7-終
年度内の完結も無理でした。次が事実上の最終章となりますので、あともう少しだけ宜しくおつき合いください。
詩都香へのさらなる加害を主張するジャックとアンジェラをなだめすかし、ミシェルは二人を引き連れて出ていった。
「しばらく詩都香と二人きりにさせて」と涼子が主張したのだ。おとなしく投降する交換条件だったらしい。
「ずいぶんやられちゃったみたいだね、詩都香」
涼子は椅子にも座らず、冷然と詩都香を見下ろした。
「おかげさまでね」
詩都香はその顔から無事な片目の視線を背けた。
どういう態度をとったものか、決めかねていた。
「詩都香……」
「軽々しく呼ばないで。あんたはわたしを――」
「裏切った、って?」
詩都香は少し考えてから、微笑を浮かべて首を振った。正確には、振ろうとしたのだが首が動かなかった。
「裏切った、か。物は言いようね。――ううん、違う、裏切りじゃない。あんたは最初からそのつもりだったんだもんね」
涼子がびくっ、と肩を震わせた。
「……最初から?」
それに答えず、詩都香は目を瞑った。
「……ああ、そうか。わたしってばアホだな。涼子が失踪したとき、どうしてすぐに〈リーガ〉が関わってるって発想に到らなかったのか、だって? ――自分でこの思考回路を遮断しちゃってたんだ。それでこんな目に遭って、バカみたい。あー、ドアチェーンの謎もやっと解けた。わたしと同じことをしたんじゃないの。あんなに頭を悩ませて、わたしって、ほんとバカ。あんな余計なことしなけりゃ、本当はすぐに気づいてたはずなんだ」
自分が何を封じていたのか思い出した。
それはひとつの記憶というより、複数の出来事の記憶から帰結されるひとつの想念の総体だった。
当初は個々の出来事の記憶を封じるつもりだったのだが、デジデリウスの語った、記憶と感情は結びついているという話を聞いて、まとめて封じることにしたのだ。
詩都香は閉じていた右目を開き、涼子に向き直った。
「涼子、わたしはたぶんもうダメ。だから正直なところを教えて」
記憶を取り戻したショックのせいもあるのか、さっきから体がおかしい。
だるく、熱っぽい。あれほど苛まされていた痛みさえ遠くなっていく。
生命の枯渇を感じる。生きる力が根こそぎ奪われてしまったかのようだった。
もはや口以外動かせる気がしなかった。なのに頭だけは明晰に冴えていく。
「――あんたはわたしが魔術師だと知って近づいてきた。たぶん利用するために。違う?」
涼子は表情を押し殺していた。
「どうして、そう思うの?」
「質問で返さないで。……まあいいわ、答えてあげる。状況証拠の積み重ね。あんたはわたしのことを奇妙なほどによく知っていた。何度かひっかかる発言があった。そしてあんたは自分の失言がわたしにバレていないか心配して、わたしの態度を確認しようともしていた。例えば、わたしが二度目にあんたの部屋を訪ねたとき。どうしてわたしが母親代わりを務めてるって知ってたの? わたし、さすがに会って間もないひとに母親がいないなんてこと話さないよ」
「それは……」
涼子はいったん開きかけた唇を噛んだ。
「九郎ヶ岳に写真を撮りに行った帰りの電車でもそうだった。あんたは自分の失言をわたしが覚えていやしないかと思って急に話題を変えたでしょう」
「そんなことあったっけ?」
「極めつけは映画を観に行った後。あんたは友人の裏切りについて妙にこだわっていた。わたしの反応を窺おうとしていた。自分がやっていることがバレているかどうか、心配だったんでしょう。それであんな取り決めを提案したわけね。二人の間では素直な感情の動きを表明する、なんて。
……苦しかったんだよ、わたし。あんたを疑いたくなんてないのに、何かあるたびにそれを思い出すハメになる。気づいてないとでも思った? あんたはときどきわたしを疑いの目で見てた。わたしの反応が気になって気になって、そうするしかなかったのね。わたしはあんたから疑われるのも、あんたを疑うのも、もう嫌だった。そして、自分の感情を、涼子に対する疑心を魔法で封じ込めてしまった」
「……ああ」涼子は納得したように頷く。「先週の末から詩都香が少し変わったって思ってた。あれがそうだったってわけね」
「おめでたいでしょ? それでこんな目に遭うなんてね。何が許せないって、あんたのためなんかに悲劇のヒロイン気取りで悲愴な覚悟を決めていた自分の滑稽さがいちばん許せないわ」
詩都香は笑おうとしたが、強張った頬はかすかに引き攣っただけだった。
「……ひとつ聞かせて。私のこと、いつから疑ってたの?」
「だから最初からだってば」
「最初からって、どうして?」
「あの日のこと覚えてる? 今日ね、カメラ屋の前で似たようなことがあったんだ。そのときはもちろん気づかなかったけど。なにしろ記憶を封じてたし。
でも今思い出して気づいたの。あの日わたしは、寄っていこうと思っていた古本屋の前で、気が変わって急に踵を返して、後ろにいた誰かにぶつかりそうになった。動転してたせいでちゃんと相手を見てなかったけど、あれ、たぶんあんただ。声が耳に残ってた。顔も印象に残っていたのかも。コンビニの前で会ったとき、あんたの顔に見覚えがあるように感じた。電車の中で見たのかと思ったけど、違う。あの古本屋の前でだ。わたしがあんなところで立ち止まったもんだから、後をつけていたあんたは困ったでしょうね。あんたまでわたしの後ろで立ち止まるわけにはいかないし、仕方なく追い抜こうとしたんじゃない? それでぶつかりそうになった」
「それ、おかしくない? もしその話が正しいとしても、気づいたのはついさっきのことなんでしょう? 私を最初から疑う根拠にはならないじゃない」
認めてほしかった。だが、涼子は否定も肯定もしなかった。
「それで、私はやり方を変えて次のアプローチを仕掛けたってわけ? 痴漢に遭った詩都香に声をかけて? それってちょっと偶然に頼りすぎでしょ」
詩都香は目だけを動かして、自分の右手を見ようとした。涼子と何度も繋いだ手。
頭の上で手錠にくくられた手は見えなかった。
「涼子なら男の協力者なんてすぐ見つけられそうだけど、わたしの考えでは違う。これもさっき気がついた。あれは、涼子、あんた自身」
――あの手の感触。
「……あのセーエキは?」
「似たような粘つく液体なんて、どっからでも手に入れられるでしょ。鑑定したわけでもないし、わたしは実物を見たことないし」
詩都香はひとつ大きく呼吸を挟もうとした。喉がひゅーひゅーと鳴った。さっきから息苦しい。呼吸が浅くてつらい。目が霞んできた。
「でも、それだって最初から私を疑う根拠には……」
「あの日の会話、わたしは覚えてるよ。涼子がわたしの名前を聞いたときのこと」
涼子は目を見張った。
口にしたくなかった。涼子の逃げ道を塞ぎたくなかった。
全部あんたの考えすぎだよ、と笑い飛ばしてほしかった。今ならまだそれも可能だ。
だが詩都香は言葉を継いだ。
「涼子は訊いたよね、『そういえば、名前聞いてなかったよね。教えてもらっていい?』。わたしは答えた、『えっと……詩都香です。高原詩都香』。するとあんたは――」
「こう言った、『ふ〜ん、珍しい名前だね』」
涼子はそのときの言葉を正確に繰り返した。彼女の記憶にも、失言の後悔とともに刻み込まれていたのだろう。
「……ねえ、涼子。“しずか”って、そんなに珍しい名前?」
涼子は溜息を吐いた。
「はあ。やっぱりすごいんだね、詩都香って。あんな状況であんな会話、一言一句漏らさず覚えてるんだ。私もあのとき、しまった、って思ったんだよ。詩都香の名前を漢字でどう書くかあらかじめ知ってなきゃ、出てこないコメントだもんね」
疑惑をあっさり肯定され、詩都香は悲しくなった。
あのとき詩都香は、この河合涼子という少女はひょっとして最初から自分を知っていたのではないか、と思い始めたのだった。
何度か自分の疑念を否定しようとした。しかし涼子は、最初の失言を覚えていたせいだろう、詩都香の疑念を警戒し、かえって失敗を重ねてきたのである。
「弁明しないんだ?」
「どうして弁明しなきゃいけないの?」涼子は笑った。「――もうすぐ死んじゃう相手に」
初めて見る酷薄な笑みだった。
肉体的な感覚を薄れさせつつある詩都香の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「まったく。最初から私に疑いを懐いていた? 信じられない。裏切られた想いがするのは私の方だよ」
「わたしのことを知ったのは、この研究所でなのね」
「せーかい。何もかもお見通しってわけね」
「そのときはまだここは〈リーガ〉と繋がっていたんでしょう?」
「そう」と言いかけた涼子の笑いが硬直した。
「……そのときはまだ? それってどういうこと?」
「あんたもアホね。やっぱり〈リーガ〉から逃げ回ってるつもりでいたんだ? ここはもう〈リーガ〉との繋がりを失ってるわ。さっきの三人は〈リーガ〉の魔術師じゃない。〈非所属魔術師〉よ」
これには涼子も衝撃を受け、うろたえた様子だった。
「うそ。どうして?」
詩都香はその反応に満足した。
「はっ、そんなのわたしが聞きたいわ」
もう目を開けているのも億劫だった。
「……なにそれ。私、いったい何のために……」
血の気の引いた紫色の唇で、詩都香は最後の言葉を紡ごうとした。
「涼子、最期だし言っておくね。わたしがわざわざ自分の疑念を魔法で封じ込めたのはね、わたし、やっぱりあんたのことを――」
だが、涼子はこれを拒絶した。
「いいわよ、そんなのどうだって。私、ほんっと馬鹿みたい。おまけに、役に立たない魔術師を護衛役に選んじゃってさ。魅咲か伽那にしておけばよかった。どうせあの二人も魔術師なんでしょう?」
「涼子……」
どんな顔でこれを言っているのか確かめたかったが、総身の力を振り絞ってもまぶたひとつ上げることができなかった。
「まあいいわ。これで以前の生活に戻るわけだけど、ただちょっと外に出てみたかっただけだし。窮屈なのを我慢すれば、ここでの暮らしも悪くないんだよ? あんたみたいなのの顔色を窺う必要もないしさ」
「りょうこ……」
もう次の言葉は出なかった。
「もう終わり? 死んじゃうの? あっけないもんだね、詩都香。……バイバイ」
ドロドロとした闇に飲まれていく意識の底で、何かが光った。
光は次第に大きく膨れ上がっていく。
不思議に暖かいその光に抱かれ、その中に溶け込むように、詩都香の意識は消えていった。




