第03話 母の愛
「息子さんが飼っていたのかな? それとも君かい?」
白髪の男は、手にした小さな青い鳥を浴槽にいる母に見せつけた。
「可愛いねぇ」
少年からは男の後ろ姿しか見えなかった。
一体この男はどんな顔でこんな恐ろしい事しているのだろう。
そして、何故こんなにも優しく甘い声で母を苦しめているだろう。
少年は涙が止まらなかった。
口から泣き声が漏れてしまいそうだった。
抑え込むその手が震えて止まらなかった。
(ママ、シーニィ…… あぁあぁ……)
両手を合わせ、思わずすがるような気持ちで母を見た。
母も泣いていた。
何度も何度も首を横に振っている。
それは悲しみと、恐れと、小さな命への懇願に見えた。
感情が溢れ興奮しているからか鼻での荒い呼吸が辛そうだった。
「チベットかな。鳥葬ってあったような。あれとは違うかな」
そう呟くと、男は握りしめた小鳥を両手に持ち替える。
少年や母が。嫌な予感が現実に、と思うよりも早く、いとも簡単に小鳥の体を逆の方向へ、雑巾を絞るように捻って見せた。
パキパキッ と、かすかに骨の砕けた音が聞こえた気がした。
口を塞がれたままの母が叫んでいるのが聞こえた。
体を動かそうとしているのが見えた。
少年はさっきまでの決意も忘れ頭の中を真っ白に染め上げていた。
「美しい君に、この青はとても良く似合うと思うよ」
男はそう言うと、乱暴に小鳥の羽をむしっては浴槽に入れていく。
そして、羽が無くなり無残な姿となった小鳥の体も投げ入れた。
少年は、浴槽が少しだけ赤く染まっていくのが見えた気がした。
これは一体何だろう。
そう、夢を見ているような。
少し、現実味のある夢。
(起きよう。ママとシーニィを助けよう。起きよう。)
少年は天井板を更にずらし身を乗り出した。
後は飛び込んでしまえばいい。
白髪の男の背後に飛びかかろう。
その時。
母と目が合った。
天井板をずらした事で、上半身だけを浴槽に沈められ、ちょうど天井を見上げる体勢になっていた母と目が合ってしまったのだ。
少年の母は驚いたのだろうか。
目を見開くとそのまま数秒動きを止めた。
そして再び大きな声で叫び出した。
「ン~!!!! ン"~!!!!!」
大きく首を横に振る。
驚いていたその顔は徐々に赤く、そして悲しそうな顔に変わっていく。
何度も何度も首を横に振った。
「可愛がっていた鳥が死んで悲しいのかい?」
男は手袋についた羽を払いながら呟いていた。
母と少年は見つめ合っていた。
少年は小さく頷くと身を乗り出す。
けれど、その姿を見た母は首を横に振った。
今度は小さく。優しく。
母の涙は枯れてはいなかった。
けれど、口元には笑みが浮かんでいるだろうか。
そして小さく首を横に振る。
何度も。優しく。諦めを感じさせるように少し悲しげに。
小学校に行けない事を泣きながら謝った時。
母は少年に微笑み、小さく首を横に振って答えた。
「ダメな時はダメなものだから。今は何もしなくて良いから。やれる時に、やれる事からやっていこう」
そう語った、あの時と同じ笑顔だった。
悲しそうな、それでいて優しい笑顔。
上手く行かない負い目を小さな背で負った少年に、母はいつでも優しかった。
(でも! ママ、ぼくが助けるよ)
そんな少年の気持ちを感じているかのように、何度も首を横に振る母。
目からは止めどなく玉のように涙が溢れていた。
しかし優しい笑顔が崩れる事はなかった。
その姿を恐怖で狂ってしまったからだと感じたのか、
「ここまでかな。今までありがとう」
男はそう言うと蛇口を捻り浴槽に湯を溜め始めた。
浴槽の縁に乗っている母の足の横に腰掛け、母の口元まで水が満たされたのを確認すると湯を止めた。
「苦しいだろうけど、ゆっくりおやすみなさい。運が良かったら、またね」
男は手袋をしたままま浴槽に手を入れると、湯に沈んでいる母の髪の毛を優しく撫で続けた。
少年の母は笑顔を崩さず、ゆっくりと首を横に振り続けている。
天井にいる最愛の息子に向かって。
恐らく母として最後に出来る仕事として。
そして、最後まで、最愛の息子を、その目に焼き付ける為に。
そして、最後に、苦しそうな顔を、その目に焼き付けさせない為に。
少年の、心は、頭は、限界を遥かに超えていた。
何が正しいのか、どうするべきなのか。
もう自分の力で考える事など、とても出来そうになかった。
だから、ただ母を見つめていた。
ただただ、見つめていた。
酔って寝てしまう母を思い出していた。
見つからないようになのか。
手足を拘束された姿を隠したかったからか。
酔った母に布団をかけ直すよう、少年はゆっくりと天井板を閉じた。
僅かに空いた隙間からは母の笑顔だけが見えていた。
(瞬夜、愛してるよ)
そう聞こえた気がした。
母の動きが無くなってからも、男は母の髪をしばらく撫で続けていたが、やがて風呂の栓を抜きリビングへと去って行った。
しばらくの後、玄関のドアが閉まる音が聞こえ、家の中は静かになった。
少年はゆっくりと天井から降りると母の頬に手を当てた。
母の体は温かかった。
「ママ」
「ママ」
手足につけられたベルトを外すが濡れたせいで固くて上手くいかない。爪を食い込ませ力いっぱい何度も試みてやっと外れた。
「ママ」
母の顔の横に、見た事も無い方向へと曲げられた家族の姿があった。
震える両手でそれを手にし、出来る限り元に戻してやる。
「シーニィ」
浴槽に散らばっている小さな青い羽をかき集め体を包む。
美しかった青い鳥。
「シーニィ」
もう見る影も無かった。
「二人とも起きて」
母は笑顔だった。
まだ天井にいた自分を見つめたまま。
笑顔だった。
「ママ」
「シーニィ」
あぁ……
少年は青い鳥を羽ごとその手に抱え浴槽に入った。
体を丸め母の胸に頭を乗せ横になる。
いつも聞こえていた音は、もうなかった。
「ママ、シーニィ。起きて。ぼく小学校にも行くから」
うっ…うぅっ……
っく…
うぅぁぁあ……
涙は、嗚咽は、もう止まらなかった。
この日、もう何度も流れていたはずの涙は、今まで以上に、体中の水分を奪うかのように目から溢れ、浴槽に、部屋の中に、少年の泣き声が響く程、またそれがより悲しみを涙を呼び戻すようだった。
少年は夢が覚める事を祈りながら、この日一日を思い出していた。
何が悪かったのかな。
廃工場に行った事かな。人を傷つけた事かな。
家に帰ってきた事かな。天井裏に隠れた事かな。
どうしたら二人は戻って来てくれるのかな。
「ママぁ…… シーニィ……」
少年は泣き続けた。頭が、胸が、おかしくなってしまいそうだった。
いつの間に晴れたのだろうか。
日は落ち夜になっているようだったが、小さな窓から月明かりが差し込んで来ていた。
そして月の光は母の首元にあった銀のロザリオを輝かせてみせた。
母子は神を信じてはいなかったが、少年もロザリオが祈りを捧げる対象である事は知っていた。
両手で青い鳥とロザリオを握った。
「どうかママとシーニィが戻って来てくれますように」
長い一日に疲れたのか。不幸に泣き疲れてしまったのか。
少年はいつの間にか、月明かりの下、深い眠りへと落ち込ていった。
そして、少年が次に目を覚ましたのは病院の白いベッドの上だった。
お腹が空いた。
そう感じ体を起こすと、そこは見た事も無い部屋だった。
いつ出来たのか、体の節々にある傷が痛い。
包帯やガーゼが当てられているのが何だかとても怖かった。
けれど、何となく、ここが病院である事が理解出来た。
食べられる物……
ベッド横の小さなテーブルに幾つかの果物が置かれていた。
バナナなら簡単に食べられそうだ。
皮を剥いて少し口に入れると、甘味が口から体中に広がっていくような気がした。
夢じゃなかった……
もう思い出したくない。思い出しませんように。
そう強く願いながら、それでも止めどなく溢れて来る悲しみ。
少年の瞳から涙に、口から嗚咽へと代わっては流れ出して行く。
「ママ、シーニィ……」
しばらく泣いていると、少年の頭を誰かが優しく抱きかかえてくれた。
驚いて見上げると、白衣をまとった見知らぬ女性だった。
少年を見て、薄っすら涙を浮かべつつ優しく微笑んでいた。
そして、もう一度抱きしめると、しばらく背中をさすってくれ、ロシア語で何かを呟いて去っていった。
数分後。
先程の女性がコップと水差しを手に戻ってきた。
その後ろからはスーツを着た見知らぬ男性が一人。
(警察の人なのかな)と何となくそう思ったけれど、それが怖かった。
スーツの男性はロシア語で話しかけて来たが、内容は分からなかった。
母の名前と自分の名前が聞こえた気がしたが、それだけだった。
首を振り、「分からない」そう答えると、困ったように首をすくめ帰って行った。
白衣の女性はコップに水を入れ、食べ残していたバナナと一緒に差し出してくれた。
バナナを食べ、水を飲むと、手を握ってくれた。
その手は温かかった。
少年は落ち着いたのか再び眠りについた。
―――――
面倒臭い……
やっぱり断るべきだったのかも知れない。
こんだけデカい国なんだから通訳なんて幾らでもいるだろうし、俺程度の語学力なら尚更そう。
まぁ、高工校(陸上自衛隊高等工科学校)で貰った給料はとっくに底をついているし、逮捕され強制送還されなかっただけでも十分有難い事なんだけど……
あ~。まぁ。うん。それは大変有難い事だ。
朝起きて髭を剃りながら、面倒臭がりな自分を慰める何度目かの言い訳。
予定はいつも埋めた後。しばらく経ってから面倒になる。
飲み会だってなんだっていつもそうだった。
俺は両親がいなかったから施設で育った。
是非うちの養子に。なんて、とても幸運な誘いを厨二心で蹴飛ばし、
「在学中にも給料が貰えて公務員扱いされる」
なんて、とても分かりやすい謳い文句を真に受けて入った高工校。
「早く自立したくて」
なんて、格好つけてもいたけど……
俺はどうにもこう、お国の為に規則正しい美しい団体生活ってのが向いてないようだった。
同級生が当たり前のように自衛官になって行く中、
「世界を知りたくて」
なんて、格好つけてのバックパッカー。
アメリカ、中国、インドと渡って、辿り着いたロシアで金が尽きた。
もちろんコネなんて無い。知り合いすら居ない。
進退窮まり、やけ酒に興じた飲み屋で出会った女の家に転がり込めたと思ったら、その子を狙ってたらしい地元のマフィアが「俺の女に何をする」って。
せめて何かをしてから来てくれれば良いのに、本当に気が利かない男。
そんで命の危険を感じて逃げた所が、大自然だけは取り柄の閉鎖的な田舎町。
仕事も無いし、仕方無く森の中でテントを張り、寒さに耐えつつネズミやらの小動物に草やら食って凌いでいたけれど、どうも国立公園の敷地内だったらしく管理人が警察に通報した。
そうして俺は川の近くで、拾ったドラム缶に湯を沸かして温まり、汚れた体を丁寧に清めていた所を銃を持った10人くらいの警察官に包囲される事になった。
さすがは先進国。男女平等の意識が徹底されているのだろう。
うち3人くらいが女性だった。
ほんと色々もう冗談じゃない。
「手を上げろ!」
なんて言うから一応手を上げつつ、
「先に銃をしまわせてくれ!」
と俺は自らの安全性を訴えた。
結論から言うと、俺の自慢の銃に危険性を感じられたのか、そもそもロシアではこの手のネタがウケないのか、本当に銃を持っていると思われたのかは分からないが、俺はきっちり拘束され全裸のまま檻へと連行された。
想像して欲しい。
全裸のまま手錠をされパトカーの後部座席中央に座らせられている姿を。
両脇には逞しいマッチョポリスメン。
「寒く無いか?」
だってさ。
心も体も寒いに決まってる。
檻に着くと服を返してもらえた。その後、1時間程の取り調べを受け、なんとか無事に解放される事に。
あの場所は珍しい動物が沢山いる公園だったらしくて、それはもうこっぴどく怒られた。
正直をモットーとしている俺の胸は少々痛んだのだけれど、国際問題になりかねない。
散々色々食った事は黙っておいた。
荷物をまとめて帰ろうとしていた所に、取り調べを担当した男がやってきた。
曰く、日本語しか話せない子供がいるから明後日にでも通訳をして欲しいとの事。
給料も少しだけ出るし君の安全性も証明出来る。との事。
と言う話だった事を思い出した。
そうだった。
言い訳するまでも無く、俺に拒否権なんて無かったんだ。
ここでなら、と言われた刑務所の敷地内。
張っていたテントを片付け、トイレで顔を洗い歯を磨き伸びた髭を剃る。
相手が日本の子供なら髭は珍しいだろうし抵抗があるかも知れないから。
しかし、日本語しか話せない子供か。何故ロシアにいるんだろう。
トイレを出ると「行くぞ」と金髪の美しい女性警察官に声をかけられた。
担当が交代したらしいが、やはり子供に対する配慮のようだった。
パトカーでの移動との事で駐車場に向かう。
この時、俺は背筋に冷たい物を感じた。
それは直感、と呼ぶような嫌な予感。
聞きたくはない。けれど我慢しきれずに俺は尋ねた。
「君、あの公園にいた?」
「え?君の小さな銃の話?」
パトカーでの移動中、子供の説明を受けた。
8歳の男の子。結崎瞬夜くん。
母一人子一人のロシア生まれ日本国籍。
貧困が原因で保育園や小学校には通わずロシア語が話せない。
先日、子供の酷い泣き声が聞こえる。と、近所の住民により通報があった。
警官が近隣を捜索すると、自宅の風呂場で殺されていた女性を発見。
同時に、その遺体を抱き締めたまま泣き疲れ眠っていた少年を保護。
二人の関係は親子で間違いないとの事。
少年の体には細かな傷とレイプ未遂の痕跡があった。
母親の職業が売春婦である事から、仕事上のトラブルや、息子のレイプに関係した事件に巻き込まれた可能性も高い。
事が事だけに素早い初動が必要。少年からいち早く事情を聞きたかった。
しかし、この付近の警察署には日本語の堪能な警察官がいなかった。
そこで俺に白羽の矢が立った。って経緯らしい。
俺のロシア語も中々に酷いものだったけれど、日本語はネイティブだから大丈夫かも。と。
しかし殺人にレイプね……
日本人だからと同族意識みたいなものは感じないけれど、言葉も通じない場所で孤立した8歳の男の子。母親を殺された上に、未遂のようだがレイプまで。あまり治安が良くない地域だと説明は受けたけれど、気の毒に……以外に言葉が見つからない。
俺も孤児ではあったけれど、学校等、それが原因でいじめられたりはしなかった。
施設でも特別な苦労は無かったと思う。むしろ同年代で気の合う仲間と暮らしたあの頃は大切な財産になっている。
どの様な人生を歩んで来たのか。
そして、今、病室で一人どの様な気持ちで過ごしているのだろうか。
最初は面倒な話だと思っていた依頼ではあるけれど。
(少年の為に、捜査協力以外でも何かしてあげられたら良いな)
そう思いながら、パトカーの中、窓ガラスを開けタバコに火をつけたが、「車内禁煙だ」と殴られ慌てて携帯灰皿で消す。
「ロシアは寒いね」
と苦笑いしながら言うと、
「日本人の頭の中は温暖化が進んでいるようだね」
と返されたから、病院まではそれ以上何も話せなかった。
病院が思ったより大きくて驚いた。
殺人事件被害者の保護も兼ねてると考えたら妥当なのかも知れないけれど、片田舎から連れて来られた分ギャップが大きかった。
事件から四日しか経っていないそうだ。
保護されてから二日間眠り、起きると食事を取り、また翌朝まで眠ったのだと言う。
最初はなんて言おう。
少年の心中を考えると緊張し身が引き締まる思いだった。
受付に着き、警察官が小窓から声をかける。と、中から女性の看護師が出て来て案内をしてくれた。
大人が三人も来ると緊張するかも知れないからと、まず、看護師と俺の二人で病室に入り、軽く挨拶から始めようと決めた。
白く清潔で無機質な廊下を歩くと、奥から子供の笑い声が聞こえた。
驚いた。
そこが目的の、少年のいる個室だったから。
想像していた陰鬱な雰囲気を感じさせない病室。
中は高くなりつつある日差しを浴び白く輝いていた。
そして、その部屋のベッド横にある窓辺に、開け広げた窓から吹く爽やかな風を浴び楽しそうに微笑む少年が立っていた。
薄いブルーのパジャマを着た少年は、透き通るような白い肌に不思議な白い髪、そして儚げな程に小さく美しい顔。そして美しい笑顔をしていた。
その姿が、あまりにも、そう、神々しい物語のワンシーンのように見え、思わず部屋の中に入る為の足を止めてしまった。
不思議な存在。そう思わせる少年の、その、微笑みを向ける顔の前に掲げた細い指先に、美しい青い小鳥が止まっていた。