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放課後の魔少女——楽園は次の角に  作者: 結城コウ
第七章「黒髪のラプンツェル」Die schwarzhaarige Rapunzel.
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7-21

 ※※※

 ややもすると普段よりもスピードを出しそうになっていた。

 それに気づくたびに、アクセルペダルを踏む足の力を緩めた。涼子を乗せている今、間違っても事故は起こせないし、検挙も絶対に避けなければならない。

 その涼子は、後部座席で目を瞑っている。疲れて眠っているのかもしれない。

 いくつかあったサービスエリアを、柿沼の運転する車は素通りしていた。

 SIMカードの紛失という不可解な出来事のために、まだ事務所に涼子発見の報告はできていない。サービスエリアが近づくたびに、公衆電話から連絡しようかと思うのだが、涼子のさっきの言葉もあり、結局このまま事務所に直行しようとしていた。

(まったく、甘いな、俺も)

 間もなく京舞原(きょうぶはら)方面に接続するジャンクションというところで、いちおう涼子に声をかけた。

「このまま行くけど、いいね?」

 眠っていたかに見えた涼子だったが、

「うん。着替えとかはいいや。急いで事務所行かなきゃね」

 と、両目を開いてはっきりと答えた。

「土下座はいいけど、みんなにちゃんと謝るんだぞ?」

「わかってる。演技派アイドルとしては泣き真似くらい入れとこうか?」

「おいこら。ああ、それと、僕はすぐにまた出るから、帰りは少し待っててくれるか?」

「外回り? ひとりで帰れるよ」

「ダメだ。しばらく君をひとりにはできない。――外回りもしなきゃいけないけど、それは明日だな。高崎に行って、高原さんのケータイ受け取ってくる」

「ああ、なるほど。大変だね、柿沼さんも」

「涼子を見つけられたのは高原さんのおかげだからな。これくらいは当然」

 ルームミラー越しに窺うと、涼子はじっと柿沼の方を向いていた。

「柿沼さん、やっぱり詩都香(しずか)に優しい」

「言ったろう、高原さんには感謝してるんだ」そう韜晦してから、柿沼は考え直した。

 今日は特別だ。涼子に少し素直に向き合ってもいいか。

「まあ、認める。彼女は魅力的だよ」

 鏡の中の涼子の顔に笑顔が弾けた。

「やっぱり? 芸能界にもなかなかいないタイプだよね」

「ああ。僕があと十くらい若かったら惚れてただろうな」

「あら」今度は拍子抜けしたような表情。「まだ惚れてなかったんだ」

「そりゃ十以上も下の子に、そう簡単に惚れられるか」

「今どきそんなこと言うんだ。私は柿沼さんにだったら詩都香を譲ってもいいと思ってるのにな」

 涼子はつまらなそうに言う。

「余計なお世話だ」

 車はジャンクションを通過した。

「……柿沼さん、次のサービスエリアでちょっと休憩したい」

「え?」

「お手洗い」

「もうすぐだぞ。我慢できないのか?」

「無理。私のアイドル人生に汚点を残させる気?」

「そのアイドル人生を自ら投げ捨てようとしたのはどこのどいつだ」

 ジャンクションを過ぎたら、すぐにサービスエリアがある。柿沼は少し迷いながら、ウィンカーレバーに指をかけた。

 ならついでに事務所に報告してしまうか――そうも考えていた。



 手帳と財布を持って、涼子といっしょに車を降りる。

 平日の晩だが、規模の大きなサービスエリアなので人は多い。

「互いにケータイが使えないんだからな? 迷子になるなよ?」

「はーい」

 そんな返事を残してトイレの方へと向かう涼子と別れ、公衆電話を探す。普段気にかけないので、少々時間がかかった。

 やっと見つかったところで、涼子が駆け寄ってきた。

「もう終わったのか?」

「違う違う。ていうか、ちょっとセクハラだよ、それ。なんか女性用が混んでるから、男性トイレ借りたいんだけど、ひとりじゃどうも入る勇気が出なくて。ねえ柿沼さん、ついてきてくれない?」

「ええっ!?」

 とんでもないことを言い出すものである。

「涼子を連れて男性トイレなんて、無理だよ」

「私だってめちゃくちゃ恥ずかしいよ。でも、ひとりじゃやっぱり……」

 涼子がひとりで行くのと、自分がついていくのとでは、どちらがマシだろうか。

 決めかねた柿沼は、時間を稼ごうとした。

「ちょっと待って。事務所に連絡してからじゃダメか?」

「ダメ。我慢できない。早く」

 そう急かす涼子に引っ張られ、柿沼はしぶしぶついていった。

 サイクルジャージ姿の涼子は目立った。男性トイレともなればなおのことである。

 ついてきてよかったかもしれない、と柿沼は思い直した。なにしろ彼は涼子のマネージャーだ。このくらいのことは引き受けてやるべきだということなのだろう。

 広々とした男性トイレの内、わざわざいちばん奥の個室を選んで、涼子は中に入った。そこに到るまでの道筋は針のむしろだったが、気を強く持つことにした。

 扉の前で待っているわけにもいかず、自分も小用を済ませておくことにする。

 コンコン、と涼子の入った個室からノックの音が聞こえたのは、用を足した柿沼がズボンのチャックを上げたときだった。

「涼子?」

 扉に口を寄せるようにして、小声で尋ねる。

 微かな声で返答があった。

「ごめん、柿沼さん、ちょっと中に」

「は!?」

 それこそとんでもない話だ。

「お願い、早く。大変なの……」

「大変って」

「お願い」

 きょろきょろと辺りを見回す。先ほどこの個室に涼子が入ったところを目撃した者は、まだ残っているだろうか。

 せめて手くらい洗わせてくれ、と思ったが、鍵の開く音が柿沼を急かした。

 仕方がない、と柿沼は扉に手をかけた。

 扉が開いた直後、ぐっ、と掴まれた腕が強く引っ張られ、体勢を崩した。

「りょう……」

 柿沼を中に引きずり込んだ涼子の目は、強い決意に満ちた、獣のような輝きを放っていた。

 一瞬それに呑まれた。

 涼子が柿沼の目の前に片手を掲げた。

「ごめんなさい。――ふっ……!」

(涼子?)

 彼女の名を口にしようとした瞬間、大きな衝撃に襲われた柿沼は、何もわからなくなった。



※※※

 柿沼の車の運転席で、涼子は昂ぶった精神を鎮めていた。

 落ち着け。

 この先はひとつのミスも許されない。

 万にひとつも、だ。

 まず、隠し持っていたSIMカードをスマートフォンに挿入し、事務所の社長にメールを打った。それから、柿沼にも。

 送信を終えてぐったりと疲れた体をシートの背もたれに預け、今度はそのシートの位置と傾きを調整する。

 いったんステアリングを握って視界を確認し、今度はミラーを調整した。

 ガソリンは大丈夫だ。まだ半分以上残っている。さすが日本車、燃費がいい。

 確認すべきことをすべて終え、柿沼のポケットからくすねてきたキーを差し込む。

 そこでまた一度深呼吸。

 車体の前後には、あらかじめ入手しておいた初心者マークを貼りつけてあった。

 涼子は、いつか来るかもしれない逃亡生活に備えて、あらゆる準備を行っていた。

(社長に十八歳って嘘の申告しとけばよかったんだけど)

 それだけが心残りだった。

 エンジンをかけた。計器類に灯が点った。

 カーナビの目的地を設定する。あの施設はいかなる地図にも記載されていないが、場所は熟知していた。

 シートベルトを締め、窓を少しだけ開け、サングラスをかけてから、パーキングブレーキを解除。

 ギアを入れ替えてそろそろと車を動かした。

 柿沼が車にこだわりのないひとでよかった、と心の底から思った。AT車でなかったら、とても無理だっただろう。

 これまで五百回以上乗り降りしたこの車の運転の仕方を、涼子は毎回観察していた。

 柿沼と同じことを、目を閉じていてもやることができた。感覚も体に染み込ませていた。

 操作をものにした後は、車窓に目を向けながら、どのような状況でどのような判断が必要になるのか、訓練を積んできた。

 もちろん柿沼の車を運転することになると思っていたわけではなく、他に練習材料がなかったからなのだが、自分の手足のように扱えるこの車を運転するめぐり合わせとなったのは幸いだった。

 しかし――

(……あれ?)

 高速道路の本線に合流した涼子は首をかしげた。

 緩やかなカーブに沿って車を走らせても同様。

 違和感がある。体に染み込ませた感覚との、わずかなずれ。

 涼子は緊張した。

 何か操作ミスでもあるのか。それとも車両の不具合か。

 加速の伸びがわずかにいい。反応もほんの少し良好。だがそれを喜ぶ気はない。

(なんで? くそっ、こんなときに……。あ、そうか)

 柿沼の分の体重が減ったからだ、とやっと気づいた。

 後部座席に自分が乗っていないせいだ、とも。

(それに自転車をトランクに積んであるせいもあるか。ま、でも……)

 その程度の感覚修正など、涼子には問題にならない。

 むしろかえって、この車を完全にものにしているのだという自信がついた。

 それでいて、柿沼の不在が身にしみた。

(ごめんね、柿沼さん。社長にもちゃんと伝えたし大丈夫だから。それに、柿沼さんは私のマネージャーなんかで終わっていい人じゃない。絶対にもっと大きな仕事をする人だよ。私がいなくなったって、絶対……)

 湿っぽくなってしまう予感があった。

(私がいなくなったら、悲しんでくれるかな。でも、二回も信頼を裏切った私なんかのこと、柿沼さんが気にすることないんだよ。それにさ、詩都香もいる。柿沼さんは大人なんだから、詩都香を慰めてあげなきゃ。私が裏切ったあの子を)

 それで二人がつき合うようになったら面白いな、と思った。

 そうなったら涼子が存在した意味もある。

 首都高に入ってからしばらくして、運転に慣れた涼子は、意識を切り替えようと車載ラジオのスイッチに手を伸ばした。

 雑音でも何でもよかったのだ。

 それなのに、車内に流れたのはアップテンポの曲と――

『みなさん、こんばんは。河合涼子です。「河合涼子の遅めの放課後」、早いもので第三回です。だんだん肌寒くなってきましたね』

 自分の声だった。

 しばし呆然となった。

『……それでですね、来月からはなんと――あれ、これ言っちゃって大丈夫ですか? 大丈夫? ……あ、大丈夫なんだ――そう、映画に出させていただくことになりましたー。来月から撮影開始でーす』

 収録したのは先週の木曜日だった。

(はは……)

 笑いが込み上げてきた。

(いーじゃない、こんな偶然)

『それではここで、みなさんからいただいたお便りを紹介したいと思います。東京都荒川区にお住まいの……』

 大型トラックを追い抜く。

 ひょっとしたら、今のトラックの運転手も聴いてくれていたりするのだろうか。

(私が生きてた証、残せてるのかな)

 映画は無理だったけど、ドラマにもバラエティにも出演できたし、CDも出せた。ブログも書けた。

 生き馬の目を抜くような芸能界だが、河合涼子なる人間が存在したことの記録と記憶は、この先しばらくは残るだろう。

『最近の趣味ですかぁ。……そうだなぁ、趣味と言えるかわからないけど、フィルムの写真を始めました。デジタルとの違いですか? まあこれはわかると思いますけど、現像するまでのドキドキがありますよね。でも、それだけじゃない気がします。シャッターチャンスは一期一会なんだな、って。そのチャンスに、露出を読んだり、ピントを合わせたりしなきゃいけないんですよ。でもそれでいい写真になっているかは、やっぱり現像が仕上がるまでわかりません。だから、一瞬一瞬を大事にしてる感じかな』

 一瞬一瞬を大事に――自分の言葉が心に染みた。

 外の世界に出てからの一瞬一瞬を、自分は大事に生きてきただろうか。

 それとともに、

(ったく、台本丸読み感出まくりじゃない。次からはもうちょっとアドリブ利かせないと)

 などと考えてしまってから、また何とも言えない気持ちになった。

 来週の分の収録は終えているが、涼子にはもはや「次」などないのだ。

『ここで告知です。来週くらいから私もインスタグラムというのを始めることにしました。遅ればせながらのIT革命。――え? もう死語? なんかスタッフさんに笑われてるんですけど。開設したらブログにもリンク貼っておきますので、よかったら覗いてくださいね』

 インスタグラムも結局できなかったな、と涼子はステアリングを握りながら肩を落とした。

 カメラの取り置きをお願いしていた店にも不義理を働くことになる。まだまだやりたいことはたくさんあった。

 それでも、涼子は行かなければならない。

『楽しい放課後も時間切れ。下校時間が迫ってまいりました。また来週のこの時間、素敵な放課後を一緒に過ごしましょう。お相手は河合涼子でした』

 自分の声に見送られるようにして、彼女は高速道路を下りた。

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