第01話 母と子
この国の冬はとても暖かかった。
見た事が無いほど無数に行き交う車。
空から降る水まじりの雪に喜ぶ人々。
その光景は、ただ甘いだけの菓子のようでいて胸にもたれる。
自分と同じ言葉を用いて話している事にも気持ち悪さを感じていた。
「雪降ってるよ」
「寒いと思ったんだ」
「ほら見て、雪」
行きかう人々の会話はどれも似たようなものだった。
そうか。
この国ではこれでも寒いのか。
空から幾度降り注いでも積もる事なく溶ける雪。
ふと、対照的な、自分が生まれ育った力強い寒さと、大きな海鳥の羽のように舞い散る雪の降る、あの地を思い出していた。
雪に飛び込み埋もれては、
「風邪を引くよ」
そう、優しい母に叱られていた、あの頃を。
「私はここで生まれたの」
母は毎晩のようにベッドの上に地図を開いて教えてくれた。
それは少年にとって一日を締めくくる大切な時間だった。
暖かい季節には海で泳げる。
ロシアより食べる物も新鮮で豊富。
魚だって鳥の卵だって生で食べられる。
電気で動くゲームやおもちゃも沢山。
夜に出歩いても危険な事なんて滅多に無い。
どちらが子供か分からなくなるくらい、母は大きな瞳を輝かせて語っていた。
そして酔いが回ると、
「瞬夜…… お金…… もう少しで帰れるから」
そう語り、溢れた涙をこぼし切ると疲れ静かに眠るのだった。
地図上の海に浮かぶ小さな島国。
母に教わる夢のような故郷の話。
毎日のように聞かされた遠い遠い国の物語。
幼い少年の小さな想像力では、その国に特別な憧れを抱く事は出来なかった。
雪の無い冬も、暖かい毎日も、飢えの無い食卓も見た事が無いのだから。
けれど、笑顔の母とそこで暮らしていける場所があるのなら。
涙に濡れたまま寝かせずに済むのなら。
それはどんなに幸せな事なのだろう。
少年は母に布団をかけ直すと、頬にそっと口づけをして隣で眠った。
朝、目が覚めると母は既に朝食の準備をしていた。
寒そうに凍えているのを見ると、ベランダの冷凍庫から野菜を持ってきたのだろう。
と言っても、何か物が置けるようなベランダがある訳では無い。
あったとしても、雪が積もってアパートが傾いてしまうだろう。
窓の外にある鉄格子に、スーパーで貰ったビニール袋を固く結びつける。
その中に野菜や肉等を入れておけば数時間で勝手に凍る。
すぐそこに天然の冷凍庫があるのだ。
「おはようママ。野菜は僕の仕事でしょ?」
そう目をこすりながら母のいる台所へと向かう。
が、母が野菜を取るのに苦戦したのだろう部屋の中は少し肌寒かった。
少年は予定を変更し壁に置かれた暖房の近くに行き手を温める。
アタプレーニエと呼ばれている暖房は幾層にも折れ曲がった水道管で壁に貼り付けられている。
そしてそれはアパート全体と繋がっていて温水を常に流し各部屋を暖めていた。
貧乏なこの家でも使える程に安く経済的であったが、しかし、アパートが古いせいかいつも温度が足りず、少しでも窓を開けると冷え込んでしまう。
「ごめーん。寒かったよね」
母はそう言いながら少年に駆け寄ると後ろから抱きしめ温めた。
「ううん。でも朝ごはんくらい僕だってやるよ」
母の手を握るとまだ冷たかった。
少年には母に負い目があった。
元々、この地では綺麗な黒髪の母は目立っていたし、遠目から見ても異国の人間である事は間違いないし近くで見れば尚更。明るく細かい事に気がつく性格に大きな瞳の母は、多くの大人を知らない少年にとっても自慢だった。
けれど、明らかに貧しい身なり。
そのギャップもあってか、今思えばくだらない嫉妬もあったのだろう。
男性の目を引く事は珍しく無いし、心無い誹謗の対象になる事も少なくなかった。
完全に悪目立ちしていたのだ。
その上、何故か少年の髪は白髪に近い灰色だった。
ここは経済的に貧困層と呼べる人々の住む地域。
出入りが多く、周囲に比べてもそれ程閉鎖的では無い。
それでも親子は目立ってしまったし、幼い子供達にとって少年の髪は格好の的となってしまった。
外で遊べる陽気の日、近所の子供達と遊ぼうと話しかけても、逃げられ、罵倒され、時には悪役として暴力をぶつける対象となってしまう事も珍しくなかった。
その為、親子は、少なくとも少年は地域の中で完全に阻害され孤立し、家庭内では日本語を使っていた事も災いし、やがて学校に通うようになっても言葉の壁高く、教室に馴染む事なく不登校となってしまっていた。
学校に行って勉強してお母さんを助けなければならない。
そんな事は十分良く分かっていた。
しかし怖かった。
目、言葉、暴力、例えそれが優しい笑顔だったとしても。
自分に向けられる何もかもが自分を汚し苦しめるように感じてしまうのだった。
いつしか少年は母とかわす言葉も減らしてしまった。
ある日、母はアパートの前で怪我をしている黒い鳥の雛を見つけた。
上を見れば屋根の近くに巣があったが、とても手が届きそうにない。
落ちた際に軽い怪我もしていたようだ。
治療の為、そっと家に持ち帰ると少年は目を輝かせて喜んだ。
傷口を消毒し餌を与えた。
元気になったら自然に返してあげようと名付けなかった。
やがて、回復と成長により、少しずつ部屋の中を軽く飛び回る事が出来るようになった。
まだ黒い産毛は残っていたけれど、厳しい冬を待つ訳にはいかなかったから。
二人は天気の良い日を選び、森近くの公園を訪れた。
名付けなかったものの情は沸いていた。
初めて育てた小さな命だったのだ。
母に肩を抱かれるまで、少年は動く事が出来ずにいた。
「元気でね」
そう語りかけ優しく空へとうながす。
小鳥は青空へと駆け上がった。
しかし、気持ちよさそうに数回旋回しては見せるのだが、小鳥は少年の元へと戻ってきてしまった。
困った顔で覗き込む母には
「ちゃんと帰って来てるのに。何を怒られているのだろう」
そう不思議がっているようにさえ見えたという。
「ダメだよ。頑張れ!」
飛ばせては戻る。そんな行為を楽しんでいるようにさえ見える。
何度試しても、少し飛んでは少年の頭の上へと戻ってしまうのだ。
自然に返してあげなきゃ。
しかし、帰って来てしまう。
力強い覚悟を決めここに来たはずの。
その、まだあどけない顔を、涙と鼻水でびちゃびちゃにした、ご主人様の元へ。
母子は週に何度かそれを繰り返した。
ただ鳥を散歩させているだけのように思えて来た。
そして冬が来た。
鳥は少しだけ大きくなり、黒かった体を美しい青色に染め上げた。
母はその鳥に「シーニィ」と名付けた。
それは少年が覚えた最初のロシア語となったのだった。
母が朝食の支度へと戻る。
手伝おうとその後に続こうとした少年の頭に鳥が止まった。
「ママ、シーニィにご飯あげた?」
野菜を切る包丁の手が止まった。
「ごめんっ」
母はゆっくりとパン屑の入ったビニール袋を手渡し謝った。
「も~」
そう少年がふくれて見せた時、青い鳥は飛び上がり、今度は母の頭へと着地した。
「ママ、シーニィ怒ってないって」
「シーニィありがとうね」
二人は向き合い大きな声で笑いあった。
シーニィは少年にとって初めての友達になった。
名前をつけたあの日。
母は小さな鳥籠を買って来てくれた。
シーニィが少年の傍を離れる事はほとんど無かったのだが、家を出ては寒さに凍えてしまうし、小さすぎるその体の場所を常に気にかけて生活する事は出来なかった。
寝る前に鳥籠に入れて朝起きたら出してあげる。
そうすれば後は少年か母親が目の届く場所からいなくなる事は無かった。
三人で食べる朝食は前よりも素晴らしいように思えたし、シーニィにおやすみと告げて籠に戻すようになってから、母が涙に濡れたまま眠る事が少なくなった気がしていた。
家の外に出る事が出来ない少年にとって母が全てだった。
しかし、今は、母とシーニィと過ごす、この家のこの世界こそ素晴らしい世界だと思えた。
たった一つの小さな出会いが、少年の世界を何倍にも広げてくれたのだった。
素晴らしい世界はここにあったんだ。
朝食を終えると母は化粧を始める。
慣れた手つきではあるが、いつも丁寧に時間をかけていた。
「最初が肝心」
との事だった。
母は少年と夜を過ごす事を大切にしていた。
それにこの町では夜が危険な事も知っていた。
夜の方が稼げるのに、と大家に怒鳴られていた事もあったが、母は昼前には家を出て、夜になりしばらくすると帰って来る。
酒の臭いにまみれフラついていたし、母の仕事がどんなものなのかも分かっていた。
それは自分の為だと知っていた。
少年は誇らしかった。
ただ、時折、
「今日は大切なお客さんが来るから外で遊んできてね」
と、家を出される時が辛かった。
少年に行く場所など無かったし、シーニィも母もいない外の世界は恐怖でしかなかった。
学校帰りの子供達に見つかれば石を投げられ罵倒される。
「どうして学校に来ないのか」
もしくは
「白髪の化け物」
などと言われているのかも知れない。
いつだったか日本語の分かる親切な大人がそう教えてくれた事があったからだ。
「お前の母は男に体を売って生きている癖に俺には股を開かない」
「女を買う金も無い貧乏人だと親子で俺を馬鹿にしているんだろう」
「お前らはこの国じゃゴミ以下なんだ」
そんな事も親切な大人は少年に教えてくれた。
時に拳を振り下ろして。
もっとも、そのくらい少年も分かっていた。
言葉は通じなくてもバカにされている事は十分伝わるし、自分に微笑んでくる大人は『危ない』と母から教わっていたから。
いつだったか父親について聞いた事があった。
母の首元にはいつも銀のロザリオがかかっていた。
「きれいだね」と言うと「パパから貰ったのよ」と教えてくれた。
「パパは良い人?」
そう尋ねた少年に母は首を横に振り、
「自分は本当に若くバカだった」と呟いた後、
「瞬夜には分からないと思うけど、お母さんは外国の人に憧れててね。ここでは日本人は人気で大切にされる。そんな話を信じて、本当に軽い気持ちで来たんだ」
と話してくれた。
そして、
「でもね、瞬夜。あんたが産まれてくれた事は本当に感謝してるの。こんなイケメンになってくれてね。あ、でも気をつけなさいよ。笑って近寄る大人には特にね。襲われちゃうんだから」
そう言って抱きしめてくれた。
けれど、少年が本当に怖かったのは、心無い暴力では無かった。
時折いる傷ついた人々の姿だった。
時に、路上に、ゴミ箱に。
飢えて痩せ、頬はこけ、あばら骨を浮かせた自分の体を寂しそうに見つめる人。
時折、無くした右腕を探し続けているかのように、ゴミ捨て場を漁る人。
一番恐ろしかったのは、狂ってしまっているのか、何本か指を失った血まみれの手で自分の頭髪を少しずつ引き抜きながら、眼球が滑落し体の中が見えてしまった、その場所から、じっと少年を見つめてくる彼女だった。
決して治安が良く無い町。
母がこんな姿になって帰って来てしまったら。
考えたくも無い話だった。
母と歩いている時、そういった人々を見てしまい怯え泣き出した事もあったし、物陰から突然飛び出した彼女に抱き付かれた時は、母の手を引いて逃げ、今起きた出来事を伝えようとした事もあった。
あった。
けれど母は、
「外が本当に苦手なんだね」と寂しそうな顔になってしまうし、その夜は「もう少しお金が貯まったらね」と泣きながら眠ってしまうのだった。
あの人々は自分にしか見えていない。
少なくとも母や、近所のいじめっこや、自分を居ないかのように扱う先生には見えていないのだと思った。
怖かった。
先生がそうであったように。
あの人々がそうであるように。
少年にはその人々が何故傷ついた姿でいるのか分かっていなかった。
けれど、いつか、自分も少しずつ色々な人に見られないような存在になってしまい、母にさえ話しかけられる事が無くなり、食事を取る事も無くなり、痩せ細り、一人きり同じように町をさまようのだろうか。
少年は家の外に出る度、一人そんな事を考え怯えるようになっていた。
明日も、朝起きた自分に「おはよう」の声はかかるのだろうか。と。
やさしいママはぼくのためにはたらいている。
辛く悲しい事が沢山あるはずなのに。
自分には見せないように。
見えない場所で一人泣いている。
僕と日本に帰る事だけを目標に。
大嫌いな男どもに笑顔を振りまいて。喉に入れた指に歯で傷を作って。何度も吐いて。痛んでしまった黒髪をブラシに通して。体に良くない薬を飲んで。大家に必要以上の金を取られて。体に作られた傷痕を化粧で隠して。安い酒を飲まされても汚い体を舐めさせられても親切な大人にさえ体を開いても。
ドアの前で大きな溜息を一つ吐いて。
「ただいま~!」
って笑って帰って来るんだ。
僕とママとシーニィの家に。
この素晴らしい世界に。
それなのに大切なお客様が来る。
僕らの素晴らしい世界に。
僕を追い出して。
一体どんな人なのだろう。
少年がそう思うのは不思議な事では無かった。
母親もきっとその日が来る事は分かっていたのだろう。
けれど、この日である必要はなかったし、ここまでの思いの強さで無ければ少年もここまでの行動に出る事は無かったはずだった。
「大切なお客様ってどんな人? 僕より大切なの?」
そう、子供らしく拗ねてさえいれば終わっていたはずの話。
学校に行けない少年の負い目。
大切な世界を追い出される嫉妬。
小さく幼い気持ちの発露。
この日、こんな形である必要は無かった。
初小説初投稿となります。
稚拙な点、多々見受けられるかと思いますが、
出来る限りちゃんとお伝え出来るように努力を続けられたらと思います。
3話目から雰囲気が大きく変わる予定です。
今後ともよろしくお願い致します。