち着いて。君なら瞬夜くんの緊張も少ないんじゃないかと思ったんだよ。だから、今日は一緒に病室に行ってみない? 図鑑を用意してくれたと紹介するから話しやすいはずだし。って事が言いたかったんだ」
俺は慌てて、そう早口でまくしたてた。
「ふむ……」そう呟きながら髪をかきあげて検討している。
「まぁ、無理はしないよ。取りあえず自己紹介でもしてから様子を見ない?」
そう俺が提案すると「分かった。では着替えて来る」と、両手の図鑑を俺に預けて引き返して行った。
何となく嬉しそうな笑みを口元に浮かべているようにも見えたけれど。どうでしょう。
とにかく、手錠やら警棒やらを簡単に手にしようとするのは辞めて頂きたいものだ。
駐車場で少々待っていると、私服になった警察官が車の鍵を回しながらやってきた。
デニムのパンツに髪の毛を簡単に一つにまとめているラフなスタイルだが、制服姿しか見ていなかった俺の心はしっかりと弾んでいた。
まぁ、デートする訳じゃ勿論ないし、緊張感はしっかりと持って行かないとね。
ただ、移動中くらいちょっぴりデート気分を堪能させて頂こう。眼福。
途中寄る所も無かったので、真っ直ぐ病院へ向かう。
到着後、受付で声をかけると、看護師さんが忙しそうだったので僕らだけで病室へと移動。
病室へ着くなり、
「タケル兄ちゃん!」
と、瞬夜くんが天使スマイルで駆け寄ってくると、そのまま俺の足に、ガシッ! と抱き付いて来た。
やばい超可愛い。
俺は頭をぽんぽんと撫でながら挨拶を返す。
「おはよう瞬夜くん!」
しかし、よっぽど鳥の図鑑を心待ちにしていたのだろうが、初日にそこまでの手ごたえを感じていなかった俺は戸惑いながら相棒である女性警察官の目を見てしまう。
あの目は、意外とやるな。と驚いているに違いない。
俺も驚いているのだが、とにかく嬉しいし有難い。
早速、相棒を紹介する。
「今日は美人のお姉さんと一緒に来たんだ、名前は……」
あぁ、しまった聞いていなかった。
すると意外な事に、
「ワタシはソフィアです。ハジメマシテ」
と、カタコトながら日本語で挨拶をしたのだ。
これには瞬夜くんも俺も驚いた。
「日本語使えたのか」
と聞くと、ゆっくりとした口調で、
「スコシ。ほとんどダメ」
と返してくる。なるほど、多少は話せるって事もあって担当になったのかな。
しかし、カタコトの日本語って可愛いく感じるけれど、海外でもそうなのだろうか。
俺のロシア語はどう思われているのだろう。
後でソフィアに聞いてみたいが、何となく、また睨まれそうで怖い。
瞬夜くんは金髪のお姉さんの一所懸命な日本語が嬉しかったのだろう。
「ロシアの人で日本語できる人はじめて! ソフィアさんすごい!! すごいよ!!」
と、小さく飛び跳ねながら喜びを溢れさせていた。
ソフィアも一緒になって嬉しそうに微笑んでいる。
まぁ、俺には見せていない笑顔だった。
体力がしっかり回復したみたいで嬉しい。が、立ち話もなんだし、念の為ベッドに腰をかけるように促す。
我々は廊下と部屋にある丸椅子をそれぞれ用意し、ベッド脇に腰を下ろした。
細かいニュアンスや早い会話は俺が通訳しとけば、十分三人での会話が出来そうだ。
「さ! 早速図鑑を見て行こうか。最初は雛から見る?」
と、俺が切り出すと、
「うん! ねぇシーニィ以外のとりも見ていいの? すごいたくさんいる!」
と、目をキラキラさせて問いかけて来る。
もちろんいくらでも。と答えると嬉しそうにページをめくっていく。
「これ全部、ソフィアお姉ちゃんが一日で用意してくれたんだよ」
そう説明すると、瞬夜くんの顔が、ぱぁっと明るく咲いた。
「ありがとうおねえちゃん!」と強烈な天使スマイルをぶつけられたソフィアは、
「べ、べつに、コレクライ……」
と、頬を赤らめながら俺に助けを求めて来る。
分かる。分かるぞ。笑顔の破壊力が凄いよな。
図鑑は当然だが全てロシア語で書かれている。
基本的には俺が日本語に訳しているのだが、それでも分からない単語はソフィアが俺にロシア語で説明したのを、俺が日本語で瞬夜くんに説明する。
時々、俺とソフィア間でコミュニケーションが破綻するので、ソフィアが怒ったり叩こうとしてくるのだが、どうもそれが瞬夜くんのお気に召したようで何度も笑ってくれていた。
途中、いつもの美人看護師さんが、水や果物を差し入れてくれた。
時折、一緒に図鑑を覗いたりもしていたのだが、俺は今更ながら美形に囲まれている事に気がついて、若干の居心地の悪さと言うか、申し訳なさみたいな気持ちを抱いてしまった。
外国人特有の鼻の高さやホリの深さを羨ましく思うコンプレックスみたいなもんかな。
しかし眼福ではある。
世界の主だった鳥たちを網羅した頃には、日がてっぺんから沈み出していた。
シーニィと呼んでいたあの鳥は、恐らく日本名でスズキ目ヒタキ科のルリビタキと呼ばれる鳥。が近いらしい。
ルリビタキは季節によって移動する鳥で、側面にあるオレンジ色のラインが特徴。
そして雛の頃は確かに黒いようだった。
雄だけが青い頭と羽に白い胸。雌は灰に近い頭に羽をしていた。
もっとも、シーニィの場合は胸も青が占める割合が多いようなので、他の種なのかも知れない。
「ルリビタキ…… ルリビタキ……」
一所懸命覚えようと、そう何度も口に出している瞬夜くん。
釣られてソフィアも、
「ルリビタキ…… ルリビタキ……」
と繰り返して覚えていた。
ソフィアは俺よりも少し年上だと思うけれど、可愛く見える動作に年齢は関係ないな。
折角だから、俺もこの鳥の名前は憶えておこう。
「この鳥も綺麗だね」
なんてあちこち見て楽しんでいたが、本題にも触れなければならなかった。
折角の楽しい雰囲気。壊したくはなかったのだけれど、あまりに時間が経ってしまうのも良く無い。
ソフィアの話では、瞬夜くんの証言が無くても捜査は行っているとの事だったが、直近の捜査に役立ちそうな事だけでも早く聞きださなければ、当然犯人を追う事がより難しくなっていく。
俺は緊張させないようにと、笑顔のままベッドに上がり瞬夜くんの正面に座ると、ソフィアと事前に打ち合わせしていた通り、先に聞いておきたい事柄から順にひとつずつゆっくりと瞬夜くんに訪ねていく事にした。
あの日、一体何が起きたのか。
何を目撃したのか。
何をされたのか。
この時の瞬夜くんは強かった。
笑顔は消えてしまっていたし、終始うつむいてベッドのシーツに目を落としてはいたけれど、途中泣く事も無く、少しずつ思い出しながら、しっかりと全てを話してくれた。
俺とソフィアが事前に想定していたよりも、はるかに多くの事を細やかに。
時折、顔を曇らせ言葉に詰まる事が何度もあった。
襲われた事。
逆らって帰ってしまった事。
そして、隠れてしまったが為に見てしまった事。
きっと、とてもとても辛く苦しい記憶だろう、
話を聞いていた俺も、その通訳を必死にメモしていたソフィアも、目に浮かべた涙を瞬夜くんに見せないようにするのに苦労していた。
そんな俺らより、瞬夜くんは強かった。
「話してくれてありがとうね」
俺がそう言いながら頭を撫でてあげると、瞬夜くんは初めて俺の前で涙を見せた。
少しずつ、やがて雨のように、ボタボタとシーツに染みを落としていった。
俺はあぐらをかいた膝の上に瞬夜くんを持ち上げ乗せると、抱き締めながら頭と背中をさすってあげた。
涙はやがて慟哭を交えた豪雨に変わる。
俺も、ソフィアも、一緒に泣いた。
正直、少しほっとしたんだ。
優しい明るさと強さを持った少年。
このままではどこか壊れてしまうんじゃないか、そう感じていたから。
何の根拠があった訳では無いのだけれど、今こうやって胸の中で泣いてくれた事で、ひとつ何かの儀式になるのではないか。きっかけになってくれるのではないか。
欲張り過ぎかもしれないが、少しくらい、このくらい、期待したいなと思った。
涙が少し落ち着いた頃、病室内の空気を読んでいたのか看護師さんが入ってきた。
どこから持って来たのだろうか。その手には青い鳥のぬいぐるみを持っていた。
最高のタイミングに最高のサービスだと思った。
ソフィアが上司への報告を終え戻って来たし、それなりに長居もしたので今日は帰る事にした。
人が多いと良くも悪くも疲れてしまうだろうし、また明日も来るつもりでいたから。
ソフィアが「夜は寝るようにね」と釘を刺しながらも、図鑑をしばらく置いていくと約束すると、瞬夜くんは天使スマイルに加えて、今日教わったばかりの言葉で「スパシーバ!」と返していた。
俺も、久しぶりに図鑑とか見たけど、一緒になって楽しんでしまったな。
瞬夜くんから聞けた話は、俺らが覚悟してた以上に衝撃的だった。
帰りの車内、重たい空気が充満していた。
レイプ犯が殺人に関係してなさそうな事は捜査にマイナスだったかと思う。
しかし、母親と俺以外に日本語で話せていた唯一の相手だったとの事だし、恐らく大きな怪我を負っているだろう事から特定は容易なのだろうと思えた。
殺人の実行犯については心当たりが無いようだったが、一緒にいたと思われる男については見覚えがあるとの事だった。
こちらも、特徴をソフィアが聞き出していたし、少年の活動範囲の狭さを考えたら特定する事が出来そうだなと思えた。
しかし……。
警察でさえ、まさか全てを目撃していたとは予想もしていなかっただろう。
天井裏から見ていた景色は地獄そのものだったに違いない。
そして、殺人の実行犯の異常性。
笑いながら、優しく髪を撫でながら、人が死んでいく姿を見る事が出来る男。
母親との関係性は分からないが、瞬夜くんを思って湧いた涙が乾く程の恐怖を感じた。
この事で、瞬夜くんが負ってしまったであろう心の傷はどう埋めたら良いのか。
俺は泣きはらした赤い目を思い出していた。
パトカーの車内から日が落ちかけた景色を眺めていると、何人もの人が並んでいるケーキ屋がふと目に入った。
「なぁ、あそこのケーキ屋って知ってるか?」
そうソフィアに尋ねると、
「あぁ、食べた事は無いが、何でも子供に人気のチーズケーキがあるらしい」
と返ってきたから、思わず俺はソフィアに振り向くと、ソフィアもこちらを見てきて目を合わせた。
「時間ある?」
そう、俺が言い終わる前に、ソフィアは車をUターンさせようとしていた。
念の為、携帯電話で病院に戻る旨を伝えながら、俺らは人気のチーズケーキを買いに向かった。
喜んでくれるといいな。
夜と呼ぶには少し早い時間ではあったが、雨が降り出していたせいもあって外は完全に暗くなっていた。
病院に戻った俺は「入るよ~」と受付に顔を出すも、看護師が誰も出て来ない。
念の為ソフィアに「良いよね?」と確認。「電話は入れてある」と頷かれる。
エレベータを上がり病室の前へと行こうとすると、前方の廊下に蛍光灯を浴び白く光るベッドシーツが落ちているのが見えた。
こんな中途半端な時間に清掃だろうか。
としても、普通、廊下の床にそのまま置いたりはしないだろう……。
そう思いながら歩いて近づく。
違う。
あれは倒れている看護師だ。
俺は手にしているチーズケーキの箱を気にも止めずに走り出した。
恐らくソフィアも後ろで走り出しているだろう。
場所は瞬夜くんの病室の前。
倒れているのはさっきも担当していた看護師さんだった。
パッと見出血はない。
「ソフィア! 見てくれ!」
そう俺は声を上げると、そのまま病室へと駆け込んだ。
廊下は電灯に照らされていたのに病室の中は暗かった。
焦る。
見ると、さっきまで俺が腰かけていたベッドの有る位置、の少し上に青い猫の目のような光が二つ浮かんで見える。
急いで壁にある電気のスイッチを入れると、ベッドの上から驚いた目でこちらを見る瞬夜くんと、見覚えのない、青い瞳に褐色の肌の少女がこちらを見ていた。
誰だ? 何をしているんだ。
少女は細い腕を少年に向けている。
そして、その手には大きな刃渡りのナイフが握られていた。




