8-6
※※※
(ったく、なっとらんわい)
お菓子を頬張りながら、ノエシスはご機嫌斜めだった。
詩都香の頼み事を引き受けて、東京支部まで出向こうとしたまではいいが、そこからひと苦労だった。
東京の鉄道路線の複雑さは聞いていたが、なんとかなるだろうとたかをくくっていた。
品川駅で新幹線から降り、山手線に乗り換え、それが逆方向であることに気づいたのは、三駅ほど過ごしてからだった。
スマートフォンで検索すれば乗り換えの情報は入手できるものの、初めての土地でその情報を活かせるかどうかはまた別の話だった。
おまけに人身事故があった。その路線を迂回することは、すでにノエシスの限界をいささか超えていた。
駅構内で他の乗客に道を訊こうとしたところ、日本語で話しかけたにもかかわらず逃げられた。
(のーいんぐりっしゅじゃないっつーの)
駅員に尋ね、ようやく東京支部の最寄り駅にたどり着き、大正モダン風のその建物に入ろうとしたところ、扉が開かなかった。外観に似合わぬ先端技術を導入しており、虹彩と指紋でロックが解除されるようなのだが、あいにく彼女のものは登録されていない。
(正魔術師のあたしのくらい登録しとけ。いや、指紋とられるのイヤだけどさ)
業を煮やして扉を壊してやろうかと思っていたら、二人の人員が中から出てきた。
彼らに名乗り、中に入れてもらった次第であるが、そのときの遣り取りもノエシスを立腹させた。
「正魔術師を名乗るおかしな子供が来てまして――」
上にそう報告されたのである。
(だーれが子供だ。教育がなっとらん)
ノエシスの身分がはっきりしてからは、下にも置かぬもてなしだった。
だが、肝心の件はまだ進んでいない。東京法官は不在で、どこにいるのかも把握されていないらしい。
「いつもここにおいでになるわけではありませんので」と、ノエシスの相手を押しつけられたと思しき若い研修生は申し訳なさげな顔で言っていた。
「どこの支部でも同じだと思いますが」
そう言われると、ノエシスは追及の言葉を失う。彼女とて他の国の内情は知らないし、考えてみれば育ての親であるドイツ大法官も、ずっと居城に引き籠っていた。
こうして彼女は今、応接室のような部屋で、おやつを前に座っている。甘い物を与えておけばおとなしくしているだろうと思われているようで、それもまた彼女の気に食わない。
背後でドアがノックされた。
「はーい、どうぞー」
ノエシスが声を上げると、まだ若い青年の姿の魔術師が頭を下げて入ってきた。
「失礼します、フォン・ゼーレンブルン様。こちら、ご注文の品です。お待たせいたしました」
「おっ、買ってきてくれたんだ。ありがとー」
ノエシスはさっそく彼が提げてきたビニール袋入りの紙箱に飛びついた。
中身はアイスクリームである。
「いやー、並ばせてごめんね」
「いえ」
与えられた甘い物だけでおとなしくしているノエシスではなかった。行列ができることで有名なアイスクリーム店が近くにあったので、テイクアウトを所望したのである。
「あんたも食べる?」
席に戻ってから、いちおう気を遣ってそう尋ねたのだが、「いえ、お気持ちだけで」と固辞された。
そのまま一礼して退室しようとする彼を、ノエシスは引き止めた。
「ちょっと待って」
「はあ。次はどのような……」
「おやつじゃないわよ。副法官にはまだ会えないわけ? その会議ってのはまだ続いてるの?」
「ええ、まあ。間もなく終わると思いますが」
「アイス買いに行く前もそう言ってたじゃない」
タカサキ研究所のことは、東京支部でもかなり高度な機密だったらしい。問い合わせてみたところ、階梯の低い研修生では答えられないとのことだった。幹部マターのようだ。
それでノエシスはこうして、幹部たちの会議が終わるのを待っているのである。
音に聞こえる日本人の会議好きは魔術師になってもいっしょなのか、と苦笑してしまう。
戸口にいる研修生に背を向ける格好で、アイスを食べながら訊いてみた。
「あ、さすが美味しー。ところであんたは第何階梯だっけ?」
「おかげさまで第九階梯です」
おかげも何もないが、若く見える外見よりも階梯は上だった。
「ならさ、タカサキ研究所のこと、知ってるんじゃない?」
「……お答えできません」
つかの間の逡巡の末のその答えは、肯定したも同然であった。
「ふーん、そう」
「では私はこれで」
研修生は今度こそ退室しようとする。
唇の端についたアイスクリームを舌を出して舐めとってから、ノエシスはにたり、と笑い振り返った。
「まあまあ。あたしも退屈だしさ、ちょっと話し相手になってよ。これは命令だから。いい?」
研修生の顔が硬直した。
「おっと、久しぶりだから言い間違えちゃった。お願い、だった」
わざとらしくそう言い、アイスのカップを片手に、彼の方に体を向けた。
「ね?」
※※※
ノックもなしに入ってきたその男を見て、涼子は顔をしかめた。
高嵜研究所二代目所長、簑田宗典だった。
「久しぶりだな、九号。ずいぶん長いこと逃げ回ってくれたものだ」
涼子はベッドからいやいや身を起こした。
「どうも、簑田所長」
滅多に話したことのない相手だが、古参の所員たちと同じく、涼子もこの所長を嫌っていた。〈リーガ〉東京支部経由でこの男が二代目の所長として赴任してきてから、この研究所はおかしくなった。
「外の世界は楽しかったか?」
「おかげさまで」
涼子は顔を背けながら答えた。
と、そこで簑田がつかつかと歩み寄ってきて、涼子の顎を掴んだ。
「何だ、その態度は。外ではアイドルとしてちやほやされたんだろうが、ここでのお前はただの失敗作なんだぞ」
無理矢理彼の方へと向けさせられた顔の中で、涼子は両の瞳を敵意に燃やした。
「その目は何だ!」
突き放され、頬を張られた。
ベッドに倒れ込んだ涼子だが、なおも簑田を睨む。昨日もらった一発に比べたら、痛くもなんともない。
簑田は舌打ちした。
「まったく、峰たちはどんな教育をしてきたんだ。九人が九人とも所長の私にこの態度だ」
峰とは、この研究所の教育部門の主任である。涼子たちに教育を施してきたのは彼の率いる教師陣だった。
「先生たちのことを悪く言わないで」
思い出を汚された気持ちになる。涼子の記憶の中で、この研究所での生活すべてが暗いものだったわけではない。事実はその逆であって、窮屈な想いはしたものの、ここでの生活の大部分は幼少期の甘い記憶と結びついていた。前所長の高嵜の急死と、簑田の新所長就任こそ、涼子にとっての最初の失楽園だった。
「ふん」
簑田はひとつ鼻を鳴らして備えつけの椅子に座った。
「峰や伊吹たちはお前たちに甘すぎたようだな。これで最後と思うと、かえってせいせいする」
その言葉に、涼子はハッとした。
――いや、彼は先ほども言っていたではないか、「九人が九人とも」と。
「まさか、私以外の子も、全員……」
簑田はほくそ笑んだ。邪悪に歪んだ笑みだった。
「当たり前だろう。お前だけだ、ここまで手こずらせてくれたのは」
湧き起こる悪い予感に、涼子は唇を噛んだ。
と、そこで扉がノックされた。
「失礼します。――所長、試験体をあまり刺激されては困ります」
入ってきたのは伊吹だった。
「ああ、伊吹主任。準備は進んでいるか?」
「はい。今日中には」
「頼むよ? 早くこいつを〈カイム〉に放り込みたくて仕方がない」
「我々にとってもこれが最後のチャンスだということをお忘れなく。調整は入念に行います」
また鼻を鳴らすと、簑田は立ち上がり、部屋を出ていった。
部屋に残った伊吹の顔を、涼子は見上げた。
「クルミ……」
涼子はバツの悪そうな彼に噛みついた。
「伊吹さん、私以外の子も全員捕まったって本当? 昨夜そんなこと言ってなかったじゃない」
「訊かれなかったからな。昨夜の君はこの世の終わりみたいな顔をしてぼんやりしているだけだった」
「……そういえばそうだったかもね」
息苦しさに喘ぎそうになった。正直者の――というより正直であることを己に課している伊吹のことを、涼子は決して嫌いではない。むしろ懐いていた方だろう。
それでも、いや、それだからこそ、この状況であまり二人きりになりたい相手ではない。
決して、仲間たちのことを忘れていたわけではなかった。だが――
「柿沼さんの車、ちゃんと返してきてくれた?」
涼子はまずそう尋ねた。
「ああ。事務所の駐車場に入れておいたそうだ。君の荷物も積みっぱなしだったが、それでよかったんだな?」
「だって、ここにあったって仕方ないじゃない。詩都香は? ちゃんと家に帰った?」
「それも大丈夫だ。船岡が自宅まで送っていった。いいものを見た、なんておどけていたよ」
何を見たのだろう。まあ、半裸の美少女を送っていったのだ、だいたい想像はつく。
涼子の知る船岡は、こういう余計なひと言を挟むお調子者の一面を有していた。
「相変わらずだね、船岡さんは」
笑おうとしたが、頬が強張っていたダメだった。
「まったくだな」
代わりに、伊吹が苦笑してくれた。
涼子は意を決して訊いた。
「……それで、伊吹さん。他の子たちのことだけど……」
「ああ」
伊吹は嘆息混じりに顔を下げた。
「みんなここに連れ戻されちゃったの?」
「ああ」
「それで、みんなは今……」
伊吹はゆっくりと顔を左右に三往復させた。
「うそ……」
涼子の両目に涙が浮かんだ。悪い予感の中でも最悪の予感が当たっていた。
「うそでしょ、伊吹さん。ねえ……、嘘って言ってよ!」
正直者の伊吹は苦しげに涼子に顔を向けた。
「嘘ではない。私は――」
「知ってる……。余計な嘘は吐かないんだよね」
頬を伝う涙はまだ止まらなかったが、涼子はいちどぎゅっと瞑った両目をきっと開いた。
「許さない……!」




