8-2
這うようにして船岡の車を降りたときには、とっくに日付が変わっていた。
家は真っ暗である。弟の琉斗は夜更かしせずに眠ってしまったものと見える。
詩都香は気を抜くとよろめきそうになる脚をさすりながら、鍵を開けてそっと家に入った。
この格好ではとても家族と顔を合わせられない。琉斗はもちろんだが、リビングで眠っているであろう飼い猫のフリッツを起こさぬよう忍び足で階段を上り、息を殺しながら自室に入る。
「ふ~」
電灯を点け鞄を下ろしたところで、詩都香はようやく肩の力を抜いた。
へとへとである。フローリングの床にへたり込みそうになる。何もかも棚上げして眠ってしまいたい。
それでも、確かめねばならないことが残っている。
姿見の前に立った。
「ああ、これはたしかにグロ画像かも」
制服は原型をとどめていなかった。厚手で特殊な素材のブレザーはまだマシだが、ボタンが失われて前で留められなくなっている。その下のブラウスは残っている生地の方が少ない。しかもそれも血染めになっている上、下着もストラップ以外ほとんど失われている。スカートも鉤裂きだらけで腰蓑状態だ。
扇情的なホラー映画のポスターにでも流用できそうな格好である。
(船岡さんに胸見られたかな……)
唇を噛みながら、クローゼットからパジャマとタオルを何枚か取り出す。いったん部屋を出、こっそりと洗面器に水を汲んできた。
濡らしたタオルで裸の上半身を拭く。冷たさにすくみ上がりつつも、生き返る想いがした。血痕の色濃い箇所を拭く時は恐るおそるだったが、痛くはなかった。固まった血の下で、あるはずの傷口はふさがっていた。
「わたしってばいつの間に再生者になったんだっけ?」
もちろんそんなことがあるはずはない。誰かが治癒の魔法を使ってくれたのだ。おそらくはあの三国とかいう若い魔術師が間に合ったのか。
髪もボサボサだ。本当ならシャワーが浴びたい。しかしさすがにもうその力が残っていないし、琉斗を起こしたくなかった。
上にパジャマを着込んでから、次は下半身。
まず、靴下の残骸を脱いだ。両脚ともに固まった血で覆われていたが、傷は残っていなかった。
ホックを外し、ファスナーを下ろし、スカートを脱いだところでぎょっとなった。
「なっ!?」
(なんでパンツが……)
下着が影も形もなかった。
たしかにスースーすると思ってはいた。しかし感覚が鈍っていたせいで、履いていないとまでは思いもよらなかった。
いつ脱がされたのだろうか。その下も見られたのだろうか。
顔が羞恥で紅潮していく。
だがそうなると……。
その部位に手を遣り、詩都香は感覚を確かめた。恥部を見られるよりももっと怖ろしい事態も考えられた。
(……大丈夫だ。ヤられたわけじゃない)
その確信を抱いたところで、床に座り込んだ。
「よかった……」
そう呟くとともに、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
怖かった。
こうしてきれいな体のまま生きて帰ることができて本当によかった。
純潔を汚された挙げ句に惨殺されていた可能性だってあったのだ。
「……許さない」
ひとしきりすすり泣いた後、詩都香は涙を拭って立ち上がった。
(許さない。あのゴミ虫ども。わたしをこんな目に遭わせて……)
その上、何度も恐怖させれた。恥も外聞もなく許しを乞うた。親友と思っていた涼子を一度は売る決意までした。
――あんな奴らに。
復讐の念がふつふつと沸き上がっていく。彼らに仕返ししてやるまでは、この想念から一歩も進めない気がした。
……が、下半身丸出しで熱いパトスを維持することはできなかった。
冷静になった詩都香は、いそいそと下着を履いた。
最後に髪を拭いて着替えを終えてから、古いブランケットを敷いたベッドに潜り込む。
何をどうするにせよ、今の彼女には休息が必要だった。
翌朝目を覚ました詩都香が枕元の目覚まし時計を見ると、時針は十一時過ぎを示していた。
九時間近く眠っていたらしい。彼女には滅多にないことである。
伸びを打つ。昨夜感じただるさは払拭されていた。
(あ、朝ごはん作ってないや)
ベッドから跳ね起きる。自室を出て弟の部屋の扉を叩いたが、応答はなかった。そっと扉を開けてみても、部屋はもぬけの殻だった。
「出かけちゃったのか」
姉がこんな目に遭っていたというのになんと薄情な弟だ、と憤慨してから、伽那の家に泊まるというメールを送らされていたことを思い出す。玄関には詩都香の靴もあったのだが、何事にも雑で鈍い琉斗のこと、目に入らなかったのだろう。
自室に戻り、鞄から取り出したスマートフォンを見れば、二時間ほど前に『遊びに行くから』というメールが入っていた。
詩都香はほっと息を吐いた。
琉斗は詩都香とは違い、活発な少年だ。土日に家にいる方が少ない。
先ほどの憤慨もどこへやら、これでいいんだろう、と思う。弟には、自分のような生活を送ってほしくはない。
まずフリッツにただいまの挨拶をしてから、シャワーを浴びた。
その後、自室で湯上がりの髪をドライヤーとヘアブラシで整えながら考える。
(……バカ涼子。バレバレでしょ、あんなの)
昨夜の別れ際の涼子の態度は、詩都香を突き放すかのようだった。
涼子は詩都香を騙していた。
だけど詩都香もやはり、涼子の言ったとおり、彼女を裏切っていたのかもしれない。
詩都香自身は、肝胆相照らす仲でなければ親友と言えない、などとは考えていない。むしろそういう考え方が苦手だ。詩都香も親しい者の大部分に、自分が魔術師であることを告げていない。
だから、こうして落ち着いてみると、涼子が大きな秘密を抱えたまま近づいてきたことを悪む気にはならなかった。
詩都香を利用するためにであったとしても、である。きっかけは何であれ――
(涼子、わたしたちって親友と言っていい仲だったんだよね、きっと……)
いっしょに出かけて、おしゃべりして、笑い合った二人。あれは嘘ではない。
断じて嘘ではない。
裏切っていたのは詩都香だ。この関係を壊したくなくて、結局涼子の方へと踏み込むことができなかった。その挙げ句、懐いていた疑念を封じるなどという愚行に走ってしまった。
涼子が詩都香に言えなかったこと。
詩都香が涼子に言えなかったこと。
二つは相通じているようで違う。
詩都香の側のそれは、ただの怯懦だ。
(あんたってば、本当に失言多いんだから。わたしはちゃんと知ってるのに)
意識を失おうとする詩都香に、涼子は言った。元の生活に戻るだけだ、と。
違う。あの研究所で行われているのは、もっとおぞましい何かだ。
あの余計なひとことのせいで、詩都香は確信した。
涼子がどんなに詩都香を切り捨てようとしようと、それは結局、詩都香を危険から遠ざけるためなのだ。
(自分はこんなヤツだし、危険もない。だから助けになんて来る必要も価値もない、って?)
利用するつもりが残っているなら、最後まで健気な親友を演じていればよかった。なのに涼子はそうしなかった。
だいいち、涼子はあの場に来たではないか。
(わたしを助けに。……バカ涼子、それじゃ逆でしょ。意味ないじゃない、利用するつもりだった相手を助けに来るなんてさ)
涼子にとってそれは、どれほどの覚悟を要するものだったろうか。
自分はどうするべきか、とあらためて自問してみたが、その時点で答えはもう出ていたようなものだった。
髪を乾かし終えた詩都香は、部屋着に着替えた。
血の臭いが籠もっているような気がして開けていた窓を通して、かすかにバイクの音が耳に入った。
郵便だろうか。
なんとなく予感があって、詩都香は玄関に向かった。
門柱の郵便受けには、今日の朝刊が挿しっぱなしだった。
(ったく、琉斗ってば。新聞くらいとってきてよ)
郵便受けの中身を全部回収すると、チラシやらダイレクトメールやらに交じって、一通の白い封筒があった。
それを手に、自室に戻る。
差出人は「一条伽那」となっていた。消印は静岡県内の局のもの。
伽那が昨日静岡に行ったなどという話は聞いていない。そしてそこから詩都香に封書を送る理由もない。自分の名前が使えないから伽那の名前を借りたのだ、と察する。
宛名を記すインクはブルーブラック。ドルチェビータで書いたのだ。
机の前に座り、ペーパーナイフで開封した。
果たして手紙は涼子からのものだった。ずいぶん長いものだった。書いたのは一昨日の晩だろうか。
詩都香はじっとそれを読んだ。一言一句おろそかにしなかった。
涼子はすべてを告白していた。自分の正体も、どうして詩都香に近づいたのかも。
その末尾。
『――ごめんなさい。いいえ、許してもらおうと思っているわけではありません。私は許されないことをしたのですから。
だから、どうか忘れてください。あなたの心につまらない傷を残したくないんです。
どうか忘れてください。私のことなんて』
二度読んでから、詩都香は机の上のスマートフォンに手を伸ばした。
心は決まった。




